仮想空間

趣味の変体仮名

日高川入相花王 道行思ひの雪吹 (附・渡し場の段)

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html
     イ14-00002-680


77
  道行思ひの雪吹(ふゞき) 
つまづきし 石も他生の縁の端 むすぼふれたる 身を
しる人もなし しる人は 哀れと思へ桜木の ちりてちはつの
御姿ならはぬ 旅の苦をこして 恋路/\が 身のかせ とし
からむ糸のおだ巻姫 庄司が宿を漸と もれ出る月
の小笹原さはぐ 音さへ此身には追手の声か清姫
恨もほんに何ゆへとぴんとすねるも又恨 うらみ/\の 中垣

や 爰は芝村しばらくも 休らひ兼し道芝の こゝりつかひぞ道
理なる あれ/\あれを見や 松の葉ごしの月さへも 忍へは忍ぶ
世のならひ 我事は得も岩代の結び松 二人が中の 行末は
とじつとみ合す目の中も 曇がちなる春の夜の 涙と
供に降る雪を 風が持てきてわやくやにくや わたしが肌へひいやり
は ほんにおまへを見初めた時と 袂覆ふや 袖屏風引つ ひか
れつ 引しめて 小つまからげて ちよこ/\走り急げど 道も遠山寺


78
の 鐘はいくつぞ ひいふうみいもはや夜半(よなか)と夕しでの 朱(あけ)の玉垣
かう/\と いかなる神かしらにぎて かゝる願ひは天が下 穏やかならせ給へ
やと 打つ柏手の二面(ふたおもて)かつがう 有ぞ有がたき櫛入れぬ柳の糸の乱
れ髪 其乱れ髪とふ人も 涙ももゆる 思ひの煙 女心の一筋に二(ふた)
道かくる仇人の行方は いづこそこぞ共尋ね 田邊の 迷ひ道 しばし
は息を月かげに 雪の足跡 扨は二人は此道へと 思へば飛立心
の嬉しさ 心の釼羽(つるぎば) こなたは比翼の道草や 千種結びの神

かけて それ覚てか忍ぶ夜に おまへとわたしが黒髪を取かはし
たる切部川 かはるまいぞやかはらじと誓ひし中も 女故ふり捨られし
みなべの宿 人里過ぎて 行くのぢの心 細道ちよろ/\流れ 水の音さへ
寝入ばな 我は恋路のやみ/\と殿御をねとられ 憎やねた
ましねさせじ そはせじ一念力 君にも花の 藤浪や からればつな
がる清姫も 嘸自が憎からん ヲゝ我とても同し事 不便を見るも 世
の有様と供に しほるゝ袖の露と氷と 隔つ共解けて流れて


79
三つ瀬川 胸の氷のわき返り 焼くや塩やの 浦づたひ賤(しづ)が手業(わざ)
も 御身の上と見やる思ひは民の為 姫は情にひかるゝ思ひ 娘はしん
いの思ひのほむら 思ひ/\のうき思ひ 思ひは三つの鉄輪(かなわ)にて身 にふ
りかゝる雪嵐 早行過る天田川日高を さして 「おちこちの
恨は山のかせ木にて招けどさらに とまらじや とまれとこそ 風に
争ふ焼野の薄 いばらかやはら押分け踏分け 此世からなる釼の山 上る
つかへにせめられてうきめを 見する姫つゝじ 花のしもとをふり立/\てう/\/\

打は誰彼あたな草あだし殿御をいくえにも 隔てられたるやえ梅 やり梅 面
色其儘薄紅梅 我身のかげかかげらふの もゆる輪廻は大焦熱 こがれ
こがるゝぐれんの氷 恋の呵責にくだかるゝとうくはつ地獄 まのあたり 雪の
ふゞきに吹立られて こけつ転びつはぎも血汐の 小石原石活 ぢごく是ぞ
此 ちゞに吟(さまよ)ふ六道の巻(ちまき)に鳴くや百(もゝ)千鳥明方ちかき八声の鳥気も狂乱
の 心をしづめ 嬉しや爰ぞ日高川 エゝ折悪ふ渡しもないか 渡し舟のふ のせて   
たべのふと かなたこなたをかけ廻り 呼どさけべど白浪の音より 他の答へなし


