仮想空間

趣味の変体仮名

菅原伝授手習鑑 第一

読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html

      浄瑠璃本データベース ニ10-01216

 

 

3(大内の段)

再版 序詞 菅原伝授手習鑑 竹田出雲作

蒼々たる姑射(こや)の松化(け)して婥約(しゃくやく)の美人と顕はれ 珊々(さん/\)たる

羅浮山(らぶさん)の梅 夢に清麗の佳人となる 皆是疑儀して

変化をなす 豈(あに)誠の木精ならんや 唐土斗か日の本にも人

を以て名付くるに 松と呼び 梅といひ 或は桜に准(なぞらふ)れは花にも情(こゝろ

天満(あまみつる)大自在天神の御自愛有りし御神詠(ごしんえい) 〽末世に伝へて

有がたし 此神いまだ人臣にまします時 菅原の道真(みちざね)と申奉り

 

 

4(裏)

 

 

5

文字に達し筆道の奥義を極め給へば 才覚智徳兼備はり 右大

臣に推任有 権威に漫(はびこ)る左大臣 藤原の時平(ときひら)に座を列(つら)ね 菅丞(かんしやう)

相(じやう)と敬はれ 君を守護し奉らる延喜の御代ぞ豊なる 然るに主上此程ゟ

御風の心地迚病の床(ゆか)に臥給ふ 天顔を窺ひ奉らんと 御弟宮無品(むぼん)斎世(ときよの)

親王 参内の御供には院の廳(ちやう)の官人 判官代輝国(てるくに)階下に伺公(しこう)仕れば

席を正して丞相に打向はせ給ひ 今朝(こんてう)院参致せし所法皇仰せ有る様は 当今(とうぎん)

の御悩(ごなう)日を追って快然ならず 急ぎ斎世に参内し龍顔を排し御様子 有りの儘に

 

告げ知らせよと判官代を相添らる 御様体いかゞ渡らせ給ふやらん 菅丞相正笏(しやく)

有り さして御かはりもなく候 委しくは道真に御尋ね有らんよりは直(じき)に天気を窺ひ給へ

然らば左様に致さんと 時平にも挨拶有り常寧殿に入給ふ かゝる所へ式部省

下司(したづかさ)春藤玄蕃(しゆんどうげんば)の允(せう)友景(ともかげ)罷り出庭上(ていしやう)に頭を下げ 今度渤海国より

来朝せし唐僧天蘭敬(てんらんけい)が願ひには 唐土(もろこし)の徽宗(きそう)皇帝 当今(とうぎん)の聖徳を伝へ

聞き 何卒天顔を拝し奉り 御姿を画(え)に写し帰国せよ 其画を則ち日本の帝と

思ひ対面せんとの望に付 数々の饋(おく)り物 則是に候と庭上に錺(かざら)すれば 菅丞

 

 

6

相聞給ひ コハ珎らか成る唐僧が願ひ 当今延喜の帝 聖王(せいわう)にて在す事隠れ

なく 御姿を拝せんと唐の帝の望は 直に我国の誉なれ共 折悪敷(あしき)天子の御脳(なう)有り

の儘に云聞せ 音物(いんもつ)も唐僧も唐土へ帰されんや 時平の了簡まいsますかと仰に

冠打振りて そふでない道真 御病気と申聞してもよも誠には思ふまし 延喜の帝は

聖王でも 趝跛(ちんば)か瞎(かんだ)か缺唇(すぐち)か膝行(いざり)か 天皇らしうない形(なり)故 病気といふは間に合い

と云るゝは日本の疵 面倒な事いはさんより 御形代(おんかたしろ)を拵へ天皇と偽つて 唐僧

に拝さすれば何事なふ事は済 誰彼と云んより此時平が代りを勤め 袞龍(こんれう)の

 

御衣(ぎよい)を着し 天子に成て対面せんと一口に云放す謀叛の 萌(きざし)ぞ恐ろしき 判官代輝国

階(きざはし)の下につゝと寄り 事新敷(あたらしき)厳命 唐土の天蘭敬は 時平公の御姿を写しには参るまし

眥(まなじり)上がって頤(おとがい)広く 顴(ほうぼね)高き延喜帝 唐僧がよも呑込むまい 神武以来独(ひとり)の悪王 武烈

天皇の名代ならば時平公が幸(さい)究竟 当今の御かはりとは鹿を馬との出損ひ ハゝゝゝゝ御無用と嘲

笑ふ ヤア舌長し輝国隠(すさ)れやつと叱り付け ヤア/\玄蕃 天蘭敬を内裏へ伴へ 天子には此時平用

意せんと立所を 菅丞相とゞめ給ひ 時平の仰は天下の為御形代とはさる事なれ共 若しは彼(かの)僧

相人(さうにん)にて 君臣の相を能(よく)見るならば 王孫に有ぬ臣下としるべし 其時はいかゞ仕らんと 理屈に時

 

 

7

平行当れば三善(みよし)の清貫(きよつら)進み出 菅丞相の言葉共覚へず 彼坊主を相人とは餘(あんま)りな先(さき)ぐり

念に念が入過る 左中弁希世(まれよ)殿そふじやないかと指し出口 イヤ是念に念を入てさへ過ち

仕落ちは有ならひ 仮初ならぬ唐土人御対面の事なれば 軽々敷く計らはれずと 暫しが間御思

案有 所詮天子の御かはり人臣は成がたし 御同腹の御弟宮 斎世(ときよ)の親王を今日一日

の天子と仰ぎ 御姿画を唐土迄伝へて恥じぬ粧ひ 此義いかゞと理に叶ふ 詞に違(たが)ふ

時平が工み目と目を三善の清貫も 口あんごりと明き居たる 玉簾(たまだれ)深き一間より 伊予の

内侍(ないし)立出給ひ 両臣の御諍(あらそ)ひ我君委しく聞し召れ 朕が代りは斎世の宮と直々の勅

 

