仮想空間

趣味の変体仮名

菅原伝授手習鑑 第四

読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html

      浄瑠璃本データベース ニ10-01216

 

80(左頁)

   第四

恩を思へばよやヨホイホ結ぼれ糸のハリナ とけぬ心がつろござるいよつろござる つらき

筑紫に立つ年月 御いたはしや 菅丞相 讒者の業(わざ)に罪せられ 埴生の小家(こや)の

起臥しも きのふと暮てけふは早 延喜三年如月半ば 空も春めく野山の眺め

野飼に 召せ奉り 我楽しみは在郷歌 君を思へばよやヨホイホ ハゝゝゝゝハア何をがなお気晴し

しはらくさいどつてう声 牛殿の手前も面目ない エゝ見れば見る程見事な毛並 角の

構へ眼の備へ 頭持ちの様子骨組肉あい 惣毛一色真黒牛 渡り繻子も及

 

 

81

ばぬ色艶 天角地眼(てんかくぢがん)一黒直頭(いちこくろくたう)耳小歯違(にせうはちがふ)天晴御牛候ふよちよ/\らのちよせいと

誉めにける 菅丞相はめづらかに聞馴給はぬ誉め詞 ヤイ白太夫 春は耕し秋は刈穂

の稲を負はせ 耕作の助けと成る牛の善悪能く知る筈 天角地眼と申せしは 角と眼

の備への事 一石六斗二升とは 牛を買取る其値ひ 升目に積もる物やらん 語れ

聞かんと仰ける さつてもしたり 天下に有るとあらゆる事共余さず洩さず知て

ござる丞相様 牛の事は御存知なく お尋に預かるは 百姓に生れた一徳 お慮外

ながら ヘゝ 牛の講釈聞かしやりませ 一黒と申は 俵物の石目ではござりませぬ

 

毛色を吟味する時は 黒いが極上それで一黒 次に直頭とは天窓(あたま)の見所 頭(とう)とは頭(かしら)

どつちへも傾かず まんろくなが能さかいで直頭(とくたう)と申ます 耳小(にせう)はちいさし 随分

耳はちいさいを好みます 扨歯違とは きやつがおね/\呞(にれ)を噛む(反芻) 上下の歯先揃ふ

は悪し 五一に生えたが歯違ふの歯の見所 次第を上から云立れば 一石六斗二升八合 牛

の講釈もう 仕廻でござまする 誠に性は道に依て賢し 白太夫が咄しを聞き一つの徳を

得たるはと 仰にひよこ/\小踊りして こりやマアあんたる仰ぞい 親の代から御領分の百姓 三つ子の事

迄お世話になされ 御恩に御恩有がたふて 寝た間も忘れぬ此親と違ふて 三人の

 

 

82

躮共 一人は死に 跡二人は気も揃はず 面倒なやつら打ほうつて 此太宰府へ参つたは

去年の三月 うそ淋しい不自由なお住居 一年の日数は立てど 月見花見に出もな

されず けふは何と思召 牛引けと有御意が出て 私が皺も腰も アゝ延やかな春の野面

安楽寺へ御参詣は 御帰洛の御立願でかなござりませふ いやとよ我に科なければ 仏に

苦労かけ奉り 身の上祈る心はなし 讒者の業としろし召さば罪なき事も世に顕はれ 帰

洛の勅諚下るべし 夫迄は菅丞相 月にも鼻にも目はづれず私なき臣が心帝はしろし召されず共

天の笑覧明らかなり 安楽寺へ志すは此暁不思議の霊夢 菅丞相が愛樹の梅

 

今如月の花盛り 都の住居思ひ寝の枕の硯引寄せて 筆に任せてかく斗 東風吹かば

匂ひをこせよ梅の花 主なし迚 春な忘れそと 心を述べて睡眠(まどろみ)しに 妙なる天童我枕に

立たせ給ひ 汝憐愍(れんみん)の心深く 仁義を守る忠臣の功(いさほし) 心なき草木迄情を請し主をし

たひ 花物いはねど其験(しるし)安楽寺へ詣で見よと 示現に依てと宣ふ所へ 安楽寺の住僧

杖を便りに老の足 夫ぞと見奉しより 小腰をかゞめ立寄ば 丞相鞍よりおりさせ給ひ

住侶の歩行は何国(いづく)へぞ 我は貴院へ行折から是にて対面祝着/\ ハア愚僧義も外ならず

公の御目にかゝりたく参る子細余の義にあらず 夜前(やぜん)ふしぎの霊夢の告 御慈愛

 

 