80
ムゝ聞へた 扨はふたりが先へきて渡し守を頼だよな 思へば/\腹立やよし 渡さぬ
とて渡らいでおこふかと ひらりとぬいたる釼の光り 折ふし 春雨降りしきり
川の水音どう/\/\浪に 移りて上川下つ川うつりしかげは我姿 恥しや
浅ましや 最早添れぬ此身の果 無間ならくにしづまば沈め取殺さい
で置へきかと 岸の蛇籠(じやかご)につつ立上り たとへ千尋のもくずとなる共
死しても死なし 生きても生きし我 魂のつゞかんたけと飛ぞと見へしが 忽ち立
浪水煙 髪も逆立ち浪頭 抜き手を切て渡りしはすさまし くも又 「

されば日高道成寺文武天皇の御願によつて 七堂伽藍橘の
道成卿承はり 黄金にて鋳立てたる三国無双の此鐘も 供養なけれ
ば苔ぬして 眠りを覚ます響きもなく 年月送る 春霞けふ立のぼる釣鐘
の 初音を誘ふ六つの花散るや御法の軒深き 瓦の鬼も角隠す 供養
の庭ぞ殊勝なる 左右の門より 一時に女姿のかい/\゛しく 尋よる顔見合す顔 ヤア
夕霧様か おむつ様か 是は/\お久しや よい所で御げんもじ 親王様はいづくにお渡り
さればいな 御出家に女の供 人目に立ふと思ひし故 跡へさがつた其内に 道


81
踏み迷ふておそ/\に やう/\真那古へいて見たれば あれにもござらず大方は 此お
寺へと思ふた斗あてどもなし おまへはしつてござらぬかへ さいなア 姫君様にも其通り
庄司が方でおとまり有り 神詣でした其跡で娘の悋気 お二人連れで落給ふ
と聞て恟り此場の品 親王様やお姫様お目にかゝられにや落付かぬ ヤアあの人音
は いかにも/\あの大勢の供廻り お二人の御詮議が見付られては一大事と こかげ
に忍ぶ程もなく 向ふ見ずの鹿瀬(しゝがせ)が権威の鼻も高足駄 手傘手の
者引連てのつさ/\と入来れば 当寺の住侶瑞光和尚 眉に雪もつ

鳩の杖 いとたふとげに出向ひ 是は/\十太殿 今日は御苦労何の/\ 苦労でも
面倒でも京都の御用 蟻の穴の崩るゝ迄日々の注進と そこら錺を
ねめ廻し 是さ和尚 供養の拵もふ済だか いで見分と立寄ばいや/\/\ 大切
な供養の場所 大俗の穢はしい ヤア俗で有ふが穢れで有ふが 改るが目附け
の役と 傍若無人に立かゝるをあぐら見るより飛で出 是は/\鹿瀬様 去迚
は御無体千万 鐘の供養済む迄は 女人は堅く禁制 鐘に花ちる春の桜木
ナ 講頭(こうがしら)の伝兵衛が 夜から仕込で拵へた 雑(ざう)用が臼になる大ほつしん王 此あ


82
ぐらが引くゝつて捌きますといへば呑込十太が割符こりや尤 最前は役目故
よしない過言まつぴら御免 いや/\愚僧も供養大事に存ずる故 それは互に後
程と 心残して瑞光和尚 方丈さして立帰る 跡見送つて伝兵衛が 立寄て耳に
口 ムゝムゝ よし/\といふを立聞く二人の女 南無三宝親王様や姫君のお身の上に極つた
おむつ様合点かと 寺内をさして走り行 猶も互に諾(うなづ)き囁き 見やる向ふへすつた
/\渡し守の知平次が 顔真青に肩で息 アゝ申/\今爰へ来ます/\ 来
ますとは何がくる 何がくるとは曲もなや 十六七なお娘(むす)が醜(おそろ)しいきつそうで あの川

をおよぎ越し 二人の者を取殺すといふて今爰へ お前方に覚はないか なふ醜しや
それ爰へ くはばら/\なふこはやと 何をいふやら夢現 うろたへ廻つて逃て行 あくら弥
えつぼに入 旦那いふたに違ひなく 親王おだまき此寺にヲゝサ/\必ぬかるな 雲雀
骨でも住持は鵰(くまたか) つかまれて恥かくな何さ/\ 仕負せたらお前は大名汝は国取りめで
たい/\悦べと いさみすゝみし欲頬(づら)赤頬仮屋へこそは入にける 引違へて同宿が 和
尚様の云付じや 女人は堅く禁制/\ 合点かと 噂とり/\゛なる所へ 川をやす/\
足もそら走りかゝつて清姫が 入らんとせしが待てしばし 此姿ではよも入れじ 夫に逢は


