仮想空間

趣味の変体仮名

声曲類纂 巻之一上

 

 

  私にとってはスーパー読み難い字だけどスーパー読みたい内容なので安直(あんちょこ)用に翻刻を買いました。でも20ページも読むと少しは字体に慣れてくるし、所々安直をカンニングしながら必死で数行読んでは忠義太平記を数ページ一気読みしてストレス発散、というルーティンがそれはそれで楽しかったです。忠義太平記を読み終わってしまったので今はまたストレスが溜っています。

 

 

読んだ本 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200017224/

 

1
  巻之壱上
平家物語之事
浄瑠璃節の始原
小野通女か事
三味線の権興

声曲類纂 宮(上)

 

 (略・読めないよ)


7(左頁)
あかりたる世のわさうたはさらなり神楽さいは
ら風俗なとはいと神さひにたるうたひ物なるへし
されは中昔のこんほひよりはいまめきたるさうか
もいてきて月花のをりにふれうちとけたるま
といなとにはかならすこれをうたひけうしつゝ
たゝに今やうとなん名つけたりける其後又
鎌倉の末つかたより琵琶法師のひはにあはせ
てへいけの物語をなんうたひいてたるこれそ


8
末の世にさみせぬといふものゝおこなはるへき
きさしにはあるへきこゝにわか友斎藤月岑
のうし年こんかきつゝたれたるふにあまたな
る中にいまこのふのをみるにあるは平家の曲
のはしめをあきらめあるはしやうるりやうの
うたひものあまたなることゝもをわきまへある
はさみせんのわたりこしことのもとをからかへたゝし
てさてこのなかれあまたにわかれたるすぢさへ

いとつはらかにそときわけられたるまことや
かの矢はぎの長者はやくしほとんをいのりま
うしてあかし姫やらんまうけtがりとかげに
さるべきゆかりもしるゝてこの大江戸の浄
瑠璃世界にかうこの道のひろまれるなるへ
ししかひろまれるまに/\又かゝるふみもい
てきにたるなりけりかくいふは弘化の四
とせ未のとし水月のはしめゆふつくよやゝ


9
夏めくまとのともし火にむかひて稲のや
のあるし朝田ゆ??しるす


10
浄瑠璃系図
衢(?)に梓行する諸書を参考して此略譜をつゝり
?首に?て網要知らしむ杜撰は好者の剛
補を俟つのみ

浄瑠璃十二段作者
 小野氏通女
浄瑠璃三味線始祖
 澤住検校
 瀧野検校
 (略・下)大薩摩次郎右衛門
  下りさつま外記太夫-広瀬式部太夫-若太夫
  土佐掾(略)

(右頁中央左寄りの宇治加賀掾から義太夫節の系譜を追います)
宇治加賀掾
 ↓
井上播磨掾(左頁上)
 ↓
清水理兵衛(安居天神辺の料亭の主人)
 ↓
 義太夫節元祖
竹本筑後掾(竹本義太夫
 ↓
豊竹越前掾・竹本播磨掾
 ↓
豊竹筑前
同 肥前

 (略)恭


11
?笛は
こゝろ/\に
しらぬれと

ゆたかなる世の
声あはす なり

 常悦

 提要
○此冊子は浄瑠璃節の世に行われしより流派の領(わか)れたる年代を探り
集むるを旨とせし編輯(へんしふ)なれば三味線弾 窟磊子人(にんぎやうつかひ)傀儡場(あやつりしばい)戯子(かぶき)等の事は
穿鑿に及ばすされど見聞によりて因に記せるもまゝあり 固(もと)より神楽
催馬楽今様朗詠等の古きは載せず 謡曲の事筝曲の事も亦ともに記さす
○音曲の態人(わざびと)一派の組と称するものを撰むて挙ぐ 有名の輩(ともがら)といへども其枝葉
に至りては際限あらざればこれを省く但し一派をなすものは都(すべ)て三都の内也
○流派を以て区別なすといへども自ら混ずる事何かと知るべしまた三都
混合するものの少なからず
浄瑠璃の節譜(ふしはかせ)音声の長短呂律(りよりつ)甲乙等の口伝は浄瑠璃秘曲抄 播磨掾
口伝書 竹豊故事等に詳なれば彼書に譲りてこゝに漏らしつ
○小唄は其肇古しこゝには中古より三味線に和して唄ひしものを撰むて
編尾に録す国々辺鄙の小唄等は略しはべり
○本文年代の疑しきもの少からずといへども自己の意をもて改めす各々前板の


12
書に據る所なり又諸説異同ありて一定(じやう)なしがたきも其儘に誌(しる)して愚考
を加へず 固(もと)より引用の書無下の怪書のみなれば杜撰少しといふべか
らず彼道風(たうふう)が筆の和漢朗詠集なきにしもあらずかし
○此書稿半ばなりし頃豊嶋街(ちやう)なる鎌倉屋豊芥(はうがい)といへる人中古以来の浄
瑠璃小唄の本或は西鶴了意等が浮世草紙等其余引用(ひきもち)ふべきふみども数中
部をかし与えられきしかりしより穿鑿の便りを得終に壱部の冊子とはなり
ぬ されば此冊子の成れる事半は豊芥子の丹志によれりとやいはむ
○此冊子は年を積み稿を易(かえ)て編(あめ)るにあらず一時燈下の戯墨(げぼく)にして適(たま/\)
獲(え)たる所の僻書を渉猟し或は脱本を抜粋してあらましに次第
を頒(わか)ち識(しる)しつけたれば見漏らし引漏したる書ども多かるべし 此道の
好士(かうし)尚訂正を給らむ事をこひねぐのみ
 干時(時に)天保己亥五月龍生日 

 援引(えんいん)書目
徒然草 吉田兼好  
徒然草寿命院抄 慶長六年板 立安法印
羅山文集 寛文二年板 道春先生
尤の草紙 寛永十一年板
可笑記 同十三年板
曽々呂物語 同十八年板 三浦浄石
あづまめぐり 同二十年板
吾吟我集 慶安二年板 石田未得
浄瑠璃十二段草紙 上木年代不 詳画入也
東海道名所記 万治元年成寛文梓行 浅井了意
むさしあぶみ 万治四年板
江戸名所記 寛文二年板 浅井了意
京雀 寛文年中板 浅井了意と云
糸竹初心集 寛文四年板 盲人中村宗三
江戸名所絵巻 寛文十一年 源函斎正信図
日本人物史 寛文十二年板 宇都宮由的
吉原小歌惣まくり 寛文年 中板
紫のひともと 天和二年写本 戸田茂睡
下り竹斎物語 天和三年板
一代男 天和年中板 井原西鶴
堺鑑 貞享元年板 衣笠一閑
野郎三座?侘 貞享二年板
江戸図鑑綱目 元禄二年板 石川流宣
江戸惣鹿子 元禄二年板 松月堂不角
人倫訓蒙図集 元禄三年板 蒔絵師源三郎画
江戸名所咄 元禄七年板
書言字孝 元禄十一年 槙島昭武
糸竹大全大ぬき 元禄十二年板 松風軒