諚にて 只今御衣を召替給ふ 此由申伝へよとの仰にて候と内侍は奥に入給ふ 時平は

俄にむつと顔 輝国が悦喜の眉開く扉は日花門(じつかもん)玄蕃允(げんばのぜう)が案内(あない)にて 渤海

国の僧天蘭敬 倭朝(わてう)にかはる衣の衫(さん) 庭に覆ひて畏る ムゝ唐土の僧天蘭敬

とは汝よな 龍顔を写し奉らんとの願ひ 叶ふは汝が身の大慶有がたく存じ奉れと 時平が指

図に警蹕(けいひつ)の 声諸共に高々と 御簾巻上ぐる其内には 弟宮斎世の親王金巾子(きんこじ)

の冠(かむり)を正し 御衣爽やかに見へ給ふ実(げに)王孫の印迚 唐僧始め座列の官人あつと ひれ伏敬へ

り 天蘭敬漸(やう/\)頭(かしら)を上 玉体をつく/\゛と拝し奉 ハゝア天晴聖主候や 我国の徽宗

 

 

8

帝慕はるも理り也 三十二相備はつていはん方なき御形(かたち) 勿体なくも僕(やつがれ)が筆に写し

奉らんと 用意の画絹(えぎぬ)硯箱 桧の木の焼き筆さら/\と 眉のかゝり額際見ては写し

書ては拝し 御笏の持たせやう御衣の召ぶり違ひなく 即席書の速やかさ顔輝(かんぴ)が子孫か

只ならぬ画筆の妙を顕はせり 判官代は差し心得捧げ物取納むれば 重ねて俸禄賜(たび)てん

ぞ旅館に帰れと道真の 下知を請継ぐ春藤玄蕃 お暇申させ唐僧を伴ひ

〽てこそ退出す 帰るを待て時平大臣玉座にかけ寄り 斎世の宮の髃(かたさき)掴んで引ずり出し 御衣

も冠もかなぐり/\ 唐人が帰つたれば暫くも着せては置かれぬ 九位(くい)でもない無位無官に 着せ

 

た装束此冠穢れた同然 内裏に置かず我が預かる 今日の次第は右大臣奏聞せられよ

身は退出罷り帰ると御衣冠奪(ばい)取て行んとす 道真立て引取給ひ 聊爾也時平 勅もなき

御衣冠私に持帰り 過(あやまつ)て謀叛の名を取給ふやと 何心なく身の為をいはるゝ身には胸に釘

頭ゆがめて閉口す 斎世の宮菅丞相に向せ給ひ 天子序(ついで)の勅諚には 老少不定極り

なし 何時しらぬ世の中に名斗(ばかり)残すは其身の為 道を残すは末世の為 妙を得たる筆の道伝ふべ

き惣領は女子なれば是非に及ばず 幼ければ弟の菅秀才にも伝ふまし 弟子数多有菅

丞相器量を撰みて筆道の奥義を授け長き世の 宝とせよとの御事と 仰の中に左中

 

 

9(裏)

 

 

10

弁 宮の前へずつと出 菅丞相の弟子の中(うち)位といひ器用といひ 希世に上越す手書はなし

幸い是にて伝授有れと 御申付下さるべしと云せも敢(あへ)ず 菅丞相につこと打笑内裏に

有る時は我傍輩 筆法は我弟子なれば 此道において師匠を指し置き 我儘の願致されなと 誡(いましめ)の

詞厳々と襟を繕ひ勅答には 有がたき君の恵み 我筆法の大事には 神代の文字を伝る故七日の

齋(ものいみ)七座の幣(へい)神道加持に唐倭(からやまと)文字は何万何千にも 我筆道に漏れしはなし それ共しらず爰かしこ

に手習ふ子供も皆我弟子 けふゟ私宅に閉じ籠り撰み出して器量の弟子に 筆伝授申べしと 宣ふ詞

は今の世に伝へて残る筆道の 道は御名に顕はれて真(まこと)成かな誠なる君が 御代こそ〽豊なれ

 

 (加茂堤の段) 

引捨つる車は松に輪を休め 舎人二人は肘枕 二輛並べし御所車かたへは藤原かたへは菅原 道真公

の名代は左中弁希世 時平公の代参は三善の清貫 加茂明神へ御悩(のふ)の祈願 神子が湯浴(ゆだて)の

其間 眠るむまさは加茂堤 夢に夢をや結ぶらん 松風に菅原の舎人梅王丸目を覚まし コリヤ

やい松王丸 そちが主の時平公は短気者でも根が大鳥 名代にわせた清貫殿は短いくせに根

が悪者 使いを請ぬ内目を覚して行かいでな ホウ梅王丸の云るゝ事はいの こなたの朱の名代

に来た希世殿こそ大邪人 蓼喰虫も好々とあのわろを弟子にしたる 代参におこしたり

なさるゝ 菅丞相のお心がしりたい イヤそりやそち達が小さい了簡とは違ふ 聖人の胸の広さは

 

 

11

こちらが身にも覚への有る事 斎世の宮様の車を引く 桜丸とわれとおれと三人は 世に希な三つ子 顔

と心はかはつても着る物は三人一しよ ひよんな者産だと親父が気の毒に思ふたをお聞なされ 三つ

子は天下太平の相 舎人にすれば天子の守りと成り、聖人さして牛飼に指上げよと 菅丞相様

のお取成しで御扶持迄下され 親四郎九郎殿は今佐太村の御両分に御寵愛の梅桜

松を預かり 安楽に暮して居らるゝ 其御寵愛の三木(ぼく)の名を我々にお付なされ おれを兄のお心

でか梅王丸とお呼なされて召使はる 其方は松王丸 桜丸は宮の舎人 えぼし親と云御恩のお方

家を隔てゝ奉公する共 必ず仇疎かに思はぬがよいぞよ アゝぐど/\と永(なが)談義説く人 もふ斎世

 