83
猶恥しと 髪取上て取なりも心で 包む角髷や 袂しぼつてくよ/\と供養
の 庭に参るらん 是は此あたりに住む女にて侍ふ 聞けば此日高の寺に 鐘の供
養の有るよしちと拝まして下さんせと 聞て弁鉄むつと顔 女は俄の禁制
じやならぬ/\ 扨は此寺を頼み我を入なといひ付けか それ程に迄自をと娘ながら
も空笑ひ ホゝゝゝゝ 女ごは只さへ罪ふかし 此結構な供養にあはねばならぬ訳
が有る どふぞ入れて下さんせと いへば頓経がとんきよ声 逢ねばならぬ ウなら
ぬによつて猶ならぬ 若い娘のいとしぼや 入てくれとははつんだの 我々は大清

僧 女犯(にょぼん)肉食破壊の女 ならぬ/\と一やうに坊主がこひや棒囲ひつつぱり返つ
て居たりけり エゝ聞へぬ安珍様 恨めしいは女め 逢たい見たいの一念で来ても
逢れぬ此場の時宜と 思ひながらもだますに手なし コレ坊様 それ程大事
の供養なら拝もとは云ますまい 此雪の積た気色どふもいへぬ ちと来
て御覧なされぬかと いへば皆々力身をやめ 扨々そさまはよい合点 通さぬ所
を通らぬはコリヤ尤 サア/\皆こい/\と さは/\出れば あの向ふなは何じやえ どれ
どこに あれ/\ あちらに どれ/\どちらに あれ又あちらへ どれ又どちらへ ハたつた


84
今門の外へ ついと出たのは何じやいなァ どれ見てこふと空走り おいらも見て来(こ)と
一同に 門の外へとうろたへ走り 其間にずつと行んとするを とつこいならぬと青坊
主 寒風に大肌脱ぎ 道正が分別もかやうの時の為なるべしそさまがだましてやる
と見て 一番とめた きよといか/\と じり/\と押出すけうとい共/\ お前の様な
其智恵で なぜ坊(ぼん)様にならんたへ 是にこそ子細あれ 愚僧がもとは小姓にて 出
家になれとお師匠の剃刀持てかゝりしを いやじや/\も紫の 由縁(ゆかり)に延びし 前髪
が くさつて落し去年(こぞ)の冬 誉められうと思ひの外 お師匠様の勘当受け 延すにも

延されず 斯の通りの仕合と涙と供の物語 余所に聞なす清姫が 體は
爰に魂は飛も入たき心をしづめ ほんに哀なお咄しや お前の様な尊(たつと)いお方は こはい
といふ事有まいなァ 何のあろ けなりや/\ わたしは風のさはぐさへ騒ぐ次手(ついで)に門前
に切た/\といふ声は ありや喧嘩ではないかいな ヲゝこはちやつとはいらんせと いへば図
にのり分別顔 喧嘩なれば行ねばならぬが 何にも音は聞へぬぞや めつそふなあの
音をそれ着切たといふはいな そんなら愚僧はいかねばならぬ 跡を頼むと云捨てて 始めの
智恵はどこへやら飛出る隙間忝い 嬉しや本望とげたちと 内へ入るより安珍


85
我夫なふと 回廊眠蔵(めんざう)庫裏方丈 爰よかしこと無二無産奥をさしてぞ
尋行 寺内俄に騒立 それ遁すなの人音刃音 つまづき/\夕霧お睦(むつ)
御主人の御身がはりと人は白刃の切先刃先 命の鍔際結び合夫に別れの
切羽際 逢れぬ悲しさやる方涙はら/\/\ よはれば供に気を付け合 夕霧様でも
ないおた巻様 雪にすべつてあぶない/\それあぶないと拝み打 はつしと受ければ でき
た/\ お睦様でもない親王様おけがなされな 合点と 見合す顔の目は涙 エゝ
折悪い夫の留主 お前もわたしも御主人の お為に死だと聞くならば嘸悦びも

