仮想空間

趣味の変体仮名

声曲類纂 追考


読んだ本 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200017224/
 


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   追考
「一の巻 増補」
此くだり前に加ふべきを刻なりて后見出たれは止事あたはすして編尾に記ぬ
○川岡雑談に云(編者 不詳)小野のお通といへる秀才の女の事異説色々ありあるひ
は太閤秀吉の侍女とも云へり織田信長公の側女なりと云何れも虚説にし
て其年代齟齬は改選諸系図百五十一巻或家系図下の巻戴也其略に云
小野のおお通は長沢の松平上州候の老臣小野能登守か養女にして実父は松平
隠州候の老臣長沼吉兵衛といふ者の女なり吉兵衛は二千五百石を領す後隠居剃
髪して閑斎と号し九十余才にて死すお通は池田家の家臣塩川志摩守か妻と
なる此塩川は始高野越中守の女を娶りて男子を生ず塩川内藏之助といふ
内蔵之助より四代に至り故有て沈落す然るにおつう志摩守に嫁して一女子
を生し後故有て離別する故女子を引連て母子ともに

後光明院の女御 新上東院の 御前に奉仕す其後門院崩し給ひ又
秀頼御簾中御介添となる其後に 東福門院に奉仕し金千弐百両百人扶持
下し給る此お通文学に達し 能書世にかくれなく人是を褒称す又万芸
に通じ秀才なり 門院御慰のため参州矢矯里浄瑠璃姫の事を十二
段の仮名文に作り沢住検校小關勾当節を付てこれを諷ふ其女子後に
真田家上洛ありし時縁ありて男子を設く勘ヶ由信就といふ其母(お通の 女なり)
後来江戸に来り稲葉家披露によりて三千石を給ふ後に浄閑院と
号しお通に似て秀才能書なり又糸竹の道に妙(たえ)なりと云々
望海毎談云(編者 未詳)小野のおつうは常陸水戸の城主武田常陸介信吉卿
の家臣小野和泉と云し者の女(むすめ)也其始関白秀次公の家人塩川志摩
と云者の妻と成しか死別の後□□□大坂の城へ御入輿の時御介添と成


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て御供す尤秀才にして萬に器用なり然るを 陽光院の女御新上東門院
様御入内の時御貰ひにあづかり参りて供奉す其後御暇取しかは直に東福
門院様へ相招れて相勤後年江戸へ召され百人扶持二百両の御合力を給
はる(中略)かれが男子父とともに播州網干(あぼし)に在しが池田「  」姫路在城の時
召出され縁を給ふ塩川喜太郎と云り外に女子壱人有(後尾州にて尼と成浄閑と 号す琴の上手なり)お通
内裏に仕へし時相伴て是をも在仕せしむその頃真田「  」上洛の時此女子を
妻とし夫より御暇取り京都に置れたり男子壱人産たりおつう江戸にては
春日局と懇にして執成多きを以て稲葉家の吹挙にて「       
         」おつう学才あるを以て世に翫ふ琴の組の十二組の歌の文
句をつくる(中略)又東福門院様の情を蒙り十二段の文句を述作す是浄るり
御前といふ女の事を編立しより是を浄るりと呼たる始也戸田左門殿の抱え

座頭沢住検校京にて章句を付たり小關勾当是を伝へて半琴に合す近江
掾浄雲是を嗜て浄瑠璃太夫と成彼れ始は鍛冶の弟子仁蔵と申もの也
是を好て名人となる筑後と云は其子也肥前と申はその弟子なり
南水漫遊といへる随筆に云(文化の頃の筆記 にして撰者不詳)阿通自筆の十二段の本は大坂内本町
島田某蔵せしか元禄の初めに焼失すお通は津の国長柄(ながら)の里に纔なる学庵
を結びて住けるか元来和歌を好みて数首の秀哥ある中にも世人のよく知れ
る歌は つれ/\とふりにし跡を思ふにも袖こそぬるれ五月雨の空
元和二年三月五日五十八才にて庵室に死す其御地は長柄の町より西なる
畑の中に松ありておつうの松といひしか正徳中に枯たり河内国観心寺
内中の院の什物(じゅうもつ)に自筆の文あり(按るに新上東門院は後陽成帝の御国母にて 御入内は前也秀頼御簾中御入輿は後なり
 又前の川岡雑談の説に後光明院女御につかふるといへる事彼是牽強の説とおぼし
 其外考あれともはゝかり多けれは略しはべり)


