仮想空間

趣味の変体仮名

忠義太平記大全 巻之一

 

所謂忠臣蔵でした。尾花右門のパワハラにキレた印南野(いなみの)丹下が刃傷に及んだところを梶原三郎兵衛尉(ひょうえのじょう)がうしろより抱き止め未遂に終わるも執権北条の命により切腹して敢え無く果てるが丹下の老臣大岸由良之助を筆頭に主君の怨みを引受けた忠臣四十七士が仇を討つ。討入の準備が詳細に述べられており由良之助の用意周到さに恐れ入りました。討入は巻之八にて行われ、九巻以降はこれまた詳細な後日譚になっており中々に興味深いです。世に数多ある忠臣蔵物の脚本のヒントになり得る出来事が多く書かれていると思われ、「元禄忠臣蔵」で吉良の息子が逃げたことがお咎となり領地没収お家断絶となったという知らせを聞いた預りの志士達十数人が座敷に平伏したまま喜びの嗚咽を堪え切れず一同に肩を震わせるという感動的な場面の底本となりそうな記述があったらいいなと思いましたが該当するエピソードはありませんでした。巻末に享保二年とあります。平仮名が多く筆跡明瞭なのでプラクティクスに適していると思いました。

 

 

読んだ本 https://www.nijl.ac.jp/ 忠義太平記大全

 

3
忠義太平記大全席
時なる哉/\ 心の境(さかひ)八のち
また(衢)民昇平(たみしゃうへい)の化(くわ)に出こり
月に詠し国にうそぶく さ
れば幽谷の霧の底に翁


4
の酒くみかはして往昔の長
物語 これぞ徒然 なぐさむわ
ざにはよき友ならんかしと
耳にとゞまりしほどをあら/\
筆にまかせて

忠義太平記大全巻の第一
 
 目録

印南野丹下在国遊興の事
 進物の上列絹血にそまる事
 山がらすものをいふ事

勅使院使鎌倉に御下向の事
 高足のまり雲中に入る事
 山鳩怪異(けい)をなして乗物を汚す事


5
亀谷(かめがやつ)新御堂供養の事
 印南野丹下恥辱にあひ給ふ事
 片山源七兵衛諫言の事

鎌倉の御所に於て公卿御饗応の事
 右門丹下闘浄出来事
 鎌倉司馬が谷(やつ)の由来の事

賀古(かこ)川の城中騒動の事
 丹下家中鎌倉引はらひ用意の事
 田守(たもり)草岡かまくらに下る事

忠義太平記網目巻之第一
 印南野(いなみの)丹下在国遊興の事
家のさかふるは。かねて祥瑞をもつてしめし。家のほろぶるは。
あらかじめ妖?(ようけつ)をもつてつぐ。心剛経の人は。かへつてこれ
をやぶり。怖れず慎まざるをもつて。おのれ勇あり智あ
り。なんぞまどふことあらんや。愚人のわざとおもへり。これ智の
いたつて暗きがゆへなり。狐狸の妖をなすと。天の未然をしら
しめ給ふとは。雲泥万里の差異(しやい)あつて。同日の談にあらず
つゝしんで道をおこなひ。老弟慈の三つをまもりなば。その祥(しやう)
得てたもつべく。その災のがれてさけつべし。いでや鎌倉繁
栄の最中(もなか)。中国賀古川の領主。印南野丹下ときこえしは。
鎌倉将軍家の元祖。右大将頼朝卿。 石橋山の義戦より。


6
御本陣に拝趨して。無二の忠功をはげまれたる。長野の
三郎重清には。正しく四代の後胤なれども。父の丹三郎
承久の乱に勲功をはげみ。播州印南野を。恩賞として
たまはりしより。長野をあらため。印南野と号しせられ。繁
昌日をおつて。家門とみさかへらる。されば今。四つの海な
いしづかに。ゆたかなる世の徳をあふぎ。入部在国のほと
は。城主様太守様と。領内の諸人にもてはやされ。栄耀
歓楽。きはめられずといふことなし。あるひは諸山に勢子
を入れて。鹿(しゝ)猿兎狸。あるとあらゆる畜(けもの)をかり出し。岩石
をまろばし枯木(こぼく)をたゝかせ。矢さけびのこえ雲にこたへ
鉄砲のひゞき地をうごかして。町人百姓は。たとひ?逹(しゆだつ)が
財をつくして。金(こがね)を地にはしくとても。かなはざるなぐさみな

