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趣味の変体仮名

忠義太平記大全 巻之十一

 

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226(左頁)
忠義太平記大全巻之第十一

 目録

寺沢市左衛門士の列に入る事
 藤沢の道場葬送の事
 大川八郎なさけふかき事

盟約(けいやく)の士生害をとぐる事
 国分寺葬礼儀式の事
 衆僧追善大法事の事


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宗野が妾(てかけ)雪の下にすむ事
 雪の下の名主なさけある事
 原次郎が母子とともに生害の事

幼子(ようし)礒松才知発明なる事
 鐙摺(あぶずり)の庄屋礒松をまねく事
 礒松をさなふして切腹の事

忠義太平記大全巻之第十一

 寺沢市左衛門病死の事
匹夫をも。こゝろざしをうばふべからずといへり。されば寺沢市
左衛門は。その身足がるたりといへども。一旦の恩義をかんじ。一
場(ぢやう)必死のかずに入りて。忠臣義士のほまれをとり。天下万人の
目をおどろかす。これ忠臣の節義。いたれりつくせり。かつて
匹夫にあらず。これぞまことの大丈夫。古今にまれなるところ
なり。かずにもあらぬ身ながらも。君恩を報ぜんため。盟約の
れつにつらなり。此たびの夜うちにも。屋のうへにとびあ
がり。もしも堀などとびこえて。かせいするものもあるや。又内
より塀をこえ。にげ出るものもありやと。遠見して居たり
しが。一味のともがら。尾花どのをうちおゝせ。相図の笛をふき


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たてし。その音をきくよりも。いそぎ屋ねよりとびおりしが
うれしさあまつて心せき。あやまつてこしぼねを。大石にて
うちそんじ。進退心にまかせず。行歩(ぎやうぶ)かなひがたかりしか共。尾
花どのゝくびを見とゞけ。よろこぶことかぎりなく。われ今あや
まつて。こしのほねをうちそんじ。進退自由ならずといへども
本意を達しぬるうへは。存じのこす事もなし。さらばをの/\
御いとまをたまはつて。自害いたし候はんと。わきざしをぬきて。今
はかうよと見えけるを。由良之助をしとゞめ。こはいかなるはたらき
ぞや。其方一人さきだちて。何の栓かあるべきぞ。みなをの/\
一同に。立ならんで切腹せん。まづ御菩提所までのがれよと
さま/\゛にこれをいさめ。やがて駕籠にのせて。路次(ろじ)中をの/\
介抱し。国分寺へ引とり。さて丹下どのゝ墳墓にて。由良

之助はからひとして。亡君にねがひを達し。士の列になし
て。盟約の衆中へも。みな/\今よりその心得。せらるべきよし
いひしかば。四十余人のともがら。これよりことばをなして。寺沢
どのとぞよびにける。さて此ものもめしうどゝなりて居たりし
が。ほどなく重病を引うけ。身心をくるしめしかば。種々療養を
くはへ。さま/\゛名医の手をつくせる。されども定業かぎりあつ
て。ほどなくむなしくなりけるが。此もの時宗(じしう)なりしゆへ。藤沢の道
場におくり。此ところにぞ葬りける。あはれなるかな寺沢。日
頃の素懐(そくわい)を一時にとげ。同じく命をおこしながら。盟約の
ともがらと。ともに一列には葬られず。藤沢の土となり。世
に名をしられざる事をと。みな人なみだをながしけり。かくて
物さはがしき中に。その年もくれぬ。あらたまの年たちかへれば。


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そらのけしきも長閑(のど)やかに。いつとなくうすがすみも。四方
に立わたりぬれど。盟約のもの共は。日ごとにその日をか
ぎりとのみ。おもひふけてまちにけり。かくて睦月もゆめ
とくれ。はるもやゝふかく。うぐひすのこえおもしろく。法華経
さへづるも。われにぼだいをすゝむるにやと。のちの世の事をのみ。
あけくれ心にかけて。経を誦し念仏をとなへ。ひたすら未来
をいのりけるところに。案のごとく。生害すべきにさだまり
しかば。盟約のもの共は。その用意をぞしたりける。大川八郎
力弥にちかづき。さるにても。貴辺の御事は。若年の御身と
して。かねて必死のかずに入り。此たび切腹におよぶ事。是非
におよばぬ事に候。さだめて御母君。御兄弟も候はんといへ
ば。力弥きいて。それがし身不肖に候へ共。弓馬の家に生れ。