13
同紙鳶(いかのぼり) 同年板 同作
集尾琴(しやうびきん) 元禄十四年板 其角句集
摂陽群談 元禄十四年板 岡田氏
境町芝居読本 外題年号 共不祥
松の葉 元禄十六年板 秀松軒
松の落葉 宝永七年板 扇徳
棠(からなし)大門屋敷 宝永二年板 錦文流
男女色競馬 宝永五年板 団水
西鶴なぞ歌仙 正徳五年板
老士語録 写本享保の頃
洞房語園 庄司勝富作数本あり享保五年序同十八年撰 廿一年撰写本元文又板寛延三年板等あり
和漢三才図会 正徳三年板 寺島良安
家づと 享保十四年板 油煙斎貞柳集
置みやげ 同十九年板 同作
雅筵酔狂集 享保十六年板 正親町公通(おおぎまちきんみち)卿
むかし/\物語 享保十七年写本 能見正朝入道法入
江戸砂子 享保十七年板 菊岡沾凉(せんりょう)
近代世事談綺 享保十九年板 菊岡沾凉
代々(よゝ)蚕 享保十一年板 定佐句集
和事始 元禄九年撰 貝原好古
関東血気物語 写本 編者不祥
当道宗記録 写本
古今秘録 写本 編者不祥
宗固随筆 一名小窓雑筆集 萩原宗固
玉露叢 写本十九冊
安斎漫筆 伊勢貞丈
事跡合考 延享三年写本 柏崎永以
女学範 明和五年板 大江資衛
色竹 土佐節上るり寄本 元禄の頃板本
鳰鳥(にほとり)万葉集 享保八年板 河東上るり寄本
夜半楽(らく) 享保十年 同
幸葉(かうえう)集 或紅葉集と号るも あり同

一寸見(ますみ)要集 河東上るり寄本
十山集 同文政八年板 芝生選
江戸節根元集 享和元年可柳改 柳雅撰写本
二見真砂(ふたみのまさご) 梓行年号なし 伊せ音頭文句也
京羽二重懐中扇 享保年中板 中節寄本也
京羽二重拍子扇 文政三年再板 上に同じ
古調撰要抄 一中節寄本 五代一中集
今昔操年代記 享保十二年板 西沢一鳳
増補今昔操年代記 寛政八年板
竹豊故事 宝暦六年板 一楽
今昔操浄瑠璃外題年鑑 宝暦十年 板 一楽
古今浄瑠璃年代記 宝暦十三年 板
増補外題年鑑 安永八年板
竹本・豊竹 浄瑠璃年代記 両面摺 安永八年
竹本・豊竹 浄瑠璃譜 明和八年撰蜀山人 難波に得られし写本也
竹本播磨掾秘曲抄 宝暦七 年板
同音曲口伝書 明和八年撰安永二年梓行 門人順四軒のえらひなり
吉原大全 明和の頃の板 酔郷散人
浄瑠璃評判鶯宿梅 安永十年 板
役者五雑俎 明和八年板 八文舎自笑
譚海(だんかい) 寛政年中写本 葭川員正
伊勢参宮名所図会 寛政九年板 海驢
摂津名所図会 寛政八年板 秋里籠島(籬嶌)
近世畸人伝 寛政二年板 伴蒿蹊
みをつくし 宝暦七年開板夫より追々 再板大坂の町細見記也
群書一覧 享和二年板 尾崎雅嘉
集古十種 楽器の部 三
近世奇跡考 文化元年板 山東京伝
卯花(ばうか)園漫録 文化六年写本 石神宣読
骨董集 文化十一年板 山東京伝
筆のすさひ 文化二年板 橘の秦
俳諧通言 文化四年板 並木五瓶


14
琉球年代記 大田蜀山
一中節系図
都譜(とふ)決議
系図 天明二年板 流石庵羽積(りゅうせきあんはづみ)
中古芝居説 礫川軒魯里観(れきせん?けろりかん) 撰写本
音曲道智論 写本 編者不祥
歌舞妓年代記 文化八年板 立川焉馬
大尽舞考証 享和四年写本 山東京伝
弦曲大榛(たいしん)抄 文政七年板葛野 端山編光崎検校訂
還魂紙料(くわんこんしりやう) 文政九年板 柳亭種彦
三絃孝 文政九年板 小山田与清
俗耳鼓吹(ぞくじくすい) 写本 太田蜀山子
酔余小録 文化四年版 藤原吉廸
篇額軌範 文政四年板 速水春暁斎
牟芸古雅志 文政九年板 瀬川如皐
三養雑記 天保十一年板 山崎美成
常盤津系図 常盤津 蔵板
  
  通計百九部
其余浄瑠璃小唄の本数百部書目を挙げず

声曲類纂巻之壱

 目録

平家物語の事 浄瑠璃節の始原 小野通女か事
三味線の権輿(けんよ)(中小路 石村検校 虎沢検校 柳川検校 八橋検校等か事 三絃師石村近江
 が事 同作三絃の銘 同烙印図 三絃名所:などころ 古代二絃并四絃図)
寛永正保の頃古画縮図(若衆歌舞妓 并酒宴の図) 同頃古画縮図(芝居図)
引田淡路掾(目貫屋 長三郎) 上村日向掾(浄るり太夫 受領号の事) 河内
竹本若狭掾 杉山丹後掾 日暮(ひぐらし)八太夫同小太夫
(日暮林清林故 林逹) 説経与八郎(外記七郎兵衛 同門十郎) 左内
伊勢嶋宮内(佐太夫) 虎屋上総少掾 井上播磨掾(井上市郎太夫 清水理兵衛)
宇治加賀掾(宇治宮内野田若狭富松薩摩立花河内 其余門人之事 当座浄るり目録)
伊藤出羽掾(上るり 目録) 山本土佐掾(門人之事 当座浄るり目録 山本河内掾之事)