又涙 払ふて付込む十太が家来 一人成共殺さんと女ながらもかい/\゛しく 尖き
刃風に切まくられ こりやたまらぬと逃行く者共遁さじやらじと追て行 清姫
爰かしこ尋廻れど行方の しらぬおむつを見るよりも なふ安珍様我夫なふと
走りかゝつていだき付く こなたはふり切逃んとするを 裾をとらへて恨み泣 エゝ聞へぬと
大声上 きのふのしだら飛鳥川渕は瀬となる男の心も女め故と 見やる向ふ
へ夕霧が来かゝる振袖しつかと取 目には恨の物をもいはず取殺さんず其
勢ひ おむつがだかへて引のくる 手元しつかと詠る顔見付られしと隠るゝ袖 夫レ


86
程に迄あの姫をと 思ふも嫉(うはなり)上紐も乱れてぱつと緋縮緬 綾や綸子の下紐
も解けてからまく輪廻を切らん それ/\あぶない/\とかけ上る鐘楼の臺 いづく迄も
と追かけ行ば あなたへおりあなたへおるればこなたへ上り なんなく二人を両手にとらへ はがみ
をなしてもかよはき手先ふり放され こなたをとむればあなたがさらへ あなたをとむれば
こなたがさらへ こけつ転びつ起つ寝つ 哀れはかなきあは雪の身にふりかゝる恨ぞ
と 夕霧が肩先ずつぱり息絶たり 南無三宝とかけ寄るおむつふり放す手に
又ずつぱり 娘は死骸に抱付き ひよんなおけがと顔包む絹引きまくつてヤアお前

は誰じや こなたの死骸と又立寄り同じく顔見て又恟り ヤア/\お前は夕霧様 コレ申
堪忍して下さんせと うろ/\きよろ/\又立寄り お前は誰コレ気を付けて下さん
せ こなたへ寄ては夕霧様気を付けてたべコレ申と あなたへ走りこなたへ寄り せきのぼ
す気もつもる雪 口にふくんで息をつぎ 邊り見廻し鐘楼の臺 鐘のおりし
にきつと目を付け ムウけふの供養におろした釣鐘 安珍様とあの姫の姿を
うつす二人の女 我をうとんで此鐘の内に居るに極つた エゝ恥かしい恨めし
いと涙と供に身を投げふし 嘆き沈みし有様は余所の 見るめもいぢらしし ヲゝそふじや


87
緞(たとひ)鉄壁盤石の内に隠るゝ共 あの鐘のけて女めを取殺さいでおこふか
と はつたとにらみし其姿 遠山(えさん)の眉も引かへて雪に尖き冬の峯 心の山坂
踏み段もまだるしいらじと飛上り かはいさにくさ怒り泣 持たる釼投捨れば 松に
忽かよはき力も嫉妬のの一念百人力 えいとおせ共動かばこそ 両手すべつて
ころ/\/\ 雪も血汐の皆紅 むつくと起て行んとせしが松が枝に 袂かゝつてばり
/\/\ 上着もやうの立波もさながら鱗の蛇身 釼ひんぬき又かけ上つ
て 破れしつま先 鐘をまとふてくる/\/\苦しきしんいの釼蛇形(じやぎやう)の尾

先と疑はれ 生死の境真那古の庄司息を切て走り入 二人の死骸を見るより
もにつくし娘と飛かゝり 持たる釼取より早く清姫が胸板へ ぐつと指しこむ血
筋の切れ目 鐘にかゝりし愛着の血汐変じて炎々たる ほのほと燃ゆれば怒り
の涙 水巻上て水火の戦ひ震動はたゝがみ つかねど此鐘ひゞき
出 ひあkねど此鐘踊るとぞ見へし 程なく鐘楼に引上れば あれ見よ姿は
顕はれたり 鐘の内には剛寂僧都破れ衣に木綿の胴着 弓手に神壐(しんし)
の御箱を携へ めてに神鏡守り奉り敢然たる其形相 思ひがけなき真那古の


88
庄司あきれ 果たる斗なり 剛寂僧都しづ/\と檀よりおり 石上にうや/\しく二つ
の宝の御座を設け 飛しさつて頭をさげ ハツア有難くも恐れ有 是こそ
神壐内侍所 此二品の御宝は 先達て忠文が手より預り剛寂守護し
奉れど 宝剣の行方しらず 心を砕く今月今日 目前の不思議に依
て 三種の神宝揃ふたり 其貫きし釼こそ 疑ひもなき十握の御釼 只今
是にて受取らんといはせも立ずおろか/\ 忝くも此御釼は 当今朱雀天
皇某を密かに召され 二た色の宝紛失せしは 近臣の中に逆臣有と覚たり

