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趣味の変体仮名

忠義太平記大全 巻之五

 

読んだ本 https://www.nijl.ac.jp/ 忠義太平記大全


93(左頁)
忠義太平記大全巻之第五

 目録

溝部弓兵衛夫婦忠心の切なる事
 由良之助密計をいひきかす事
 溝部がつましのびてかまくらに下る事

盟約の者共姿をかへて手だてを巡らす事
 神木海辺以下買人となる事
 野金岡右衛門殉死をとぐる事


94
吉野勘平故郷にかへり住む事
 和州に山賊(やまがつ)共徘徊する事
 勘平片輪となり自害する事

弓兵衛が妻神木孫田ら密状をのぼす事
 大岸由良之助百姓共をふるまふ事
 由良之助山科の居宅をうりはらふ事

小寺千内嵯峨野の閑居の事
 千内力弥と共にかまくらに下向の事
 千内が故郷の妻詠歌の事


忠義太平記大全巻之第五
 溝部弓兵衛夫婦忠心の切なる事
人として信なくんば。言語(ごんご)まことなくして。何れのところにか
おこなひ得ん。家に居(を)るときは。家におこなはるべからず。郷党
におるときは。郷党におこなはるべからず。されば言(こと)忠信あらず
んば。州里(しうり)といふともおこなはれじ。げにや忠臣のせつ義を
まもる。やたけごゝろの弓兵衛は。夫婦二人うちつれて。山
しなにはせいたり。由良之助が家へつと入り。夫婦ともに笠
をとり。おくへつか/\とはしり入れば。由良之助おどろき。溝
部どのかめづらしやと。いはせもはてず弓兵衛がつま。つと
よつて大岸が。刀をうばひとらんとするを。溝部あとへ引も
どし女さか/\しくして。牛うられぬとやらん。いはれざるはたら


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きだて。しりぞけよと制して。これ由良之助どの。連判を御
やぶりにつき。夫婦これまで参り。日頃思慮ふかき。大岸殿
にて候へば。いかなる手だてにて。連判をやぶらるまじき
ものにもなし。もし又真実心をかへ。かゝる未練の仕出し給
はゞ。由良どのとはいはせまじ。たゞ今貴殿のくびをとり。それより
すぐにあづまに下り。尾花どのをうつて。主君のあだを報ず
べし。もしわれ/\不運にして。仕そんじても候はゞ。それから
それまで。一心の覚悟をすへて。はせ参て候ぞや。御心底をう
けたまはらん。それを女のあさましさは。あまりにはやり。実
否をもきゝとゞけず。卒爾のはたらき仕らんとす。その
段は御免下さるべし。さあ心底をうけたまはらんと。きつは
をまはしてつめかくる。由良之助すこしおさはがず。さて/\お

ほしめしよりて。御夫婦づれにての御出。ちかごろ祝着
いたしたり。御苦労かな/\。まづは堅固なる御心底を見
うけ。満足仕て候。ことに御内方は。女儀の御身として。かく深
切なる御心ざし。さすがは小田十郎右どのゝ。御息女ほどあり
けるぞや。ちかごろ出来させられた。おたのもしく存るなり。そ
れがし此間。思案をめぐらし候に。かねて百拾五人ありし。盟
約連判の人々も。おくびやう神にすゝめられ。誓約を
たがへて。今はやう/\。五十人ばかりにおよび候ゆへ違変の者
どもの。心の中はかりがたく。もしてきがたにはかり事
の。もるゝ事や候はんと存じ。かつは又のこる五十人の人々の
心中もはかりがたく。それをおし見ん手だてにこそ。異変と
申して判形(ぎやう)をやぶり。連衆へまはし候ひし。累代の厚恩


96(挿絵)


97
をわすれ。今更ないゆへ。心をたがへ候べき。をのれいのちだに
あらば。たとひかたきは雲に入り。地をくゞつてかくるとも。上は
雲上のひさう天。ひゝさう天にのぼり。けてんやま天たけ
自在天。下は金輪水際にいたり。ならく/\いふならく。なら
くのそこまでたづねめぐり。うち果せでをくべきかと。こ
ぶしをにぎりきばをかみ。ひがしのかたをのぞみ見て。いかれ
るまなこになみだをながず。勇士の節義はことばにも。
筆にものぶべきところなし。溝部次第をつく/\゛きゝ。さて
/\由良どのゝ御心底。忠臣とや申さん。智臣とや申さん。
かんずるにところなし。かゝる御心中とも存ぜずして。今ま
でううら見おもひつる。われ/\がつたなさよ。まつひら御免
と平伏す。溝部がつまも。あまりのことにあきれ居し

