本朝廿四考 第二

 

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      イ14-00002-741

 

22(三行目)
   第弐         木曽川や夜半に紛れて 出て行
恵は四方に隠れなき 下諏訪の神垣は下照姫の御神にて 霊験あらたに帰します故近国の
貴賤歩みを運ぶ賑ひに  宜ねが小鼓神楽歌神慮も嘸としられける 殊にけふは卯月の初め
御神事の宵宮迚商人百姓草刈の小童っぱ迄お千度お百度絶間なき其中に 車つかひ
の蓑作 馬場先に車引捨立寄て ホゝウ皆近在の知た者共 太郎よ丑松よよふ参つたな ヲゝ

蓑作遅かつたさればおれも上諏訪迄 油かす付けて行て草臥果た ちつと休んで跡からいのと 神
前の大石に腰をかくれば コレ/\蓑作 其石は明神様の力石迚 其石に腰をおくれば 其えらい石
を上ねばならぬ サアそふじやげなけれど 神は見通し見て見ぬふり そんなら休んで下向しや 後に逢ふ
と別れ行 是等も同じ車遣ひの悪者共 宵宮参りに肩臂を いかつ声でコリヤ蓑作 わりや
此神前の力石の事知て居るか ほんにそふじやたつた今も子供等がいふたけれどあんまりしんとう
さに忘れてひよつと イヤ忘れたとはいはれまい 昔から当社のならはし 腰をかくれば叶はぬ蓑作 ナア勘八
九介 ヲゝ権六かいふ通り其石上は 上にや宮へ断って 明神様のお神酒代を上るが サア/\どふぃじやと石の


23
手詰めに蓑作が 知て居ながらおれが麁相 二人三人かゝつた迚地放しもならぬ力石 どふぞ皆が
沙汰なしに下内て イヤ済まされぬ 上げねば宮へ引ずつて行 ヲゝそふじや/\ 日頃から女たらしで生しらけ
たしやつ顔 踏にじつてこませい サア立動けと両手を引ぱりせちがふ折から 武田家の奥家老板
垣兵部 供引連参詣に 此体見るより家来共に引分けさせ 始終の様子聞たるが社法を背きし
不届きとな 併(しかしながら)慈悲第一の御神なれば 法に行ふにも及ぶまじ 爰は身共が蓑作とやらんに成りか
はつての詫び コリヤ若い者共 侍が詞を下る了簡してとらせやいサアお侍の詫びなれば了簡じたい物
なれど宮の掟が サアそこが有によつての詫び身は信玄の家来畢竟わいらは蓑作が訴人な

れば 我領分へ連帰つて訴人の科に屹度行ふ サア何と了簡するかいなといへば云分有と 気色
かはれば三人が アゝ申し/\ 夫程におつしやる事ならおお宮守りへはさたなしと いふに悦ぶ蓑作 となた様か存
ぜぬに お詫なされて下されて有がたう存じますと 手を合すれば ヲゝ礼には及ばぬ其代には 其方へ
少し頼みたい事が有 旅宿迄来てくれましか 是は/\所縁かゝりもない私 お詫なされ下されて忝い 譬へ
さふなく共お侍のお頼み身に叶ふた事ならば御用の子細爰にて仰下さりませ ヲゝ夫は過分 去な
がら 爰は社内参詣も多ければ身が旅宿へ同道して密々に咄したい殊によらば隙取ふ そふ心
得て大義ながら歩んでくれふか 何が扨何国迄も 来てくれふや 重畳(てうじやう)/\ 家来共蓑作を


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同道せいと 賽(かへりもふし)て板垣兵部旅宿をさして 立帰る エゝ蓑作めをゆすつて酒買さふと思ふ
たに いはれぬおさむが挨拶で骨折損 もふ此上はやけの勘八権六九介も 鳥井前で目で一ぱ
いやるかけふサアこい/\と鼻歌で鳥居の前へと急ぎ行く 夕暮時は 参詣の人もとだへて神前の
御燈の光りしん/\と 神さび渡る其気色年も漸十七か八ちく草履も足がるに見ゆる 所体
もほつとり風 武田の嬪濡衣が 何か願ひは鳥居よりかざす 榊に数取て お百度参り 大麻
引手に神やなびくらん 跡から憎い風俗の大道はたかる鳥居先 信心白砂踏付た懐手して神参り
姉さんよふ参らんすのおれも明神せふりに来たお百度の連に成やんしよ 是はマア/\どなたかしら