り。又あるときは舩あそびとて。海辺(かいへん)に逍遥し。御座舩
に。唐織緞子の幕をうたせ。鼓太鼓京竹(しちく)のしらべ。かこの
もの共が一様の出たち。手拍子足拍子に。ふなうたをのせて。海
底の龍神も。出現あらんとおぼゆるばかり。かゝるうへなきたの
しみに。勤仕の労をわすれ給へり。こゝに又。印南野の縁家
に。尾花右(う)門といひしは。その身少身(せうしん)たりといへども。鎌倉
どのゝ昵近(じつきん)にて。威権かたをならぶるものなく。うへみぬ鷲の
おもひをなせり。あるとき右門使者として。水石(みづし)一角(かく)。賀古(かこ)
川に下着し。太守丹下どのに目見えして。尾花家の進
物。上州絹三疋(びき)。鎌倉鰹五十節(ぶし)を。御前(まへ)につみて。使者の
おもむきを演舌す。尾花右門こと。数年在鎌倉仕り。連年
大役どもをうけたまはり。内証払底いたし。御公用弁じが


7
たく。めいわくに及び候。印南野どのには。大家にても候へば。
米穀二万石。かりうけ申たく候。まづ当分。一万石御借(かし)
下さるべし。残り一万石は。当秋の年貢入納(じゆのう)の節。早々海
上にて。鎌倉へつけ給はるべし。そのため遠路たちろいへ共。
使者をさし信じ候となり。今にはしめぬ尾花どのゝ。わがま
まなる口上に。丹下どの腹立(ふくりう)し給ひ。さばかり大儀をたの
みこしながら。軽(かろ)しめたる申しぶん。そのうへこれていの音物(いんぶつ)
とかくわれをあなどるにやと。心中やすからずおもはれしかば。
なんぢかへつて申さんずるやう。遠路の所。御使者にあづかり。こ
とにそこもと名物の両種。おくり下されし段。祝着いたし
候なり。ついては米穀の儀。いとやすき御用にては候へども。去
年も領内津波によつて。田地ことのほか損亡し。年貢

所務。三分一にも。および申さず候ひしゆへ。手前も欠
乏(ぼく)仕り。難義におよび候へば。たゞ今は御用にたち申さん
ことも。なりがたく候。当冬所務の頃は。少々御用にも。立
申し候べしと。委細かへつて申べしとて。水石一角をぞかへさ
れける。そのゝち納戸奉行。諸山平五右衛門。右門どのよりま
いりたる。上州絹をとりおさめんとするに。きぬのおもて
はゞ四寸ばかり。十文字のなりに。血しほにそみてありける
が。三疋ともにかくのごとし。こはたれがあやまちぞや。紅か
蘇芳(すほう)のしるかと。さま/\゛吟味すれども。紅にもあらず
蘇芳にもあらず。これはわざとせしものなりと。その
主をせんさくすれども。かつてたれともしれざりしかば。
此まゝおさむべきことならずと。家老大野木十郎兵衛に。


8(挿絵)


9
右のおもむきおをことはりしかば。十郎兵衛おどろき。こは不
審の次第なりと。さま/\゛詮議にとりかゝりしが。兎角
しれざることは。しれざるにおちつきて。これ人間わざにあらず
いづれにつきても。吉事とはいわれまじと。一家中のもの共
も。内証にてのとり沙汰なりしに。太守印南野どのは。此こ
とをもれきゝ給ひ。それは此城中に。年を経てすむところ
の。古狐(ふるぎつね)なんどめが。なすわざにてぞあらんずらん。あやし
むにたらざるなりと。事もなげにの給ひけり。つねに鸚
鵡といふとりは。よくものいふこと。人間におとらずとて。是
をあいし飼ひ給ひけるが。あるとき手まはりに。たれも居
合さゞりしとき。用のことありて。小姓ども/\と。よび給ひし
かば。かの鸚鵡が。つねにこれをきゝてなれてや。小姓共/\と。