が。さめ/\゛となき出し。かゝる深切の。御心をもくみ得ずし
て。女ごゝろのあさ/\しく。そこつのふるまいいたせいこと。か
へす/\ももつたいなし。さて御存のごとく。みづからが兄庄三郎。
不義のふるまひを仕り。悪名をうけ候こと。末代までの名
おれ。それを無念に存ぜられ。父は自害いたされ候。しかれ
ばみづから女なり共御。君のために忠に死し。御恩を報じ
さふらはんと。存じつめ候ゆへ。かゝる仕合に候へば。とかくは君にめ
んじさせ給ひ。無礼は御ゆるし下さるべし。此うへはみづからは
ひそかにかまくらに下り。何とぞして縁をもとめ。尾花どのへ
御奉公にまかり出。屋かたのやうだい。つまり/\゛のやうす。くは
しく御しらせ申すべし。そのうへかたきのやうだいを。しのび/\
につけ申し。時分をもうかゞひはかり。内通いたし候はゞ。これぞ


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まことに肝要の。忠節にて候はんといへば。由良之助手を打て。
女性(しやう)の身として。かく忠貞を存ぜらるゝこと。さりと
はかんじ入て候。しからばかまくらに下り。いかにもしてたよりをも
とめ。尾花どのゝかたへ。奉公に出給ひ。屋かたの様体。ねま
の次第。くはしくつげしらせ給へ。それよりうへの忠節は。われ
/\もおよぶまじと。いとまごひのさかづきを出し。さま/\゛にぞ
もてなしける。溝部夫婦はそれよりも。大岸父子にいとま
ごひして。かまくらにしのび下り。かなたこなtがと縁をたづね。た
よりあおもとめけるに。天もかんおふありけるにや。折しも尾花
どのに。女の奉公人を御たづねにつき。溝部がつまは早速奉
に出で。これよりさま/\゛のことゞもを。内通しけるとぞきこへ
し殊に糸竹和歌道に心よせし人となん

 盟約のものども姿をかへ手だてを廻らす
さても一味盟約のものども。此とし月。なつは暑日(しよじつ)の
ながさにたえ。冬は寒夜のしもをしのぎ。只あけくれに
亡君の。あだを報じ本意をとげんと。心をくだきおもひを
こがす。義士列夫の忠志のほど。天鑑なんぞむなしからん
と。たのもしくぞおぼえたる。人のいのちはさだめなく。世には
かなきものとはいへど。蜉蝣のゆふべをまたず。なつのせみの
春秋を。しらざるだにあれば。いのちのあるところは。義の存す
るところにして。たゞ義のまゝにやすんぜんこそ。まことの道と
いふべけれ。そのおもんずるところをうしなはゞ。たとひ不老不
死の長寿を得て。富天下をたもつとも。自己の神明
に。などか恥ることなからん。されば長寿もむさぼるところ


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にあらず。冨もほつするところにあらず。死生はひたす
ら。義と共にしたがはんのみ。しかれども。骨肉同胞の
よしみ。その懐旧をわすれざるは。大丈夫といへども、しのぶ
べからざるところにして。をのづから人情の、やむことあたは
ざるにおほはれ。そのこのむ所にとゞまつて。かのおもんずべ
きものをうしなはゞ。禽獣ととつぎを同じふして。いづれいか
なる世にか。そのつみを謝せん。三百数十人のうち。一場必死
とちかひし義士。わづかに五十人。たゞ一人のとなへによつて。
神明の光曜をかゝげ。死を鴻毛のかるきにたのしみ。義を
泰山のおもきに存す。されば時の難易をしつて。なげく
べきをなげかず。運の窮逹を見て。かなしむべきをかな
しまず。身を短褐(たんかつ)の市人にやつし。おもてを奴僕(ぬぼく)のいや