ぬが 幸いな道連れ もふ日も暮かゝつて女一人心細い しふであろ/\じたいマア日暮から大膽な 
げんさい様じや マア一度 鳥居から百度大義姉様しんどか手を引かへ ハテしんどい迚大事の願
身をこらさいでよい物か 身を懲らすとは恋であろ イヤ/\そんな事じやない 夫レなればよい着物が
ほしいといふ願ではないかや 何をわけもない事斗 そふおしやんすお前の願はへ おれが願は商売の
四つぼ 此間くさり続け さし斗に成たから思ひ付の百度参り いか様姉様の足のかるさは よく/\の
願ひと見へた コリヤ連立るゝ物じやない 其様にあるかしやるので アゝ好もしい股の邊がすれま
せふ マアそろ/\歩いておれがいふ事を聞つしやれ 色事でなくばおれとはとふしや アゝうまい腰付


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じやととんと擲けば ヲゝ笑止 大事の/\お百度に 悪魔をさして貰ふまい耳に諸の不浄を聞
て心に諸の不浄を聞ず はらひ給へ清めて給へとから手水 コリヤ興疎(けうと)い神道つかひ かたい所か奥
床しい コレ神様は粋じや ついちよこ/\と叶へ給へなひき給へ てんごういはずと信を取て祈る功徳の
神よりは 跡からくどく神様もほつと草臥れ ヲツト待つたり ヲゝしんどや/\ 仏の顔さへ三度といふに 神様
のお百度は 足も腰も抜果た ちつと休もと大石に 腰をかくれば濡衣は 一心不乱 是て丁ど
百度の 数も大方榊を麻 大願成就なし給へと伏拝引鈴の綱切て落れば濡衣は 胸
に当りし案じ顔 横蔵傍へ立寄て コレ何とさしやつた姉様 サイナわしがお百度は大事の/\

お主様の命乞 鈴の綱の切れたのは お命のないといふ 明神様のしらせかと 涙ぐめば エゝ気のよはい
さすがは女子と 鈴の綱手に取上 こなたの命乞するお主は男か女か アイ殿達でござんす
夫レなら吉左右 此鈴の綱に書いて有は 十七才の男子息才延命と有からは神も納受
夫レはマアお嬉しや お主のお年も丁ど十七 ヲゝよし/\ 此鈴の綱持ていんで戴さしやれ アゝ
成程 よいお方にお目にかゝつてお命乞の願成就 重ねて御縁も有ならば此お礼 神に願
ひの甲斐の国と 詞残して鈴の綱 押戴て濡衣 嬉しさ足も地に付ず 悦びいさみ立
帰る 横蔵は跡見送り 余所はない命てさへ神の納受で生きるのに生きる事は扨置 胴取りや


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くさる はればかゝれる もふ今夜の望姓(?もとで)がない 是からは明神様をおれが仲間の胴頭にして 此箱
の賽銭を胴銭 マア試みに神様を相手にして 三つぼの廻りして見よふと くはらりと打明  
ヲゝざくで是程有ば今夜の望姓はらく/\サアマア神様からふらしやませと 張もなげるも我一
人 三つほのさいをめつたぼり おつと神のしくはつく 一廉は立棒で受まする 是からおれが親
の番 サア/\神様はらしやませ ハゝアひり十にねた切お出か 爰を一番当てたいかなむさい明神
なり給へ 当り給へとぽいとなくjれば でつくの一 サアしてやつたとさらへるさいせん 神様も一文無 是
からは拝殿燈篭神等太鼓なんなりと形を見ねは銭かさぬ 譬貸ても 正直をお

もにする神様なれば よもやぶさは打たしやるまい 負けだと思ふて神腹を立さしやんな 全く我
等くらざいはつかやせぬ イヤはやどういふた迚あへんど一つ打たしやれぬ 結構な神様と 銭の
有たけ財布へねぢ込 コレア盗みやせぬ 相対づくで勝た銭 勝ついでに何なりとせせいめて
くれんと邊りうそ/\ よくの眼に見付ける太刀 是幸いの一望姓と 拝殿にかけ上り くりの金物
捻切/\ 己がせしめる奉納の 太刀脇ばさみかけ出す向ふへ長尾の家来落合藤馬
供人引連追取廻し 最前より窺ふ所 御主人の奉納の太刀 盗取には子細ぞあらん 白状
させんと 飛かゝるを 引ぱつて抜手も見せず 首はころりと落合藤馬 スハ狼藉と取