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此たびの盟約のかずに入り。君の御恩を報ぜしこと。生前の
大幸。なに事かこれにしかん。それがしが母は。上がたに候ゆへ。弟
どもゝ。母と一所に候なり。たゞとにかくに。母がなげかん事のみ。心ぐ
るしく候と。なみだをはら/\とながしければ。さしものにたけき八郎
も。力弥が心の中をさつし。こらへがたくやありけん。しばらくなみ
だをゝさへ。げに/\故郷(ふるさと)の母君も。此事をきゝ給はゞ。なげきかな
しみ給ひなん。申しをかれたき儀も候はゞ。それがしに御きかせ候へ
故郷の母君へ。たしかにとゞけ候べし。書状をとゞけ申す事は。
わたくしにはなりがたし。心中のこさず口上にて。いひをかせ給へ
といへば。力弥かさねて。御意のおもむき。かたじけなき仕合。か
かる御懇意にあづかる事も。一世ならず存じ候。一樹のか
げにやどり。一河(か)のながれをくむ事も。みなこれ他生の

縁とこそ。うけたまはり候へ。父由良之助。内々に申しきかせ候は。
もし万一盟約のもの共。死をのがるゝといふ共。われ/\父子
においては。いのちをのばゝり。世に立まじいらんとおいもふべから
ず。かならず自害いたすべし。もしもいのちをたすかり。又主
どりをせん心底。つゆほどもあるならば。かならず草葉のかげ
にても。ふかくこれをうらむべしと。申しきかせ候。そのうへ旧冬(さうとう)
国分寺にても。再三此ことを。申しふくめ候ひき。さるによつて
此たび。一同の切腹の儀。それがしにおいては。別して本望
にて候なり。右の所存にて候ゆへ。かねて故郷の老母へも。いと
まごひ仕り。まかり出候へば。今さら申しをくべき儀も。かつ
てもつて候はず。只今まで段々と。御懇意にあづかりし事。
御礼申し謝しがたしと。しほ/\とのべければ。大川八郎なみだ


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にむせび。しばらく袖をしぼりけるが。あまりたえがたくや
ありけん。かさねて兎角ともいわず。やがて立て入りしかば。
その座にありける諸侍。みな/\なみだをながしけり

 盟約の士生害をとぐる事
かくて時刻になりしかば。庭上のかり屋の内に。盟約のとも
がら。こと/\゛く列座せり。をの/\はだには白かたびら。うへ
には白き小袖二つ。あさぎの無地のはかまを着す。生害の
場には。たゝみ三畳しきて。うへにあさぎの木綿を。袷に
してこれをしき。その死がいをそのまゝにて。すぐにこれをと
りつゝみ。たゝみともにもち出て。白き無紋のまゝの中へ。こと
/\゛く引とりぬ。由良をはじめ。盟約のともがら四十余人。
次第/\に切腹す。いづれもいさぎよくぞ見えし。あはれかゝ

る忠義の臣は。古今にもあるべからずとみな人これをかんじ
けりいにしへより。和漢の忠臣世に名をのこせるもの。そのかず
おほしといへ共。今においてはたとへをとるにものなし。あゝ由良親
子なかつせはたれか亡君丹下どのゝ。泉下のうらみをひらく
べき。いかでか群士一列の忠烈をかゝやかさん。なんぞその徳を
あふぎ。その雄略をしたはざらん。匍匐(ほふく)のわらんべ衰老のお
きなまで。その死をにくみ。その生をゝしまずといふことなし。しかり
といへ共。世に名をしらるゝことなくんば。彭祖(ほうそ)が七百さいも生て
なにの益かある。顔子(がんし)の短命は。不幸なりといへ共。亜聖の
のとく千載にかゝやけり。不義の生は欲するところにあらず。
いはんや功なり名をとぐるにおいてをや。されば国分寺の和尚。此
たびの葬主となりて。僧侶三百余人をああつめ。仏事供養


232(挿絵)