100
しきにおかし、さしも文武に達したる。神木(かんき)与八郎も。万
歳屋五郎右衛門と名をあらため。かまくら比企が谷(やつ)のかたわら
の。うら店(だな)をつつて。なつは扇をうり。冬は柿や蜜柑をう
り。まづしき買人のていにもてなせり。市田仲左衛門は。小町
屋の平兵衛となのりて。女奉公人のきもいりをし。海辺
高兵衛は。高崎屋の弥五兵衛と名をかへ。きざみたばこを
うつて。吉野新田かほりよし。大内はつとり高崎たばこ。
きざみ/\ととなへて。谷(やつ)々小路/\の。屋敷がたをうりま
はる。孫田奥太夫。同じく一子只右衛門。おやこのもの共は。伽羅
の油うりになり。後原休助(のちわらきゅうすけ)は。加賀屋の久兵衛と名をあ
らため。はじめはかまくら。よこ山どのゝ屋かたのほとりに住しが
のちには。高さご町といふところに。店をかり。切れうりと成り

ぬ。これらのものども。かまくら中。こゝかしこと徘徊し
縁をもとめていつとなく、尾花どのゝ屋かたに出入り。中
足軽共にたより。あるいはたばこ入れ。又は木づか。巾着。
ねつけ。緒じめなんど。このむところにしたがひ。折にふれ
てあたへ。家来のものども。かゝる手だてとはゆめにもしら
ず。これらのものどもとしたしくなり。次第に一家中の
諸さふらいにしられ。おもふまゝに出入りせり。これらは又。難中
の至難(しいなん)なり。つたへきく越王勾践(えつおうこうせん)は。呉王父差(ふさ)とたゝかひ
大にやぶれてとりことなり。獄中にくるしまれしを。范蠡(はんれい)
といふ智臣。越にあつてこれをきゝ。うらみ骨髄に
とほりしかば。すがたをかへ身をやつし。あじかに魚(うを)を入れて。


101
商人(あきんど)に似せ。呉の国へゆきたりしが。魚のはらの中に。敵の
死を許す事なかれといふ。一行(かう)の書を入れて。獄中に
なげ入れ。范蠡いまだながらへて。君のために肺肝をくだく
といふ。心のほどをつげしめす。越王も范蠡が。しわざなる事
をしり。千難万苦をしのぎ。命をたすかり国にかへつて。つ
いに呉王をほろぼし。会稽の恥をすゝぎしも。ひとへに
范蠡が忠功なりき。今此ものどもが心ざし。いかでかそ
れにおとるべき。こゝに故丹下どのゝ馬廻りに。野金(のかね)岡右衛門
と号し。三百名をたまはり居しが。牢人の以後。由良が盟
約の内に入り。江州水口(みなくち)に居たりしが。大病を引うけ。さま
/\゛療治したりしか共。さらにそのしるしなく。日にそひよ
はりはてしかば。近郷近国にて。名医やあるとたづねも

とめ。かれこれ良医をまねきて。此やまひ今一度本腹
いたすべきたとたづねしか共。諸医手をはなちて。もは
や療治の手だてなし。余人に見せ給へとて。くすりを出
す医者あらざりしかば。岡右衛門大にこれをかなしみ。何と
ぞして此たびの。死をのがれんと仏神にいのり。あるいは
yらかたをみせ。さま/\゛ともがきけり。近辺のものどもこ
れを見て。岡右衛門は。武士の牢人にも似合ず。愚痴千万の
男かな。すでに六十にあまり。いつまでいのちをおしむべき。
かぎりある寿命ぞとも。しらざるこそおろかなれと。わら
ふもの共おほかりけり。岡右衛門も。今はのがれざる業病
とおもひ。おる早朝に一子九十郎とて。今年廿四歳
なるを。まくらもとによびて。くるしげなるいきをつぎ。われ