口うつしをさへづりしに。山がらす一羽。縁さきへとびきた
り。又小姓共/\と。三こえ四こえなきたりしを。近習関井徳之
進。ふと出あはせ。こはいかにととどろけば。かの烏は。いづく共ばく
とびうせぬ。徳之進興さめがほにて。いそぎ主人のまへに出。
たゞ今のやうすを。御らんぜられて候かといふ。丹下どのうち
わらひ給ひ。鸚鵡もからすも。同じ鳥類ならずや。鸚鵡
ものをいふうへは。烏のいづもめつらしからず。いにしへ唐(もろこし)にて
も。あるひは鶏犬(けいけん)のものをいひ。蟻だにも槐安国(くわいあんこく)のゆめを
なせり。かならずおどろくことなかれと。事もなげにの給
ひしかば。大勇剛の大将かなと。関井もしたをふるわせ
けり

 勅使院使かまくらに御下向の事


10
春すぎなつも梢の青葉。蓁々(しん/\)とさかんなる。四本
掛りの柳の景。たれかれと召れて。御客ぶんの山名式
部。医師の滋村順庵以下と。此っくれをたのしみに掛
りの内に入り給ひ。あり/\のこえも。くれかゝる雲間
太守のなされし高足(こうそく)のまり。かすみにのぼり雲に入
り。そのおちはなかりしかば。諸人おとろき。さても希代
の御鞠かな。無類/\と感じて。その落端(おちは)をまつところ
に。雲上にや入りけん。又いづくへかおちけん。目もすでに暮
しかども鞠はおりきたらざりしかば。丹下も是非なく掛り
を出て。座敷にかへり入り給ふ。これ只事にあらずと。みな
人あやしみおもひしか共。座敷なりの追従に。扨も奇
妙の御鞠。古今無類の御高足。雲上に入りしこと。天

迄感応ましませしにやと。軽薄を。つくせるもののみお
ほし。夜に入り燭をたてられてのち。掛りのうちに百(どう)どひ
びきて。物のおつるをとしけるを。中間(げん)小者ともし火をもち
はしり行てみるに。鞠にしてまりにもあらず。まつは最前の
鞠なるべしとてさしあぐる。側用人の片山源七兵衛。御前に持
出。右の次第を申しあげ。よく/\これをみれば。鞠のせいして鞠
にもあらず。目口鼻とおぼしきところ。まざ/\とありて。人
の首といひつべし。みな/\あきれ色をちがへ。堅唾をのんで
ものをもいはず。丹下どの打わらひ給ひ。これあやしむところ
にあらず。それ鞠は。むかし黄帝(くわうてい)のとき。逆臣蚩尤(しゆう)を誅
せられしが。かのかうべを蹴るといふ心にて。鞠を製作あり
しより。今の世につたはれり。しかるにまりの。人のかうべ似た


11
顔こと。いにしへの聖代にたちかへるべき前表。めでたし/\
との給ひて。こともなげにておわせしか共。皆人まゆをひそ
め。うちつゞきたる妖怪。これたゞことにはあるべからず。いかな
る大変か出来らんと。私語(さゝや)く人のみおほかりけり。老臣
大岸由良之助。用人片山源七兵衛。ふかく御つゝみしある
べきむね。度々諫言を申すといへども。かつて許容し
給はざれば。ちからおよばてやみぬ。ほどなく夏もくれぬ。その
としの秋。鎌倉に参勤あるべしとて。吉日良辰(りやうしん)をえら
はれ。御門出の御祝儀おさまり。乗物にめされ。長柄持筒二
行(ぎやう)に列し。お歩(かち)中小姓あとをさへ。行列美々敷大手
の門をすぎて。御乗物。かんぎ橋にかゝりけるところに山鳩
二羽。空にてたがいに喰あひて。一羽の鳩喰おとされ。御