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○窓のすさひ第二云(写本にして何人の撰にや しらず亨保九年の序有)むかし古戦おもかけを移して天満といふ考
説教と名つけてうたひしとそ舞といふ俗曲ありしかそれを転して俚俗の語を
もつて作りしと見ゆ予か幼年の頃迄かたはしを覚へたるものありしかいつとな
く絶ぬまた薩摩浄運といふものこれを変して世俗の悦ぶ文句をつくり
一曲を始しと云々』按るに中古謡曲の外に舞の一曲いにしへより伝りてあり
大職冠。八島。高館(たかだち)等は舞の章雅を上るりの節に直して語りしよし諸書に見
えたり尾崎雅嘉(まさよし)が群書一覧の中に舞の本三十六巻の目録を出して注に
云中古の舞の譜本にて草紙に類するもの也古雅なる文句多くして面白
きもの也此書にて中昔の俗語などを考ふるに尤益あり云々とありて目録
の中に和田酒盛 堀川夜討 志田 四国落 かけ清 十番切 あつもり
ゆりわか大臣 元服曽我 大職冠 文覚 烏帽子折 いるか なすの与一 小袖

曽我 伏見ときは 高たち 八島 なとあるもの何れも浄るりにかたりし物なる
へしまた同書に載たる御伽草子一名御伽文庫と名付たる慶長の頃の
草紙の目録二十三部ありこの内 文正草子 御曹子島わたり 酒顛童子
鉢かつき 梵天国(ぼんでんごく) 物草太郎 子敦盛 などいへるものもともに浄るり節
に語りしと見ゆことに梵天国浄るりは世に行れて浄留里の祝言には必
らすこれを唄ひしよしいへり委しくは還魂紙料に見えたり

○三味線に三絃の文字を用ゆる事漢土の三絃に比して書始しものなるへし(沽涼が世事談に 云三線と号るは
  三の線:いとすぢある故也三の字さみと云は閇:閉口の音にてはねがなをみと云也目論はもくろみ燈心はとうしみ
  御帯はおみおびなとの類也然るをいつの頃よりか味の字を加へて世間一統に三味線と書く云々)

○此頃公布せし用捨箱といへる柳亭主人の随筆に寛永の頃大坂説教与七郎
また六字南無右衛門か寛永十二年の浄るり画本の模あり

(枠外上)「五の 巻 増補」

○同書につぎぶし土手節の説ありこゝに略すつぎぶし一に継歌ともいひし由也


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 天和二年刻千春撰武蔵曲に
   遁世の余所に妻子をのぞき見て   芭蕉
   つぎ うた 耳に 残る よし 原 峡水 

○元禄十七年印行の松の落葉(前に引るは 宝永の本也)といふ草紙に道念咄といふ小歌あり
て作者道念仁兵衛とあり其歌に「道念咄をいたさふぞよ此道念つね/\なま
ぐさそうに思ふたればあんのごとくめんざうに大こくこそは置れたり此大こくを絵
像か木像かと思ふたりやおまんといへる大こくじや云々とあり思ふに壬生の
踊念仏狂言に道念といへるも梵嫂(だいこく)の事を作れりされば右の歌をうたひ
始しより道念山三郎道念仁兵衛など名つけ道念ふしとて行れしもの成
へし