102
此たび大病をうけ。いかにもしてのがれんと。さま/\゛療
養すといへども。業病はぜひもなし。何とぞいきのば
はりなば。連判のものどもと共に。尾花どのをうつて。年頃
のいきどぼりを。散ぜんとおもひぬれば。大切なるいのちな
れども。定業(ぢやうごう)はのがれがたし。しかりとてやみ/\と。病死せ
んもむねんなれば。はらかきやぶり。殉死の心もちをして。
せめても君の御厚恩を。報ぜんとおもふなり。今よりは
なんぢ。九十郎をあらため。野金岡右衛門と名のり。一味の
人々と共に。亡君のあだをうつて。わが本懐を達すべ
し。さるによつてわれははやしのびやかに切腹せり。いそぎな
んぢ介錯せよ。これみよと肌ぬげば。腹十字にかき
切り。はらわたをつかみ出し。水をもつて。内をあらいそゝぎ

をけり。九十郎大におどろき。さても是非なき次第。此うへ
は兎角申すべきやうもなしと。なみだながら介錯し。
あとをよく/\とりしたゝめ。父岡右衛門は。病気ついに本
腹なく。今暁(けう)相はて牢朗と。世間へ沙汰してしのびやかに
葬送をとりいとなみ。いよ/\義心鉄石のごとく。時いたるを
まちいたり

 吉野勘平故郷にかへり住む事
こゝに吉野勘平は。印南野家につかへ。重恩をかうふりしが。
丹下どの生害の後は。故郷なればとて。大和のくに。吉野の
里にかへりすみて。かすかなるすまひに。うき年月をお
くりしか共。由良之助が一味の約盟に入て。血判のかず
につらなり。本意の時節をまちいしに。用事あるて。南(なん)


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都にたちこえ。夜半(よは)のころかへりしが。山かげのそはみち。
しげりし梢うちおほひて。月かげもうとく。物すごく夜
すがら。たゞひとりたどりしに。六尺ゆたかなる男共。前
後より七八人出て。われ/\は。尾羽をからせし牢人共。
酒手(さかて)に着物をぬいでゆけといふ。勘平きいて。をの/\は。
牢人にてましますか。ちかごろお笑止には存れど。拙
者も同じ牢人なれば。いづれをいつれとか申さん。御めん
なされ下さるべしといふ。山賊どもうちわらひ。はてす
ましたる男めかな。それひつはげよとたちかゝる。勘平
今はのがれがたし。是非におよばぬとことよとおもひ。
やがて着物をぐすとぬぎ。すはほしくばまいらせん。これ
しきのものに。念をかくる男にはあらず。さりながらい


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づれもゝ。御牢人ならば。こゝを一つきゝわけてたべ。最前
も申すごとく。それがしもさるお大名に。仕官いたし候
ひしが。主人卒去のゝち。労浪の身とまかりなれり。
それにつき此一こしは主人在世のとき。拝領いたしたるわ
きざしなれば。形見と存じたてまつり。片時(へんし)も身をはなた
ざれば。こればかりはかなふまじ。まけてそれがしにたまはれと
いふ。盗賊どもきゝもあえず。それものないはせそ。引たく
れよといふほどこそあれ。前後よりとりつゝむ。勘平大に
いかり。いかに盗賊なればとて。あまりに不仁義のやつ
ばら。今はのがしをきがたしと。まつはだかにてきつてかゝ
り。前後にすゝむやつばら。三人まで切りたをせば。又一人
きつてかゝり。これもかたさきをきられて。かなはじといげ

ゆくを。おつかけんとするとことろに。又一人。うしろよりは
しりきたり。勘平がかたあしを。したゝかきつてきり
をとせば。たまらずかつぱとたをれふす。そのひまに山賊
共は。ゆくえもしらずにげうせけり。勘平はいた手ゆへ
おきあがる事もかなはず。夜のあくるまでふしいたりし
に。所のものども。山かせぎに出るとて。此ていを見つけ。
大におどろき。さま/\゛といたわりてのち。戸いたをもちき
たり。これにのせて。勘平が宿へつれかへる。女房は。たゞゆめ
の心地して。なきかなしむ事かぎりなし。勘平人のなき
ひまをうかゞひ。女房をちかづけ。さてもわれ由良之助
に同意して。亡君のあたをうたんとおもひ。大事の
一命なるにより。盗賊めらにさま/\゛と。口をたれわび