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かたのごとくにいとなみ。位牌は三つにして。四十七人をわか
ち。法名をかきしるし。山の半腹をひらきて。自余の墓に相
まじへず。一郭をかあmへたれば。森々たる老樹四面をかこみ
颯々たる恵風。煩悩のゆめをさまし。おのづから霧不断
の香をたき。月常往のともし火をかゝぐ。参詣の老若
貴賤。かたをそばだてくびすをついで。群集のたもとをつらね
感涙をながし。嘆美のこえみゝにみてり。あまり感にたえ
ざるものは。由良がそとばをけづりとつて。懐にしてかへるも
あり。墓前のしきみは。つんで一堆(たい)の山をなし。手向の水は
ながれて数条の川となれり。供仏施僧のいとなみ。善つくし
美つくさるれば。諸仏もおのづから威光をまして。此会座に
つらなり。歓喜讃談のこえをそへ。悪霊もにげかくれ。山神

もあらはれ出て。法会の庭に平伏し。渇仰(かつこう)のなみだをな
がし。仏在世をしたふらんとぞおほえたる。一耀(ちう)の香を拈(ねん)ずと
ても。丹心まことあるときは。玄鑑なんぞあやまらん。一列の群
霊こと/\゛く。たゞちに浄土のあけぼのにいたり。ながく輪廻
のきづなをはなれて。すみやかに安善無苦の世界にいたり
上品(ぼん)蓮臺に座せんこと。なんぞうたがふところあらんと。仏
慮もあんにはかられて。ありがたかりける事共なり

 宗野が妾(てかけ)雪の下に住事
此たび盟約のともがらの子ども。此世にいきのこりて。いま
だ十余人あり。その名をたれとたづぬれば。由良が次男。千
代丸。三男三郎丸。片山源七兵衛がちやくし。片山源六。次
男源之助。間瀬垣休之丞が次男。間瀬垣休八。市田仲左


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衛門が次男。市田善之助。宗野原右衛門が一子。宗野源三郎
富林祐衛門が一子。富林庄三郎。南沢朝右衛門が子。南沢小
五郎。岩波村介が一子。岩波十三郎。同じく次男。岩波付
次郎。村木岡平が一男。村木物次郎。同じく次男。村木岳
次郎。和野茅助が一子。和野大之助。定田奥右衛門が一子。定
田奥十郎。松川喜平次が二男。松川狭間右衛門。弓田六郎左衛門
が一子。弓田覚十郎。八十村嶋右衛門が一男。八十村藤丸。同じく
二男助丸。此ともがら十余人なり。これらはみな/\。遠島に
おもむきしが。その内いとけなきわらんべどもは。十四五さいにお
よぶまでは。その母これをあづかりける。されば宗野原右衛門が一子
源次郎といひけるは。宗野がとしごろあさからず。愛せし
おもひ人のはらに。出来りたる男子にて。今年五さいなり

けるが。此女たゞひとり。原次郎をもりそだて。すぎにしふゆ
事ありしのちは。かなしみの中に。うき月日をおくれども。つ
れなきいのちきえやらぬ。雪の下といふところに。うらだなの
うきすまひ。あさなふゆなのけふりだに。たえまがちなるのきの
くさ。しのぶにあまるいにしへは。みはてぬゆめのこゝちして。今は
此世のたつぎだな。もとむべき手だてもなく。衣類諸道具奥ま
でも。一つ/\うりしろなし。身命をつなぎ来りしに。はやしろ
なさん物もたえ。たれをたよりとたのむべき。ゆかりの人さへあらざ
れば。飢て死すべきありさまなり。女もさま/\゛おもひわづらひ
名主へかくといひしかば。名主何とも思案におちず。やがて
その里の代官所へうつたへけるに。その女。渡世かなひがた
きうへは。原次郎。十四五さいにおよぶまで。母子ともに里


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中より。よく/\養育すべしなり。さるによつて。名主かの
原次郎が母をまねき。此うへは両人ともに。里中のもの共と
して。養育をいたすなり。心やすくおもはれよと。いひわたし
けるところに。二三日もすぎてのち。かの女名主がもとに来り。
さるにてもわれ/\二人を。此さとの衆中として。養育なされ
下さるゝ事。かたじけなく候なり。さりながら原次郎は。よう/\今年
五さいの幼子しかればかれが十四さいに。および候までは。十とせ
ばかりも候ひて。すえながらき事といひ。そのうへすこしもゆか
りありて。たよりともすべき人の。一人にてもさふらはゞこそ。木
よりおちたるよりも。なをあさましき此身にて候。それ
に何の由緒なき。里中のをの/\へ。御苦労をかけ候こと。
さりとてはかなしく候。さるによりみづからは。書をきをいたしをき。