の宮もお参りなされ 牛休めに桜丸も来てそふな物 何ぞ用が有か ハテ佐太村の親父殿から

来月は七十の賀を祝ふ程に 三女夫連(みめをとづれ)でこいと人おこされた 其事いはふと思ふて ソリヤ銘々に人

が来てよふ知ている 思へば親父殿はおはずからずに子三人と 果報な人では有はいなァと 兄弟咄しの其

中へ同じ胤腹(たねはら)一時に生れて年もおないどし どれが兄共弟共梅と松とに桜丸 三幅対の車引き

こかげに一輛引捨てて 堤の上から是は/\ ふたり共ゆつくりとして居らるゝ 御神事も早半ば過ぎ 呼立てられ

ぬ中に行たらよかろと 真顔でいへば梅王丸 御神事が済だら宮様からお立であ有ろが そちや又爰へ

何しにきた イヤこちの宮様は神司(かんつかさ)の方で 御休足有故お立の程がしれぬ こなた衆の乗せて

 

 

12

来た御名代の衆は 禁廷の御用が有迚立騒いで居たぞや 油断して叱られまいといふに松

王いかさま役なしの宮様と時平公のお目鑑(めがね)で 御用繁き清貫様とは違ふ何時しれぬいざ行と

車にかゝればヤレ待て松王 清貫様がお立有ば 此梅王がお供した希世の卿も同然 万一お立でない

時は あおの大勢の群集(くんじゆ)の中へ二輛の車を引かけて 怪家(けが)さしてもそこねても 不調法は舎人の誤り

一走りいて様子を見て取に帰る迄の事 休んだかはりじやサアこいと 引連立て両人は宮居の方へ走り行 跡見

送りて桜丸 ハゝゝゝゝ一ぱいくふていたは/\と 独云(ひとりごと)して相図の手拍子 招けば招かれ恋草の 露

踏分けて十五六 被(かづき)の風の優しさは 菅丞相の御娘かりや姫迚色も香も 文は父御のお家がら

 

くどき落して宮様に逢せませんと跡に付く供は八重(やえ)迚花めきし 桜丸が自慢の女房先へ

廻りてコレこちのお人 首尾はよいかと問ば點頭(うなづき) よい共/\ けふ此加茂堤は御車の休所 人どめしても一人(にん)も

通さぬ鼠の子もない所と思ひ 宮様をそびき出して来た所に 梅王や松王がどんぐり目玉

にほつと草臥(くたびれ) 一生につかぬ嘘を又ついてまんまとちらして仕廻た 姫君様恥ずかしそふな顔せず共お出

/\ ドリヤ開帳仕らふと車の御簾を引上れば 斎世の宮は面慚(おもはゆ)げに 姫は猶しも顔見合せ につと笑ふ

て袖覆ふ サア爰らが下(した)々と違ふて飛付て軽業もさせにくい 女房共 くら闇にしたいなァ

何のいな昼じや迚結構な車の内 エゝすばやいやつでは有ぞ 我抔は暫しはお暇(いとま)と こかげへはいれば

 

 

13(裏)

 

 

14

それ/\ こんな時には男は邪魔 サお姫様 申上たい事有らば遠慮はなしにおつしやれと つきやられて

刈谷姫 千束(つか)の文のお返事に首尾有らばとの御讒(すさみ) 有がたいやら嬉しいやらけふの此首尾待

兼てお叱り受けに参りしと袂くはへて宣へば 斎世の宮も十七のいとまだ若き初恋に何と云寄る

品もなふ 桜丸がいかい世話 文見る度にいやまさり逢たかつたによふこそ/\ 嘸春風で寒

かろと 仰は姫の身にこたへ春風よりも恋風がぞつと身にしむ斗也 車のかげより桜丸ぬつと首

出しコリヤ女房 我身抓(つめ)つて人のいたさ おりやさつきにから死脉が打つ 早ふ配剤(はいざい)仕おらぬかと

せり立られてヲゝそれ/\ 春風でお寒いとおつしやる 憚りながら御車を暫しの内の風凌ぎ 御免

 

有てと姫君を むりに抱き上げ押入れば アコレ是は何しやる 勿体ないと云つゝも車の内へ入給へば 指し心得て

桜丸さらば閉帳と御簾おろす 内には宮の御声にて嬉しいぞやとのお詞と 神詣の御車で罰(ばち)が

当ろとシヤ儘よの睦言聞て夫婦は飛退き 女房共 たまらぬ/\ 隣厳しうてひよんな宝を設け

たと身もだへすれば ヲこれ聞へるわいの お二人共に御機嫌能く嬉しい事ではこんせんか イヤもふ餘り

御機嫌が能過て近所迄難儀がかゝつたとはいふ物の有やうはそちが働き よふマア尋逢たな

こなさんの教への通り内裏上臈の形(なり)にやつし 社家の内へずつちて姫君のお傍へ通り

桜丸が女房八重でござりますると申上たれば あなたにも待兼てござつたかして よふおじやつ

 

 

15(裏)

 

 

16

たもふいこかと嬪衆を待たして置て裏道から忍んでお出 ヲゝ其筈/\ 此中から手耦(てぐはい)して 菅

丞相様の筆法伝授に取籠つてござるを幸い お袋様へ神参りと願はせ お供の衆には口

薬水まく様に飲して置た ヤ其水で思ひ出した 追付お手洗(てうづ)がいろぞよ 何云(いは)んすやら おの

おほこなおふたり 甘(うま)いやつでは有る 手洗は愚お行水が入もしれぬ そんならつい此川水を アゝいや

コリヤ雨あがりで堤が滑る 怪家さしては晩からおれが不自由な 神前の水汲でこい ソリヤどふ

やら勿体ない大事ない/\ 王は十善神は九善 其王様の弟御九善かたしじやいてこいと せり立られて

女房は神前さして汲に行 跡は気休め一休みと思ふ所へ三善の清貫 官人仕丁に十手持たせ

 