105
ことし。此ひとこしは亡君の。御かたみなればとこひしか共。そ
れをも承引せざりしゆへ。是非なくもぬきはなし。一は
たらきしたりしに。かくふかでをおひぬれば。今は存命も
不定(ふじやう)なり。尤養性をくはへなば。此手は本腹すべけれ共。あ
しをきられいるうへは。すでに膝行(いざり)のかたはなり。それが
し此身となりて。あだを報ぜんことは。中々おもひもよらず。
しかれば主君の御恩をば。何をもつて報ずべき。今はとて
も。いき甲斐なき片輪なり。亡君の殉死(をひばら)して。疎意
を達せんとおもふなり。夜中にかの場にて。自害した
くおもひしかども。此一とをりをもかきをき。由良之助
以下に。心底のほど。そこつのしわざならざる事を。しら
せんとおもひ。今まではいきのびたり。かゝるわざわひに

あはざるとても。今年中には。きはめて死するわが身なれ
ば。かならずなげくことなかれとて。くわしくかきをき
をしたゝめ。われ死なば。此遺書(ゆいしよ)をもちて。みやこにのぼ
り。山科にたづねゆきて。由良之助にわたすべしと。
あとの事共くわしくいひをき。はらかき切て死したりし。
忠臣の節義ぞあはれなる。女房は。大になげきかなしみし
か共。ちからなく野辺におくりて。古塚(こふん)一堆(いったい)のぬしとなし。
そのゝちかのかきをきをもち。山科にのぼり。由良之助がか
たにたづねゆき。右の次第をかたり。かのかきをきをわたせ
そかば。由良之助父子ひらき見て。その忠臣のほどをかん
じ。ともになみだにむせびしが。勘平がつまを五六日がほ
ど逗留して。さま/\゛とぞもてなしける。


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 弓兵衛が妻神木孫田ら密状をのぼす事
春すぎなつたけて。をぎの上葉をふくかぜに。秋としらせ
てのべのいろも、ちくさの花ににしきをみせ。をきあまるつ
ゆのしら玉も。くだけて物をおもふ折ふし。かまくらに居し。溝部
弓兵衛がつま。そのほか神木与八。孫田奥太夫。後原休助等
がかたより。しのびの状をのぼせ。時すでにいたれり。いそぎ
連判の衆中。かまくらに御下向あるべし。かたきの様体を。
いよ/\うかゞひさだめ。本意を達し候べし。こと延引におよ
びなば。年ごろの計略むなしくなり候はんと、由良之助か
たへいひおくる。由良之助大によろこび、同意のものどものか
たへ。右の様子をぞ相ふれける。しかるに由良之助は。孫呉
もあざむくばかり。智謀うぐれしものなれば。かねて

山科を立のき。かまくらへ下るべきが。にはかに此ところを引
はらはゞ。諸人の不審をうくべし。いかなる手だてをかめぐ
らさん。やづくりせしときは。千年も万年も。住宅すべきやう
に。叮嚀をつくしぬれば。にはかにうちはらはん。世の人口も
いかゞ。人にさとられてはあしかりあんと。さま/\゛思案をめぐ
らしけるが。よき手だてこそもふけたれとて。それがし儀
は。病身にして。世間もつとめがたく。先隠居ぶんにまかり
なり。一子力弥に名跡をゆづりて候。そのひろめのために。
心ばかりの賀儀をのべ。おの/\がたを。私(わたくし)宅へ申入れたく
候と。在所の庄屋にいひこみ。庄屋年寄をはじめ。一在所
のものどもを。宅にまねいてもてなしけるが。由良之助
座敷に出。それがしも今よりは。隠居の身となりぬれ


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ば。世を心やすくくらすべしと。四方山のものがたりを。調
子よくしいたるが。はなしにしこつて。おぼえず座上に
にじりあがり。大膝くんで談笑(せうだん)す。そのゝち饗膳出しか
ば。由良之助うちわらひ。こはおもはずも、拙者上座仕る。さ
りながら。もはや隠居分なれば。万事は御免。居ながらこ
れにまかりある。在所の衆中。ちかごろ麁相の料理なれ
共。よくきこめせなんどあいさつし。時宜をもはからずう
ちくらひしかば。庄屋をはじめ百姓共。これはあまりわれ/\
を。かるしめたる仕かたぞと。心にいかりおもひ居しに。
力弥をはじめ馳走人配膳のものどもなど。さま/\゛無
礼をあらはしけり。そのゝち力弥。手まへにて茶をたてけ
るに。もとより田舎の。農人のことなれば。茶のみちなんど