又もや宝剣紛失せば天下の乱れ 汝預り居るならばよもや心付くまじと 魂を
見定められ預り申せし此御釼 汝に渡す由縁なし ヲゝ尤 我心底を顕はし見せん
ヤア/\誰か有 春宮(とうぐう)を供奉せよと方丈ひゞく大音声 鋳物師四十次御供し
親王様夫婦出給へば ヤア御安泰にて渡らせ給ふか とはしらずして早まりしと 娘
を殺せし悔みの涙悦び泪涙 とぎつく斗也 親王庄司に向かはせ給ひ 最前鹿
瀬 我をおそひ来りし所 あれなる鐘楼の抜け道より 又もや落延び助かりしも 此剛
寂が情故 誠に朝家の忠臣ぞやと 仰に猶も庄司清次 ヲゝ左程忠臣逞しき


89
剛寂僧都 忠文に随はれし 様子具さに承はん ホゝウ不審は理り我一系図
は 此道成寺を開基有し橘の右大臣道成に九代の後胤 我幼少より
仏意に属して 当寺の住侶 瑞光和尚の弟子と成 諸人に面てを見しられ
ぬを幸に ゆらの戸を責めて心底を見せ 忠文が腰打ぬき きやつが盗みし此二品 難
なく我手へ取返せど 宝剣の在り家 庄司守り立申さるとは きのふ迄も知ざりしに 思ひ
寄らずも清姫が 守り刀と心得て 盗み出せし其御釼 シヤいぶかしと窺ひ見れば 鏡に写る
面影に 大蛇の形を顕はせし は理り成るかな神代の昔 そさのをの尊退治有し八岐の大

蛇 其大蛇の尾先より 顕はれ出し御釼の威徳 嫉妬の業(わざ)と思ふは不覚 則ち其釼にて 姫を
あやめし不浄の血汐 鐘にかゝつて火焔と成しは火剋(くはこく)金 水巻上しは金生水 三種の神
器の汚れによつて 自然と 踊り上りし此鐘 まさかの時の要害と師の御坊と心を合せ 兼て
掘り置く鐘楼の抜け穴 今日御難を救ひしも 先祖道成が忠心の通づる所 ハゝ有がたし/\
と 悦びいさむ当寺の中興 誠にゆゝしき道人なり 娘は苦しき 息吹かへし とゝ
様のお詞を 誠と思ふて 悋気嫉妬 親王様と聞たらば こがれ死に死る共 とふから
思ひ切物を それさへ有るにおだ巻様と 思ふて切し一刀 二人の衆を過ちし報ひは其


90
儘とゝ様の お手にかゝつてわしや嬉しい 死ぬる此身は厭はねど 二人の女中のお命を
どふぞ助けて下さんせと 嘆くを不便と思召し いやとよ 日本(ひのもと)の神宝(かんだから)と 尊む
釼の其威徳 天命尽きねば切るとても 疵に癒て恙なし 又定業(ぢやうがう)の其人は
必ず死すべき例しあり 名剣は世に多けれど 定業非業をわけたる御釼 いで
其奇特を見すべしと 内侍所の神鏡を 恭々敷御手にさゝげ 女は鏡に対(つい) 
するなれば魂魄を返させ給へと中臣の祓ひの内に二人の女夢の覚めたる心地
にて有し事共語り合 我身より先ず親王様 御無事を悦ぶ斗也 有がたやコリヤ清姫

父が粗忽の深疵も 御釼の徳にて助けられと ぬかんとすれば暫く/\ 其娘
こそ定業なれ 死する命は天下の為 剛寂が嫉妬を勧めし其謂れ 親王
夫婦は清姫が 取殺せしと披露して 忠文が心をゆるませ 二つには此鐘
こそ 文武天皇の勅願にて 黄金をもつて鋳立し釣鐘 此騒動を
さいはひに あれなる四十次に鋳つぶさせ 軍用金の御用に立 世上
へは清姫が嫉妬にて 鐘はたちまち湯と成しといひふらし 末代迄
も此道成寺に 釣鐘を置かずんば 女が冥途の迷ひしも有まじ