12
乗物におちかゝり。朱(あけ)になりて死したりしかば。側の人
人。これはとおどろきみるに。乗物の上に地をそゝぎ。いま/\
しく見えしかば。やがて用意の乗物に。めしかへさせまいらせ
しが。いよ/\只事ならぬ妖怪。妖は徳にかたずといへば。御つゝ
しみあるべき事なれども。もとより御心勇猛にして。かつて
御気にかけられざれば。ちからおよばぬ事共なり。かくて
数日の道中。何の恙もなく。鎌倉に下着し給ひ。早速
登城御目見え。首尾よく相すみ。日々の拝趨。勤仕の労
をつくさるゝかくてその年もくれぬ。あら玉の春にたちかへり
しが幕下(ばつか)。鎌倉亀が谷(やつ)。寿福寺(じ)のうちに新御堂を
御建立あり。堂供養の導師として。三井寺の公順(こうじゆん)僧
正を。鎌倉に招請(てうせう)ある。そのうへ勅使とsてい。大納言藤原

資定卿。宰相中将藤原実春卿。仙頭よりの院使と
して、中納言源重昌卿。みな/\鎌倉に御下向ある。千歳
の一遇。希代の壮観。饗応等。善つくし。美をつくすべし
との仰出され。印南野丹下に。御馳走役を仰付られ。有職
のことは。尾花右門。故実をよく存じたり。万事右門指図
をうけ。失礼なきやうに。相つとむべしとの上意をうけ。生(しやう)
前(ぜん)の面目冥加にあひかなひて。ありがたく存じ奉る
と。おうけを申したゝれけり。そのゝち尾花どのかたより
印南野家へつかひをもつて。此たび大儀のお役につき。入
用金三百両。駿馬(じゆんめ)一疋。わたり茶小姓三人。当分借用申
たきむね。たび/\わがまゝなる無心。やすからずはおもはれ
しか共。武略の道とはちがひ。公卿をもてなしまいらせんこと


13
は。有職故実に鍛練なくては。かなひかたき大役。此人
の気をとらでは。よろしからしと思慮し給ひ。早速三品(みしな)
の望いをたつし。美々敷用意しつかはさる。しかるに尾花
どの。かのやとい小姓。瀧井杉之丞が美食にめで。印南野どの
かたへ。もらいかけらるゝといへ共。由緒の段といひことはり。かた
く承引なかりしかば。右門大にいきどほり。小姓杉之丞を。やかて
印南野家へおくりかへし。おのれ此遺恨においては。やがて
持てまいらんずるものをと。歯がみをしてぞい給ひける。丹
下はかゝる欝憤ありとは。つゆおもひより給はず。此たび勅
使饗応の儀式武家の法例とは各別なれば。故実
第を。尾花家にあひたづね。首尾よくあひつとむべしと。右門
どの屋敷。靍が岡の鳥居小路へ。たちこえ給ひ。案内のつ

かひをはしらせて屋かたに立ち入り給へば。奏者右田源八ま
かり出。只今急用を弁し。まかりあり候なり。そのほどし
ばらく。それに御まちあるべきのむね。あひ心得候と。今や
/\とまち給ふほどに。半日(じつ)ばかりにおよびてのち。源八又
まかり出。御対面仕りたく候が。にはかに腹痛仕り。難義い
たし候間。御用等も候はゞ。かさねて御出あるべきとの口上。さ
りとはふみつけたる仕かた。あまり奇怪のこと共かなと。丹
下もあきれ給ひながら。すご/\かへり給ひけり

 亀谷(かめがやつ)新御堂供養の事
扨も印南野丹下は。わが恩をうけながら。報謝するまでこ
そなからめ。右門が無礼をはたらく条。かた腹いたく思へ
ども。有職の道は各別にて。武家のしらざることなる