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は。かつてしるべきにあらばこそ。大にめいわくがり赤面して
もぢ/\とするほどに。茶椀をうちおとしなんど。さま/\
無骨をあらはしければ。由良之助が家来共。ふき出してこれを
わらひ。目ひき袖ひき指ざしして。さゝやきわらひつゝや
きて種々恥辱をあたへけり。里人共も。大に腹立(ふくりう)して。
はやく座をたちかへりけるが。此たびの振廻(ふるまい)は。われ/\を。在郷
ものとあなどり。無礼をあらはさんためか。たゞしわれ/\に
手をとらせ。恥辱をあたへんためなりじやと。大にいかりいき
どほり。在所のものどもいひあはせ。その一礼にさへゆくもの
なし。それより由良之助親子には。ことばをかくるものもなく。
音信(いんしん)不通になりきり。をのれらどちうちよりてはさ
ま/\゛とそしりのゝしり。いかなる牢人にもせよ。由良之助

にもせよ。かくまで一在所ににくまれて。ながく此ところに
すまんことは。いかな/\かなふまじ。大分の金をついやし。つくりみ
がきし屋敷なれども。やがてうりはらひ立のかんは。鏡にかけて
見るがごとし。何としてかすまるべきと。うちより/\のゝしり
けり。由良之助は。此ていをみて。さてもこそおもふ図に仕果せたり
と。心のうちによろこび。在所のものどもとは不通にして。折
ふし途中にてゆきあふときも。わざと目礼だにせず。に
はりきつてうちあふのき。のさ/\としてとをりしかば。いよ
/\うとみにくみけり。さるによつて由良之助は。かまくら
りの密状をよろこび。当地は首尾よくはからひをき
ぬ。今にはかに此ところを引はらひたちのくとも。不審を
たつるものは。一人もあるまじとて。庄屋年寄片迄も


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拙者儀少し存じ入れあつて。遠国へ引こみ候ゆへ。居宅(いたく)
をうりはらひたく候と。名主かたへことはり。にはかに屋敷を
うりはらひ。家財をも沽却して。急に山科を立のきけり。
在所のものどもは。さて見つることよ。いやしき百姓なりとお
もひ。かるしめあなどりしか共。われ/\にくみたてられて。いか
でか此ところの住居(すまい)をせん。立のかではかなふまじ。あれほどのも
のなれども、郷に入ては郷にしたがへと。実語教(じつごけう)といふ書物
に。しるしてあるをしらざるやといへば。それよ/\庭訓にも
その事があるとやらん。論語よみの論語しらず。こゝちよし
/\と。よろこびわらふものばかりにして。不審をたつるも
のとては。一人もなかりけり。由良之助父子は。おもふまゝにはか
りおふせ。今は心やすしとて。家来どもにも。こと/\゛くいと

まをとらせ。親子たゞ二人になりしが。父子一所に下らんは
これ又人もあやしむべし。力弥は小寺千内と。あとより同
道して下るべしとて。由良之助たゞ一人。いやしきものゝてい
にもてなし。しのんでかまくらへはせくだる。かくまで深慮を
めぐらしいる。由良之助が心中。異国はしらず本朝には。古今ためし
あるべからず。花の忠義の智臣なり後にそおもひ出しけり

 小寺千内嵯峨野の閑居の事
世をあだし野のあだなりと。うき世をあだに見なして
は。綾羅錦繍(りょうらきんしう)金銀珠玉。何か心のとまるべき。柴門荊(さいもんけい)
蕀(きょく)にとらはれては。人のとふらふべき道もなく。月よりほかのと
もなければ。むかしをかたるべきよすがもなし。されば小寺千
内は。都のにし。嵯峨野といふところのかたほとりに。かくれ


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すみていたりけるが。棟梁由良之助が方より。一左右(いつそう)を聞
て。よろこふことかぎりなく。長月のはじめつかた。由良之助
か一子。大岸力弥を。あひともなひ夫婦あひわかれて。嵯峨
野の草屋(さうをく)を立出けるが。年ごろすける道とて
 おもひではあらしの山のもみち葉を
  わかれし袖のいろぞともみよ
累代印南野家の仕臣なりしかば
 わすれじないく百(もゝ)とせをつかへ(?)きて
  世々にかはらぬ君がなさけを
と。一首のうたに。千万のおもひをのべ。さしも恩愛ふかき。
母のよはひかたむきたるをも。つま子のなごりつきせぬを
も。ゆくえもしらずおもひをき。ふたゝび家にかへるべき。とき