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しのびやかに此ところを。立のき候はんとのみおもひさだめ
候なり。かねてよりその御心得。なされ下さるべしといへば。名
主きて。此事においてはすこしも心にかけらるゝな。其方
両人ともに。はごくみ申し候とても。里中よりの事なれば。たれ
一人だつて。難儀するものもなし。そのうへさと中のもの共
あづかりをきしところに。此ところを立のかれば。かへつて町中
難儀におよび。いかなる大事出来らんも。しりがたく候ぞや
かならず/\さやうなる。おもひ立はし給ふべからず。すこしもき
づかひし給ふなとかたく制詞をくはへしかば。女なみだをながし
さてはさやうに念頃に。おぼしめし下され候かや。いかにも/\
此うへは。得心いたし候とてわか屋に立かへりけるが。夜に入
て書をきをこま/\゛としたゝめて原次郎かうつゝなく。ね

入り居しをいだきをこし。おくれのかみをかきなでゝ。さても/\お
ことほど果報つたなきものあらじ。みづからいつのほどよりか。お
ことが父ごになれまいらせ。ひよくれんりとかたらひし。わりなき
いもせの世の中に。子をあたへてたび給へと。神にも仏にもいのりしにお
ことをもふくるのみか。しかもおのこ子にてありしゆへあはれかし成
人し。はやくおとなしくなれよかし。宗野どのゝ家督をつがせ
馬くらさはやかに。供まはり美々しく。公界(くがい)をつとむるあり
さまを。まのあたり見るならば。いかばかりかうれしからんと。此
ことをのみおもひ。月日のたつをとけしなく。引のばすやう
におもひしに。かくなり来りぬることも。すく世いかなるゆへか
あらん。ちから及ばざる事共なり。父ごにおくるゝのみか。あさゆふ
ふたりのけふりだに。たつべき手たてもつきはてゝ。里人


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のはごくみにてうき月日をおくらんこといかにしても口をし
し。弓矢をとつて名をしられし。宗野が妻子のなれの
はて。よくはかくまてなり来りしぞ。さすがに仏神三宝も。
すてはてさせ給へるかうらめしのうき世の中。死するいのち
はをしまねども。父ごの名まてながさん事の。世にも口をし
くおもふぞや。よし/\それもちからなし。貧苦は勇士のはち
ならず。今はおことをさしころし。はゝもともに自害して父
宗野どのゝおはします極楽世界にゆきて一つはちすの
うてなのうへにて。父ごにあはせまいらせん。念仏し給へといへば。原
次郎目をさまし。いまだいとけなき心にも。父にあはせんといふ
うれしさになに/\父ごのおはします。極楽とやらんいふところ
へ。つれゆかんとの給ふか。はや/\父ごにあはせてたべ念仏申し

候はん。いざゝらば極楽へ。はやくつれゆかせ給へ。南無阿弥陀仏
/\と。いたいけしたる手をあはせ。仏名をとはふれば。母もその
こえとともに。しのびやかに念仏し。原次郎がこゝろもとを。一
かたなにさしとをし。とりなをしてわが心もとを。うしろへぐつと
つきとをし。あはれや名のみ世にのこして。同じまくらにきえて
ゆく。雪の下の土となりぬ。剛なるものゝゆかりは。をんなまでも
かくはかり。心のたけかりけるぞやと。世の人みなこれをかんじ。な
みだをもよほざずといふものなし

 幼子(ようし)礒松才智発明なる事
せんだんは二条よりかんばしく。蘭風はかいこの中より。こえ
諸鳥にすぐるといへり。まことなるかな此こと。こゝに盟約四
十余人のともがらの。いきのこりたる子共のうち。幼子礒松


