読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/pid/2567569/1/1
1
花散里
2
人しれぬ御心づからのものおもはしさは。いつとな
きことなめれど。かく大かたの世につけてさへわづ
らはしうおぼしみだるゝ事のみまされば。物心
ぼそく世中なべていとはしうおぼしならるゝに。
さすがなる事おほかり。れいけいでんと聞えしは
宮たちもおはせす。院かくれさせ給てのちいよ/\
あはれなる御有さまを。たゞこの大将殿の御心に
もてかくされて過し給ふなるべし。御おとうとの
三の君うちわたりにて。はかぬほのめき給し
なごり。れいの御心なればさすがに忘れもはて給
はず。わざともてなし給はぬに。人の御心のをのみ
3
つくしはて給ふべかめるをも。このごろのこる事な
くおぼしみだるゝよの哀もくさばひには思ひいで
給ふにしのびがたくて。さみだれの空めすらしう
はれたる空まにわたりたまふ。なにばかりの御よ
そひなくうちやつし御前などもなくしのびてな
か川のほどおはしすぐるに。さゝやかなるいへのこだ
ちなどよしばめるに。よくなることをあつまに
しらべてかきあはせ。にぎはゝしうひきなすなり
御みゝとまりてかどぢかなる所なればすこしさし
出て見いれたまへれば。おほきなるかつらの木の
をひ風にまつりのころおぼしいでられて。そこ
はかとなくけはひおかしきを。たゞ一め見給しやど
りなりと見給ふ。たゝならずほどへにける。おぼめかし
くやとつゝましけれど。すぎかてにやすらひ給ふ。
おりしも郭公(ほととぎす)なきてわたるもよほしきこえが
ほなれば。御車をしかへさせてれいのこれみつい
れ給ふ
(源)をちかへりえそしのばれぬほとゝぎすほのかた
らひしやどのかきねにしん殿とおぼしきやのには
のつまに人々いたり。さき/\もきゝし声なれば
こはつくりけしきとりて御せいそこ聞ゆ。わかや
かなるけしきどもしておぼめくなるべし
4
ほとゝぎすかたらふこえはそれなれどあなお
ぼつかな五月雨の空ことさらにたどるとみればよし/\
うへしかきねもとていづるを。人しれぬこゝろにはね
たうも哀にも思ひけり。さもつゝむべき事ぞかし。こと
はりにもあればさすが也。かやうのきはにつくしの
五節がらうたげなりしはやとまづおぼしいづ。い
かなるにつけても御心のいとまなくくるしげなり。
年月をへてなをかやうに見しあたりなさけす
ぐし給はぬふしも。なか/\あまたの人のもの思
ひぐさまり。かのほいの所はおぼしやりつるもしるく
人めなくしづかにておはするありさまを見た
まふもいと哀なり。まづ女御の御かたにてむかしの
物語など聞え給に夜ふけにけり。廿日の月さ
しいづる程にいとゞけだかきかげどもこぐらうみえ
わたりて。ちかきたら花のかほりなつかしう匂ひて
女御の御けはひねびにたれど。あくまでよういあ
りて。あてにらうたげあんり。すぐれてはなやかなる
御おほえこそなかりしかど。むつましうなつかしき
かたにはおぼしたりしものをなど思ひ出きこえ給に
つけても。むかしのことかきつらねおぼされてうちな
き給ふ。郭公有つるかきねのにやおなじこえに
うちなく。したひきにけるよとおぼさるゝほどもえん
5
なりかし。いかにしりてかなど忍びやかに打ずん
し給ふ
(源)たちばなの香をなつかしみほとゝぎす花ちる
里をたづねてぞとふいにしへのしれがたきなぐさめ
にはまづまいり侍りぬべかりけり。こよなうこそま
ぎるゝ事も数そふことも侍けれ。おほかたのよにし
たがふ物なれば昔がたりもかきくつべき。ひとす
くなうなりゆくを。ましていかにつれ/\゛もまぎれ
なくおぼさるらんと聞え給ふに。いとさらなる世
なれとものをいとあはれにおぼしつゞけたる御け
しきのあさからぬも。人の御さまからにやおほく
哀ぞそひにける
(女御)人めなくあれたるやどはたち花のはなこそ
軒のつまとなりけれとばかりの給へる。さはいへと人
にはいとことなりけりとおぼしくらべらる。西おもて
にはわざとなくしのびやかにうちふるまひ給て。の
ぞき給へるもめづらしきにそへてよにめなれぬ御さ
まなれば。つらさも忘ぬべし。なにやかやとれいのな
つかしくかたらひ給もおぼさぬことにはあらざるべ
し。かりにもみ給かぎりはをしなべてのきはには
あらねばにや。さま/\゛につけていふかひなしとおぼ
さるゝはなければにや。にくげなくわれも人もなさけ
6
をかはしつゝ過に給ふなりけり。それをあひなしと
思ふ人はとかくにかはるもことはりなる世のさがとお
もひなしたまふ。ありつるかきねもさやうにてあ
りさまかはりにたるあたりなりけり