装束巻上げ欠(かけ)来り ヤア夫におる桜丸 儕(おのれ)最前斎世の宮を奉幣(ほうへい)も済ぬ中(うち)連れ退いたと

の風聞 何国へ供したサアぬかせと せちがひかゝれば存ぜぬ/\ 下として上の事 そつちをとつくとお

尋といはせも立てずヤアぬかすまい 兼て儕が取持にて物くさい事聞て居る 取分け今日は御悩平

癒の神いさめ 其場所へきて不浄が有と 親王でも東宮でも急度捕へて罪に行ふ 有様に

ぬかさずば引とらへて拷問する それ縄かけよと下知の下おつ取巻くを身かまへし 知らぬといふたら金輪際なら

くの底から天迄しらぬ 聊爾召さるとかたつぱし 下手の鞠のけて/\蹴踏む 足の塩梅見せふかとぐつと踏

出す両足は顔に似合ぬ古木也 シヤ下郎めが味をやる 最前から見る所が車の内にこそ有れ 御簾引ち

 

 

17(裏)

 

 

18

ぎり改めよといふに随ひ立寄る所を 首筋掴んで投退け/\ 車は舎人が預り物 命が有らば寄て見よ

と かゝるを蹴飛し刎(はね)飛し十手もぎ取かたつぱしなぎ立て/\追って行 其間に宮と姫君は人に見られて叶

はじと 車の内ゟ飛おり/\遉(さすが)若気の一筋に遁れて旅のかり衣何国共なく落給ふ 透間を見て清

貫が取てかへして車の内 引明け見れば内は明がら なむ三宝見ちがへた 舎人めが戻つたら大抵では有まいと 下道

さして逃ぐる跡 間もなく欠くる桜丸 御二方の見へぬに恟り 車を見れば宮の書置 何々見付られて辱めを

請ふゟ立退くと有る文章に ハツト驚き胸は板イデ追付て御供と欠行向ふへ女房八重 サア是お手洗汲でき

たと見せるを刎退けナニ手洗所か 清貫めが車の内詮議せんと来りし故 見付られじと二方は何国共無(なふ)落

 

なされた ヤアそりやマア本かと女房は恟ぐはつたり水桶落し シテまあこなたはこりやどこへ ヤア何処

所か 元(もと)姫君は菅家の御養子 実母は河内土師の里 菅丞相の御伯母君 先此方へ心ざし

跡を慕ひ奉る 汝はあの御車を宮の御所へ引て行け 捨置ては後日の咎め なるほどそふじやこな様の姿

にやつして引て行こ ドレ白張(はきちやう)と請取て 跡案じず共行しやんせ ヲゝ合点と白砂蹴立て飛がごとくに欠り行 八重

やがて夫の姿白張肩に引かけて 車の牛を引直し させいほうせい精一ぱい 引け共遅き牛の足 エどんくさいち後ろ

から おせば車もくる/\と 廻る月日は不成就日か お二人様のくえ日か夫の為には十方暮 鬼宿車を押かけ

て 天赦天一天上のお首尾もよかれ神よしと 祈る心は八専の くろ日に間日の斑牛 追立てこそ〽立帰る

 

 

19(筆法伝授の段)

上根と稽古と好きと三つの中 好きこそものの上手とは 芸能修行教への金言 公務の暇明暮に

好せ給へる道真公 堂上堂下はいふに及ばず武家町人に至る迄 風儀をしたふ御門人数も限りも

なき中に 左中弁平の希世 手習稽古ふる兄弟子 今度筆法御伝授は指し詰我抔に極りしと

勝手覚へし御殿の真中朝の夜から机を直したばこよ茶よと呼立る声も届かぬ奥勤め女中頭(かしら)

が聞咎め コレお次に誰も居やらぬか 希世様の御用が有と呼次ぐ局に不足顔 コレ手の皮がひり

付く程たゝいてもしゝらしん(平然と知らん顔) ムウ合点 顔出しせぬは毎日来るを面倒がり 書合せて鼻明かすのか けふで

七日の此手習ひ おれが為斗じやない御子息の菅秀才は年弱(としよは)七つ 伝授所へ行ぬによつて 此希世が伝

 

授して 菅秀才の聖人以後 身共から又伝授さすれば主の奉公も同じ事 ハツポと云て廻る筈

惣じてこなたがなまぬるこい コレ勝野よふ心得や そなた衆の不調法 こける所は局が迷惑 ナニおつしやろと

あい/\と ナ申希世様 なるほどそふじやよい了簡 毎日/\気を詰るも菅原の家の為 けふも又此

清書お目にかけてと指出す イヤけふは御赦され 許せとはなぜ/\ ハアテ幾度お目にかけまして

も 丞相様の気にいらぬは お手の業(わざ)ではござるまい 取次の仕様の悪さ手かはりにけふは勝野 イヤ是どふはなら

ぬ 筆法伝授も神道の秘密事 学問所の注連(しめ)が目に見へぬか 油こい女子はやられぬ 昨日

迄は気に入らずと 此清書は格別筆先に肉を持せ 天晴骨髄を書得たれば 伝授はする/\伸(のし)切ていて

 

 