111
しなればこれや此。ゆくもかぎりの相坂の。せきくるなみだ
をそでにとゞめ。しばしはやどに月かげの、きえぬこほりと
見えながら。さゞなみよするみづうみは。壮士衣(ころも)単(ひとへ)なる。易水(いすい)
の秋をながめつくし。なれぬあらしにそでをまかせ。いく夜さ
だめぬくさまくら。よろもかりがねさみき夜に。たびねのそ
もむすびえず。篠の葉草にかげやどす。あきもす
え野の夜半の月。小笹がくまにつゆふけてむしのねも
うちしきりたぐひなく。物さびしかりしかば。ねられぬまゝに
さしむかひ。こしかたゆくすえのこと共。おもひのこすか
たもなかりしかば。小寺千内
 今は世にあきはつる身のしるべせよ。
  はや入かたの山のはの月

と。なにとなく。古歌をくちずさみしかば。力弥も感情(かんせい)にや
たえざりけん

 故郷有母秋風涙(こきやうありはゝしうふうのなんだ) 旅館無人暮雨魂(りよくわんなし人ぼうのたましい)
と。たがひに遠きいにしへをさぐり。今の情(じやう)になぞらへて。うち
吟じけるぞあはれなる。匹馬(ひつば)風にいばひては。駅路あかつき
の鈴のこえに。今日もたび路のいそがれて。くさわけごろも
しほれながら。すぎこしあとをかへりみれば。伊勢。尾張三河
もすぎ。すえはいづこと遠江駿河のくにもうちこえて。
むかふはいづこ伊豆さがみ。おもへば野くれ山くれて。遠くもき
つるたびのそら。四方のやえぎりたちこめて。行客のあとを
うづむ。みやこはいづこしら雲の。たなびくすえやはこね
ふるさけ召ればあまのはら。をし明がたにいづの海。沖の


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小嶋は浪あれて。たゆたふ舟に身のうへも。おもひたぐへし
ゆくえかな。みねはこずえのをとすごく。むさゝびつたふこの
まより。松かぜさむくしぐれきて。しばらくむまをとゞめしに。
あひ知れる人の。みやこのかたへのぼるにあひ。ふみなどとゝの
へことつてしも。又今さらのわかれなり。竹の下みちうち
すぎて。酒匂。大礒相模川。ふかきおもひは身のうへに。もつ
れてとけぬ藤沢や。もろきなみだのそでのいろ。からくれな
いにそめなせる。もろこしがはり。となみがはら。かたせ。こしご
へうちすぎて。かまくらにつきしかば。あさぢがやつといふと
ころぞ。つゆのいのちのおきどころと。しばしはこゝに身を
ひそめ飛龍の三冬(とう)に蟄(ちつ)するごとく時をまちてぞい
たりける。程へてのち。みちよりかきておくりつる。ふみの返

事なりとて。千内がつまのかたよりも。歌をよみて送りける
 しらずやはいひかへすべきことの葉も
  なみだのつゆにそではくちしと
千内も。此ふみをみて。かぎりなくかなしみしが。返歌に
 かぎりありてかへらんとおもふたびもなを
  わがふるさとはこひしきものを
さしもたけき勇士なれども。年ごろすきけるみちと
て。やさしくも又あはれなり。さればたけきものゝふの。心
をもやわらげ。目に見えぬ鬼神までも。感ぜしむることは。
たゞ和歌のとくなりといへり。されば千内は。しき嶋の道
に心をよせ。いとやさしきものなりしかば。嵯峨野のかた
ほとりに此としごろ引こもり。はるは小倉。あらし山の


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はなにめで。秋は大井川のぎよきながれに心をすま
し。渡月橋を。月とともにわたりては。松むしのねを
たづね。露をあはれみ雪をあいして。風雅にくらせ
しものゝふなり

忠義太平記大全巻之五 終