83

の梅一樹 配所の主に見せよと有 示現にかはらぬ観音堂の左の方 一夜に生ひ出る

ふしぎさよと 語るも聞も正夢の割符を合せしごとく也 是ゟ寺へは程近しと住侶

伴ひ御歩路(かちゞ) 安楽寺に入給へば 夫ぞとしるき梅花の薫り袖に留め木の心地せり 暫く是に

て御詠めと床几直させ褥を設け 御菓子小竹筒(さゝえ)と住寺の饗応(もてなし)白太夫はこつてこて

梅の土際覗き廻り こりやふしぎ イヤ希代じや 申丞相様 路すがらお住寺の夢咄し ヘゝ

何をやらるゝやら そんな事がよふ有ふと 誠しない事疑ふておりましたが 来て見て恟り 此木の

枝ぶり花の匂ひ 佐太のお下屋敷に預つておりました それじや/\ 其梅でござりまする アゝ神

 

仏の告は争はれぬ おらが爰へ来た跡では 水一ぱい飲し人(て)も有まいに ぶき/\とした木の色

艶 芽立ちの気條(ずわい:ズワエ)つういつい 花はうさる程付たれば 梅漬けの時分二三斗は慥にならふ 四五升

は地を借た年貢代 お寺へも信ぜます 跡はこつちの実入/\ 今は先腹の実入御馳走酒下

さりましよ アゝこれお酌 白太夫が盃は いつつでも此天目 立酒は気にかゝると 床几の

傍にちよつつくばひ 口も心も有の儘 見へた通りの律義者 花の眺めに一入の興を催し

おはする所に そりや喧嘩よアリヤ抜た 切合てそりやくるは 寺内へ入な門打といふ間あらせず

踏込み/\ 打合戦ふ侍二人 寺僧は驚き白太夫 御座を圍(かこ)ふてアゝこれ/\ 見れば双方旅

 

 

84

装束 喧嘩はふり物と有てから 爰で仕廻は付けさせぬ 出やれ/\といふをも聞ず 切合一人は

我子の梅王 コリヤまあそちは何として ハア/\ひあいな切られなと 気をもみあせる親心 声の助

太刀相人の刀 梅王に打落され逃るを透さず飛かゝり 片手つかみにもんどり打せ 膝にかた

めし健気の挙動(ふるまひ) ヤレ/\出かした手がら/\ ヤ手柄はしたが喧嘩の次第 次にはそちが下さつた様

子 都の事を案じてござます 幸是に丞相様やうす一々申上いハツアア恐れながら梅王

が念願達し かはらせ給はぬ御尊体 見奉るは生涯の本望 都に御座有お二人様 世を忍ぶお身

なればいつしよには置まされず 若君様は武部源蔵に預置 私が妻(さい) 桜丸が女房 八重

 

と春とは御台様の御介抱 お身の上は指置れ 配所の様子見て参れと 仰に幸出船の手

番(つがひ) 天運に叶ひ日和まん 千里一刎(はね)日数も辺ず 夜前此地へ筑紫船 乗合の中に時

平が家来鷲塚平馬 此梅王を見しらぬ馬鹿者 ぶつくりかけて様子を問ば 菅丞相を殺し

に来たと 儕が口から最期を急ぐ 寺にござるをよふしつて直に仕かけも不敵者 梅王が御

土産と早縄かけてぐつとしめ上 縁柱に猿つなぎ心地よくこそ見へにける 丞相御悦喜

浅からず 恋しき都の様子を知らず 忠義の花は有情の梅王 示現によつて飛来る花は非情の

此梅の木 有情非情も隔てなく菅丞相を慕ひくる 梅に褒美の御言の葉 梅は

 

 

85

飛 桜は枯る世の中に 何迚松の難面(つれな)かるらん つれなかるらん松王は時平が舎人 枯し桜は宮

の舎人 梅王は我舎人 花の栄へは安楽寺其名も高き飛梅のふしぎは今に隠れなき ヤイ梅王 有

がたい今の御歌 此梅に准へ其方をお誉遊ばし 桜は枯る世の中とは 死だ躮を御悔み つれな

かるらんと有松王めは 時平に追従しておろな ホゝ親人の推量違(たが)じゃず 兄弟といふも穢ら

はしい 畜生めは指置て さす敵は此鷲塚 サア時平が工み白状せい いやといへば刀の引導

どふじや/\と立かゝる アゝこれ聊爾有な 主従の義を立ぬき 命にかへて云ぬは古風 いはして置て

殺すも古風 あたらしう助る様に残らず申す 時平殿は王位の望み 邪魔になる菅丞相

 