91
是を規模に成仏せよと実頼もしき俉道の軍議 自故に清姫の はか
なき最期いとをしやと姫の嘆きに親王も 不便のさいごを見る事かな 敵の難を
遁さん為よしなき父が空言も 未来は一つえにしぞやと 立寄給へばたへ/\ながら 父
がたもとに身を隠し とても及ばぬ雲の上人 わたしはよふ合点して ふつ
つりと思ひ切ました 涙ましいさつきのしだしだら 生きながらの畜生道 恥かしい此體
早ふ殺して/\と目には涙の暇乞 エゝいぢらしやかはいやな 父が手疵に気も
迷ひ 今の僧都の物語得聞とらぬか 蛇身と見へしは釼のわざ 恥しふ思ふ

なよ 有がらい親王様の今のお詞 せめて最期に只一目といへば娘はいや/\/\
わしややつぱり蛇に成た おふたりを取殺した ハテ取殺したといふ時は お命に気遣ひ
ない 是程なりと親王様の お為に成が嬉しさに 蛇に成て死ぬる因果なわたし
を 娘といふて下さんすな とゝ様でもないお人 もふ目が見へぬ おさらばといふも くるし
き息づかひ 父は涙にむせびながらヲゝでかした/\ 死ぬる今はに健気の一句 隙取る
程御釼の穢れ 不浄を清め奉らん 南無阿弥陀佛と目をふさぎ 心は苦痛
を助けたさ思ひ切てぐつとぬく御釼と供に清姫が あへなき最期おだ巻姫


92
二人の女も諸共に 一度にわつと声を上げ 尽きぬ嘆きの果しなき 時刻移ると剛
僧都 死したる娘は悔んで返らず 供養にも追善にも 朝敵追討外
あらじ いで軍陣の血祭りせんと左右一度に手練の手の内 始終を窺ふ鹿
瀬あぐら門より下へ真倒(まつさかさま) 此世の息は絶え果たり ヲゝいさぎよし/\ 彼等は即時に
亡ぶといへ共 忠文より大軍にて 攻め来らばいかに/\ ヲゝ其為にこそ此道成寺
七堂伽藍は則城郭 ムゝ敵を亡ぼす評議はいかに 大講堂の大庭こそ
軍評議の千畳敷サ 五重の塔は 五重の天守 鐘楼鞁(鼓・こ)楼は 攻め太

鼓 乱調に打立/\あの 東門の追手より討て出る物ならば 何条事の有べき
ぞ 若し味方に裏切有て 軍乱れん其時は サゝ/\何と/\ ヲゝ此鐘楼の抜け
道より 君を落し奉らん さあらば庄司は君の御守護 扨 軍勢の手分けはいかに
あれ見よ北国西国より 山伏の峯入となぞらへ間近く 来る味方の軍勢
ほんに私が夫は奥州より 経基様に心を合せあづまより攻め上らん ヲゝ出来た/\ アイ
わたしが夫は近江国秀郷様と一つに成 山科より攻入ん ムウ面白い/\ 軍用金
は此四十次が あの鐘をたゝらにかけて 鋳つぶすは我等が得もの


93
ヲゝ又 三井寺のつき鐘は 忠文が頼むを幸い 朱雀天皇調伏と偽つて 誠は
却て忠文調伏 我行法の験にて三種の神器取返せば 彼が運命
程近し娘が最期も君の為 天下の為に消うせし雪の 山々引かへて 再
び春の桜木親王 のぞみ足りぬと人々は皆本坊 にぞ帰りける

 

 

 

附・日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)

   渡し場の段

 