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まく家来 博奕打には似合ぬ横蔵なぎ立/\追て行 折から出合う長尾三郎 人音太刀
音心得ずと 窺ふ足元落たる首 御燈の光りによく見れば 家来落合藤馬が首 ハア
驚き邊りを見廻し 思案廻らす横蔵は 血刀提(ひっさげ)立帰り 心がゝりは以前の首 後日の邪魔と
くらがりを さがせば景勝声をかけ 汝が尋る心の一品 今神前で某が 拾ひ取てコレ爰に
と 差出す首を見て恟り 返答一句も先へは出ず 跡に家来がばら/\/\ 奉納の御太刀を
盗み落合殿迄殺せし曲者 最早遁れぬ百年め腕を廻せと追取まく 待々者共 眼
前の家来の敵身が手にかけんと社燈の光り 顔つく/\゛と打守り 落合藤馬か首討たる

手の中 多勢を相手に薄手もおはぬ力量を持ながら 盗賊と声をかけられ刀を投げ
出し 誤り入たる顔付は まんざら理非の弁へないやつでもない こりや儕出来心じやな 武士
の家来を手にかけしにつくい盗賊只今成敗するやつなれ共命は助けた エゝすりや御赦
免下さるか ヲゝ長尾三郎景勝 身が手をおろして討べき首は 天が下に一つか二つ 儕
ごときに目はかけぬ 此社に一七日参籠の大願 未だ満(みて)さる内ならば一命を指し赦す 余 
人にか様の狼藉せば忽ち絶命 面魂に見所有やつ性根を改め 其首の胴に付て
有やうに 慎みおれと和らかに 生れ付たる大名風 供人引連悠々と心残して立帰る アゝひ


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やいな事 命一つ拾ふた 是から博奕場へ行た共 此ふまんでは埒が明くまい 一ふく呑でいん
でこまそと 力石に腰打かけ すり火燧(ひうち)取出し信濃たばこをすつぱすぱ すつはの車遣ひ
者どや/\と社内に入 横蔵を取廻し わりや此力石の法しつているか ヲゝ知ている 此石を上
る覚が有て 腰かけたが何とすりや ハゝゝ是に千手観音の手が有てもならぬ/\ 石は
扨置おいらが相手に成て見よと両方より小腕取ればぐつと捻上 あまい事すなやいと右と左
や踏のけ蹴のけ 後ろへ取付勘八が 首筋掴で引廻し宙に提ふたりが中へ人礫 こりやたま
らぬと三人が顔も体も砂まぶれ ほう/\逃て立帰る エゝよはいやつら 力石/\と仰山にぬ

かせ共 拍鞠(てまり)程な此小石 まつとおつたら上るのを見せふにと 両手にひんだきかる/\゛と ぐつ
と上たる石の下 穴を穿ちてぬつと出る 白髪交りの有髪の老人身には菅(すが)蓑異
相の体 さしもの横蔵ぎよつとして 下界の人か仙人かと顔をながむる斗也 若者が力量
見届けた 此一巻に血判せい ムゝ此地の底を住家にして 人をためす心の底 問はねど聞かねど
大望有る人と見た 品によつたら頼まれませう が此横蔵も 其元様の器量を見立て 頼
たい事がござります ホゝウ小ざかしくも申たり 主従は一体 主は家来を頼み 家来は主を頼む
ならひ 汝が頼みの子細はいかに 即ち是にと懐中より 一巻を取出し 老人是に血判がして貰ひたい ハテ


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思ひ合た頼じやな 汝も 御邊も かはらぬ大望 身は其方を家来にする気 身共は御邊
を家来にする気 どちらへどふ共決せぬ中は 胸中を巻込だ此一巻 めつたにひゃ打明ら
れぬ 此方迚も此胸の中 ひらかぬ中に返事が聞たい 身が返答より其方が 住所は何国(いづく)ソレ
聞たい イヤ只野山を住家とすれば住所とては定らず とゞまる所は天の下 ムゝ面白い よし
有家は聞す共 一旦我目にかゝつた上は 雲の裏でも尋さがし 味方に付るは折が有ふ 天
が下を志す汝が望も 某と同腹同性 我も定めぬ旅の空 志す方は六十余州
雨やどりする天が下 人目を凌ぐ雨具をくれんと 着たる菅蓑ぬぎ取て 七重八重 花