○同書に大森市郎太夫か浄留りとてあり市郎太夫か伝いまた見あたらす
按るに大坂の人なり

○和漢三才図会云(原本 漢文)三州冷泉寺は矢作(矢矧或は 矢矯に作る)に在り彼驛に金高長者
といふ者ありけり女(むすめ)を浄瑠璃と名づく源の牛若丸奥州に下る時一夜潜(ひそか)に彼女に逢ひ
て再会を契り別れ去り後期(ご)を過して還り来らさりしかは女恨て菅生川に
身を投死す其侍女に冷泉といふ者あり悲嘆して尼となる浄瑠璃女秘蔵
する所の十二の匣(てはこ)を紀念(かたみ)に得たりしを鬻(ひさ)ぎて阿弥陀堂を建て冷泉寺と号す
とあり(本文縁起の可否は知らされと冷泉寺の号あるを見れば浄るり十二段に
    いへる所の侍女冷泉の名も由致なきにしもあらしかし)

○首巻に浄瑠璃物語十二段の目録を漏せり今こゝに挙く
  第一 浄るり御前まうし子の事  第二 花揃の段    第三 美人揃の段
  第四 そとのくわんげんの段   第五 笛の段     第六 さかひの段
  第七 しのびの段        第八 上るり枕問答  第九 やまとことばの段
  第十 御坐うつりの段      第十一 ふきあげの段 第十二 御曹司あづま下り

○蜀山先生の假名世説(かなせせつ)に三味線の作に古近江と称するは二代目善兵衛の事也
初代は源左衛門二代目は善兵衛隠居して惣髪となり貞心と号す世俗ガツソウ


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近江ガツソウ善兵衛とも呼ぶ三味線に自銘を作る
 貞心作三味線銘は 出雲 八重垣 妻籠 以上三挺三味せんといふ
  ひゞき 山彦 これを二挺三味線と云 大瀧 鳴戸 鏡山 松虫 常盤 雲井
  はるか 籬 にしき  百(もゝ)とせ 十二段 いかづち 以上十二挺三味線といふ
右に記す所の古近江か通称初巻にしるせると異なり尚其道によつて明らむへし

○南水漫遊云淡路座秘書に云摂州西宮に道薫といる人よく御神の
こゝろをなぐさめけるによりて海上波風静にして猟舩多くの魚を得る事久し
時に道薫しはらくいたつきてみまかりけれは復(また)風起り波高うして更に漁猟
なかりしかは百太夫(もゝたいふ)と云人木偶人(にんぎやう)を作りて神の御前なる箱のかたはらに身をひそめ
木偶人を持て生るかごとく操(あやつり)なし道薫尊(みこと)の御機嫌を覗奉ん為参りて候とて
御心をなくさめけるに是よりまた波風鎮り漁猟多かりしかば時の
帝此事を聞し召れ禁庭に召れければ百太夫都に登り木偶人を廻して
叡覧に侍ふこれによつて諸技芸首(しょぎげいのかしら)といふ号を下され諸国諸社の神いさめの事を

勅免ありしより胸に箱をかけ木偶人をつかひ神いさめをしけん是傀儡子(かいらいし)の始也
太夫は諸国を巡りて淡(たん)州三原郡三原村といふ所にて身まかりけるに何某の四人
太夫に傳りて傀儡子の業(わざ)をなせり是淡路座操の権与(はじめ)なり右淡路座の
操四十余座あり当時諸国に聞えて名高きは上村日向掾を最上とす芝居の
表口に大日本諸芸首といふ額を懸る近世寛延宝暦の頃まて西宮より
傀儡子来りしか今は絶て見えす(傀儡子昔は西の宮并に淡路島よりも出しなりえびすの
               鯛を釣り給ふ所を仕形にして春の始に出ける故にえびす
 廻しえびすかきともいへり後には能をまはし又義太夫節の上るりをもかたり人形を廻し出たる
 よし也江戸の方言には山猫といへる人形を廻して末に山猫となつけ鼬のことき獣の皮を出して
 小児をおど せしといへり)当時の首かけ芝居といふもの其余風なるへし百太夫の社は武庫郡西
宮夷宮(えびすのみや)の北に小祠(せうし)あり内に収る像は三寸許なる小児の坐したる木偶人也これ
神にあらず(百太夫の遣ひし
      木偶人なるへし)毎年正月には白粉(おしろい)を以て厚三四分程に面(おもて)に塗り置
此辺の輩其年生れたる小児を詣しめ此白粉をとりて小児の面にぬる也これ疱瘡諸


