仮想空間

趣味の変体仮名

むさしあぶみ 上


読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537561

(明暦の大火の阿鼻叫喚ドキュメント。)


2
   むさしあぶみ 上

世すて人にはあらで。世にすてはてられ今
はひたすらすべきわざなく。かみをそり衣を
すみにそめつゝ。楽斎房とかや名をつきて
心のゆくかたにしたがひ足にまかせて都の
かたにのぼり。爰かしこおがみめぐり名におふ
北野の御やしろにぞまうでける。わが古郷
ゆしまの天神とは御一体の御事なりと
ふしおがみ。かなたこなたと見まはすところに
年ごろあづまの方へ行かよふこま物うりに
あひたり。此男大きにきもをつぶし。扨いかなれ


3
ばかゝるすかたにはなり給ふといふ。楽斎房云
やう。さればおもひの外なるめんぼくをうしなひ
て。身のをきどころなきまゝに。かゝる姿には成
侍りといふ。それはいかなる恥をかき給ふらんおぼ
つかなしととひければ。さればこそかたるに付けて
なを/\つらきことの侍り。さだめてそのかみ
明暦(めいりやく)三年ひのとのとり。正月の火災の事はきゝ
をよび給ふらんといふ。男いふやうそれはかくれ
なきことにて。其時の災難に都方にも手代
わかきものくだりあはせて。むなしくなりたる
事ありて。今になげきかなしむ親子とも是

おほし。聞つたへたるありさまさしもおびたゝし
さらば御坊ざんぎさんげのため。そのありさ
まをあら/\かたりてきかさせ給へといふ。楽斎
房申やう。ものうき事かなしき事。わが身ひと
つにせまりておぼえたり。かやうのことはとはぬも
つらし。とふもうるさきむさしあぶみ。かけても
人にかたらじとはおもへども。ひとつはさんげのた
めとおもへば。あら/\かたりてきかせ申べし


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(挿絵)
「北野天神」

扨も明暦三年丁酉。正月十八日辰の刻ばかりのこ
となるに。乾(いぬ)のかたより風吹出し。しきりに大
風となり。ちりほこりを中天に吹上て空に
たなひきわたる有さま。雲かあらぬか煙のう
ずまくか。春のかすみのたな引かとあやしむ
ほどに。江戸中の貴賤門戸をひらきえず。夜
は明ながらまだくらやみのごとく。人の往来(ゆきゝ)も
さらになし。やう/\未のこくにおしうつる時分に
本郷の四町め西口に。本妙寺とて日蓮宗の寺よ
り俄に火もえ出て。くろ煙天をかすめ。寺中
一同に焼あがる。折ふし魔風十方にふきまはし


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即時に湯嶋へ焼出たり。はたごや町よりはるか
にへだてし堀をとびこえ。駿河臺永井しな
のゝ守。戸田うねめのかみ。内藤ひだのかみ。松平しも
ふさの守。津軽殿そのほか数ヶ所。佐竹よしのぶ
をはじめまいらせ。鷹匠町の大名小路。数百の
屋形たちまちに灰燼となりたり。それより
町屋かまくらかしへ焼けとをりぬ。かくて酉の刻に
いたりて風は西になりはげしく吹しほりけれ
ば。神田橋へは火うつらずして。はるかに六七町へだ
てゝ。一石ばしの近所さや町へとびうつり。牧野さ
どのかみ。鳥井主膳正(のかみ)。小浜民部少輔(いんぶのしょう)。そのほか町

奉行の同心屋敷八町ぼりの御舟蔵。御舟奉
行衆のやかた数ヶ所。海辺には松平越前守。さし
も大きにつくりならべられし殿舎ども風に
したがひ煙につゝまれて焼あがり。猛火のさかん
なる事四王切利(わうたうり)の雲のうへまでも。のぼるらん
とぞおぼゆる。こゝにおひて数万の男女けふりを
のがれんと風下(かざした)をさしてにげあつまる程に向ふ
へ行つまり。霊岩寺へかけこもる。墓所のめぐりは
はなはだひろければ。よきところなりとて諸人
爰にあつまりいたるるに。当寺の本堂に火か
かり。それより数ヶ所の院々にもえ渡り。一


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同に焼あがり。くろけふり天をこがし。車輪
程なるほのほとびちり。かぜにはなされて
雨のふるごとく火勢むらかふぃいたるうへに落
ければ。かしらのかみにもえつき。たもとのうち
より焼出まことにたへがたかりければ。諸人あ
はてふためき。火をのがれんとて我さきにと。霊
岩寺の海辺をさしてはしり行。泥のなかにか
けこみけり。寒さはさむし食はくはず。水に
ひたりてたちすくみ。火をばのがれたりけれ
ども。精力つきはてゝ大かた凍え死す。猶それま
でもにけのぶることのかなはざるともがらは。炎