は咲け共山吹の みの一つだになきぞ悲しき 重ねて逢ふと投やれば ムゝ天晴餞別 受けました
手前も寸志の置土産 返弁申すと力石 ぐつと引上げ投付くれば 心得たりと受留めて
慥に落手仕る ホゝウ御邊の力量も試み申して 先ず安堵 再会/\ 再会するは此蓑を
印にあふは 七重八重 十府の菅蓑打かたけさらば/\と諸共に口にはいはねど胸と胸
しらせ合たる曲者共別れて こそは 立帰る 死は武士の常ぞとは常の詞と思ひ子
に 今ぞかゝれる甲斐国 武田入道信玄と 身は釈門に入ながら 武門花咲庭の
面 落葉角助掃く兵衛が 引ずる箒打つ水に いとゞ館はしめやか也 何と角助何かは


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しらず昨日から 一つ家中がひそ/\と夜の目も寝ずに走り回る 其訳を何だと思へば京の大
将 義晴様とやらを誰共しらず殺したげな 夫レで国々の大名衆が イヤおりや殺さぬ
しらぬとゆつて潔白を立られたげな そこでからが旦那も其 潔白を立ると云て
夫レで館がさはぐげな 其潔白といふ物は どんな物だそちやしらないか 何だ潔白をわ
りやしらないか イヤこいつ文盲なやつでは有 潔白を立るといふはおらか小半酒を立ると
同じ事で潔白振廻と云てお大名には節々有事 おらもちよこ/\潔白喰たが中々
軽くて味い物 したが鰒汁と同じ事で当らるゝと命がない わいらも命が惜いなら

たが潔白を立てべい共 必ず喰せふなと物しり自慢取ても付かぬ下々 咄しも物のしらせか 
と戻ぢかゝりし濡衣が 聞て案じる胸撫おろし コレ/\二人の衆 下としてお上の取沙汰 わし
が聞ては大事なけれど 若侍衆の耳に入たらこなた衆の為にならぬぞ 掃除が済んだら
勝手へござれと 聞て恟り 頭角助とちめんぼう おらは何にも白洲を掃く兵衛 箒かた
げて逃て行 よしなき事に隙取し 嘸奥様のお待兼 濡衣只今帰りしと 一間に向ひ
おとなふ声 ヲゝ濡衣か嘸苦労と 障子ひらいて 常盤井御前 思ひなき身の思ひ
子を 思ひ侘びたる御景色 濡衣こなたに手をつかへ 上々様に苦はない物と 思ひの外勝頼


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様のお身の上 ふつて涌たる御災難お案じは理り様 達者なお身でも有事か お目の悪
い若殿様 もしもの事が有ならばと 思へば身も世もあられぬ悲しみ 悲しい時の神いのりと
諏訪明神へ参りしも 今度の御難儀免れさせたたび給へと 重き願ひも叶はぬ告げか
切れて落たる鈴の綱 思はずはつと取上て よく/\見れば勝頼様のお年に違はぬ命の釣
緒 十七才の男息災延命と 書て有しも神のお告げと 嬉しさ余る鈴の綱 是見給へ
と取出し 見せるも見るも打につこり エオゝ夫レは嬉しや悦はしや 切て落しもそなたの真実
神も納受ましまして勝頼が身にさゝはりない 諏訪明神の御神託 是に付けても

京都の武将義晴公 何者共しれず飛道具を以て害せしより 諸国の大名心區々(まち/\)
我人心疑ひ合ふ 中にも夫信玄に疑かゝる身の云訳 一子を切てだすへしと 契約有しは武
士の意路 され共御前のお情にて 君三回忌の其中に 敵の有所しるゝならば 勝頼も助けよと
深き恵の立つ月日 早三回忌も事済ど 今においても敵もしれず けふにつゞまる我子
の命 何とせんかたなき中に ノウ持べき者は忠義の家来 板垣兵部我を招きお気遣し給ふな勝
頼公に寸分違はぬ御身かはり 兵部が存じて罷り有れば けふ中に連れ帰らんと 館を出しがわらはが楽
夫レ故兵部の帰りを待て共 昨日にも夕べにも 今においていなせのないが心がゝりに有つれと神の