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病を除くのまじなひと云此木偶人ある故に西の宮に笠井氏といふ人形芝居座有
太夫よりして浄瑠璃語る者を太夫と呼来れりといへり(第一巻上村日向掾か件に いへる所と此談と混したり
 いつれか是なるや知るへからすされと物の始りは何事もたしかならすたま/\好事の人物に記して残れる
 なるへし但し前にいへるは俚諺に箱出狂坊:はこでくのぼうといへるものゝ始にして傀儡の戯は我朝にもいと古く
 よりあり俊頼朝臣の散木集にも傀儡:くゞつ舞しは廻り来て居りと見えたれといかなるさまにやあり
 けん知りかたしいにしへは遊女にさへ此伎をならはして酒宴の興とし遊女をさして傀儡とはよひ
 ならはせり東国美濃三河遠江抔を盛とし山陽播州山陰馬州抔これに次き西海を下黨:党如く
 せりとなんはるか後三味線渡り来り小唄に和しそれより説教或は上るりに和して弾すさびし
 より人形に合せ次第に其態たくみに なりて今世の如き壮観とはなりけん

唐土には漢の高祖平城に圍(かこま)れし時陣平訪(とむら)ふて冒頓単于(ぼうとくせんう)か妻閼(えん)氏か怒忌(どき)あるを知り
木偶人を造りて機関を運(めぐ)らし?(土へんに卑)間に舞せしに閼氏城下に慮りて単于をすゝめ軍を退し
める事書言古事雑戯の部及詩学成傀儡の部に見えたりこれらにおこりて懸絲(けんし)
傀儡の戯あり我国の糸あやつりの始なるへしよりてこれを南京あやつりをはいへり

 役者五雑爼云人形芝居にては大坂の石井飛騨といへるもの尊み申さねはならぬ事なり
 元来操人形は首はかりに着物を打きせ手も足も遣ひ人の手にくゝしたるもの故袖の形見
 苦しきをもつて自ら工夫して人形に手を拵へ付たり夫よりこれに習ふて足をつけ手の
 指を働かし眼をつかひ眉をうこかすなと近来はさま/\の自由に作るなりこれ
 石井氏の工夫を 始とすと云々

○説教の事は南家の儒者実兼の子少納言通憲(みちのり)の子澄憲(ちようけん)澄憲は
叡山の台徒にして天古の法文をよくし儒道をさみせり説教をなす其文花鮮(あさやか)にして
舌端(ぜつたん)和泉の如く聴衆耳を清ます又寛元の頃定圓(じやうえん)と云者あり園城寺の徒なり
唱説を善くして又一家をなす今天下の唱演をなすもの皆二家に倣へり
(此二人妻帯にて
 子孫相続せり)痛(いたま)しき哉無上正真の道流作偽(そぎ)俳優の伎(わざ)となる事歎ずへしと
和語連珠集(本文要を摘む 寛永元年に梓行)にいへり按るに徒然草に通憲入道(信 西)舞の手の興ある
事をえらひて磯の禅師といひける女子をしへまはせけり(中略)ぜんじがむすめしづかと
いひける此芸をつげり是白拍子の根源なり仏神の本縁をうたふ云々と書り
本縁は縁起なり今の説教もこれらより出て多く仏道によりて作りしが次第に
鄙陋(ひろう)の文にはなれるなるへし祭文とは神仏或は故人を祭るに其旨をふみに
作りかの祭文節にてかたり手向しものなり発語には必奉るといふ詞を


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加へ錫杖をあしらふにて知るべしと伊勢名所図会蝉丸宮の件にいへり
(按るに寛永の頃六字南無右衛門といふ女太夫ありしも説教にひとしく仏道によりたる
 事を語りし故からは名付たりけん南無右衛門はことに行はれしと見えて諸書に其名を記し
 たれと委しき事跡は書る物もなし貞享の頃の草紙に南無右衛門節の上るりと
 見えたれは一派をなせし物と見ゆ但し南無右衛門が芝居も操芝居なり)