首取て立帰れ 軍陣の血祭して大望の籏を上げ天皇親王院の御所 片はし仕廻ふて帝

を一呑 身共も公家に成る楽しみ 空悦びの裏が来て 恥をさらす縛り縄 早ふほどいてくだ

さりませと 時平が叛逆一々残らず聞こし召し菅丞相 柔和の行相忽ちかはり 御眦(まなぢり)に血

をそゝぎ 眉毛逆立て御憤り 都の方を睨み付け物ぐるはしく立給へり 白太夫恟りし しれて有る

時平が工 今聞たか何ぞの様に ついど覚へぬこはいお顔 爰から睨ましゃましても 都へは届きま

せぬ 御持病の痞(つかへ)が發れば エヘン悲しうござりますと老のぐど/\物案じ やおれ梅

王白太夫 時平の大臣が謀叛の企て 聞き捨られぬ御大事 赦免なければ帰洛も叶はず

 

 

86

王位を望む朝敵と しろし召れぬ玉体危うし 臣が忠義徒(いたづら)に 此所に朽やる 躰は虚命

蒙る共死したる後は憚りなし 霊魂帝都に立帰り帝を守護し奉らん 天に誓ひの我願ひ

験は目の前白梅の 気條(づあい)ぽつきと折取給ひ 朝敵一味の佞人原 退治の手始め是見よと

枝にて丁ど打給へば 平馬が首は飛梅の気條も花の乱れ焼き 誠の劔も及びなき梅の

名作御手の中(うち) 親子は恐るゝ斗也 ヤア汝抔かゝる大事を聞くからは 片時も早く都に登り時平が工み

奏聞せよ 我は見上る此高山絶頂に三日三夜立行(たちぎやう)荒行根気を砕き 梵天帝釈焔(えん)

羅王三天王に誓ひを立て 魂魄雲井に鳴る雷十六万八千の首領と成て眷属引列

 

都に登り 謀叛の奴原引裂き捨ん 現世の対面是迄也急ふれやつと御声も供に

烈しきはやち風吹立て/\本堂の甍(いらか)破れて庫裏方丈 蔀(しとみ)やり戸は木の葉の

ごとく 庭の立木も飛梅も 花も砂(いさご)も吹しきる 親子も住寺も大きに驚き

期(ご)も来らざる御身を捨て 天帝へ祈誓有 御本意は達する共 御台姫君若君の御

歎きはいか斗 とゞまり給へと御袖に 取付く梅王白太夫 弓手馬手へ刎飛し住僧いたく

なとめ給ひそ 早天帝の恵によつて形は此儘鳴神のふしぎを見せんと散り残る 梅花を取

て口に含み天に向つて白梅花 うづまく花びら火焔と成て 雲井遙かに行末は怪し 恐ろし〽

 

 

87

夢破る 門山伏が螺(ほら)の貝吹立て/\北嵯峨の 在も山家もぬけめなく 役の行者の跡を追い

朝夕してやる五器膳器 五器の実修行としられたり アゝやかまし 御奉礼(らい)殿貝吹て下さん

な 頼ふだ方のお気結ぼれ夜はえおくに御寝(ぎょし)ならず 今とろ/\とお睡眠(まどろみ) アレまだいの断り云て

も聞入ぬ無法らい殿止めらあぬかそしてから不遠慮な 笠も脱ずに内へ這入り うそ/\と何

見やる 女子斗と思やつたら当ての槌が違ひましよ サア出やらぬか いにやらぬかと 叱り転(こか)さ

れ御参礼(ほうらい)門へは出れど目は跡に 心残して立帰る エゝどんなやつがうせおつて御機嫌はいかゞぞと

庄司のこなたに手をつかへ思ひがけない螺(ほら)の貝お目も覚めふ お癇はのぼらぬか 八重様いかゞと

 

尋れば サレバイナ いつにない御台様すや/\と寝入ばな 貝に驚きなされたか惣身に冷汗 思へ

ば憎い山伏づら サアわしも腹がて 入れる手の中(うち)もやらなんだと 二人が咄しに御台所 イタなふ山伏の

業ではない恐ろしい夢を見て 動気が今に納らぬ 其夢の物語り 春も八重も聞て

たも 所は宰府安楽寺 連れ合の御秘蔵が筑紫へ飛梅 梅王丸も一時に下り合せた

御悦び 梅は飛桜はかるゝ世の中に 何とて松のつれなかるらんと即座の御詠歌 一字も忘れず

覚へしは 物のしらせの正夢か まだ其上に時平の家来 丞相様を殺す工み 事顕はれて都の様子

王位を奪ふ敵の企て白状するをお聞なされ 以ての外なお腹立 赦免なければ帰洛も叶はず 危うい

 

 

88

天皇のお身の上 帝釈天へ祈誓をかけ鳴る雷(いかづち)の神(しん)と成て 時平に組せし同願共 蹴殺し

捨んと御憤り 其すさましさ醜(おそろ)しさ 夢とはさらに思はれずと語り給へば二人の女房 お案じなさるは

御尤去ながら 逆夢と申ますれば却てめでたい御吉左右 なふ春様そふでないか 成程そふじや

追付御帰洛なされませふ したが今来た山婦(山伏?)づら 編笠で顔も見せず物もいはず

うそ/\覗いていにおつたがいかにしても気にかゝる 夫梅王殿の指図にて此嵯峨に人しれず

御台様のござりまするをかぎ出に来た敵の犬 白太夫様梅王殿も 筑紫へ下つて我々ばかり

もふ爰にも置かれませぬ 幸い頃日(このごろ)承れば 法性坊の阿闍梨様 下嵯峨へ来てじやげな

 