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お告げに何疑ひ 兵部の帰りも軈てゞ有ふ そちも案じな濡衣と御悦びの折からに 傍使ひが
手をついて 御上使として村上義清様お越也と 聞て奥方涙ながら 早上使のお入とや 心
充ての兵部も戻らず ハアイヤこれ濡衣 そなたは次へいて休足しや 上使への返答は自らが胸に
有 サアいきや ハテ立ちいやいのと 仰に否共濡衣が ぜひなく一間へ行跡へ のつさ/\と入来る 上使
は聞ゆる村上義清 畳ざはりもあらくれ武士 いかつがましく座に直る 奥方遥に手をつかへ
甲斐と信濃は国ならび 其信濃にござつた村上殿 今は遙々都より 御上使とは御苦労と いふ
に村上打點頭 成程以前は隣国の好心安ふ致せしが 夫レは内証 只今は上使の役目 子細

申すに及ばず信玄とくと合点の趣き 勝頼の首お渡しなされ受取らんと 事もなげなる上
使の権柄 成程其義は夫信玄わらはに申し付けし故 兼て覚悟はしなからも今はの
際に是がマア 悲しうなふて何とせふ 親子此世の一世の別れ 心用意も致させたい 首討つ
に何の用意 手間隙なしの無造作に 拙者がたった一打と 立上るを押留め ケ様申さば武
士の 身に有まじき畢怯者未練者共思そふが 何を包まん勝頼は諏訪明神の申し子
にて 神に御苦労かけ奉り 設けし子なれば私に殺すも上へ恐れ有 勝頼が命元へ戻し 奉
ると 諏訪明神へ代参を立てたれば せめてそれが帰る迄 暫くお待下されかし ヤアあまちやらな 


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其代参いつ戻らふやら知れざるを べん/\だらりと待つ事ならぬ イヤさのみ夫レ程間取まじ おそふて
けふの暮迄は ヤア此永の日を待つ事叶はぬ 然らば未の上刻迄 夫も叶はぬ 夫ならせめて二時の
用捨は武士の情ぞや ハテざこ鰮を直(ね)切る様に何のかのとどびろこい 夫程延てほしくは暫し
の用捨はしてくれんと 庭に飛おり 垣根の槿(あさがほ)引きみして床の間の 花生けへ捻込押込 コレ此
槿のしほむ迄は宥免致す 花がしぼむと夫レが寂滅 いやと云さぬ割符の一本 先ず夫レ
迄は奥で休足 御馳走には信濃蕎麦お手打が我に好物花?(うつぼ)より勝頼の首
早く賞翫致したい イザ奥の間へ案内と いふにいな共槿の日影待間の命ぞと 思へば胸
      
も板垣が 早ふ戻つてくれかしと夫レを心の力草 村上を誘ふて一間へこそは入にける 始終の
様子物かげに聞て袂も濡衣が 今は恨みを槿にいかん方なき憂き身やと声をも立ず
忍び泣漏隔たる唐紙を明けても明かぬ目なし鳥 むざん成ける姿にも 武士の角立つ
角(すみ)前髪袴の裾も長廊下 さぐる刀の手前さへ 面目もなき其風情 勝頼
様かおいとしやとすがり付て泣居たる 一筋な女気に悲しいは道理/\ 只因果なる我身の
上 偶(たま)々弓馬の家に生れ弓矢打物取事さへ 叶はぬ畸人(かたわ)と成り下り此儘無念な死を
せんより 侍らしう腹切が弓矢神の身の云訳 此頃母の物語其時覚悟は極めて


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居れど 畸人に成ても子の命助けたう思ふ筈 母上のお心づかひ無下になすが勿体なさに
今迄命延ばはれ共 今村上が使者の様子聞てはどふも 生きては居られぬ 目かいの見へぬ勝頼
を 大事に思ふて長々の世話 いかい苦労をしてたもつた嬉しい共過分共礼は未来で/\と
跡は得云ず見へぬ目に 涙を隠すいぢらしさ 濡衣わつと声を上 恨めしい勝頼様此館へ奉
公に来初めた日からお姿を かはいらしいと思ふたが 縁と因果の初めにて お主様共御主人共 弁へ
しらぬ拙い筆に 心のたけを岩本の神の結ぶのお情に嬉しい枕かはした時 未来迄もと おつ
しやつた 其お詞が誓紙ぞと 楽しんで居る物を お前斗死ふとはむごいつれないどうよくと