15
声曲類纂巻之壱
 ○平家物語之事
  浄瑠璃節の始原(はじめ)并小野通女か事
琵琶法師の語る所の平家物語は十二巻の平家物語へ其儘に節を付たる也
後鳥羽院の御時信濃の前司行長入道源平盛衰記を撰び抜てこの
物語を作り盲人性仏(しやうぶつ)に教へて琵琶に合せて唄はしめければ性仏山
権現に祈り神勅によりて長短高下遅速緩急の節譜(ふしはかせ)を作り唄ひ始
めけるより世に行れしが(つれ/\草二百二十六段に云後鳥羽院の御時信濃の前司行長稽
 古の誉ありけるが楽府(がふ)の御論議の番にめされて七徳の
 舞をふたつわすれたりければ五徳の冠者と異名をつきにけるを心うき事にして学問をすて
 て遁世したりけるを慈鎮和尚一芸あるものをば下部までもめしをきて不便にせさせ給ひければ
 此信濃入道を扶持し給ひけり此行長入道平家物語をつくりて生仏といひける盲目にをしへ
 てかたらせけりさて山門の事をことにゆゝしくかけり九郎判官の事はくはしく知て書のせたり蒲の冠
 者の事はよくしらざりけるにやおほくの事どもをしるしもらせり武士の事弓馬のわざは生仏
 東国のものにて武士にとひ聞てかゝせけり彼生仏うまれつきの声を今の琵琶法師は学び


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 たる也といへり宗固随筆に云当道要集に四條院御時性仏と云僧比叡山の検校なりしか俄に盲人と
 なりたる故盲人の業には何事をかしはべらんと山王権現に祈誓せし時平家物語を唄へとの託宣に
 まかせ平家を語る事を当道の家業とし且性仏より相伝して山王廿一社の内を十神取分十宮
 神と崇め当道の守護神とすと云ゝ又群書一覧に一枝軒随筆を引て云当時流布の本は桜町
 の中納言の子願教法印北野天神の示限を蒙りて述語すと云々其外六人の作者ありといへり
 其後性仏熊野権現の神勅によりて節譜:ふしはかせをつくりしよしいへり又同書に平家物語引句語句
 の事引句はふしを付琵琶に合せてうたふ音曲なり語り句はびはを下にさし置ふしもなく書籍の
 素読などする様に其事実を諳:そらにてかたるを語句といふと云々立安法印が徒然草寿命院抄
 に公卿補任を引て勧修寺良門十三世之孫葉室:はむろの時長と云人平家物語の作者随一と見へたり
 されば四十八巻盛衰記の作者なるよし随一とある時は猶も作人あるべし信濃前司行長八十二巻平家の作者
 と見るべしとあり平家物語に八坂本鎌倉本長門本嵯峨本等の
 異本あり尾崎雅嘉が群書一読に綱要を誌るせり)はるかの後浄瑠璃節といふもの出来
てより平家はすたれ浄瑠璃節世に行れたりしかるに永禄の頃琉球国より蛇皮(じやひ)
を以て張たる二絃の楽器渡りしを泉州堺の盲人中小路(なかせうぢ)といふものこれに一絃を増
して三絃となし小歌に和してこれを弾き世に弘む夫より後次第に行れて慶
長の頃沢住(或澤 角)といふ盲人琵琶の上手なりしか三味線をも手練し琵琶に平家物
語を合する如く浄瑠璃節に合せて専ら弾けるより例(たとひ)酒呑童子が事を作り

たるにもあれ山姥の事を作りたる物語にもあれ節を付て三味線に合するものを
都て浄瑠璃を語るといひならはせし故此音曲の名とはなれりろぞ其頃の三味線は琵
琶の手のごとくにして今の世に行るゝ如く手のしげきものにはあらざりし浄瑠璃も平家
の節にて少し和らげ謡に似たもの故に浄瑠璃に師匠なし謡をもつて師と心得
よと中古の名人井上播磨其門弟に伝へしとなむ
浄瑠璃節の始元(はじめ)詳(つまびらか)ならず今口碑(こうひ)に伝ふる所は織田信長公(或云淀殿に 仕へしとも)の侍女小野の
阿通(おつう)君命によりて其むかし源の牛若丸三州矢矯(やはぎ)の宿何某長者か娘浄瑠璃姫に
(其母三州風来寺峯の薬師へ祈誓して儲けし所故
 薬師るり光以来の縁をもつて浄るりひめとなつくると)忍び逢給ふ事を十二段に述作して浄瑠璃
語となづく(十二段に作る事は薬師の十二神将による所なりと云々 
 按ずるに平家物語十二巻によるもの歟)是浄瑠璃節の権輿(はじめ)なりといふ
然れども此事正しき書に見へずたま/\野史に載る所も其説異同ありて等し
からず故に其一二を挙ぐ


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江戸名所咄(話?)に云 豊臣太閤秀吉公の御台様の宮仕に小野のおづうと申て
いうにやさしき上臈のありけるが容顔いつくしくえかき花結び詩歌糸竹のわざ
も世に勝れ殊更手跡は聖武の女帝も同じ世にたにましまさばはぢ思しめす程なり
とかや有時御台様通女をめして仰られけるはいにしへ女の世に勝れたる才芸ありしは
其徳を末世に残し置しぞかし(中略)哀れ和御前(わごぜ)も才芸の程を末世に残して
名のかたみともなし候へかしと御望有ければおづう返事にいにしへのかしこきは皆神や仏
の化身にてまします故さやうの事を後の世まで置れ候へども今拙きわらはの及ぶへき事
にござなく候さりながら仰おもければよしあしなには入江のもしほ草はあつめてさし上
ときの御わらひ草にもなし奉らんとて昔佐馬頭(さまのかみ)義朝の末子牛若丸鞍馬の東光
坊の弟子と成り舎那王丸と名をつきおはしけるが十五才の春の頃奥州秀平がもとへ下
るとて金売(かねうり)吉次信高が家人にまぎれ三河国矢矯の宿長者かもとに着給ひて長が

浄瑠璃御前に忍び逢給ふてぬれにぬれたる言の葉を十二段にわけて書記し
御台様へさし上ければ御台様御上覧まし/\て扨々言葉のつゞきやさかたに筆勢
玉をのべたり今の世の伊勢か紫式部かまことは小野のながれ程こそあれとて御感(ぎよかん)の余
りに太閤様の御上覧に備へさせ給へば秀吉公取上たまひて是程の物を其儘す
て置んもをしき事也とて家舩(いえふね)検校に節をるけよと仰付られければ検校仰を承
り則山中山城守に読せらるゝをつく/\と聞て申様十二巻平家は信濃の前司
行長が作にて生仏と云座頭節を付けると申伝也候なり今通女の作に此盲目が節を
付申さんこそ末代迄の誉れにて御座候通女の作なくは音曲の妙も空しからんに
よき幸にも生れあひ候とてしばらく閑居して節を付かたり初めけると也彼通女
の作は筆勢伊勢物語に似たりけるを節や付がたかりけん家舩検校言葉を下し
けるとかや夫より世上の坐頭つたへて語りけるを浄瑠璃節とてもてはやし次第に事