14
ゆへ。かれにしたがはではかなふまじと。おのひかへし給ひ。尾
花どのかたへつかひをもつて。すでに御堂供養の儀も。明
日におよび候。ついては出席の装束いかゝ仕り候はん。御指図
にあづかり候はんと。いんぎんにいひおくらる。右門はかねて。おも
ひもふけ給ひいれば。おのれ此たび手をとらせて。日ごろ
の宿意をはらさんとおもひ。つねのとをりの装束にて
出座あるべしと返事wる。かくてその日になりしかば。丹下はこ
れをまことゝ思ひ。熨斗目に半上下を着し。供養の場
に出給ふ。同席の諸大名は。みな長ばかまを着用し。礼義
たゞしく列居あれば。丹下の出立不都合にして。諸人目を
つけゝれば。面目なくぞ見えにける。しかのみならず勅使院使
の公卿へ。対面のせつも。尾花どのは。はるか上座に座し


15
給ひ。丹下どのへあひさつ。下輩無礼の事共にて。勅使
院使の公卿へ。御引合せをいたさるゝ。ことに御饗応の次第等
かねてより。たづねうかゞひ給ひしか共。尾花ははなにてあへし
らひ。何のいひわたしもなかりしゆへ。にはかに当惑のことのみおほく。赤
面再三におよべども。一大事の公用。わたくしのことならず相
つとめ果せてのち。いかにもならんとおもひかへし。その日はことなく
つとめ給ひ。心のやいばをこゝろにおさへ。発憤至極のむねをさ
すりて。屋形にかへり給ひけり。その夜片山源七兵衛。遠松文六
を。席ぢかくまねき。右門が今日のふるまひ。傍若無人とや
いはん。僭上無礼とやいふべき。言語(ごんご)に絶し大佞人。もはや堪
忍なりがたし。されども私の遺恨をもつて。公用をすてんことは。
君への不忠たるにより。無念ながらもすごせしなり。他人にて

もあらばこそ。かれも縁家の端ならずや。今は奇怪畳重(でう/\)
せり。いかゞははからはんとの給へば。片山うけたまはり。御欝胸(うつたい)のだん
至極御尤に存じ候。さりながら。尾花どのゝ無礼は。いまに
はじめず候へば。めづらし共存じ候はず。此人は器量才覚も世
にすぐれ。年老の巧者といひ。公家武家故実等。よく
あきらめ知り給ふゆへ。人の鑑とも。なるべきほどの人にて
候。しかれ共その生質。利欲にふけり人をあなどり
佞奸横曲の事のみおほく。在鎌倉の諸大名。うとみ
にくまぬはなく候。毎年の例式。公卿饗応の御かたには。諸
大名はいふにおよばず。諸旗本にいたるまで。その役儀を
うけたまはるほどの人。みな憤りをさしはさみ。宿意を
むすび給へども。君へのおそれを存せられ。穏便をもつ


16
て。みな/\すてをかれ候。それとても弓矢とつての恥
辱たらば。御堪忍なりがたかるべし。これは一段別(べち)の儀に
候はずや。又御家に対して。ながき瑕瑾(かきん)ともなり候はんに
は。いかやうの思案も候へし。これはたゞ当意。手をとらんと計り
のたくみ。後代の瑕瑾とは。申すほどの事にて候はず。ひ
とへに御堪忍をむねとせられ。時節を御まち候はんこと。肝
要と存じ候と。数尅理をつくしていさめしかば。印南野
どのも信服あり。少し欝憤をやめ給ひて。さま/\゛の御
ものがたりにぞおよびける