こゝは紀の国日高川、清き流れも清姫が松吹く風に誘はれて たゞあさへいとゞ物凄し
女心の一筋に脛もあらはにやう/\
と、日高の川をこゝかしこ
安珍様いなう/\、我が夫(つま)なう」
と駆け回り、呼べど叫べど松風のほかに答ふるものもなき
早や山の端に差し昇る隈なき夜半(よわ)の月影は、昼を欺く如くなり
かすかに見ゆる川岸に、もやひし舟に
「ハア、嬉しや、こゝは日高の渡し場、これを越ゆれば道成寺へ間もなし、渡り頼まん急がん」
と川の汀に立ち寄つて
「ナウその舟早う渡してたべ、渡し守り殿いなう、コレなうなう」
と呼ぶ声も枯野の秋の舟ならで、渡りかぬるぞ甲斐もなき
寝耳にふつと舟長(ふなおさ)は苫(とま)押しのけて仏頂
「エゝ何ぢや、喧しいわい。夜々中がや/\と、早う/\のその声で、あつたら夢を取り逃がしたわい。夜が明けたらば渡してやらう、エゝコレマよう寝ている者を、アタ鈍くさい」
と、つかうどに顔をしかめてつぶやけば
「ナウ自らは道成寺へ急ぐ者、早うこゝを渡してたべ、早う/\」
「エゝ何ぢや、鰌汁が食ひたい、
アハゝゝゝ、テモいやらしい奴ぢやわい、ハゝア聞えた、コリヤ何ぢやな、宵に渡した山伏殿の後追うて来た女子ぢやな、エ、それならばなほ渡されぬ、ならぬ/\」
と、にべもなき
詞に姫は涙声
「エゝそりや胴欲ぢや/\/\わいなう、親の許した我が夫を余所の女子に寝取られて、何とこのまま帰られう、不便と思うて渡してたべ、慈悲ぢや情けぢや、聞き分けて」
と頼みつかこちつ手を合はせ、嘆き沈むぞあはれなり
こなたはなほも空吹く風
「ムゝそれ程頼むなら、渡してやらうと言うたらよからうが、マア嫌ぢや。おりやあの山伏に縁もなし、また由縁もなけれど、渡されぬといふその訳を耳をさらへてよう聞けよ。われが尋ぬる山伏の頼みには、様子あつて某は道成寺へ逃げ行く者、十六七の女子が来たら必ず渡してくれるなと、小金くれて頼まれたれば、金の冥利でこの川を渡す事はならぬわい。寒気を凌ぐ山伏の八重か一重か板一枚、下は地獄のこの商売(みすぎ)、頼まれたらば男づく、いつかな渡さぬ、マアならぬ、われもまたどれ程に焦がれても及ばぬ恋ぢや、役にも立たぬ顎きかずと、足元の明かい内、とつとゝ去ね/\、エゝうぢうぢとうぢついて棹の馳走を食らふか」
と慈悲も情もなか/\に渡す気色(けしき)もなかりける
姫はあるにもあらばこそ
「エゝ聞えませぬ/\安珍様、恨みはこつちにあるものを、かへつてこの身に恥かゝされ、何と存(ながら)へいられうぞいなう、今日とても父上のご意見、ご尤もとは思へども、女は一度我が夫と思ひ込んだらいかな事、たとへ地獄へ落つるろも、可愛いといふ輪廻は離れず、まして五月(さつき)の宮詣でにふつと見染めしその日より、愛し床しい恋しいと夢現にも忘れかね、焦がれ焦がるゝ恋人に逢うて嬉しい言の葉を、語らふ間さへ情けなや、恋の呵責に砕かれて身は煩悩に繋がるる、紅蓮の水、大焦熱阿鼻修羅地獄へ落つるとも、思ひ切られぬ安珍様、聞えぬわいな」
と身も悶え、『わつ』とばかりに声を上げ、嘆く涙は雨車軸、その名も高き紀の国や、日高の川に水増して堤も穿つ如くなり
泣く目を払ひすつくと立ち
「エゝ妬ましや腹立ちや、思ふ男を寝取られし恨みは誰に報ふべき、たとへこの身は川水の底の藻屑となるとても、憎しと思ふ一念のやはか晴らさでおくべきか」
と心を定め身繕ひ、川辺に立ち寄り水の面も映す姿は大蛇の有様
「さては悋気嫉妬の執着し、邪心執念いや勝り、我は蛇体となりしよな。最早添はれぬ我が身の上、無間奈落へ沈まば沈め、恨みを言うて言ひ破り、取り殺さいでおかうか」
と怒りの眦(まなぢり)、歯を噛み鳴らし、辺りを睨んで火焔を吹き岸の蛇籠もどうどうと青みきつtがる水の面、ざんぶとこそは飛入つたり
舟長見るよりわなゝき声
「鬼になつた、蛇になつた、角が生えた、毛が生えた、食ひ殺されてはかなはじ」
と後をも見ずして一散に、飛ぶが如くに逃げて行く

不思議や立浪逆巻きて、憤怒の大頭(だいず)角振り立て、髪も逆立ち浪頭抜き手を切つて渡りしは
怪しかりける

 

  (平成29年12月 国立劇場 第49回文楽鑑賞教室プログラムより)