仮想空間

趣味の変体仮名

戯場楽屋図会拾遺 上之巻 コマ16~30

 

 読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554349 


16(絵図)

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傀儡師
傀儡師の祖たる人は
西のみや百太夫にぞ
ありける 禁庭より神
諌め回向勅免ありし
より 所々方々にわた
りて 淡洲三條村に
いたりて身まかりぬ
後人この事(はざ)をな
すに風流の姿に
粧ひいでゝ 爰かしこ
にはいくわいすと
いへども ものを乞
はず 代下りてつい
には米銭を乞ひて
古格をうし
なへり

歌道には遊女をさして
傀儡(くゞつ)といへり 是と思ふに
往古の遊女は客人(まろうど)の席に
いたりて哥をうたひ舞を
よくし人形をつかひなぞ
せいといふゆへに 傀儡の
名を呼ものなるべし
また 唐土にて傀儡(かいらい)
棚(ぼう)といふは 日本にいふ
糸操りなり よつて
此事を南京操りと
もいへり

おもしろや
淡路を
余所に
はるの衣
 ??


17(絵図)
唐土戯臺(からのしばい)之図
勾欄(しばい)の濫觴(はじめ)は本文にて見るべし
諸事日本(わかくに)の芝居はかはらざる
事は もろ/\の書物に出でゝ
詳らかなり こゝに図をあらはす
見る人疑がふ事なかれ

かの地にて芝居を勾欄(こうらん)
演場 戯場 劇場
春色臺(しゆんしよくだい)ともいへり 舞
たいを戯棚(けほう)楽屋を
戯房 さんじきを
山棚(さんはう)よろしきを青
龍頭といふ 龍の
ほりものありて 青
きうるしにてぬるなり

尖棚(せんほう)狂げん

戯句 雑劇
引戯(いんけ)といふかほ見せを
艶段 二のかはりを二艶段
一段を一句 二段を二句
役者といふを 戯子(けし)といふ
役々にては
生(たちやく)浄(かたきやく)浪子(ろうし・やつしかた)
旦(おんなかた)打諢(だこん・どうけ)小旦(せうたん・こやく)
両脚(りやうきやく・じつあく)老旦(くわしや)ト云
引まくは上よりまきおろす
なり また?(科白?)を念といふ


18
浄瑠璃作者 古しへは作者と極りたる人なし 俳人遊人など戯作
      なしたると云 近世作者と極むるものは近松門左衛門
にはじまる 此人元大内につかふ本性杉森氏にして 武士(ものゝふ)の果なり 博学
碩才にして百余篇の浄るりに こと/\゛く妙をあらはす はじめは京都に住みて
都万太夫の芝居にて狂言の作者たり 後 大坂にいたりて竹本筑後
作者となる のち平安堂菓林子(くわりんし)と号す 享保九年に七十有余にて
卒す みづから行状の記を書きて その奥に
 もし辞世を問ふ人あらは
それ辞世去程さてもそのゝちに残る桜の花し匂はゞ

歌舞妓作者 世にあまた名誉の人ありし中に 並木正三と
いふ人(稚な名文太郎といふ 父は雲州の仕官たりしが仕へを辞して
大坂にのぼり 堀江に住し 諸木草花金石より油をとる??流
の秘伝をたん練して家業をいとなみ
名をぬ??とて人も知りたる人物也)幼歳より諸書に眼をさらし 才智よの人に
越へ 詩歌連俳にくわしく 当世の人気に応じて劇作をなせり 寛延
元年辰のとし八月 一夜附けの狂言を作る 是をはじめとして世話時代の
味はひ深く せりあげせりさげ 廻り道具引き道具に人の目をおどろかせ
ける 後 並木宗助が門人となり(此宗助といふは並木苗字お元祖にして一名を千柳といふなり)此人に随身して
百余番の狂言にこと/\く妙をあらはす 嗚呼おしいかな 安永二年の春
四十四歳を一期とし ついに身まかりぬ 時に銀主は元より役者衆中 囃