丞相様とは師弟の約束 右の様子を申上御台様の御事を お頼み申してけふ中に 早ふ所がかへ

ましたい わしや一走り往て来やんしや 八重様万(よろづ)に心を付け 油断して下さんすな ヲゝ春様の

よふ気が付た大義ながらいて下さんせ 跡は気づかひさしやんすなと男勝りのかい/\゛し

さ 御台も異なふ御悦び コレ春 僧正様に逢つたら 夢の事もお咄し申し 善悪(よしあし)の訳聞

てたも アイ/\ 何も角も心得ておりまする 兎角は緩りとして居られぬと抱へするやら笠

取るやら 追付吉左右おしらせと こか/\してこそ急ぎ行 程も有せず時平が家来星坂源

吾 あれこそ丞相の御台よと手の者連れてかけ入るを 手早く八重は長押(なげし)の長刀 御台を奥へと目で

 

 

89

しらせ 何者ばれば踏込(ふんごん)で狼藉目に物見せんと振廻す ヤア小さかしい女め 時平の跡を請け御台

を迎ひに来つたり 邪魔ひろがば討取れと 下知に随ひつばなの穂先切立て/\ 〽追まくれど 多勢に

無勢数ヶ所の疵長刀杖に立帰り ノウ御台様もふ叶はぬ 早ふ退いて下さりませ 春様はまだ帰らず

か エゝ口惜い/\無念/\と云死にに はかなき八重が最期の有様 御台は前後も弁へず死骸に

取付き御歎き 星坂透さず走り寄り引立行んとせし所に 以前の山伏のつさ/\と顕れ出 イデ其御

台をとき料と 飛かゝつて源吾が首筋 掴んで目より高く指上げ 冥途の旅へうせおれと泥田

の中へ頭転倒 直に御台を引んだかへ 石原砂路嫌ひなく飛がごとくに 〽進み行

 

(寺入)

一字千金 二千金三千世界の 宝ぞと 教へる人に習ふ子の中に交はる菅秀才

武部源蔵夫婦の者いたはり傅き我子ぞと 人目に見せて片山家 芹生

の里へ所替へ 子供集めて読み書きの器用不器用清書きを 顔に書く子と手に書くと

人形書く子は天窓掻く 教ゆる人は取分けて世話をかくとぞ見へにける 中に年がさ五作が

息子 コレ皆是見や お師匠様の留主の間に手習するは大きな損 おりや坊主天窓

の清書きしたと 見せるは十五の涎くり若君はおとなしく 一日に一字学べば三百六十字の教へ

そんな事書ず共本の清書したがよいと 八つに成子に叱られて ませよ/\と指さして

 

 

90

徒戯(てうけ)かゝるを残りの子供 兄弟弟子に口過ごす涎くりめをいがめてやろと 転手(てんで)に卦算振り

廻す自然(じねん)天然肩持つも伝ふる筆の威徳かや 主の女房奥より立出 又こりや例

の闘争(いさかい)かおとましや/\ けふに限つて連れ合の源蔵殿 振舞にいてなれば戻りもしれぬ

ほんに/\こなた衆で一時の間も待兼る けふは取分け寺入りも有る筈 昼からは休ます程に

皆精出して習た/\ ソリヤ又嬉しや休みじゃと 筆ゟ先に読む声高く いろはに此中は御人

被下(くだされ) 一筆啓上まいらせそろの男が肩に堺重 文庫机を擔(にな)はせて利発らしき女房の七つ

斗な子を連て 頼ませふと云いるゝ 内にもそれと早悟りこちへおはいり遊ばせと いふも

 

しとやか アイ/\と愛に愛持女子同士来た女房は猶笑面 私事は此村はづれに 軽う

暮しておる者でござりまする 此わんばく者をお世話なされて下さりよかと お尋

申におこしましたれば おこせ世話してやろと結構なお詞にあまへ 早速連れて参じまし

た 内方にも御子息様がござりますげなが どのお子でござりますぞ アイ是か源蔵殿の

跡とりでござります コハ/\お子様や 外にも大勢の子達いかいお世話でござりましよ

アイ御推量なされて下さりませ シテ寺入は此お子でござりますか 名は何と申ます

アイ小太郎と申まして わんばく者でござります イゝヤイヤ けたかいよいお子や 折悪ふけふは連合い

 

 