五体にもえつきて。こと/\くこがれ死す
うめきさけぶこえすさまじく。ものゝあはれ
をとゞめたりすべて水火ふたつのなんに
死にほろぶるもの。九千六百余人なり。此海辺
までちりも残らず焼はらひ。海のうかひ四
五町西のかた。佃島のうち。石川大隅守の屋し
きおなじくそのあたりの在家一宇ものこら
ず焼うしなふ


7(挿絵)
「れいかん」

「やけ出」


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その日の暮がたにをよんで。西風いよ/\はげし
く吹落て。海上は波たかくあがり。其うへに去年(こぞ)
の冬よりひさしく雨ふらず。かはき切たる事
なれば。なじかはたまるべき風にとびちる炎十町
廿町をへたてたる所へ。もえ付/\焼あがる程に
神田の明神。皆善寺(かいぜんじ)社頭仏閣をいはず。堀の丹
波守太田備中守むら松町。ざいもく町にいたる迄
あまたの家々こと/\゛く。柳原より和泉殿
橋を切てみな焼通りぬ。扨又右のするがだいの火
しきりに須田町へもえ出て。一筋は真直ぐに通りて
町屋をさして焼ゆく。今一筋は誓願寺より追ま

はして押し来る間。江戸中町屋の老若。こはそもいか
なる事ぞやとておめきさけび。我も/\と家
財雑具をもち運び。西本願寺の門前におろしお
きて休みこけるゝ處に。辻風おびたゝしく吹まきて
当寺の本堂より始て。数ヶ所の寺々同時に
鬨(どつ)と焼たち。山のごとく積みあけたる道具に火も
え付しかば。集りいたりし諸人あはてふためき命
をたすからんとて。井のもとに飛入溝の中に
逃入ける程に。下なるは水におぼれ。中なるは友に
おされ。上なるは火にかやれ。こゝにて死するもの四
百五十余人なり。さて又はじめ通り町の火は。傳馬


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町に焼きたる。数万の貴賤此よしを見て。退きあし
よしとて車長持を引つれて。浅草をさして
ゆくものいく千万とも数しらず。人のなくこえ
くるまの軸音焼くづるゝ音にうちそへて。さな
がら百千のいかづちの鳴りおつるもかくやと覚えて
おびたゝしともいふはかりなし。親は子をうしなひ
子はまたおやにをくれておしあひもみあひせ
きあふ程に。あるひは人にふみころされ。あるひ
は車にしかれきずをかうふり。半死半生に
なりておめきおさけぶもの。又そのかずをしらず

(挿絵)
「ほんくわんし」


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かゝる火急の中にも盗人は有けり。引すてたる車
長持を取て方々へにげゆく。こと更におかしかり
けるは。いはいやの某が。我一跡(せき)は是なりとて。つくり
たてたる大位牌。漆ぬり箔彩(はくだみ)いろ/\成
けるを。車長持にうち入引おし。あまりに間近く
もえきたり火をのがれんとて。うちすてたるを
いつのまにかはとりて行。浅草野辺にて錠をね
ぢきり。ふたを開たりければ。用にもなきいはい
ども成けり。火事を幸に物をとらんろねらひけ
る盗人共。あるひはぬり俵を米かとおもひて取て
のき。或はわらざうりの入たる古かわごを小袖かと

心えてうばひ取てにぐるも有。其中に此日ごろ
重き病を請て。今をかぎりとみえし人を。火事にお
どろきすべきかたなくて。半長持におそ入。かき出し
辻中におろしをきたりしに。何者とはしらず盗取
行方なく成にけり。是を尋んとする程に。家財一跡
皆焼すてたる人もあり。あるひは我子をば取うしな
ひ。他人の子をわが子とおもひ。手をひきうしろに
をふて。とをくにげたるものもあり。年老たる
親いとけなき子。あしよはきにようばうをかたに
かけ。手を引せなりにかきをひて。なく/\落行(おちゆく)
ものもあり


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(挿絵)
「いはひ」

爰に籠屋(ろうや)の奉行をは。石出(しで)帯刀(たてわき)と申す。しき
りに猛火もえきたり。すでに籠屋に近付しかば
帯刀すなはち科人ともに申さるゝは。なんぢら今
はやきころされん事うたがひなし。まことに
ふびんの事なり。爰にてころあsんこともむざん
なれば。しばらくゆるしはなつべし。足にまかせ
ていづかたへも逃行。ずいぶん命をたすかり。火も
しづまりたらば一人も残らず。下谷のれんけいじ
へ来るべし。此義理たがへす参りたらば。わが身に
替てもなんぢらが命を申たすくべし。若(もし)又此約
束をたがへてまいらざる者は。雲の原までもさがし