18
広く成て京田舎遠国端島(はとう)迄はやりける程に四条の河原にて芝居をたて六
字南無右衛門といへる女太夫かたりける時(南無右衛門と同じ頃左門よしたかなど云女の浄瑠璃を語り
 けるをかぶきとともにとゞめられし事万治元年梓行の
 東海道名所記にいへり又島田万吉といへるも其頃の女太夫にして女名代といふ事を始め上るり操興行
 しける事諸書に見へたり其角が焦尾琴に云童謡歌舞のいにしへを思ふに明暦年中の双紙
 に登り八島下り八島といふはやりかなる事ども十二段に分たるあり六字
 南無右衛門正本と奥書しさるこそ数寄ものゝ名にふれたる雅なるべけれ云々)十二段ばかりははや人の
聞ふれて珎らしからず事とて舞にまふ八島高舘(たかだち)曾我などを彼節にかたりける
故に浄るり節に八島をかたる高舘を語ると云てよりおのづから其名になりたると也
夫より左内宮内(さないくない)などいふ太夫うちつゞきて四条河原にて語りける故に河原節
といふて坐頭よりはいやしめけるとかや扨江戸にてもそのかみは芝居町(その柴井町 にやあるべし)にて座を
はりかたり其後中橋へ移り又此堺町へ移り語るなり其頃は大薩摩小薩摩
四郎興吉七郎左衛門(杉山丹後 なり)とてかたる中頃虎屋源太夫油屋茂兵衛鳥屋次郎吉
南北嘉太夫などゝいふ太夫あり然れば家々の筋出来て浄瑠璃をもさま/\゛作り

出す事限りなし太夫どもゝ皆々受領して丹後近江長門丹波かれこれと源平藤橘
の氏を名乗芝居をも金銀をのべかざりけるゆへに度々御改あひたり(中略)
浄瑠璃御前の御影堂は参州岡崎の城の二の丸に在ゆえに他所の者の見る事なし
と彼城下に住けるものゝかたりける也牛若丸十五のかたち浄るり十四の年のかたちにて
是あるとかや(下略)(浄るり姫の墓は西矢矧左の方圃:はたけの中にあり此里に誓願寺といふ浄土宗の寺
 ありこゝに浄るり姫と源の義経朝臣の像を安置せるよし東海道名所図
 会に見へたり又江戸惣鹿子には岩船
 検校を瀧野検校に作る)
昔々物語云浄瑠璃の始りは織田信長公以の外の大病にて病気本腹に趣き給ふ
時大病の後故大きに草臥給ひ夜も寝(いね)る事あたはず御側(そば)さらずの御伽には城玄勾(じやうげんこう)
当(たう)角都(かくいち)勾当小野のお通此三人昼夜少しも御側を離れず(中略)その時この城玄
角都一同にお通は聞へし文者なり何ぞ面白き文を作り御耳に入候はゞ御慰みにも
なるべしやと申上る信長は即お通に仰付られお通さま/\辞退申けれども再三


19
浄瑠璃
古事

拾遺集
しやう
ふえ
ひちりき
こと
びわ

読人 しらず
うしや うし
はな 匂ふえ に
かせ かよひ
ちりきて
人のこと とひは せす


20
其二

うす桜
くらまの山に
さきしより
やしまに みちて
白ふはる かせ
 季鷹


21
御所望ゆえ是非なく筆取て何とか書つゞらんと色々案じ源の義経舎那
王丸と申時東へ下り給ふに三河国矢矧の宿長者が娘浄瑠璃と申女に戯れ給ふ
事を書綴り作りすめして読聞せ申に殊の外面白く思ひ給ひ城玄角都を
はじめ御側の人々も感にたゆるばかり也毎夜/\右の一巻くり返し/\読故後に
はあき給ひ側の者眠り出たり其時両人の勾当申は仝じ事を読むはかりにとは
如何の儀にて候是に節を付て唄ひ候はゞ然るべしと申す信長尤に思ひ給ひ誰にか
節を付させんと思ひ給ひしに此頃御慰のため御領分より出たる丹後七郎左衛門橋本
筑後といふ頓作第一の理発者殊に声よしといへば是然るべしと両人へ仰付られける
七郎兵衛は浄瑠璃太夫寛文の頃の肥前より四代前の祖なり右の節出来是は
何と名を付べき哉と窺ふに浄瑠璃といふ女の事を書し物なればやはりじやう
るりと名付べしと也是浄るりの始なり七郎兵衛声よくて毎夜是をうたふ信長

も面白く思し召聞へも是はとかんにたえし也又此上は三味線に合せ然るべしと城玄
角都三味線に合す(按るに信長公御在世浄るりに三味線を 合せしといふ事いかゝあらん)猶面白く信長もとてもの事
に今一流れ拵へよと又武士(ものゝふ)の働き世上の政なと入て作るべしとて即両人の勾当大
江山酒呑童子を源の頼光(らいくわう)退治の事をこしらへ其時筑後を召出され節を付よと
有しに筑後も七郎兵衛に劣らぬ利発ものなれは思ふ様に節を付かへ両人の勾
当三味線の手を付毎夜是をかたる今に至りても十二段は肥前家の浄るりなり
酒呑童子じゃ筑後家の浄るり也今土佐節の先祖なり又両人の勾当三味線ば
かりにては見所なし西の宮の傀儡師を召て人形にて仕方を仕らせ然るべしと則
召て仰付る(中略)是よりあやつり始る云々(按るに七郎兵衛は寛永正徳の頃の人に して永禄のころの人にはあらず)
江戸砂子云瀧野澤角と云両検校琵琶の妙手なりしが浄瑠璃物語をつゞ
り置し曲節(きよくせつ)を語り出せり其頃は三絃に合する事もなく右の爪さきにて