 鎌倉の御所において公卿御饗応の事
勅使院使の公卿。鎌倉の幕府へ御登城あるべきとて。其
御用意しきりなり。印南野どの。心に思慮し給ひける

は此間度々。恥辱におよびいること。是非におよばざる
事共なり。いかにもして明日は。首尾よくあひつとめ。此ほど
の恥をすゝぐべしと。又右門どのに対顔あり。明日自分の
装束は。いかゞ仕り候はんや。御指図にあづからんと。叮嚀に
のべられしか共。尾花どのは。なをも手をとらせんとやお
もわれけん。先日のごとくにて。いかるべしと返事ある。しかれど
も丹下どのは。きやつが心中はかりがたし。兎角失礼なき
やうにと。大紋半ばかま等を。挟箱に用意せさせ尾花
どのゝ指図のごとく。長ばかまにて登城あれば。又案に
相違して。在かまくらの諸大名。みな大紋に烏帽子を
着し。式正(しきしゃう)の出立。威儀厳重に着座ある。丹下どの
面色にはかに火のごとく。今ははやこれまでぞ。おのれ右門め一


17
うちにと。はやりにはやる心をおさへ。いや/\片山か諫言は
こゝなるものをとむねをさすり。何となく座を立て。供に
具せられたる。遠松文六をまねき。右のあらましかたり給ひ。
なんぢが手して。わが顔にあて見よと。遠松が手をあて
させらるゝに。そのあつさ。熱湯にはなをまさりて。もゆる火
のごとくなれば。御いきどほり。御尤には候へども。かならず短
慮の御ふるまひ。あるべくも候はず。御堪忍候べしと。泪をおさへ
ながら。かねて用意の大紋烏帽子。挟箱よりとり出させ
きせかへまいらせしかば。又出立をかへて。出座し給ひけるに。右
門印南野どのにむかひ。最前は。長ばかまにてありけるが。
大紋にあらためられし段。用意のほど奇特なりと。あざけ
りさみすることばのうつり。丹下はいよ/\赤面ある。こゝ

に毛呂(もろ)の冠者師季(もろすへ)。そのころは。毛呂豊後守とて。宗徒(むねと)
の宿老にてい給ひけるが。丹下どのゝ失礼を。世にも笑
止におもひ給ひ。丹下とのにうちむかひ。此たび大事の
御役儀。御苦労千万にぞ候はん。何ごとも有職がた故
実の儀は。右門どのへ御尋ねあり。御勤仕なされ候へと礼義
たゞしくのへ給ふ。丹下どのきゝ給ひ。私者(せつしや)ことは御存じのご
とく。遠国(をんごく)田舎(でんしや)に素生いたし。万事無骨に候へば。何事に
よらず右門どのへ。相たづね候と。礼義をのべて立給ひしがさ
ては老中までも目にとまりて。いよ/\面目をうしなふ段
是非におよばざる次第なりと。血まなこになつてぞい給
ひける。そのゝち種々の御饗応。珍肴(ちんかう)珍味のかずをつく
し。段々の礼式等。すでにことおさまりて。御勅答もあ


18
ひすみしに。諸大名旗本。綺羅ほしのごとく。列
座ありしその中にて。今日の役人。丹下どのをさしを
きて。右門どの遠慮もなく。わがまゝにふるまはれしを。
丹下どのは。なをやすからずおもひ。此たび御勅答のお
もむきは。いかゞにて候や。はゞかりながら。そと承り候はんと
ある。右門どのあざわらひ。有職のかた無案内の故はき
かれても。何の益なき事なりと的面にあたゆる恥
辱。よし/\今は百年め。おのれ一寸もさらせしと。ちい
さ刀を引(ひん)ぬき。真向をと切つけらる。されども右門天
運つよく。折烏帽子にかたなすべり。うちとめ得られ
ざりければ。おのれ二のかたなにと。ふりあへうたんとせら
れしを。梶原三郎兵衛の尉影継。うしろよりはしり

 

19
より。こは狼藉やと懐留(だきとめ)らる。その座にありあふ諸大
名。いやがうへにおりかさなり。一寸もはたらかせず。やがて
一間にをしこめらる。天下の執権北條どのへ。右の次第を
言上あれば。北條どの大にいからせ給ひ。公卿着座ましま
す節。饗応の役人として。闘浄を仕出すこと。君への
不忠公卿への無礼。かた/\゛罪科かるからず。かさねて評
定をきはめ。罪名をさだむべしとて。河村太郎時秀に
めしあづけられけるが。わたくしの宿意をもつて。刃傷に
およぶこと。上をかろんずるの結構。罪科のがれがたし
とて。河村太郎宿所において。切腹を仰付られ。一朝の
つゆときへ。こずえの花ともろともに。ちりてはかなき
世の中の。あはれはなみだのたねとなれり。鎌倉司