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出し其身の事は申に及ばず。一門までも成敗すべし
と有て。すなはち。籠(ろう)の戸をひらき。数百の科人を
ゆるし出してはなされけり。科人どもは手をあはせ涙
をながし。かゝる御めぐみこそ有がたけれとて。おもひ
/\に逃行けるが。火しづまりて後。約束のごとく
下谷にあつまりけり。帯刀大きによろこび。汝等
まことに義あり。たとひ重罪なればとて。義をま
もるものをば。いかでかころすべきやとて。此おもむき
を御家老がたへ申上て。科人をゆるし給ひけり
道゛ある御代のしるし。直(すぐ)なるまつりごと上に正し
ければ。あまたの科人ども義を守りて。命をたす

けられけるこそありがたけれ。此事をきく人みな
いはく。帯刀になさけ有。科人また義あり。御老中
に仁ありて命をたすけ給へり。爰におひて国道(くにみち)
あることはあきらけしとそかんじける。其中に一人
の囚人(めしうど)しかもいたりて科の重かりしが。よき事に
おもひて遠く逃のび。我古郷にかへりしを。在所の
人々此ものはたすかるまじき科人なるに。のがれ
てかへりしこそあやしけれとて。つれて江戸
へまいりければ奉行がた大小にくませ給ひてこ
ろされしとなり


13
(挿絵)
「籠屋」

しかるにかのあさ草の惣門をこゝろざしてに
げ出けるともがら。貴賤上下いく千万ともかず
しらず。されどもむかふはひろき河原なり桝
がたをだに出たらば。さおのみせきあふまじかりし
を。いかなる天魔のわざにや籠屋の科人ども
ろうを破りてにぐるぞやそれのがすなとらへ
よといふ程こそ有けれ。あさ草のますがたの惣
門をはたとうちたりけり。それはおもひよらす
諸人いづれもわきまへなく。跡よりくるまをひ
きかけ/\おし来る程に。傳馬町よりあさ草
の惣門ついぢのきはまでそのみち八町四方があ


14
ひた人とくるまながもちとひしとつかへて。いさゝ
かきりをtがつべきところもあきぢはさらにな
し。門はたてゝあり跡よりは数万の人おしに
おされてせきあひたり。門のきはなるものども
いかにもして門の開貫(くはんぬき)を引はつさんとすれ
ども。家財ざうぐをいやがうへにつみかさね
たれば。これにつかへてとびら更にひらかれ
ず。さてこそ前へすゝまんとすれば門はひらけ
ず。うしろへかへらんとすれば跡より大勢せ
きかくる。しんたいこゝにきはまり。手をにぎり
身をもいて。只あきれはてたるところに。北の

かたはじめ焼とまりし柳はらの火おこりて
ぜいぐわんじまへの大名小路へおしうつりて。立
花さこん。松浦ひぜん。ほそ川帯刀。丹羽の式部
の少輔(せうふ)。遠藤たじま。加藤出羽守。おなしく遠江
。山名禅閤一色くないの少輔。都合三十五ヶ所。寺
がたにあにちりんじ。ほんせんじをはじめとして
ちそくいん。しんがういんにいたるまで。百二十ヶ寺
一同にもえたつ。右傳馬町の火とひとつにな
りて焼あがり。ほのほは空にみち/\て。かぜに
まかせてとびちりつゝ。かさなりあつまりおし
あひもみあふ人のうへに。三ばうよりふきかけ


15
しかば。すまんのなんによさはぎたち。あまりに
たえじゃねてあるひは人のかたをふまへてはしる
もあり。あるひは屋のうへにあがりてにぐるも
あり。これは/\といふ程こそありけれ。たかさ
十ぢやうはかりにきりたてたるいしかきのうへ
より。堀の中へとび入けり。せめて命のたすかる
かと。かやうに暫しともがらいまだしたまで
おちつかず。石にてかうべをうちくだきかいな
をつきおり半死半生になるもあり。したへ
おちつくものは腰をうちそんじてたちあが
ることをえざるところへ。いやがうへにとびかさ

なり。おちかさなりむみころされおしころ
され。さしもにふかきあさ草の堀死人にてうつ
みけり。そのかず二まん三ぜんよ人。三町四方
にかさなりて。ほりはさながら平地になる