20

たもれと 頼むに是非なく立て行 コレ勝野 局の云れたあい/\を合点か アイ 心得ておりまする 忝い

幸い傍りに人もなし福徳の三年め 屏風のかげでついちよこ/\と 取る手を振切りエゝいやらしい 無体な事

なさるゝと声立るが合点か ヲゝ合点じや 声立るがこはい迚 しかけた恋人叶へおれと ほうどだかへて連て行 アレ/\申し

申しとは誰に申し アゝ御台様や若君様申/\といふ声の もれ聞へてや菅丞相の御台所 若君の御手を引き

立出給へば 希世は仰天是は/\悪い所へよふお出と 手持不沙汰もへらず口 勝野に癪の療治を頼まれ

取にかゝつて斯の仕合せ 御台にも御存のごとく万能に達せし某 世に希な器用者迚 希世と付けたは

親共が自慢の名 其例(ためし)は此若君年よりは御発明 菅秀才と呼給ふも 秀はひいづる 才は才智

 

の才を取て 菅家の公達菅秀才 あら/\謂れかくのごとし 我抔は餘り器用過ぎ 取損ふた按摩の

しだら 御台所の思し召が アゝ其云訳に及びませぬ 日頃の行儀知て居る そんな疑ひナニのいなと

物に障らぬ御挨拶 アゝ夫聞て落付た 今のしだらの次手ながらお尋申事が有 御息女のかりや

姫 斎世の君とにやほやした世間の取沙汰 けふで七日相詰る 御所には何のさたもない虚説かと存れば

かりや姫の御殿は明き家 御詮議もなされぬ親御達も合点の上 欠落でかなござるかと 問るゝつらさは

御台所暫し返事もなかりしは 隠しても隠されぬさがなき人の口の端(は)に かゝるも是非なきかりや姫

斎世の君は猶もつて大切なお身の上 互に忍ぶ恋路の車廻り逢瀬もそこ/\に 事顕はれしを恥しく

 

 

21

思し召れ 御所へお帰りなされぬ物と有て常の御方ならねば 宮様附々の人々が夫なりけりにはして

置まい 又此方の娘の事は希世様も知ての通り 本の母様は河内国 土師(はじ)村の覚寿様迚 連れ合の

為には伯母御様 菅秀才を設けぬ先 乞請て養子娘 此御所へは戻られず伯母様方へと心付き 自らが内

証で尋に人を遣はした 此一落はけふが日迄態と父御へしらしませぬ 夫も何故勅諚にて筆法伝授七日

の中参内止めて取籠り世の取沙汰は何にも知らず 伝授も過て聞給はゞ嘸や恟り仕給はんと かなたこなた

を思ひやる心を推量してたべと案じ給ふぞ理りなる 内玄関の奏者番一間こなたに畏り 先年お館

に相勤し武部定胤 尋参れとの仰に寄此間所々方々吟味致して 漸只今夫婦一しよに

 

参りたり 是へ通し申さんやと窺へば 御台所ヲゝ待兼し源蔵夫婦 早々爰へ参れといへ コレ菅秀

才 源蔵に逢ふ間爰に居ては気が盡(つけ)ふ 勝野を奥へ連ていて機嫌よふ遊ばしやれ 希世様に

も暫しが間 爰に居て邪魔ならば所がへ仕らんと続いて〽奥にぞ入にける 人知れず思ひ初めしが主

親の 不興を請る種と成り 夫婦が二世の契りゟ三世の御恩弁へぬ 不義ゟ御所を追出されさむい

暮しを素浪人おは打かれし武部夫婦 けふのお召は心の優曇華開く襖の内外迄 勝

手は今に忘れねど身の誤りに気おくれし 膝もわな/\窺ひ足 御台の御座を見るゟも ハツト

恐れて飛跽(?しさ)り蹲りたる斗也 ヤア珎らしい源蔵夫婦 連れ合いの気に背き 此御所を出やつたをかぞへれば

 

 

22

もふ四年 日頃人を捨給はず 慈悲深い程きつさもきつい 思ひ切てはいかな事 見返らぬ夫のお心叶はぬ

事と思ひの外 源蔵に参れと有御用の様子 何かはしらぬが気づかひな事では有まい定めて吉(きっ)

左右(さう) ヤア自らがいふ事斗 嘸待兼てござるで有ろ 源蔵夫婦が参りしと誰奥へおしらせ申しや サア二人共

に顔も上げ近ふよりや ハアテ遠慮に及ばぬ近ふ/\ 年月の浪人住居(すまい)渡世が苦に成たか昔の面影

どこへやら 源蔵が来て居やるは荒々敷下々の着物 戸浪は夫(それ)に引かへて小袖の縫箔遉に女子

の嗜か 二人の中に子も出来たかと問れて戸浪は有がた涙 冥加至極もないお詞 主人のお目

をくらませ罰が当つて苦労の世渡り 夫婦が着がへも一つ売り二つも三つも朝夕の 煙の代(しろ)に

 

成果し漸残せせ小袖は 御台様の下されし御恩を忘れぬ売残り 髪の錺の鼈甲もいつかは

椅(いす)の引櫛とかはり果たる友挊(ともかせぎ)連合は布子の上 糊達ぬ麻上下もけふ一日の損料借り アゝおはもじ

お上に御存じない事迄 身の土師顕はす錆刀 今日迄人でに渡さぬ武士の冥加 アイ 女房が申上ます通り此ざま

に成さがれば一入昔の不義放埒 思ひ廻せば主人の罰悔むに詮方なき仕合せと 夫婦諸共おろ/\涙

折から局は奥より立出 お学問所へ召ますは源蔵殿只独り 御用済でお手の鳴る迄 御台様にもお出はなら

ぬとの仰られでござります 成程/\心得た 源蔵は局と同道 戸浪はこちへと入給ふ 只今御所へ召出さるゝ源

蔵が身の嬉しさこはさ 局は斯と申上立たる障子明渡せば 恭しく注連引栄へ 常にかはりし白木の机 欣然

 