我身をとんと勝頼の 膝に打臥し泣沈む ヲゝ其恨みは尤なれど 親の赦さぬ徒なれば
どふではかない花の縁 もふ槿もしぼむ時分 隙入れては恥の恥 泣ずとそなたは次へ行
きやと 早切腹と見へければ アゝ申/\まだ槿はしほみは致しませぬはいなァ いき/\と今を盛り
のお身の上 切腹おは情ないどふぞ助ける仕様はないかと 留めても留らずせり合中へ母はかけ出ヲゝ
よふ留てたもつたのふ 最前来りし使者の様子 聞て覚悟は理りなれ共 そなたを助けふ斗に
心を砕いているはいのふ 母が心を無にするのか ハゝアこは勿体なき御詞 須弥大海に較べても
及びがたなき母の大恩 さら/\無下には致さねど 槿の限りの命 隙取ては使者の手前 イヤ


35
苦しうない大事ない そなたに寸分違はぬ身がはり 慥に有と板垣が館を出しは昨日の朝 スリヤ
もふ戻るに間も有まい イヤ申奥様 板垣殿が其身がはり 連てさへ帰らるれば勝頼様
のお命にさゝはりはなけれ共 若し又夫レが違ふては 夫レも分別して置いた濡衣そちや勝頼と
不義しているな エイ いや叱るではない此母が 今改めて 女夫にする エゝすりやあの賎しい私を
ヲゝ賤しうても貴(たつと)ふても女は夫を大切に 思ふが直ぐに氏系図 目かいの見へぬ勝頼を
身にかへて大事にかける 如才ない気を見込だ故 大事の子なれどそちに預りる 連て此家
を立退けと 思ひがけなき詞に恟りアノ勝頼様を 合点がいたか 花がしほむと悲しい別れ

早ふいけとういけと いふ中若しや槿のしほれやせんと延び上り 見やる花より見る母の姿し
ほるゝ斗なり 勝頼は気色を正し コハけしからぬ母人の御仰 死を恐れて館を出なば後の嘲り
家の恥辱 武士の命は義によつて軽しと申す 只始めよりなき身ぞと思召し諦めて 命のお暇
給はらば猶此上の母の御慈悲 お願ひ申し奉ると命惜しまぬ健気さにいとゞせきくる涙を止め
スリヤ此母が是程に心を砕くに承引せず腹切か もふ此上は留めはせぬ われより先へ此母が自害と
指し添追取ば あはてとゞめる濡衣に又取すがるむさんの亡目(めやみ)申し母人段々誤り入ましたお詞に
従ひ此館を スリヤ聞き分けて落てくれるか 濡衣も其心か アイ/\必ず聊爾遊ばされて下さりま


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すな ホゝ聞分けてさへたもれば母も嬉しい かういふ中も心せく サア/\早ふと勧められ 是非なく/\も
立出れば ヤア勝頼落さんとはのぶとい工(たくみ) 村上が見付たからは一寸も動かさぬ爰へ引出し一討ちと
かけ寄先に立ふさがり コレ/\/\槿のしぼまぬ中に討たふとは ヤアしぼまぬかしぼんだか脈の上つた
死合花 是でも生きるか生けて見るか サア/\どふじやと槿の花を目先へ突付け/\ 突付けられて
常盤井も何と詮方なき身ぞと 思ひ切て突込刀 ノウ悲しや切腹と 叫ぶ濡衣驚く
母ヤレ早まつた生害と 二人左右に取付て前後正体泣沈む 勝頼苦しき息をつき 申し
母人お詞に背きし段 真平御容赦下さるへし 是迄の御養育御慈しみ深かりし身は盲目の

浅ましや 軍慮に秀でし家に生れ 戦場のかけ引叶はず 遠矢は元より打物は 漸力を杖
につき 我家の内を探廻る 甲斐源氏嫡流たる 武田四郎勝頼と 云れる是が武(ものゝ)
士(ふ)か よくも武運に尽き果てしと思へば此身にうんじ果 けふや切腹あすや自害と 毎日/\
刀を手に取上げは上げながら 思へば深き母の大恩 我先立なばなき跡にて 嘸御嘆き御物思ひ 逆様な
追善供養 受ける不孝の勿体なく ながらへ有し今日只今 親子の縁も槿と供にちり
行 御名残 ヤイ濡衣 我最期を嘆かず共 母に力を付け奉れ さはいへ目かいの見へぬ身を朝
夕心の楽しみにくらしたそちが胸の内不便や便りも有まじと 涙呑込手負のくるしみ 見る