22
扇の骨をかきならし拍子をとりたりとぞ云々
右に載る所の説どもあれも牽強にして信としがたし按るに近頃柳亭扇(をう)編
輯(しう)の還魂紙料に浄瑠璃を小野の阿通か作とする事非ならん歟其故は慶
安の印本守武(もりたけ)千句に(前句)いとゞだに座頭まがひの杖つきの(附句)浄るりかたれ
灯のもと(又付)今宵はや時は牛若ふけはてゝこれ天文九年の千句也信長公は
天文元年の生れなり此千句の時僅に九才也幼稚の者を慰んとて綴りしもの
とも思はれず最(いと)いぶかしき事に思ひしが宗長(そうちやう)日記享禄四年の条に小坐頭
あるに浄るりをうたはせ云々とあるは駿河国宇津山にて書るなればこの頃はや田舎
わたらひする小坐頭のうたふとあるにて浄瑠璃は古くよりありしを思ふべし享
禄余念は信長公生れ給ふ前年なり云々といへり(又信長公を秀吉公とする説あれども秀 吉公も天文五年の出生なればともに時代
 あはず尚考ふべし)
浄るり御前十二段草紙とて絵入の刊本三巻あり刻辞の年号なし此書お通が述作せるところの

ものか又は余人のなぞらへ作りしもの歟詳ならずその十二段の大意は
 源の牛若丸十五才の時奥州秀平の代官金売吉次が従者(ずさ)となりてあづまへ下り給ふとき矢
 矧の宿長者の家の門辺にたゝずみて見給ふに家居前栽の壮麗なるは更に類ひすへき方なしあ
 るじは上るり御ぜんと申又はふしみのげんぢやうなごんかねたかとて三河の国の国司なり母はやはぎの
 長者とてかいだう一のゆうくんなりかの長者よろづいとみたれど子をひとりももたざりしかばそのころ
 三河の国にはやらせ給ふみねのやくしへ宿願をこめてさづかりし所にしてことし十四にならせ給ふ
 すがたかたちはさらにもいはずげいのうなさけ万の事立まさりて世にたぐひなくぞ見えけるされば
 上るりごぜんはあまたの女房たちの中に十二人めしぐせられてくわんげんをはじめてあそむれける上るり
 ごぜんは琴のやく月さへは琵琶のやくれんぜいはひちりき十五夜は笙のやく有明はわごんのやくにて秘曲を
 つくし給ひければ御ざうしかんじ入笛を出して楽に合し吹すさび給ひしかば上るり姫笛の音を
 かんじ侍女をして招きいれくさ/\の風流の問答ありてつひに姫君御ざうしの才智にめでゝ偕
 老の契りをかはし夜々忍びあひ給ひしが御曹子上るりにわかれをつげて吉次とうちつれて東(あづま)
 へ下り給ふとき駿河の国吹上の浜につき給ひえやみにかゝりておもき枕にふし給ひしか吉次もせんかた
 なく宿のあるじにつめよき馬にこがねとりそへてあたへ御ぞうしの事をたのみ置てあづまへとて出さ
 りぬ御さうしはたゞ一人うちすてられておはしけるが此所のくせとして邪見のものどもきびやうをやむ人を
 一つ家にはかなふまじとてなさけなくも後の濱に松六本ある中にほうき竹を柱として松のはをとりおほ
 ひつゝ沼のまこもをひきはへておんざうしを追出しける此浦人御ざうしがこがねづくりの太刀かたな笛ひ
 ちりきをぬすまんと此濱へ行て見れば太刀は大蛇刀は小蛇とへんじ近づく者をのまんとす是を見る
 ものきもをけしてにげ行けるこゝに氏神正八幡あはれと思し召老僧と現じ給ひ御ざうしの病を
 とひ給ひ望にまかせてやはぎの上るりごぜんに此事を示し給ふ姫はおどろきめのとれんぜいとともに
 ならはぬたびぢに御身をやつしからうじてこの所へ尋当りしに御ざうしはまさごの下にうづもれて姿
 かたちも見え給はず金(こがね)作りの御太刀のいしづき少し出たるを見出してやうやうにして御なきがら


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 を尋出し神にちかひなどしてそせいを祈り給ひし時いづくともしらず十六人の山伏出来り加持し
 給ひしかばつひに御ざうしよみかへり給ふ姫君よろこび御ざうしを引具してはるかの奥に尼のす
 みけるいほりに宿をかりていたはり給ひしかは快気ありてこれよりおくへ下り秀平をたのみ十万
 きのせいを催し都へ登り平家をついたうし又こそ対面すべしとてあたごひらのゝ大天狗小天
 狗をまねきて二人の女をやはぎの宿へ送りとゞけ給へとたのみ聞え給へば天狗ははがいにのせて二人の
 女を送りとゞけ給ひ御ざうしはふきあけを立て奥州ひでひらが館につき給ふといふ事を十二段に
 わかちてかきつゞけしものなり

小野の阿通が事世に聞えたる女なれども其伝系区々(まち/\)にして詳ならず荻原宗固が
小宗雑筆には塩川志摩守が後妻(こうさい)にて詩歌書琴(きん)に勝れし才女也といへり又橘の
泰(やすし)が筆のすさびといへる随筆に云小野のお通の母は室町松本町に住せし人也お通
の女(むすめ)は真田河内守といへる人の妾となりて信州松代へ行後に頼通を手元にて
老養したしとて迎の人を登し於通を松本へ引とるお通松本へ下る道にて
姥捨山の近きあたりを通りけるに迎の従者どもいふには是よりわづか七八丁ばかり
廻り道すれば姥捨山を通りまうすべく候名所の事ゆえ御覧なさるべく候はゝ廻り

申べくやといふにお通承知せず廻り道早めて山へは行ずしてけり其時お通の歌に
 姥捨の山には入らし 名を聞てくるまをかへす人もこそあれとよめりこは
史記縣ヲ勝母ト號スレバ而曽子不入 邑朝苛ト名クレバ墨子車ヲ回へスとあるをとりてよめる也近時
には心かけのよき婦人にてありし也此事の始末詳に記せしもの松代の長国寺にあ
りと実岩和尚かたりき河内守といへるは真田伊豆守の実弟にて七千石を分て
別屋住(へやずみ)の由なりといへり(日尾荊山先生の蔵に感通女伝と題する草子あり 姥捨山の月かきた
 る屏風を見て是はいづくの山ならむと人の問たる返しにふと勝母
 の里の事思ひいでられて「おはすての山とはいはし里の名に事をかへす人もこそあれ こは享保五年の
 冬井上氏感通女行年六十九歳の時のすさびなりされば橘泰が説かれこれ混しまじへたりと覚し)
古今秘録といふ書には小野お通は池田武蔵守の家来塩野喜太郎といふものゝ妻
なり壱人の娘をもてり喜太郎は酒狂ふかき者故娘を連れて家を出ふたゝび帰ら
ずとなり新上東門院様へ御奉公申能書(のうしよ)にて女の作法かへる事なし浄瑠璃
の事を十二段に作り松枝検校に節をつけさせてかたらせし也後に駿河に御召