 

23

として座し給ふ 凡人ならざる御有様恐れ敬ふ源蔵が 五体の汗は布子を通し肩衣絞る斗也 やゝ有て仰には去がた

き子細有て汝が行衛を尋しに 住み所さだかならず 漸きのふ在家(ありか)を求め今の対面満足せり 其方義

は幼少ゟ我膝元に奉公し 天性好たる筆の道 好に上り習ふに覚へ古き弟子共追い抜き 遖手書になるべしと

思ひの外に主従の縁迄切て其風体 筆取る事も忘れつらんと 仰に猶も恐れ入御返答申は憚りなはら 前

髪立の時分よりお傍近ふ召仕はれ手を書く事は芸の司 書けよ習へと御意なされ御奉公の間々書き覚へ

たと申も慮外 蚯蚓(みゝず)のたくつた様に書く手でも芸は身を助るとやら 浪人の業芸(すぎわい)鳴瀧村で子

供を集め 手習指南仕り今日迄夫婦が命毛筆先に助られ 清書の直し字毎日書け共上らぬ手跡

 

御尋に預かる程身の不器用と御勘当 悔むに詮方たき仕合せと嘆くを倩(つら/\)聞し召 子供にn

指南致すとは賤しからざる世の営み 筆の冥加芸の徳 申所に偽りなくば手跡もかはらじ改むるに及ば

ね共 爰にて書せ道真が所存は跡にて云聞さん 認め置たる真字(まなじ)と仮(かな)字 詩歌を手本に写し見

よと 白木の机御手づから指し寄せ給へば ハアはつと先へは出ず跡ずさり 志根悪の左中弁物かけゟずつと出

コリヤ源蔵様子残らずあれから立聞 師匠の指図は兎も角も辞退申て出る筈が 両手をついて

目をましくし蟇の所作がらするは書ても見様と思ふ気か 夫は箆太(のぶとい)叶はぬ事 ハアお馴染と有て忝い

希世様のお詞に一つも違はぬ役に立たず 併身の分際を顧(かへりみ)ぬ源蔵めでもござりませぬ 只今是にて

 

 

24

書けと有 お手本書て能やら悪いやら跡先の様子も存ぜず 四年以来(このかた)在所住ま居 くさ墨に三文筆

書き出しや反故(ほうぐ)の裏に書ならば場打もせまい 其結構な机に墨筆 大鷹檀紙の位に負け 一字一点いかな

/\ ホゝよい了簡いかぬと知てなぜ立たぬ サアそこでございます 御勘当の私 御意にあまへた身の願ひ お取なし

頼み上まする ムウ夫で聞へた 詫言はしてやろが今はならぬ といふ其子細引つまんで咄して聞ふ 此度帝の仰

には存命不定の世の中 生死(しやうじ)の道に老若差別(しやべつ)はなけれ共 マア年寄から死るが順道 菅丞相は当

年五十二 天命を知るといふ 齢(よはひ)も過ぎ寄る年を惜しませ給ひ 唐迄誉(ほむ)る菅原の一流 是迄伝授の弟子も

なし 一代で絶すは残念 手を撰で伝授せいと勅諚で七日の斎(ものいみ) 殊の外お取込事済でから願ふて

 

やろ ハア様子段々承れば御大慶な勅諚 サア其勅諚も大慶も知れた事云ず共 早/\帰れとせり

立る イヤ立な源蔵 云付た手本只今書けと仰は武部が身の大慶 希世は偏執むしやくしや腹 立

寄る源蔵睨付け わりや兄弟子に遠慮もせず 書ふと思ふて出しやばるか ホゝお笑ひ有 ても恥しからず

御免なれと机にかゝり手本を取て押戴き 心臆せず摺る墨の色も匂ひも薫(かんば)しき 筆の冥加ぞ有

がたき 希世傍へすり寄て われが様な横着者は手本の上を透き写し 其手目は身がさせぬ 恥と天窓(あたま)はかき次第

身のざまの恥つらわりや何共思はぬか どてらの上に汚れ袴 机に直つて居るざまは 貧乏寺の溝中奉(ほう)

加湯(がゆ)の帳付けに其儘 無縁法界を書なよと悪口たら/\゛云ちらし 怪我のふりにて机を動かし肘に障つて邪魔する

 

 

25

も構はず咎めず手本の詩歌心よく書き課(おほ)せ机も供に前に直し跽(しさっ)て頭をさげ居たる 丞相清

書を取上給ひ 鑽沙草只三分計(いさごをきるくさはたゞさんぶばかり)跨樹霞纔半段餘(きにまたがるかすみわづかにはんだんあまり) 是は我作れる詩(からうた) きのふこそ 年

は暮しが春霞 春日の山に早立にけり 是は又人丸の詠歌 いづれも早春の心を詠み叶へり かなといひ

真字(まな)といひ 是に勝れし筆や有ん 出かしたり/\ 惣じて筆の伝授といつば 永字(えいじ)八法筆格の十六点

名をそれ/\にいふに及ばず人々のしる所 菅原の一流は心を伝る神道口伝 七日も満る今日只今

神慮にも叶ひし源蔵と 御悦びは限りなし ハア有がたや忝い 筆法の御伝授有からは 御勘当も赦され

前にかはらぬ御主人様 ヤア主人とは誰を主人 伝授は伝授勘当は勘当 格別の沙汰なれば不届き成汝

 

なれ共 能書なれば捨置れず 私の意趣は意趣 筆は筆の道を立る 道真が心の潔白 叡(えい)