子方 表方 浜茶屋 弁当ひきまでも 袖をなみだにひたし 今のこゝろなき人までを
も法善寺にきたりて南無三宝正三(せうざ)が墓とたづねたる人もなかりき

?(弦?)を断て手向とせはやいとさくら

竹本筑後掾話(たけもとちくごのじょうのはなし)摂州天王寺村の百姓五郎兵衛といふ人なり 声がら世の人
       にすぐれ 大丈夫にして さはやかなり 井上氏の浄るりをたな
ごゝろにたゝみ(井上氏は浪花の人なり 浄るりに妙を得て一流をかたり出して芝居を興
        行す 後に播磨掾藤原要栄:あきひこ と受領して 其名代に高し)
清水の流を習ひ(清水は井上はりま の弟子なり)宇治加賀の掾に秘術をうけて一流をかたり
出だす(加賀の掾は伊勢嶋が弟子なり はじめ加太夫といふ のち受領して
    加賀の掾藤原好澄と号す 行年七十さいにて世を去る)改名して竹本
義太夫と号す 貞享年中道頓ぼりに芝居を興行す 是竹本出世の始め
なり 後に竹本筑後掾藤原博教(ひろのり)と受領す 元禄年中に竹田出雲 竹本
氏の座本となり 人形道具等に美をつくしければ 繁昌なる事日々にさかんなり
筑後の芝居の開発なり 今大西と呼ぶ

豊竹越前掾の話 産は大坂南船場の人なり 井上竹本の流をまなびて此道の
        達人となる 十八さいの頃 竹本釆女と号す 後 竹本若太夫
と改名す しばらく竹本同座なれども のち芝居を興行して豊竹上野掾より
再転して 越前少掾藤原重泰と受領す これ若太夫芝居の開発なり

浄瑠理繁昌 四つ海しつかにして日の恵みもひとしほおしてる難波の繁
      栄 わけて道頓堀には歌舞妓 操りの六つ矢倉打つゞく中
にも竹本 豊竹 両芝居ははやる程に/\表口にはひいきの幟 所をせき木戸


19
(右頁絵図)
狂言作者
しくれつゝ ふりにし宿の ことのはゝ
かきあつむれと たまらさりけり

(左頁18の続き)
口にはまち札の人々 市立つるばかりに群集をなし 筑紫吾妻の人々は 大坂に来れば
天王寺の塔を見て義太夫さまの浄瑠璃聴聞すると云しもむべなるかな 八十才(やそぢ)
の翁三才の小児にいたるまで 義太夫節をよろこばぬはなし さればその頃より
浄るり稽古屋といふもの出来て こゝにこゝろをよする人出たらに心にこゝろ
くるしめし もはや仙人となり いつの夜は或宅にて松嶋八景を語り 仕舞
会には幡揃へをかたるなどゝ自慢(みそ)をあげ 北組の流々軒 東ぐみの住勇軒 西組の
面徳斎と 好き/\に変名なし 桶がたり 蒲団がたりと おのがまゝに五臓をし
ぼり いづれうぬぼれの世界なり また こゝに仙人あり 此男のいわく 我前後若ひ
ときに名人の浄るりをきたが またかくべつなもの 扇子屋(もみや)長四郎(先政太夫)とのゝ音
声身持などゝいふものが当時の太夫衆と事かわり 腰弁当にて芝居にかよひ
ながら 此うへもなき名人とんとわけがちがふてある 又越前のかたりかたは かふした
ものじやか いつ忠がそのかたをやつて見らるゝけれど大きいちがひ 作者も門左衛門
をはじめ 名人の人々のかゝれたる中にも 一ノ谷の二つ目にだんどくせんの憂きわかれ しつ
た太子を送りたる しやのく童子がかなしみもと 仏説をかたどり愛護の道行にて
常に見なれし山なれば 手にとるやうにおもはれて つい一足か二足か といふ文句など
唐詩撰にももれたる妙文なりと或人の噺 又忠臣蔵の序言に嘉肴ありと
いへども食せざれば其あぢはひをしらずとは国治りてよき武士の忠も武勇もかく
るゝに たとへば星の昼みへず 夜はみだれてあらはるゝためしをこゝに仮名書きのと
是にて末十一段の?(をはり)までをわかてり お千代の在所場のうれい 太夫身にこたへ
妹背山の狂言などは大和一国の名所をとりこみ 道行の作意は苧環塚の因縁


20
近松氏画讃写 此図は浪華の市中富家に代々伝はりしを世上に無枚(すくなき)諸書なれば
       芝居好士(ずき)の高覧にそなへんこと乞求めてこゝいのする

楽天か意中の美人は夢にむつこと
僧正遍照の詠中の恋は 絵に
かける女 とりかたには とれかこれか 
作麼云

物いはす わらはぬ代にりん気なく
衣裳表くに ものこの美勢寿

平安堂近松七十一歳狂讃
(挿絵)
児の親手笠いとはぬ時雨かな 遊女 夕きり
宵/\の待身につらき水鶏? 同 若いと


21(絵図)
寄初之図(よりそめのづ)
図は楽屋の二階
にして 板間に残
らずたゝみ毛氈
をしき
たる心
にて
見る
べし


22(絵図)
内読(ないよみ)