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「お通が伝第五巻の追考にもいへり」
ありて女中の作法をならはし給ふといへり又閑田蒿渓(かんでんかうけい)の近世畸人伝にお通を織
田信長のおとゞのおもひものと記しお通に仕へしちよといへる女の忍ひあひし男の方へ
お通より送りし文を写し載せたり事長ければ漏しつ大江資衡(すけちか)が女学範には
小野氏と記し註に名は通号は身葉子(しんえふし)太閤秀吉公の政所淀殿につかへたる人也
とあり(或人云お通後鑑:かね子と改ると云々江戸砂子廿巻故事等にお通姫信長公に仕へ後太閤秀吉公
 に仕へしとあるもいかゞあらん)
西鶴がなぞ歌仙に秀吉公の侍女はなの次に津宇(づう)は同し御家のすえにありて筆役をせし女後は
おもて使にめし上られ世のよしあしをもおのづから覚て秋の寝覚にも古里をわすれす小野の薄も萩も
乱るゝ恋草に折ふしの妻鹿を思ひやりて「執心の角もはゆべき女鹿かな 津宇とあり
或人の?(口へんに舌・話?)に小野お通が墓江戸下谷金杉新屋敷といへる地にあるよしいへども其所在を尋るに
知れがたし譬墳墓と称るものありとも證となしがたし

 ○三味線の権興(はじめ)
三味線の濫觴も諸説異同ありてさだかならず今本邦に弄ぶ所のものは中
琉球国より渡り来りしを造りあらためたりしはしは諸人の知る所にして

もとより此器をかの国に弄ぶよしは中山伝信録南島志(なんとうし)琉球聘使記(へいしき)等にも
記したれど本邦へ伝へ来りし年代たしかならずよつて見聞に及ぶ所の一二を挙
て好者の考を俟つのみ
糸竹大全大奴佐(おほぬさ)云三味線の起りは永禄年中に琉球国より是をわたす其時
は蛇皮(じやひ)にて張りて二絃なる物なり泉州堺の琵琶法師中小路(なかせうぢ)といひける盲目に人の
取らせたりけるを此盲目よろこびてしらへつゝこゝろみけれとをしへをかされば音律かな
はず是を心憂く覚えて長谷の観音へ詣で一七日参籠し弾やうを(イをしへ 給へと)祈り
しにあらたなる霊夢有て階を下る時に大中小の糸三筋盲目が是にかゝる是より
三筋の糸をかけて弾くに無尽の色音(いろね)いでたり夫より三絃にきはむる故に三味線
としかいふ其砌はむさとひきてなぐさみとせしにしばらくして虎沢といひし盲目
是をひきかため本手破手といふ事を定めて人に是を伝ふ其後沢住といふ


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盲目ありて是をひき覚え歌にのせてひき出したり夫より公家武家の内に賞翫(しやうくわ)
させ給ふ方多くありて自らもひかせ給ふ其後は此器に緒をつけて首にかけてひく
を用とす(三絃考日按に頸にかけて 弾るよしの説いと疑はしと)其後平家の俤にして浄瑠璃といふ物始りつゝ語り
出たりしかばびはをひく如くに浄るりといふ事をのせて三味せんをひきはじめ
たるは沢住がなす所然して後寛永の始淡州加賀都(かゞいち)城秀(じやうひで)といふ座頭両人世に
三味線を弾出すに此堪能なる事古今に独歩せり東武にわしりて大家(たいか)
高門もて遊びものとて既に極官に昇進す加賀都は柳川検校城秀
八橋検校となれり今にいたり三味線において柳川流八橋流といふは是なり
其後出世したる検校勾当の中に此両検校をあざむく程の名人餘多(あまた)あれども
先柳川八橋も検校は三味線の曩祖(のうそ)たり是につて今世三味線の工人(こうにん)に八橋
の柳川のといふも此名字よりゆるされたる者なりとあり(貝原好古が和事始に八橋検校 は貞享二年七十余才にて死す

 黒谷に墓あり としるせり)
糸竹初心集云 抑日本に三味線を弾き初めし事は文禄の頃ほひ石村検校と
いふ琵琶法師あり石心たくみにして器用無双の者也あるとき琉球の島に渡りける
に彼島に小弓(こきう)といひて糸三筋にて鳴らす物あり小さき弓に馬の尾を弦(つる)にかけて
ひくなれば小弓とは云とぞ石村これを探り見るに琵琶をやつしたる物なり糸の
しらべやうも一二はびはの如く三の糸はびはの三よりも二調子ほど高くあはせたる物
なりと思へり所の者いひけるは此島には真蛇の多き所なるが「らいへいか」といふものあり
てこの真蛇を食物とするさればらへいかのなく声に弓の音に少もちがはざる故真蛇
を退んが為に専ひく也びは法師も爰に逗留の間はひき給へといふ其後石村京
都に帰りて同じく琵琶をやつし此三味線を造り出せり琉球の島より得て
来るといふ心にて琉球組といふ事を作りおけり弟子虎沢検校に残らず伝へし


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かば虎澤又組端手(くみはで)といふ事を作り出す虎澤より山野井検校伝授して世に弘まる
糸の合せやうはこれも一二は琵琶の如く三の糸はびはの四の糸調子也たやすき物
に似てはなはだ弾き得かたき物なりと云々(天和梓行の竹斎物語に三味線小弓を弾て戯 るゝといふ件に石村検校来るよしを記せりこの
 時代の人にはあらざれど中古三味線に名ありし盲人なりしをもてその名を仮用せしものなるべし
 当道記録には中小路弟子を石村と云石村弟子を虎沢と云虎沢弟子を柳川八橋と云是より三絃
 大に世に行はるゝ よしいへり)
琉球年代記に後柏原院の御宇の頃梅津少将といふ人性質音楽に委しかりし
応仁の乱をさけて長門国なる大内義隆により給ひしに義隆の家老陶(すえ)尾張
晴賢(はるかた)ひそかに少将を害せん事をはかりしかば義隆此事を知りて文を書して
毛利元就へさけしめまいらす其舩暴風にあふてたゞよひ琉球島に漂着した
まひしを兼城按司(かねくすくのあんす)いつくしみまいらせしに按司のむすめよく月琴を弾せり少将は
もとより音律にたくみなりしかば立所に学び得て月琴の妙手とはなれりつひに