聞(ぶん)に達しても依怙(えこ)とは思し召れまい 希世にも疑はれな 勘当は前のごとく主でなし家来でなし 此以後

対面叶はじと尖(するど)き御声源蔵が肝に焼鉄(やきがね)さゝるゝ心地 道理を分けての御意なれ共伝授は外へ

遊ばされ勘当御免と泣わぶる こりや源蔵が歎くが道理 勘当を赦されねば 伝授しても規模

がない 彼が願も希世が望も立やうの了簡は 伝授と勘当かへ/\にして遣はされたらよさそふな物

のやうに存じまするといふ折から 当番の諸太夫罷出 俄の御用これ有間只今参内遊はされ

よと 瀧口の官人参られしと申上れば 御不審顔 七日の齋過ざる中(うち)御用とは何事 随身

 

 

26

丁の用意せよと 装束の間に入給ふ 参内と聞召し立出給ふ御台所 襠(うちかけ)の下に戸浪を押

隠しひと目も余所ながら お顔をせめて拝ませんと心づかひは希世が手前 伝授の様子承

はれば お前には残り多からふ 仕合せは源蔵去ながら 御勘当は赦(ゆり)ぬげな 館の出入もかふ限りかな

たこなたを思ひやり 御参内を見送りがてら 夫で/\と襠の下をしらする御目づかひ 夫婦は重々

お情の身にしみ渡る忝涙 束帯気高き菅丞相 一間の内より立出給ひ 神道秘文の

伝授の一巻源蔵に給はりける当座の面目御流儀末世に伝へる寺子屋の敬ひ申し

奉る因縁斯とぞしれける サア伝授儕からは対面是迄 罷帰れ立よ/\と頻りの御諚 コリヤ源蔵 吼(ほへ)

 

頬(つら)かいても最(もふ)叶はぬ 腰が抜けて得立ずば引ずり出さんと立寄る希世 のふあらけなく仕給ふな三世

の縁の切目じや物立ぬも理り歎くも道理涙とゞめて御暇乞 見奉れとかい取りの裾(つま)より覗

かす戸浪が顔 夫そと推(すい)し給へ共しらず顔にて立出給ふ 何としてかは召されたる御冠の自(おのづから) 落るを御手

に請とめ給ひ 物にも障らず脱たるは ハアはつと斗に御気がゝり イヤ夫は源蔵か願ひ叶はず落

涙致す 落(らく)は落(おつ)ると読(よむ)なれば 其験(しるし)でかな イヤ/\左にてはよも有らじ 参内の後知る事 源蔵

早帰されよと冠正して参内有 希世はこは/\御見送り 御勘当の身の悲しさは行に行かれず延

上り見やり 見送る御後ろかげ御簾にさへられ衝立の邪魔になるのも天罰と 五体を投げ臥し男泣

 

 

27

戸浪が悔みは夫(おっと)の百倍こなたは御前のお詞かゝり 直にお顔を見さしやつた わしは漸御台様の

後ろに隠れてあんじりと お顔も拝まぬ女房の心 思ひやつても下されぬまんがちな一人泣 同じ科

でもこなたは仕合せ女子は罪が深いといふどふした謂れでなぜ深い どんな女子に生れしと御台のお

傍を憚りなく果し涙そいぢらしし 希世のさ/\立戻り ヤア源蔵を帰されぬは 御台所御油

/\ 一刻も早くぶいまくれと 重ねて仰付られたそこを少し見が了簡 其かはりには伝授の巻物

読で見る望はない筆の冥加にあやかる為ちよと戴かしてくれんかと 望むに是非なく懐より

取出すを引たくり逸(いち)足出して逃行を どつこいやらぬと源蔵がぼつかけぼつ詰襟かみ掴み 引ずり

 

戻してかづき投げ 大の男に一泡ふかせ 伝授の一巻取返し 是を己が引かけふで直垂の羽繕ひ 昼

鳶の兀頂(こつてう)め びく共せば打殺すと 刀四五寸抜かくる コリヤ源蔵聊爾すな 戸浪過ちさするな

とお詞かゝれば エゝ儕エゝエ 儕をな 只助るも残念な 寺子屋が折檻の 机はこいつが責道具

女房爰へと取より早く背中に机大げなし 両手を引ぱる机の足 裝束の紐引しごきがんぢがらみ

にくゝり付盗みひろいだ師匠の躾 竹篦(しつべい)のかはり扇の親骨 頬(づら)に見せしめひりつかせんと打立て/\突

飛せば 痛さも無念も命のかはり恥を背負て帰りける 源蔵夫婦手をつかへ 禁裏の様子

承はり帰りたく存ずれ共長居は恐れ御台様此上ながら夫婦が事 お捨なされて下さりますな 夫(それ)

 

 

28(裏)

 

 

29

は心得たは 今行といふを聞捨に せめて一夜といはれもせぬ命が物種 縁も尽きへずば又逢ふモウ行

きやるか アイアイ 参りませねば成ませぬでござりますと戸浪が涙 長汐にかはく間もなき袖の海

見るめいぢらし夫婦が姿泣く/\御門を 〽出て行 (築地の段)源蔵と引違へ帰る梅王青息吐息 門の台

木に立躓きかつはと転(こけ)て起る間も待たれぬ/\侍衆 御大事が教つてきた 科の様子は何かはしらす使の

廳(てう)の官人共 丞相様を取廻し鉄棒(かなぼう)破竹(わりだけ)アレ/\爰へ御台様へ此様子をと館の騒動門外には 鉄棒打ち

ふり警固の役人 輿にも召せ奉らず 菅丞相の前後をかこみ先に進むは時平が方人(かたうど)三善の

清貫 門外に立はたかり 斎世親王かりや姫加茂堤より行衛知ず 子細御詮議なされし所 親王を位

 