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ありさまを。つたへきくだにあはれにして。よそのたもともぬ
れぬべし。此いそ松は。今年九さいなりけるが。去々年七さいの時
よりも。かまくらの近所。あぶずりといふところに。しるべの人のあり
しかば。此もとにあづけをきしに。いまだをさないものなるゆへ。あけ
くれざもとにをきて。つれ/\゛をなぐさみ。ことに才智利根(りこん)
なれば。鐙摺(あぶずり)の何がしも。夫婦ともにこれをあいし。昼夜ひ
ざもとにをきて。子のごとくにおもひ。不便のものにせられしかば。
此たび父が切腹をせしをも。かならずかれにきかすべからず。おさな
心にいかばかりか。なげきかなしまんもあはれなり。又さるものゝ子
なり。おもふ子細あれば。いそ松にはかくすべしと。家内の男女へ
こと/\゛く。かたくいひつけをかれしところに。此ところの庄官
より人をおくつていひけるは。盟約のともがらの子に。いそ松と


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申すもの。そこもとに居候よし。相ぐして出給へと。急々にいひ
来れり。何がし夫婦大におどろき。庄屋どのよりまねかるゝは。
心もとなき事共かな。西も東もしらぬものゝ。いかなるうきめに
かあはんずらん。世にも不便の事共かな。いそ松にしらせなば。いかば
かりかなげくべき。かならずかれにしらずべからず。不便にはおもへ
ども。是非におよばざる事どもなりと。いそ松にはふかくかくし。そ
れとなく髪をゆはせ。あたらしき小袖なんど着かへさす。いそ松不
しんにおもひ。これはいづかたへ。つかはし給ひ候ぞ。心得ぬ事かなと
いへば。夫婦の人これをきゝ。和ごとのこと。年のころより。利根
なりときゝて。庄官どのよりも。めしよせられ候ぞや。かなら
ず不行儀なきやうに。おどなしくもてなされよ。もしわらわ
れ給ひなば。われ/\がはぢなるぞ。たしなみ給へといはるれば。い

そ松きゝて。これは仰にて候へども。まことしからず候。父もは
切腹のよし。ほのかにうけたまはり候へども。くわしき事は。
たれもしらせ候はねば。あけくれに心もとなく。打すぎて候ところ
に。庄屋どのよりめさるゝこと。すいりやう仕り候に。父ははや
切腹いたしぬ。わたくしをも同じ道にとの。事にてぞ候はめ。父
相はて候うへは。いかでかながらへ候べき。ねがふところにて候と。きくも
すゞしく申しけり。夫婦の人は。よしなきものになれこして。今の
うき目を見ることよ。七つのとしより。ひざもとにをきて。わが
子よりもいとをしく。かれもおやのおもひをなし。へだてなくなじ
みしに。うしなはんかなしさよと。ふかくのなみだにむせび。兎角(とかふ)も
いわず居られしが。よう/\すかしこしらへ。相ぐしてゆかれけるに。
いまだ幼稚のものといひ。そのうへ母もなきものなれば十余


240
さいになるまでは。貴殿へあづけ候と。いひわたされしかば。夫婦の
人は。死したるものゝ。よみがへりたるおもひをなし。仏神の御加
護なりと。よろこばるゝことかぎりなし。されどもいそ松は。父
切腹せし次第。庄屋どのにてきゝとゞけ。たゝひたすらに。父
がことをのみいひ出し。つや/\ものをも食せず。なきかなし
み居たりけるが。ある夜みな人もねしづまり。ながるゝ水のをと
さへも。たえたるほどをうかゞひ。しのびやかにおき出て。すゞり箱
とりいだし。ともし火のかげにより。此一両年がほど。手ならひ
せししるしとて。心ばかりの書をきをしたゝめ。はら一もんじに
かきゝり。ついにむなしくなりにけり。あはれ世の中に。ものゝふ
の子ほど。けなげなるものはなし。いまだわづか九さいにて。十さいに
だにたらぬ身の。まだいわけなきとしなれども。勇士の節義

をまもり。父が死をおひて。自害するだにあるに。くびをもしめ。
ふえをもかゝずして。はらをきりし心ざし成人ののちはいかならんと。
みな人きく人なみだをながし。かんぜずといふ事なし。夫婦の人は。
たゞゆめのこゝちして。さても是非なき事ともかな、おさな心に
かくばかり。おもひつめいる不便さよ。さすがは忠義に死したりし勇
士の子ほどありけるよな。さるにても。よしなきものになれなじみ。かゝ
るなげきをすることよと。夫婦ともにふしたをれて。なげき
かなしまるゝといへども。かへるべき道ならねば。菩提所の野寺におく
りて。葬礼をとりいとなみ。古墳一掬(きく)のぬしとなず。あはれな
りし事共なり

忠義太平記大全巻之第十一終