○南水漫遊云近松門左衛門始俗称を杉森平馬と云肥前唐津近松(きんしよう)禅寺
に入て僧となり義門と号し僧侶数多弟子とせしが所詮一寺の主となりては
衆生化度の利益薄しと大悟し雲水に出京師に在つる肉縁の弟岡本一抱子か
もとに寄宿し還俗して門左衛門と改堂上方へ勤仕の間有職を記憶せり云々
(門左衛門と改名の事は近松寺にありし頃其寺の僧罪ありて寺門の側にて刑せられしを見て
 自らいましめの為に近松門左衛門と称せしよし蜀山先生仮名世説にいへり近松墓所播州
 久々智廣済寺の碑文に記せり廣済寺の過去帳には
 諸しあれと墳墓は前巻にいへる如く大坂谷町法花宗法妙寺にあり)

浄瑠璃文句評注難波みやげといへる冊子に穂積以貫(いくわん)翁近松か像に題するの詩あり
 (漢文)

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其蜩(きてう)老人が編の翁草南水漫遊抔の文を摘て云近松か文勢には人を寒からしむるの言葉
多し元禄十六年未三月㝡(最)明寺殿百人上臈といへる院本に㝡明寺か道行ふりに蝶の翼
のおしろいを草にこぼして梢には鶴の霜毛をぬぎかくる雪は花より花多きと書けり是なん
圓機活法(えんきくわつはふ)の部に鶴毛蝶粉といふ四字を出して書る處に石曼卿(せきまんけい)か雪を詠せし詩を出せり

 

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蝶遺粉翼軽難拾鶴墜霜毛散未転といふ此句を和語にうつせりかゝる才智を以て和
歌を詠しなば秀逸数多ありぬへしとてやむことなき御方の御感ありしよしいへり
橘庵漫筆に云或時竹田出雲穂積明貫なといふ人近松か方におもむきし時淀屋長五郎
か事跡を記したる草稿にかれか驕奢のさまをいふとて金の冠着ぬ斗りと書るを町人の
事をいへるには余り似合しからぬ様に覚えて翌日行て尚其絵を見しに金の冠着
はかりといへる次にしやくは持病にありとかやと書つゞけたるを見て各愷然たりしとかや又

亨保五年の冬地下丸翁住吉新家の酒楼に遊ひてありし時俄に大坂より芝居者来り
ゆうべ網島の大長寺に男女の情死あり何卒速に大坂へ帰り浄るりに作りて給らはあす
一日の稽古にして明後日より興行せんとてひたすらに頼みけれは早駕に乗りて大坂に
かへりかごより下りて其儘に筆をとりかごにて走りかへりしまゝ書つけしとて走り書と
書出し直に謡の本は近衛流野節帽子は紫のと書つゝけ道行の外題は思の橋尽しと名
つけしは大坂にはいくらも橋あるをもてしかなつけしといへり都て近松翁か趣向の頓に出る
事おほよそ此類なりしとて浪花の尾崎雅嘉生存の日高島千春ぬしへ語りたりし
よし高島氏物語の まゝしるしつけぬ


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○南水漫遊に竹本豊竹両座作者の略伝を挙たり(南水漫遊は此編の刻なりて 後豊芥子の得たるを看たり
  よつてこゝに挙ぐ第二巻と合せ見るべしこの外にも
  作者の姓名ありしかと伝を漏せし故こゝに略す)

 紀の海音(きのかいおん 榎並貞峩:峨と云俗称喜右衛門後善八と改む僧となりて高節と云帰俗して
       医を業とし又契沖師の門に入て歌道を学び契周と云鳥観斎とも
  号し浄るりの作者海音といふ元文元年辰の夏法橋に叙し寛保二年戌十月四日説
  延享 とも 行年八十才にて没す墓は八丁目寺丁宝樹寺に在り)