惣本読
人形つかひ
表方
作者
太夫
三みせん
銀主
楽や番


23(19の続き)
より三輪春日の二神を元となし 語り出しを岩戸隠れの神さまもと神代之巻を
引きたる 文花の発明かやうな事あへてかぞへかたし 今の作者のおよぶ処にあら
ず 近頃蝶花形の八つ目には 篠原合戦の三段目をぬき 同二段目は高名硯にひら
はれ 大功記には日蓮記を調合なしたりと 人もたずねぬ棚をろしに 壱人腹をたて
らるゝこそいとおかし 歌舞妓でいはふならば 小むすこや若い女ごをとらへて
吉右衛門のかんせう/\故 歌衛門の??に平九郎や彦四郎の当り狂言
云ならべ 文七 八蔵の双(ふたつ)蝶々 小水十郎が有右衛門して此かた 立者になつた
はなしをして今の芝居を見る気はなひといふやうなものにて とんと落ちの
こぬやつやり またこちらの仙人のいふには 綱太夫の浄るりは稽古にならぬの
太夫はてれんを語り なべや(麓太夫)の浄るりはのびるやうなれど 中興の名人利兵衛(政太夫
どんの九段目 鬼一の菊畑 紙治の茶屋場にて小春にふかくあふぬさのくさりあ
ふたるみじめなばの所は むまひ事をやりをる 小嶋屋の三味せんはたぐひなき名人
しかしながら 若太夫(ひがし)へ出ねばよひものおと 浄るりの中から産れたやうなこといふ
たり そのくせ此人浄るりは大のおへたにて 月並の会に近辺の味噌をくさらし
紙二三まいかたると表口の小すみより悪口(やり)入る 人は直さら一口浄るりに真遠(すか)を語り
節はいつかうまちがひだらけ 大きな声してやつた所が天神さまの御神木きや
れ/\くらいの流行歌 かく見る時は同じ口から出る声にて大金とる人も有ぞ
かし 下手もあれば上手もわかり 下手あればこそ稽古屋も立ち 五行本も売れる
ふしとりあれば芝居も繁栄(はやる)なんでも浮世は浄るり世界 そのあらましの人くせ
をこゝにうつして御代萬(みよよろづ)にぎはふ春こそめでたけれ

歌舞妓芝居舞台名目 むかし永禄時代の舞台といふは床几の
          数をならべ 家根(やね)は苫 あるひは板などにてふ
きしなり 上下のさんじきとてもなかりしに 天和の頃より能舞台のご
とく作りて 破風 大臣はしら 橋がゝりを取置きになし
同十一年 破風 大臣はしらをとりて今のごとくなる ○本舞台 舞たいの惣名なり また
平舞台ともいふべし ○二重舞台 東西とも狂言の勝手によりて その有り処
           かはるといへども中二階とおなしき所あり
是を二重ぶたいといふなり ○通り舞台 平舞台より壱段高ふしてけごみなど
                   ありて今いふ二重ぶたいなり 此ぶたい
東西を通りたるをさし
て通り舞台といふ ○所作舞台 敷ぶたいともいへり 景事の
               とき平舞台のうへにまた
舞たい一重を引く これは足拍子などの
時によき音を出ださんがためなり  ○破風 当時のはふといるは舞台のうへ△此ごとく成
所なり いにしへはちいさくして舞たいの
中ほどいありしに今はぶたい一面と成 ○大臣柱 舞台の東西の
ふときはしらなり 此柱東西の間を大臣通りといふ 江戸の芝居は
此大臣柱の間せまし故に松梅などの大木の道具立てにて是をかくす ○橋
懸り 舞台の右あかね幕の所をさして橋がゝりといふなり 顔見せ座付の郎(やつ)
部屋衆中 足拍子をふみあばずれの場所なり 又見物衆中は はき物を 

 


24(絵図)

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荒立(あらだて)
作者 頭座 人形部屋

人形拵(にんぎやうこしらへ)
五郎 吉田十五郎 吉田又五郎 

 


25(絵図)

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内稽古 
道行
ヨウ
てすり たま/\
といふ 図

浄るり部や

○此けいこはむつかしき 立(たて)などのせり 太夫のするゝ
人形を持ち行き じやうるりに合しておもひ/\に仕内
あり 此時人形をはなれて図のごとく 人形つかいは歌
舞伎の通り立まはりのけいこありて よろしくかた
まりたる所にて 人形を持ち 右のごとくそなへす立て
るなり