91

源蔵も 振舞に参られました 是はマアお留主かいな お待遠なら私が呼びに参りましよ

いへ/\幸い私も参つてくる所が有れば 其内にはお帰りでござりませう コレ三郎 持て来た

物あなたの傍へ上げませ アツト答へて堺重に乗せたる一包 内義の傍へ差出す 是は

マア/\いはれぬ事を イヤおはもじながら此子が参つたしるし 此堺重は子達への土産 取

弘めて下さりませといはねどしれし蒸し物煮染(にしめ) 我子に世話を焼豆腐粒椎

茸の入たるは奔走(ほんそ)子とこそ見へにけれ 是はマア何から何迄取揃へて御念の入た事 戻ら

れたら見せませう イヤモほんの心斗宜しうお頼申上ます コレ小太郎ちよつと隣村迄

 

いてくる程に おとなしうして待て居や 悪あがきせまいぞ 御内証様往て参じましよ

と 表へ出ればかゝ様わしも行たいと 縋り付くを振放し 嗜めよ 大きな形(なり)して跡追のか 御らふじ

ませまだ頑是がござりませぬ ソリヤ道理いなドリヤおばがよい物やりましよ つい戻つて

やらんせと 目でしらすればアイ/\ついちよつと一走りと 跡追ふ子にも引かさるゝ振かへり

見返りて下部(寺子屋)引連れ急ぎ行 どりやこちの子と近付にと若君の傍へ寄せ 機嫌紛

らす折からに 立帰る主の源蔵常にかはつて色青さめ 内入り悪く子供を見廻し エゝ氏より

育ちといふに 繁華の地と違ひ いづれを見てお山家育ち 世話がいもなき役に立たずと

 

 

92

思ひ有げに見へければ 心ならず女房達寄りいつにない顔色も悪し 振廻の酒機嫌

かはしらぬが 山家育ちは知て有る子供 にくて口は聞へも悪い 殊にけふは約束の子が寺

入して居まする 悪(さがな)い人と思ふも気の毒 機嫌直して逢てやつて下されと小太郎連れ

て引合せど指し俯いて思案の体 幼気(いたいけ)に手をつかへ お師匠様今から頼み上げますと

いふに及ばずふり仰向き急度見るゟ暫くは 打守り居たりしが 忽ち面色やはらぎ 扨々器量

勝れてけたかい生まれ付き 公家高家(かうげ)の御子息といふてもおそらく恥しからず ハテ扨そなたはよい

子じやなふと機嫌直れば女房も何とよい子よい弟子でござんしよが よい共/\上々

 

吉 シテ其連れて来たお使は何国に サお前の留主なら其間に隣村迄往て

来(こ)といふて ヲゝ夫もよし/\大極上 先ず子供と奥へやり機嫌よふ遊ばし召され 夫皆お隙が

出た 小太郎供に奥へ/\と 若君諸共誘はせ 跡先見廻し夫に向ひ 最前の顔色は

常ならぬ屹相(きつさう) 合点の行ぬと思ふた所に 今又あの子を見て打てかへての機嫌顔

猶以て合点行ずどふやら様子が有そふな 気づかひな聞してと問ば源蔵 ホゝウ気

づかひな筈 今日村の饗宴(もてなし)と偽り其を庄屋の方へ呼付 時平が家来春藤玄

蕃 今一人は菅丞相の御恩をきながら 時平に随ふ松王丸 こいつ病みほうけながら見分の役

 

 

93

と見へ数百人にて追取巻き 汝が方に菅丞相の一子菅秀才 我子としてかく

まふよし訴人有て明白 急ぎ首討て出すや否や 但しふん込み請取ふや 返答いかに

とのつ引ならぬ手詰是非に及ばず首討て渡さふと請合た心は数多有る寺

子の内 いづれ成り共実かはりと思ふて帰る道すがら あれか是かと指折ても

玉簾(たまだれ)の中の誕生と 菰簾(こもだれ)の中で育つたとは似ても似付ず 所詮御運の末

成かいたはしや浅ましやと 屠所の歩みで帰りしが天道のひかへ強きにや あの寺入の

子を見れば まんざら鴉を鷺共云れぬ器量 一旦身がはりで欺き此場さへ遁れたらば直に

 

河内へお供する思案に 今暫くが大事の場所と語れば女房待んせや 其松王といふ

やつは三つ子の内の悪者 若君の顔はよふ見知て居るぞへ サアそこが一かばちか 生顔と死

顔は相顔(さうがう)のかはる物 面ざし似たる小太郎が首よもや贋とは思ふまじ よし又夫レと顕れたらば

松王めを真二つ 残る奴原切て捨 叶はぬ時は若君諸共 死出三途の御供と胸を据たが一つ

の難儀 今にも小太郎が母親迎ひに来たらば何とせん 此義に当惑指し当つたは此難儀

イヤ其事は気づかひ有な 女子同士の口先でちよつぽく欺して見よ イエ其手では得まい大

事は小事より顕はるゝ 事に寄たら母諸共 エゝコリやヤイ若君には替られぬお主の為を

 