に即(つけ)娘を后に立てんとする 菅丞相が兼ての工み 其罪遠嶋に相極り 流罪の場所は追

ての沙汰 夫迄は押込置き出口/\に大貫鎹(かすがい) 門の警固は身が家来 荒嶋主税(ちから)を付置と 呼はる

声を聞くつらさ 御台は警固の人目も恥ず走り寄て道真公 コハそもいか成御事ぞや 齋

の間の事姫が身の上御存ない云訳はなぜなされぬ 科もない身を左迂(さすらへ)との仰は聞へぬ恨めしや

歎き給へば ハア愚か/\ 道真虚命蒙れ共 君を恨み奉らず漸齢(よわい)傾きし臣が拙き筆跡迄 惜

ませ給ふ伝授の勅諚 きのふ迄は叡慮に叶ひ けふは逆鱗蒙る共 皆天命のなす所 先程冠

の落たるは殿上の机を削られ 無位無官の身と成しらせ 今さら悔むは愚か/\是ゟ配所へ行にも有

 

 

30

ず 見苦し/\歎かれなと御台を遠ざけ給ひける 希世は道ゟ取てかへし清貫殿御苦労千万

此わろの様子承り 弟子の方から師匠をあげ向後頼むは時平公 菅丞相と一つでない取なし

宜しく頼み入る 気づかひ有れな呑込だ 作法の通り菅丞相 内へ追込み門を打て 畏つたと荒嶋主税

割竹振上げ立かゝる コレ待た其役目希世が替つて仕ると 割竹請取りコレ謀叛殿 今迄とは当たりが

違ふ 時平公へ宗旨を替た手見せの働き 割竹一つと振上れば血気の梅王ずつと寄り 希世

を四五間突飛す ヤア下主(げす)の慮外者自滅仕たふて出しやばつたな ハレヤレしれて有る下主よびはり こな

たの口から慮外とは 膓(はらわた)がよれ返る 其割竹ふり上て誰を/\ヲゝサ謀叛人の此わちよを ヤア謀叛とは誰

 

を謀叛御恩を忘れし人非人 菅丞相にはお構ひなくと儕に罰は身が当てると 又飛かゝる梅王丸

御手を指し述べ引寄給ひ ヤア小ざかしい汝が挙動(ふるまひ) 勅諚に寄て斯成る道真 希世は扨置き其外人も手

向ひするは上への恐れ 汝は勿論館の者共我詞を用ひずば 七生迄の勘当ぞと 聞て希世が剛(こは)

げも抜け コリヤ梅王 して見ぬかい 顋(ほう)げた斗の腕なしめと のさばる無念忍(こら)へる梅王 是非も情も荒嶋主

税 官人原に追立られ すご/\館に入給ふ御有〽様こそ労はしき サア/\用意の大貫鎹 表と裏へ手

分けの人数 築地の穴門樋の口迄 暫時の間に打付しは物忌はしく見へにけり 清貫見廻しハレ能気味 出

口/\のしまつも能いか 築地の屋根を越さふも知れぬ 主税万端油断すな 暮に及べば希世殿 いざ帰らんと

 

 

31

打連て六七間も打過る 築地のかげに待居たる武部源蔵ぬつと出 希世を一当て悶絶させ周章(あはてる)清貫相(しやう)

伴投(ばんなげ) 狼藉者打のめせ殺せくゝれとひしめいたり 武部は戸浪に指添(さしぞへ)渡し寄ば切んづ勢ひ也 希世は

漸人心地立上つてヤアうぬは源蔵め 一度ならず二度ならずひといめに合したな うぬがする狼藉菅

丞相がさしたに成て 流罪の仕置が死罪になろと 云せも果ず高笑ひ女房アレ聞け 物覚

のない抜作殿 伝授は情けも勘当赦(ゆり)ぬ 此源蔵には主人がない 梅王は主持で儕めをさい

なまず こらへて居るかはいさに名代に投てこました 名代次手に皆撫切と 女房諸共抜放し

めつたなぐりの太刀風に 小糠侍鋸屑(おがくづ)公家吹立てられて散失せけり 敵なければ立帰る

 

時節も幸黄昏時 門の扉をとん/\/\ 扣けば打ゟ咎める声 聞覚へた梅王か さいふは武

部源蔵殿か 殿所かい若い者油断して居る所でない 扉の釘付け踏破り 御主人達の御供し此場を退くは

安けれどおことが今も聞く通り仁義を守る道真公 と有て讒者が計ひにて お家の断絶覚束なし 御幼少の

御若君夫婦が預り奉らん 所存を立るはコレ梅王 若君をこつそりと 築地の上からできた/\源蔵殿 お

上へ云ては得心有まい盗出すがお家の為 そふじや/\能了簡 一刻一歩も早退きたし 頼む/\と云間もなく

築地の上から梅王が心の早咲き勝つ色見せたる花の顔ばせ 大事の為君怪家さしますまい 心得高き

築地の屋根 延上つても届かぬ背たけ とやせん戸浪を抱上れば 軒に手届く心もとゞく若君請取

 

 

32

抱おろし 外と内とに忠臣二人胸は開けどひらかぬ御門 荒嶋主税目早く見付 ヤア盗人

の隙(ひま)は有れど守人(まもりて)の隙がない 宵覗きめを手引する内と外との相盗(すり)め 菅秀才を盗ん

だ此旨 注進せんとかけ出す先に源蔵が 立ふさがつてごこへ/\儕をやつてよい物かと 打てかゝれば

抜合せ切結び切ほどき 追つかへしつ二人が勝負 屋根の上から見て居る梅王 桟敷正面

真向二つ 破(われ)て命は荒嶋主税とがめに及ばぬ切捨/\ 危うい場所を盗人夫婦 行衛栄ゆる

菅秀才 若君頼む夫婦の衆 館の父君母君を頼むぞ梅王心得たと 互に頼み頼まるゝ

忠義/\を書き伝ゆる筆の伝授は寺子屋が一芸 一能名も高き人の 手本と成にけり