○人形をつかふ通言に
チヨイ かしらをちよいとうなつかすなり
マク 手をうちへまくこゝろにつかふ
天地 かしらの見へをきりて むしのはらひをなす
ハツカ わきさしのきりさきを合して切むすぶ義也
此余(よ)こと多ければ略す

立稽古(たてけいこ)
浄るりかたり さみせんひき 人形つかひ


26(23の続き)
はき 爰処へきたり 道具方に
呵らるゝこと多し       ○紋板 舞台のうへに座本の紋をつけ
                   たるさほを これのことき物を云なり 
○懸板 橋懸りにあり 狂言の外題を板一枚に書き
    大臣はしらにかける故に名とせり   ○臆病口 舞台
の左の方 黒き幕のかゝりたる処なり 此幕の内にて一切のはやしをなす
此上に浄るりの床あり 此邉(ほとり)に大工部家あり 図は前編に出たれば爰に
のせず 両編合
せて見るべし ○太夫座 臆病口切まくのまへの舞台をさして太
        夫座といふ あんずるに乗込みなどのとき
此所に太夫本居(すは)る また道行などのせつは浄るり太夫
こゝにて出語りをなす ゆへに太夫座と呼ぶものならんず ○落間(さちま)二重舞た
いの下手水鉢柴垣などのある所なり○此所より鳥類虫蛙などのたぐ
ひ みなこのところよりいだす 多く月なども此上よりいづるなり
○切穴 舞たいの板を切あけをき 魔術幽れいなどきゆるせつは此上に
    あがり相図をして下にせりさげる 是より舞台の下を通りて
楽屋にいたる 舞たいにかぎらず花みちなどにもあり 人を
上げおろしする図は前篇にくはしければ爰に出ださず ○上げ板 ぶたいまへ
より花みちの両かわにあり 此処の下より御殿をせりあげ 又は花はたけ
菜たねばた ふいあけ水 是は真ことの水をしたより舞台一面にふかす
事なり いづれもせり
あげのたぐひなり ○空井戸 舞台のまへにあり 曲者などいづる
          所なり 此所よりいづるもの 舞台

出て呼子の笛をふき 我たくむ事を大音にて口ばしり あるひは盗みし
宝物内通のたぐひをふところより出だし ついには敵方へ取られ 存命で居る人
すへなし かゝる者を力と
するは あぢきなくおかし ○花道 舞台の正面よりむかふさんじきのした
              までのあし場なり 是は人よく知る所也
むかしは此所より役者に花をば
贈りし事なり 因て花道の名あり ○鳥屋(とや)花道の内 黒きまくのかゝりたる
                 所をさして鳥屋と呼ぶ 此内に
人ありて出る役者の名をさして誉むるなり 此人を
鳥屋番といふ くはしき図は前偏に出だす   ○大木戸 始めは城戸と
書きたり 是城廓になぞらへたり 後世城の文字をはゞかり木戸と
称す 此所をあづかる表方は頭のぶんにして大木戸の何某と呼ぶ ○鼠
木戸 大木戸にならぶ小さき入口なり 見物の人此所にて木札を三十二文
   にて買て這入る 人は彼鼠籠の口へ入るに似たりゆへに名とし呼ぶと
いへり 惣稽古を見る
にも此木戸より入る也 ○外題看板 世の人一枚看板といふ くはしく
            は前偏に出だしあり
看板筆法 南翁軒東吉は元京の人なり 後に浪花にきたりて
     岸本屋何がしが家にあつて 其後角の芝居勘定
場の手代となる もとより筆道に妙を得て看板筆法の
流儀をさだめる 今世に東吉流と称美せり    ○後看板
これは外題看板のかたはらにあり 一枚看板にもれたる
役者衆中をこれにあつめ下に大序より段つゞきの書附けあり ○口上看板

 

 

27(絵図)f:id:tiiibikuro:20190318153921j:plain惣稽古 兜軍記 出語りの図

 


28(26の続き)
人のよく知る所なれば
くわしくは爰にしるさず ○段書き看板 これは矢倉の両わいにあり
                   大序より大切までのあり
さまを絵にあらはし又
文字ばかりの時もあり ○名前看板 世間の人是八枚かんばんと
                 いふ いにしへは立役者八人を
書くと云ゆへにかく
云来たれり    ○釣看板 始は台にのせて出だせり故に人形看板と云
              後にひもにて中に釣りたり 此時よりつり
かんばんと呼ぶといへり はじめは二の替りのみなりしに当時は年中かはり
度々にこれを出す事いづれの芝居も同じ事なり 右細工人当時は
大江宇兵衛(久宝寺町)柳弥助(さのやばしばくろ町)
此余ほかにもありといへどもこゝにりやくする   ○招き看板 新参の役者を板一枚
 