 

94

弁へよ いふに胸すへそふでござんす 気弱ふては仕損せん 鬼に成てと夫婦はつつ立

互に顔を見合せて 弟子子といへば我子も同然 サけふに限つて寺入したは

あの子が業か母御のイ因果か 報ひはこちが火の車 追付廻つて来ませぐと 妻が歎

けば夫も目をすり せまじき物は宮づかへと供に 涙にくれ居たる かゝる所へ春藤玄蕃首見る←

役は松王丸 病苦を助る駕乗物門口に舁居れば 跡には大勢村の者附添ふて申上ます 皆

是におる者の子供が手習に参つております 若し取違へ首討たれては取返しが成ませぬどふぞ

お戻し下されと 願へは玄蕃ヤアかしましい蝿虫(はいむし)めら うぬらが小倅の事迄身共がしつた事か

 

勝手次第に連うせふと 叱り付れば松王丸ヤレお待なされ暫くと駕より出るも刀を

杖 憚りながら彼等迚も油断はならぬ 病中ながら接写めが見分の役勤るも 外

に菅秀才の顔見しりし者なき故 今日の役目仕課すれば 病身の願ひ御暇下

さるべしと 有難き御意の趣き疎(おろそか)には致されず 菅丞相の所縁(ゆかり)の者此村に置からは

百姓共もぐるになつて 銘々が躮に仕立助けて帰る手も有事 コリヤやい百姓ら ざは

/\とぬかさず共一人づゝ出せ 面(つら)改めて戻してくりよと のつ引させぬ釘鎹打ばひゞ

けの内には夫婦 兼て覚悟も今更に胸轟かす斗也 表は夫共しらがの親仁門口ゟ

 

 

95

声高に長松よ/\と呼出せば ヲゝト答へ出てくるはわんばく顔に墨べつたり 似て

も似付ぬ雪と墨是ではないと赦しやる 岩松は居ぬかと呼声に 祖父様あ(ぢさま)何じゃと

行域(?はしこい)で 出くる子供の頑是なき 顔は丸顔木みしり茄子 詮議に及ばぬ連うせふ

と睨付られヲゝこりや 嫁にもくはさぬ此孫を命の花落遁れしと 祖父(ぢい)が抱て走り行

次は十五の涎くりぼんよ/\と親父が手招きとゝよおれはもふ爰から抱れていのと あまへる

顔は馬顔で 声蛬)ヲゝ泣な 抱てやらふと干鮭(からさけ)を 猫なで親がくはへ行 私が躮は器量

よしお見違へ下さるなと 断りいふて呼出すは 色白/\と瓜実顔こいつ胡乱と引捕へ

 

見れば首筋真黒々 墨か痣かはしらね共 こいつでないと突放す其外山家奥在

所の子供残らず呼出して 見せても/\似ぬこそ道理土が産ました斗芋 子ばかり

よつて立帰る スハ身の上の源蔵も妻の戸浪も胴を据へ 待つ間程なく入来る

両人ヤア源蔵 此玄蕃目の前で討て渡そと請合た 菅秀才が首

サア請取ふ早く渡せと手詰の催促ちつ共億せず 仮初ならぬ右大臣の若君

掻首捻首にも致されず 暫くは御用捨と立上るを松王丸 ヤア其手はくはぬ 暫し

の用捨と隙どらせ逃げ支度しても 裏道へは数百人を付け置き蟻の這出る所もない

 

 

93

生き顔と死顔は相顔(さうがう)がかはるなどゝ 身替りの贋首夫もたべぬ 古手な事して後悔

すなと いはれてぐつせき上げ ヤアいらさる馬鹿念 病みほうけた汝が目玉がでんぐり

返り 逆様眼(まなこ)で見やうはしらず 紛れもなき菅秀才の首追付見せう ヲゝ其舌の根の

乾かぬ内に早く討て とく切れと玄蕃が権柄 ハツト斗に源蔵は胸を 据てぞ入にける 傍に聞

居る女房は爰ぞ大事と心も空 検使は四方八方に眼を配る中にも松王 机文庫の数

を見廻しヤア合点の行かぬ 先達ていんだかぎらは以上八人 机の数が一脚多い 其躮は何処

におるぞと 見咎められて戸浪ははつとイヤこりやけふ初めて寺イヤ寺参りした子がござんす

 