文耕堂(始松田和吉と云 千前軒門人也)錦文流(西鶴門人俳諧をよくす 座摩社辺に住す)桜塚西吟(摂州池田の人 西鶴門人俳諧をよくす)
三好松洛(医師也)吉田冠子(人形遣ひ吉田文三郎といふこれの 倅二代目文三郎おやま遣ひの名人也)並木丈助(北の新地の 茶屋なり)
竹本三郎兵衛(竹本筑後掾か 倅なり)近松半二(穂積伊助と云 医師の倅)為永太郎兵衛(始は竹田庄蔵 といふ)
青竹堂(高田瑞庵と云医師也 俳名笛十といふ)菅専助(医師の倅 豊竹光太夫)長谷川千四(和州長谷寺の僧帰 俗して作者となる)
安田蛙文(あぶん 有高家に 仕へし人也)近松東南(東南伊助といふ老後法體となりて 綾子播磨と改三絃の上手なり)
浅田一鳥(森長三郎と云 謡の師なり)中村阿契(あけい 始閏助)八民平七(坂町大坂屋太郎兵衛 の倅)
若竹笛躬(ふえみ 若竹藤九郎と云 人形遣ひなり)二代目笛躬(塩屋治兵衛 後松鱗と云)紀の上太郎(三井某嘉栗 八貫又仙果堂と云)

豊竹應律(若太夫芝居主 甚六といふ)松田ばく(俳諧師岡本栄古 後表隣といふ)男徳斎(竹本咲太夫と云 浄るり語なり)
栄善平(道頓堀 いろは茶や)七才子(岡本原一と云 医師なり)川四郎(長町七丁目分銅河内屋四郎兵衛と云 宿屋也豪家にして活達の人なり)
中村魚眼(難波新地中村屋と いふ茶屋なり)近松やなぎ(始並木柳と云後改て 柳太郎作とも云)
司馬芝叟(蜀笑庵の 倅なり)梅の下風(千葉軒 湖水軒 佐藤太)

○ことし弘化丙午の春日尾茨先生奥羽より越後の辺へ遊歴せられしに
越後蒲原郡水原(すいはら)の町に瞽者(こしや)ありて和泉太夫か金平節の浄るりを覚えて
語る凡三十段も記憶せち一席に五段六段のものを続けてかたるそれか師何某
座頭は凡七十段も覚えたりしか故人となり今の弟子某座頭に伝ふ其弟子も
あれと多く覚えたるものもなくまた盲人の事故印本も所持する事なく只
記憶のみなりと語られきかゝるわさもたま/\片鏡に残りていと珎らしき
事なるを当時にいたつて傾廃せんとす此編をなすにつけても遺憾少からす


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此編の成るや実に無用の弁をなして有用の梓楮(しちよを)費し劂人(けつじん)を労すること厥(その)罪
多しといへとも浄瑠璃三絃の俗曲肇りてより以降(このかた)あらたに調を起して世に賞せらるゝ
輩幾十人といふ数を知らす久しうして其名の湮滅(いんめつ)せん事を歎き其伝其説を稗官(はいくわん)
野乗(やしやう)に索(もと)めて優れたるを採摭(さいしよ)し はた今に相続せるは其家に繹(たづね)ねて次第に筆
記し終に此輯(しふ)成ぬ然れとも猶誤脱尠(すくな)しとせす希(こひねが)くは采覧の君子其謬(あやま)れる
と漏たるとの節々あらは書房に示し給はらん事を

(挿絵)
此図は佐竹永海子の所蔵にして小野の
お通か正筆なりといえり此書に因あればとて
北山樞斎子縮写を乞ふて送られしを
こゝに加へはへり


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編輯并古板本摸 東都神田 斉藤月岑幸成

画図 仝下谷 長谷川雪堤宗一

写字 仝牛込岩戸街 樞斎北山兼芳

天保己亥季秋藁成
弘化丁未季冬発行

書舗 日本橋通壱丁目 須原屋茂兵衛
   浅草萱町二丁目 須原屋伊八  合梓

 

(以下略)

 

 

 

岩波文庫「声曲類纂」

 https://www.iwanami.co.jp/book/b245867.html   

          随分お世話になりました。