馬が谷(やつ)に。文寺(ふんじ)といへる仏閣あり。此ところは。最初頼
朝卿のとき。司馬の常胤(千葉の介つね 胤といふは此人也)居住の地なれば 司
馬が谷とはいへり。国分寺は。常胤建立の霊場。仏法興
隆の地なりしかば。丹下どのゝなきからを。司馬が谷に
おくりて。葬送の儀式をとりいとなみ。古塚(こふん)一掬(きく)の主
となす。あはれなりしこと共なり。丹下どのゝ家来の諸
士は。尾花どのゆへに。主君の身命をうしなはせて。中流
梶をたへ。暗夜にともし火を。うしなひしこゝちして。たゞ
茫然たるばかり。無念のなみだをおさへながら。上を下へと
悶着(もんぢやく)す。されども家風たゞしく武備おこたらざる家
なるゆへ。御所中にて。右門どのをうちたまひし。ことの
次第の注進は。殿水早左衛門。芳野平三郎二人をもつて。国


20
本へさし下す。印南野どの。生害の注進は。宗野原右
兵衛。大岸渕左衛門両人なり。鎌倉より。中国ヶ賀古河
までは。百余里の行程なれども。昼夜をわかたずも
みにもんで。賀古川にはせつきしかば。上下のものどもこ
はいかにと。あきれはてたるばかりなりしが。間もなく城下の
町人。在々のたみ百姓。女わらんべにいたるまで。恩に帰(き)し
徳をしたひ。なきかなしむことかぎりなく。かゝることの。出(いで)
来りいるかなしさよ。御家はいかゞならせ給はん。たゞゆめとこそ
おぼゆれと。なくこえ天にもこたえぬべく。父母におくれ
しごとくなり

 賀古(かこ)川の城中騒動の事
さても印南野丹下どの。御生害におよびしかば。鎌倉

にありあふ家人ども。騒動すること大かたならず。
されども長臣。安彦(あひこ)伊右衛門。藤又伊三郎。諸士をとり
しづめて。まづ/\家中引はらひの。その用意をす
べしとて。舩百そうをもよほしあつめ。一家中の番組
をさだめ。紙に籏をこしらへさせ。一二三の番づけを。朱を
もつてこれをかき。その家々の荷物をば。番づけにあは
せこれを出し。をのれ/\が手よりのかたへ。心々にのけく
るが。尤家風たゞしきゆへ。雑人のうれへもなく。号令たゞし
き武勇の家の。きどくはこゝにあらはれけり。しかのみ
ならず。賀古川城中の騒動。これまたいはんやうもな
し。諸士を下へとさはぐ中に。譜代相伝の厚恩をわ


21
すれ。今此節におよんで。妻子をあはれみ。財宝をおし
み。ゆくすえのことを案じて。引込どころの思案をし
うろつきまはるものもあり。此騒動をさいわひにして。
亡君の財宝金銀を。いかにもしてかくしとり。欠落せん
とおもふもあり。忠義かつてたゆまずして。亡君のために
いのちをすて。あだを報ぜんとおもふもあり。かゝる不慮の
変にあふて。人の心も反覆し。心々をあらはすこと。
秋のちくさのさま/\゛に。野わきの風にみだるゝがごとく。
患難憂苦こゝろざしを。よく一つにするはまれなる
べし。中にも老臣。大岸由良之助。生野入道正賢は。
義心鉄石のごとく。亡君のために死をいそがんと一心をか
ためいたりしが。印南野家の諸士をこと/\゛く。城中ひろ