此女に通して夫婦となりとおに月琴の名国中にかくれなかりしかば尚元王このよしを
きゝ夫婦を宮中にまねきて月琴をこゝろましむ少将王位をしやうしてうたを
作りうたひ給ふいま琉球組と世にとなふるものこれなり徂徠(そらい)の琉球聘使記に三線
歌は琉曲也といふに同じ王この曲にかんじて品々ひきで物有て日本へ帰し送らしむ永禄
五年の春夫婦ともに豊前国につき夫より同国石田村といふ所に隠れ住給ひて一子を
生む幼名を石麿となづく此石麿晩年に及んで瞽(めしい)となれり月琴の秘曲を
父母よりうけ得たりしかば其形をものずきして丸胴を角胴に製し八乳(やつぢ)の猫の
皮をもちて両面にはり月琴の意(こゝろ)を以て海老尾(かいらうび)に月の形をのこす此人のち
増官して石村検校とはなれりけり又云琉球にては椰子をもて胴をつく
りうすき板にてうらをはり蛇皮(エラブウナキと云海蛇の皮 もつとも大なるを用ゆ)を以て表を張る云々とあり
松屋主人の三絃考にも享保十七年印行の律呂三十六声の序説を引て梅津の少将といふ人
 琉きうしまにわたり小女にまなびえられしよし記せりといへり少将の伝来詳ならず)


27
山城国 妙覚寺(みょうがくじ)の蔵 二絃図
陸奥国農家義四絃図 邑名失
惣長三尺二寸二分
背図
三寸九分六角

「集古千種 楽器の部 三の巻に 出る所」
長三尺余
背図
中八寸壱分

三絃の接棹(ツナギザヲ)も 古くより在りし ものとみえたり
此所 木口
皆木ニテ作


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書言字考云三絃琉球絃並仝○永禄年中琉球の者泉州堺の津に始めて来ると
あり
松の葉の序に三味線の起りを記して後に云(其節前の大 ぬさに同じ)かの中小路より石村虎澤
澤住相うけて次に寛永に摂州に加賀都城秀堪能ならひなく九重に遊び東
武に跪き官職に昇進をして加賀都は柳川城秀は八橋みな増官に准して検
校に経のぼりければ此三絃の鼻祖(びそ)南家の棟梁とはなれりける伝ふる所本手端手
新曲綿蛮(めんばん)として浅利検校佐山検校出田(いづた)検校市川検校朝妻検校藤島勾
当今や都には小野川検校三橋検校等覚(とうがく)一転のひかりをあらそふ藤永勾当
熊川勾当松沢勾当木崎勾当早崎勾当豊田勾当清田勾当倉橋座頭等
武蔵には岩崎検校豊橋勾当連川勾当安数川(あすかわ)座頭等雪上に霜くはゝり錦江(きんこう)に
桃花(たうくは)翻り塵動き雲逗(とゞま)るの功妙手として十(とほ)の指ざす達人なり云々といへり

竹豊故事云三味線は永禄五年壬戌の春琉球より泉州堺の津に渡り来り
武州織田信長公下知有て是を朝庭に献じ奏覧に入奉らる時に
帝久我(こが)右大将通興卿を以て其頃音曲に名誉を顕せし琵琶法師瀧野検校
を内裏に召出され是を弾かせて 叡聞ましませしにその郢曲(えいきょく)甚妙音成しを
叡感まし/\ぬ其砌京都に名を得し琴琵琶の細工人亀屋市郎右衛門石村
と云し者(按るに三絃の工人に石村源左衛門あり前に載る所の初心集にいへる石村検校以来三絃
 師の苗字に名乗れるなるべし八橋柳川を三絃師の苗字とせるとおなじ例なり
 竹豊故事に名乗と する事いかゞあらん)此三絃を模(うつ)し作り出せり琉球には三絃の胴を蛇の皮を
以て張るといへども我朝にかゝる大き成蛇皮なし依て猫の皮に替て是を張たり此三絃
の形大体(たいてい)琵琶に同じ惣丈三尺(これより以下 文を略す)棹弐尺余海老尾(かいらうび)五寸胴幅六寸長さ六寸
厚さ三寸当世の三絃は其形少し異(こと)にして惣長三尺壱寸五分(弦曲大榛抄新製の三絃 三尺一寸五分より七八分迄と
 いふ)海老尾五寸弐分棹長弐尺五分胴幅六寸同長さ六寸六分天手(てんじゆ)(転手又 転軫)三寸五分


29
寛永正保の頃の
古画六枚屏風の
内縮図

模本高島千春
先生蔵

一節切(ひとよぎり)の笛
吹さまなり

骨董集云昔の三絃
根緒さきに環(くわん)を付たり
盲人は撥に糸をつけてこの環へ結び
付て用ひしと云昔の質朴を思ふべし
と云々按るに延宝の山城四季物
語には根緒先にふさを下たる図を
画き東海道名所図会には紐を結び
さげたる図を画けり環へ結びし物成へし

盲人のひける三絃の
海老尾今と異なり


30
若衆歌舞妓の
図なり

其二

此餘四枚あり
各愛玩すべき物と
いへども此書に用
なければこゝにもら
しつ

今いふ
道化形なるべし

此少年の図骨董集
に出たり
海老尾の形今と
異なり


31
扁額軌範二篇に載る所京師
清水寺寛永十一年に掛る所
の末吉(すえよし)船の図中美少年の様也

同書の注に云
寛永承応の頃は三絃の製異にして
海老尾琵琶の首のことし今此製を
見ず又承応四年四条河原夕涼の図
祇園にある絵馬にもかくの如き三絃
あり
もしほや云此図を考るにいにしへは三絃
を弾にさだまりて撥といふ物もなくある
ときは指にてもひき又楊枝にてもひき
たちけん色道大鑑云所謂八千代か楊枝
ひき小藤が下調(かてう)ひき云々と見えたり
さるはむかしの三絃は琵琶を弾にひとしくて
今の世の如く弾手のしげきものにはあらさ
りしゆえなりと云々
 按るに此説しかるへからず楊枝弾爪弾なと
 遊女等か戯れにはさもあるべし三絃をもてなり
 はひとせるものはかならず撥にて弾しなり