16
(挿絵)
「浅草門」


17
のち/\にとぶものは前(さき)のしがいをふまへて飛ぶ
ゆへにその身はこしもいたまずして。河むかひに
うちあがりたすかるものもおほかりけり。とかく
する河ひざ下重々にかまへたる見つけのやぐら
に猛火もえかゝり大地にひゞきてどうどくづれ
死人のうへに落かゝる。さて人にせかれ車にさへられ
ていまだ跡に逃をくれたるものどもは。むかふへす
すまんとすれば前には火すでにまはり後よりは
火の煖(?こ)雨のごとくにふりかゝる。諸人こえ/\に
念仏申事きくにあはれをもよほすあひだ
に。前後の猛火にとりまかれ一同にあつとさけぶ

そ。上は悲相のいたゞきにひゞき。下は金輪(きんりん)の底迄
も聞ゆらんと。身の毛もよだつばかりなり。翌日(あくるひ)
みれば。馬喰町。横山町の東西南北にかさなり臥
たる死人のありさま。目もあてられぬありさ
なり。さてその夜の亥のこくばかりにうつりては
悪風なをもしづまらで。海手をさして下屋敷
以上十九ヶ所ひとつものこらず炎上せり。此時
にあたつて御倉のうしろににげかくれたる
もの七百三千余人有けるが。御倉に火かゝりてつめ
をかれし米俵にもえつきたりければ。諸人こ
のけふりにむせび。うちたをれふしまろび


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あるひは川中にころび入て死す。それより
前(さき)は七八町もへだてし大河を飛こえ。うし嶋
新田にいたり。しまの在家までこと/\焼
ほろびて其夜のろらのこくに火事はこれ
までにてしづまりぬ

(挿絵)


19
夜すでにあけくれば。四かく八方へおち散たり
けるもんども。親は子を尋ね。夫は妻をうしなふ
て。涙とゝもにこえうちあげ。そんでうそのなにがし
と。名をよびつゝ声々によばゝりて。やう/\
尋ね逢てたがひによろこぶ人もあり。又は
死うせてめぐりあふ事なく。ちからをおとして
歎くもありて。ものゝわけも聞えず。こゝかしこ
にあつまりて焼死てかさなりふしたるしがい
どもを。かきわけ/\親子兄弟夫婦のかばねを
尋ねもとむるに。あるひはかしらのかみみなもえ
つくして。半(なかば)は過て大方尼法師のごとく。くろ

くすほりに焼こかれあるひは小袖きる物みなもえ
うせて。五体焼めぐり。竪横に肉(しゝむら)さけて。魚の
あぶりものゝごとくなるもあり。みしにもあら
ぬおもわすれして。それかこれかと見ちがへて。たづ
ねまどへるものおほかりけり。はまぎれには盗
人ども。たちまじりて死人の腰につけはだへに
つけたる金銀をはづしとり。その焼金をもち
出てうり代なす。これをまた買とらんとてあ
つまりける程に市のごとし。その外町の中
辻小路におとしすてたり。家財雑具ども数も
しらずひろひとりもち出してうりしろなし


20
にはかに徳の付たるおのもおほかりけり。らくさい
ばう又かたりけるやう。それがしの母もゆき方
なくなりしかば。今はさだめてむなしくなりぬ
らんとおもひさだめ。夜のあけがたに死人のか
さなり臥たるあたりかなたこなたと尋ねも
とめしに。母に似たる人焼死てうち臥たるを。こ
れこそそれよいざや家にとりてかへり。葬礼
仏事せんとて。戸板にのせて家にかへりければ
孫子兄弟跡まくらにさしつどひて。なげき
かなしむところに。門よりしてまことの母かへ
りきたれり。人々此よしを見て。あれはいかに

はやむれいになりてきたり給ふぞや。此日頃
申給ふ念仏は何のためぞや。まうねんをもさま
して。すみやかにごくらくの上品(じやうぼん)上生(じやう)に往生
せんとこそおもひ給ふべきを。まだ此しやばに
しうしんをのこして。まうれいになりて来り
給ふかや。あさましき御事也とく/\かへり給へ
跡をばねんごろにとふらひてまいらすべし
かまへて六だうの辻にばしまよひ給ふなと
いひければ。母大きにおどろき。われは芝口まで
逃のびて命たすかり侍り。死なずしてかへり
しをばよろこばて。それはいかなる事をいふぞや


21
と申さるゝ。人々聞て御しがいはまさしくこれに
有。死なずと宣ふこそ心え侍らねとて。彼取
てかへりし尸(かばね)を能々(よく/\)みればさしもなきものゝか
ばねなり。人たがへは世のつねあることなれども
にが/\しき中におかしかりける事也。まづ何
ごともなくかへりおはせしこそうれしけれとて。
とるものも取あへずかの尸をばひそかにかき
すてたるゆゝしさよ。さらば一るい何事なく
たすかりける祝ひ事せよやとて。酒肴かひ
もとめてかなたこなた数献にをよびてよろ
こぶ事かぎりもなし

(挿絵)