のかんばんに書き表に出す 江戸にては紋看板といふ 諸事
くはしくは前編にいだす あやつり芝居も是に同じ也

日恟(ひゞら)稽古すみていつの日は初日を出さんと極りたる時 紙壱枚に初日の日
       書をして木戸口に張るなり 是を日びらといふは衣裳屋のきんもつなり

千軒幟 初日より十日か間のさんじき売高を此のぼりに書付け表にいだ
    すなり 又矢倉もなくさんじきに定まりたる所もなきを場多芝
居といふ 場多きがゆへに名とせり
千軒幟委しくは前編にあり ○櫓下看板 若女形 娘方 若衆方
                   の名まへを書きたるかん
断り書き 大入のせつ此書付を出だす  板なり 若女形は矢倉下 三まいをよし
     人のよく知る処なり     とする 書始(いちふで)中(なかぢく)留め筆なり

勘定場 銀主日々此処にきたつて其日の勘定を立するなり 歩持ちと
    いふ事あり 其所々日々歩の割高をおくる事なり また
払い物といふ事あり 出物ともいへり 是は馬のあしを勤むる役者へ出ずる銭也
壱人廿四文と定める 又真事駕方につかふ事あり 其節のやとひちん
○衣裳屋日立の外に勘定場物といふ ことありて外に衣裳代を出だすなり

中木戸 鼠木戸の行当りなり 見物の人鼠木戸にて三十文はらひ
    中木戸にて二十四文を出だす 是より奥場に行きて場をも
とめることなり○芝居近辺に通り札あり 三文いだして是をもとめ
行けば表木戸三十文の所を三文にてすむなり 右のやうにすれば中木戸
廿四文を三十文払ふなり 遠国の人芝居を見んとおもはゞ弁当引きの女に
まかすべし 何事も自由なる事我宅に居るより猶よし

奥場 くわしきは前偏にのする 場を土場といふ 是に名目あり ○出
   孫 彦 鶴 亀 玉 山 川 松 竹 梅 是は西出さんじき
   を初めとして是を出と呼び 次に孫と二けんならぶ 次は茶屋見物の通り
   通なり 其次は土場なり 彦をはじめとして梅にてをわる 又東より出を
はじめ山にておわる 東西の
さかいめは花みちなり

内茶屋 西下さんじきの後ろなり 此ところにてあきのふものは
    菓子 昆布 みかん 茶 水 絵本番付等なり 顔見世


29(絵図)
浄瑠理三味線
名誉人物   「文蔵改 靍沢友次郎」

浄瑠理の
ふし見の里に
つく舟は
いとおもしろく
ひきのほるなり

        「竹本咲太夫」「竹本麓太夫
三味せんの
いとの山に
引初る
かすみをわけて
鳥のこえ    松好斎

         「竹本政太夫


30(28の続き)
極り 番付 二の替り 盆がはりの一まい摺も内茶屋より出す 茶屋がたは
是をもとめて客さきへ贈ることなり 内茶屋の図初編にくわし

操芝居舞台名目 本舞台名目は歌舞妓芝居に同じく錺り
        つけ 手摺に名目あり 是のみをこゝに出すくは
しきは図にて        
見るべし  ○本手 本手摺なり 本舞たいより三段上にして縁
ふみ段の所なり
図にて見るべし ○二の手 壱段下にして庭
         さきのこゝろなり  ○三の手 本ぶたいに
つきたるをさして三の手と呼ぶ ○浪手摺は一面に浪を書きたる手すり
又波打きはを書きたるもあり ○山手すり 同じたぐひなり ○城手摺は すみ
矢ぐらなどありて城の内を見する手すりなり ○返し手すり 是は
半分まへにまへいかへるてすりにて たとへば座敷をかへして山海などに
なるとき用ゆる 又歌舞妓芝居にも用ゆる

花道 人形花みちを通りぶたいにいたるときは手すりをひらき爰より
   あがる 人のよく知る所なればこゝに略す

浄瑠理床 図のごとくにして歌舞妓芝居よりははるかに廣し 楽や
     より出でゝ掛はしをつたひ床にいたる 床のうちは二重に戸
ざして上にけづり出しのごとき明りとりあり 歌舞妓芝居
床の義は前偏に委しく出だす

桟敷 下さんじき 出さんじき
(略)