此夫人骨董集
に出たり胡弓の
さま今と異(こと)なり

なり(中略)浄瑠璃三味線は沢角(さばづの)検校を元祖とす沢角の沢の字の掾を取て後
浄瑠璃三絃を産業(なりはひ)とするもの竹沢野沢鶴沢富澤等と云成べし大坂にて中
古達人と呼れし人々は竹沢権右衛門同弥七野沢喜八郎富澤歌仙竹沢吾四郎鶴沢
友次郎同三二此輩は個人に成たり云々三味線の製作今は其流派によりて品々
の造りざまあり山東翁が骨董集に今の三味線の製は古近江といふ者の作りかへ
し物なるよしいへり此古近江は石村源左衛門と号し中古鼓の胴の細工人なりし
が三味線の胴をも作りならひ(胴の裏にあや杉といふ かんなめを入しといふ)其音色殊にうるはしかりしかば
世に古近江が三味線とて賞美せられしとかや(近代風雅百人一首に古近江は本柏屋近江 とて江戸に名ある鼓の胴の細工人也とあり)
これが家に作る所の三味線名器と称するものは
千鳥 雁金 磯鵆 初雪 初雁 芝苗 小松 郭公 棹鹿
荒磯 鶯 松虫 鳴子 雉子(きゞす)巻砧 山川 波の音 明の鐘


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春雨 鳴戸 鼓か龍 水鶏(くひな) 山鳥 山彦(三代目源左衛門作) 吉野(五代目正信作)
八つ橋(四代目浄心作) 織姫(正信作) 雷電浄心作 紀伊国や文左衛門蔵) 淀(正信作) 松風(浄心作)
常盤(正信作) 秋野(同作) 僥担(二代目源左衛門作 紀伊国や文左衛門蔵) 點滴(たまみづ:同作 同人蔵)
十二調子(三代目源左衛門作 奈良や茂左衛門蔵) 初蝉(正信作 同人蔵) 蜩(ひぐらし・正信作 同人蔵) 小蝶(浄心作 紀伊国屋
 文左衛門 蔵) 松虫(浄心作) 九重(同作 江の島に納む)

 古近江焼印 □ 同 ○ 此印初代のり 五代迄用ゆ

 三味線名所(などころ)三味線或三絃 三尾線 三絃子とも書す

海老尾(かいらうび) 糸ぐら かみごま ちぶくら 転手(てんしゆ)又転捻(てんじん)格子いとまき
 さる緒 鳩胸 胴 皮 駒 中子先(なかごさき)又根緒掛(ねをかけ)根緒 撥(ばち)

 骨董集にいにしへは撥の形幅狭く今と異なり後に幅広く
 なりて古製の撥は無用の物となりし故に婦女笄のかはり
 にして頭にさしたりといふ説ありさもあるべしといへり
江戸惣鹿子に三味線の細工人を記して京橋北一丁目石村近江同所弐丁め石村河内源介町石村山城守と
あり石村の姓今も当残れり又京師浪花とも三絃の工人に石村と称るもの多し

歌舞妓芝居に三味線を用る事むかしはまれにてありし也東海道名所記云むか
し/\京に歌舞妓の始りしは出雲神子(みこ)にお国といへる者五条の東の橋詰にて
屋々子をどりといふ事をいたせり其後北野の社の東に舞台をこしらへ念仏踊


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歌をまじへ塗笠にくれないの腰簑をまとひ鳬鐘(ふしやう)を首にかけて笛鼓に拍子を
合せてをどりけり其時三味線はなかりき云々といへり山東翁が骨董集にも慶
長の頃歌舞妓の図を出して其頃の歌舞妓に三味線のなかりし事をいへり
(おくに江戸にて興行せしは 慶長十二年なりとぞ)又寛永十八年の印本そゞろ物語出雲のおくにが男舞
の事を記せる次に中橋にていくしま丹後守とよべる遊女歌舞妓芝居を催し
ける時床几にこしをかけ並び居つゝつれ三味線をひき今様をうたひし由見たり
又同書かつらき太夫かふき踊の件に云大鼓小つゞみ笛太鼓の役者が男なりかれ
らが打あはせ入乱れたるここまかなる程拍子には天下に名を得たる四座の役者も
(イ及)学ぶべからず弥兵衛善内が狂言の風情踊りはぬるらんひやうしは鷺太夫弥太郎
が式三番のあしぶいも是にはいかでかすさるべき取分猿若出て色々の物まねするこそ
をかしけれ云々とありてその頃の歌舞妓は能をやつしたる如きものにして大方は三味

線なし当道宗の記録に芝居へ三味線を用る事寛文十二年壬子四月大坂の芝
居より 公訴に及びしより座中の免許を得しよし記せり凡三絃の揺籃(はじめ)前の節
どもを案ずるに何れも等しからずされど専ら世に行れしは寛永の頃より盛んに
なりてその頃は専ら芸者の態(わざ)として酒宴遊興の筵にはかならず其技にたへたる
盲人を招きて弾き唄はせしを後には貴賤男女自ら弾(だん)じ自ら唄ひてもてはやせ
しかば三都其外にも名人上手競ひ起りて枝葉を分ち流派となして殊に
盛にはなりし也(慶長二年印本易林が節用集には三味線の名なし世にまれなりし故か寛永
 十二年の印本花の草をひく物品々といへるくだりに小うたにのせてはさみせんを
 ひく平家に合せてひはを引歌をずしては琴を引と見え又同十三年印本可笑記には立まひこ
 うたしやみせんとつゞけ出せり尤のさうしに慶安の印本あり可笑記にも又万治二年の印本
 あり
 中古三味線に何筋がけといへるひき様あり洞房語園に吉原揚屋町の喜斎六つがけの名
 人と記し西鶴置土産に八筋がけの忍び駒といふ事見え又東海道敵討といへる双紙にも
 連れびきの三すじがけといふ事ありそのひきやうは調子の甲乙によれりといへり
和漢三才図会に曰く 五雑俎が云ふには三絃は常に簫に合せて

(漢文読めない)

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(漢文読めましぇん)

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三味線をよめるうた
吾吟我集 慶安二年 石田末得
 柳 さみせんのさほのあべの糸柳 ね(音・根)をあらはして浪ぞよせひく(弾・引)
雅筵酔狂集春部 正親町従一位公通卿
 清水の瀧の下(もと)にて
  清水の瀧もみすぢの糸ならば花にしらべようくひすの歌
 此外春の部に三味せんを詠給ひし歌二首あり奥にしるす
又同書 恋の部 傾城ひとりふたり酒くみて三味せんをひきぬる所の絵
  篠一つ歌一ふしに三味の糸ひく手あまたの身をやなくさむ
 雑の部 猫の絵に
  猫のつまこひしぬるとて三味せんのかはゆやそれも色にひかれん

三絃の名は西土(もろこし)にも唐朝以来これあり(楊升庵詞話に元朝に始ると記せるは 誤也唐の崔令欽が教坊記にも見えたり)又阮咸(げんかん)月琴の事
諸書を参考して抹屋主人の三絃考にくはしく出せりその外にも芸苑日抄(げいえんにちしやう)
葛原詩話(かつげんしわ)等にも載て世人の知る所ゆえこゝに略す