何馬鹿な ヲゝそれ/\ 是が即ち菅秀才のお机文庫と木地を隠した塗机ざつと

さばいて云抜る 何にもせよ隙どらすが油断の元と 玄蕃諸共つつ立上るこなたは

手詰め命の瀬戸際 奥にはばつたり首討音 はつt女房胸を抱きふん込む足もけしとむ内

竹根源蔵白臺に首桶乗せてしづ/\と出 目通りに指置き是非に及ばず菅秀

才の御首討奉る いはゞ大切ない御首 性根をすへてサア松王丸 しつかりと見分せよと偲び

の鍔元くつろげて 虚といはゞ切付ん実といはゞ助んと固唾を呑sて扣へ居る ハゝゝゝゝ何の

是しきにせようね所か 今常(じやう)はりの境にかけ 鉄札か金札か地獄極楽の境 家来衆

 

 

97

源蔵夫婦を取巻きめされ 畏つたと捕手の人数十手振て立かゝる 女房戸浪も身

を固め夫は元より一生懸命 サア実検せよ見分といふ一言も命がけ うしろは捕手向ふは

曲者玄蕃は始終眼を配り 爰ぞ絶体絶命と思ふ討ち早首桶引寄せ 蓋

引明けた首は小太郎 贋といふたら一討ちと早抜きかける戸浪は祈願 天道様仏神様憐れみ給へ

と女の念力 眼力光らす松王がためつすがめつ窺ひて見て ムウこりや菅秀才の首

討たは まがひなし相違なしといふにも恟り源蔵夫婦 傍(あたり)きよろ/\見合せり 検使の玄

蕃は見分の詞証拠に出かした/\よく討た 褒美にはかくまふた科赦してくれる イザ松

 

王丸片時も早く時平公へお目にかけん いか様隙取てはお咎めおいかゞ 拙者は是より

お暇給はり病気保養致たし ヲゝ役目は済だ勝手にせよと首請取 玄蕃は

館へ松王は駕にゆられて立帰る 夫婦は門の戸ひつしやりしめ 物も得云ず青息

吐息 五色の息を一時にほつと吹出す斗也 胸撫おろし源蔵は天を拝し 有

がたや忝や 凡人ならぬ我君の御聖徳が顕はれて 松王めが眼が眊(かすみ)若君ろ見定め

て帰つた 天成不思議のなす所 御寿命は万々年悦べ女房 イヤもふ/\大抵の事じや

ごんせぬ あの松王めが眼の玉へ菅丞相様がはいつてござつたか 但し首が黄金仏ではなか

 

 

98

つたか 似たといふても瓦と金(こがね) 宝の御運開きと余り嬉しうて涙がこぼれる

ハア有がたや尊やと悦びいさむ折からに 小太郎が母いきせきと 迎ひと見へて

門の戸たゝき 寺入の子の母でござんす 今漸帰りましたと いふ声聞ゟ又恟り 一つ

遁れて又一つこりやmカア何とどふせふと 妻が騒げど夫は胴すへ コリヤ最前いふたは

爰の事 若君にはかへられぬ狼狽(うろたへ)者めと戸浪を引退け 門の戸ぐはらりと引明れば

女は会釈し コレハまあ/\お師匠様でござりますか 悪さをお頼申ます どこに居やるぞ

お邪魔であろにと いふを幸いイヤ奥に子供と遊んで居ます 連れ立て帰られよと

 

真顔でいへば ヲゝそんなら連れて帰りましよとずつと通るを後ろより只一討と切

付くる 女もしれ者ひつぱづし逃ても逃さぬ源蔵が 刃するどに切付るを我子の

文庫ではつしと請とめ コレ待た待たんせこりやどふじやと 刎る刃も用捨なく又

切付る文庫は二つ 中よりばらりと経帷子 南無阿弥陀仏の六字の幡(はた)

顕れ出しはコハいかにと 不思議の思ひに劔もなまりすゝみ兼てぞ見へにける

小太郎が母涙ながら 若君菅秀才のお身がはり お役に立て下さつたか まだか

様子が聞たいとふぃに恟り シテ/\夫は得心か 得心なりやこそ此経帷子六字の幡 ムウ

 

 

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して其元は何人の御内証と 尋る内に門口より 梅は飛び桜はかるゝ世の中に

何とて松のつれなかるらん 女房悦べ 躮はお役に立たぞと聞くよりわつとせき上て

前後 不覚に取乱す ヤア未練者めと叱り付けずつと通るは松王丸 見るに夫婦は

二度恟り 夢が現が夫婦かと軻て 詞もなかりしが 武部源蔵異議を但し

一礼は先ず跡の事 是迄敵と思ひし松王打てかはつた所存はいかに 不審(いぶかし)さよと

尋れば ヲゝ御不審尤 存じの通り我々兄弟三人はめい/\に別れて奉公 情なや

此松王は 時平公に随ひ親兄弟共肉縁切 御恩請た丞相様へ敵対 主命とは

 