22
間によびあつめ。此たび主君御落命のこと。ひとへに尾
花家のなすわざなれば。主君の怨(あだ)は此人なり。上(かみ)へ対し
奉り。なにのうらみのあるべきぞ。しかるにわれ/\が譜代の
主君。印南野家を自害せさせ。ゆへなく城をあけわたし
十方にさまよひゆかんは。世にいひ甲斐なきことならずや。わ
れ/\なにの面目あつて青天をあふぎ。白日にむかふべ
き。数代その身を安楽に。歳霜(せいさう)をおくるのみか。妻子
眷属をはごくみしこと。みな主君の御恩なり。その御
厚恩をおもへば。須弥山よりもたかく。蒼海よりもなをふ
かし。此主恩をかうふりながら。いづくにて報ぜんとはおもはる
ぞ。をの/\心を一致して。当城をまくらとし。一同に殉死
をとげ。冥途の御供をせられよといへば。宗堅原右衛門すゝみ

出。由良殿の御仰。一々次第理にあたつて。感涙そでを
うるほし候。主君をさきだてまいらせて。たれをたのみ。何を
まちて。月日をおくり候はん。おぼしめし入れもあらん人は。みな
/\はやく立さり給へ。それがしにをいては。心中一決候と。四方
をきつと見まはせば。異心あるものどもも。さしあたつたる義
理につまり。さながらいなともいひがたく。みな同音にことば
をそろへ。尤々とぞ同じける。由良之助打よろこび。みな/\
同心の段。近頃祝着いたしたり。此うへは。いそぎ使者を鎌倉に
おくり。意趣を申したつすべし。此おもてへむかひ給ふ。城請とり
の御目つけ衆。御発向のあとならば。宇多の左衛門どのへ。申し
たつすべしとて。田守十右衛門。茎岡喜右衛門を。両使として
さしるかはす。両人急の使者なれば。夜共ひるともわかたば


23
こそ。もみにもんでいそぎければ。ほどなく鎌倉にはせつき
たるに。お目つけ共は。はや発足ときここしかば。今すこ
しおそかりしと。それより印南野家の屋形につき。鎌倉
家老。安彦伊右衛門。藤又伊三郎に対面し。右のおもむき
をかたりしかは。安彦。藤又両人も。尤なりと感心し。両使(し)をと
もなひ。宇多の左衛門どのゝ屋形にまいり。案内をこひしか
ば。左衛門そのたいめんある。田守。茎岡申しけるは。丹下家来
のものども。一同に御ねがひ申し候は。此たび丹下若気
ゆへ。短慮のいたすところ。罪科のがれざるをもつて。生
害仰付られし段は。おそれ入て候なり。しかるに右門どのに
は恙なく。御存命のよし。承および候。それに城を立退き申し
十方に離散仕りなば。何の面目候ひて。たれにおもてを

むかふべきやと。家中一同仕り。なげき申し候ゆへ家
老共。いろ/\教訓仕れども。田舎武士の誠に候
へば。うつて承引仕らず候。もし離散仕る共。安心仕
べき様子にても。御座候においては。各別の義に
候なり。上(かみ)に対したてまつり。つゆばかりも御う
らみは御座なく候ゆへに。おの/\主人のぼだい所にお
いて追腹(おひばら)仕るべく候と。委細のおもむきを演舌す
左衛門どのきこしめし。それは家中のもどもの。無骨の
いたすところなり。鎌倉おもて不案内ゆへ。左様には思ふらん。
丹下日頃に。君をおもんじ奉り。勤仕せられしことなれば。
早速その地を引はらひ。とゞこほりなくあひわたしなは。丹
下多年の存念にもかなひ。さぞや草葉のかげにても。満


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足をばいたさるべし。此むね家中のめん/\。よく/\きゝと
どけなば。はやく納得して。あひわたすべきのよし。御返事
をし給ひしかば。両使も言下の道理にせまり。此うへは。とかく
国本にたちかへり。一々仰のおもむきを申しきかせ候べ
しとて。又かまくらをたつて。中国へはせかへる。これぞ武
道のいきぢのはな。いろあり香(か)あり世の中の。勇士の
こゝろぞいさぎよき

忠義太平記大全巻之第一 終