いひながら皆是此身の因果 何とそ主従の縁切らんと 作病構へ暇の願ひ

菅秀才の首見たらば暇やらんと今日の役目 よもや貴殿が討はせまい なれ共身

かはりに立べき一子なくばいかゞせん 爰ぞ御恩報ずる時と 女房千代と云合せ

二人の中の躮をば 先へ廻して此身がはり 机の数を改めしも 我子は来たかと心の蓍(めど)

菅丞相には我性根を見込給ひ 何とて松のつれなからふぞとの御歌を松は難面あ(つれない)

/\と 世上の口にかゝる悔しさ 推量有源蔵殿 躮がなくばいつ迄も人でwなしといは

れんに 持べきものは子なるぞやといふに女房猶せき上 草葉のかげで小太郎が

 

 

100

聞て嬉しう思ひましよ 持べき物は子なるとはあの子が為によい手向 思へは最

前別れた時いつにない跡追ふたを叱つた時の其悲しさ 冥途の旅へ寺入と

早虫がしらせたか 隣村へ行といふて 道迄いんで見たれ共 子を殺さしにおこして

置て どふマア内へいなるゝ物ぞ 死顔成共今一度見たさに未練と 笑ふて下

さんすな 包みし祝儀はあの子が香典 四十九日の蒸物迄持て寺入さすと云

悲しい事が世に有ふか 育ちも生まれも賤しくば 殺す心も有まいに死るゝ子は媚(みめ)よしと

美しう生れたが可愛や其身の不仕合せ 何の因果に疱瘡迄仕廻ふた事じやと

 

せき上てかつぱと伏て泣ければ 供に悲しむ戸浪は立寄り 最前にナ 連れ合の身

かはりと思ひ付た傍へ往てお師匠様今から頼み上ますと いふた時の事思ひ

出せば 他人のわしさへ骨身が砕ける 親御の身ではお道理と涙添ゆれば イヤ是

御内証 コリヤ女房も何でほへる 覚悟した御身かがり 内で存分ほへたではないか

御夫婦の手前も有 イヤ何源蔵殿 申付けてはおこしたれ共 定めて最期の節

未練な死を致したで御ざらふ イヤ若君菅秀才の御身がはりと云聞したれば

潔ふ首指しのべ アノ逃げ隠れも致さずにナ につこりと笑ふて ムゝゝゝゝ ゝゝゝゝ 出かしおりました

 

 

101

利口なやつりつぱなやつ 健気な八つや九つで親にかはつて恩送り お役に立は孝

行者 手柄者と思ふから 思ひ出すは桜丸 御恩も送らず先達し嘸や草葉

のかげよりも羨しかろけなりかろ 躮が事を思ふに付思ひ出さるゝ/\と 流石

同腹同性を忘れ兼たる悲嘆の涙なふ其伯父御に小太郎が逢ます

わいのと取付いてわつと 斗に泣沈む 歎きも洩れて菅秀才一間の内より

立出給ひ 我にかはると知るならば此悲しみはさすまいに 可愛の者やと御袖を

しぼり給へば夫婦ははつと 供に浸する有がた涙 次手ながら若君様へ御土産と

 

松王つつ立 申付けた用意の乗物早く/\と呼はるにぞ ハツト答へて家来共お目

通りに舁据る 早御出と戸を開けば菅丞相の御台所 ノウ母様我子かと

御親子不思議の御対面源蔵夫婦横手を打ち 方々と御行衛尋しに いづくにか

御産なされし サレバ/\北嵯峨の御隠れ家 時平の「家来が聞き出し召捕りに向ふと聞

其山伏の姿と成危うい所奪取たり 急ぎ河内の国へ御供なされ 姫君にも御対面

コリヤ/\女房 小太郎が死骸あの乗物へ移し入 野辺の送り営なまん アイと返事其中に

戸浪が心得抱てくる 死骸を籧篨(あじろ)の乗物へ乗せて夫婦が上着を取ば 哀れや内より

 

 

102(裏面)

 

 

103

覚悟の用意下に白無垢麻上下 心を察して源蔵夫婦 野辺の送りに親の身で

子を送る法はなし 我々夫婦がかはらんと立寄ば松王丸 イヤ/\是は我子に有ず 菅

秀才の亡骸を御供申 いづれもは門火/\と門火を 頼み頼まるゝ 御台若君諸共

にしやくえい上たる御涙 冥途の旅へ寺入の 師匠は弥陀仏釈迦牟尼仏 六道能化(のふけ)

の弟子になりさいの川原で砂手本 いろは書子をあへなくも ちるぬる命

是非もなやあすの夜たれか添乳(そへぢ)せんらむ憂(うい)目見る親心 劔と死出のやまけ

こへ あさき夢見し心地して跡は門火にえひもせず 京は故郷と立別れ鳥辺野 さして連帰る