37
に悲しさ濡衣が つい仮初のお障りより見へぬ御目を明暮に 苦に病み給ふがおいとしく どふぞお
目の明く様と御府お札もあらゆる神はだし参りのお百度にも 叶はぬのみかお命迄今を限り
と成たるは神も仏もない事かと涙の限りくどき立くどき立れば奥方も かゝる憂き目を
見まい為心尽した兵部さへ今に帰らぬ怨めしさ 思ふに違ふ浮世やと手負にひしと抱付き
流涕(てい)こがれ伏沈む ヤア聞たくもないよまい言早首刎ねてくれんずと 刀するりと抜放せ
ば のふコレ今が別れかと悶へる奥方濡衣が 敵とゞむを押退け突退け村上がふり上る刀 
の下 手負は合掌ぱつしり立切生死の境 かゝる事共白洲の内あやしの辻駕えいさつさ

跡に続いて板垣兵部老いの心もせき立足元 ヤレ/\どめつそふな旦那殿 マア一里じやマア半
道じや 急げ/\と息もさせず 上の諏訪から十七八里夜通しの早追極めの駕賃お心付けは
お心次第 結構そふな旦那様 酒手も定めし結構なお金ずつかり下さりませと 汗押ぬ
ぐふ其中に 兵部は切戸の?(かきがね)しつかり 駕代もくれふ こなたへ来れとやり過し
て大げさ切 ナフ悲しやと逃出す相肩真二つ 二人をしとめる刀の音に恟り驚く駕の垂れ
明て逃出る蓑作が アゝ申し/\ 私は御領分に住む百姓 博奕は打ず喧嘩は嫌ひ 成敗に
合ふ科ない 御赦されて下さりませと 歯の根も合ず震ひいる アゝ音高し/\御身の


38
上に気遣なし 必ず騒ぎ給ふなと座敷へ伴ひ窺ふ中 奥方一間を転び出 ヤレ板垣か遅かりし
と跡は涙に取乱す ホゝ嘸お待兼 併し御用の品も首尾能調ひ 只今同道悦び下さ
るべし 奥様申常盤井様と いへど諾(いらへ)も泣入母 ハテ心得ぬ御有様 何にもせよ委細の訳もおつ
しやらず 泣てござつて事済むか 勝頼様はどこにござる ヲゝ其勝頼にあはしてくれんと首提
て立出れば ヤアこりや若旦那の御首 すりや早御さいご遂られしか アゝはつと斗に腰
もぬけ 胸も張裂くうろ/\眼 拙者めが心充ての事有れば譬いか様の事有共 必聊爾の出来
ぬ様と 申置いた兵部も待たず 天にも地にもかけがへなき大事の若殿殺して仕廻 泣て済むか

悔んで済むか エゝ云かいなし共胴欲共 いふて返らぬ此有様 いたはしや残念やと拳を握り歯を
噛みしめ五臓をしぼる斗也 ヤアごくにも立ぬよまい言泣きたか緩りと跡で泣けと 首提て
村上は旅宿を さして立帰る 跡見送つてうろ/\と身の納りを蓑作が 申お侍様私はもふ
お暇申ます マア人に何の合点もさせず 何やらよい事が有 おれ次第に成て居いと むり
やりに駕へ捻込 連てござつた此座敷 さつきにからの様子を聞ば 私を身がはりにするのじや
げな どこの国にかめえつそふな 人の首を断りなしに切ふとは むごい気なお侍様 畢竟身
がはりが遅なつて 間に合なんだりやこそあまの命 ヲゝとふやら思ひなしか 首筋元が


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ひいやりする ヤレ/\こはや恐ろしと ぞゞ神立てて立出れば ヤア一大事をしらせ其分に帰され
ず 不便なからも覚悟せよと 切込刀かいくゞり鍔元しつかと片手に握り ハテ身がはり
を遣ふたといふではなし 正真の首渡したを誰知た迚何の大事 そしてマア人の命を沢山そふ
に 瓜か茄子び切様にお赦し有れと突放され ヤア土ほぜりに似ぬふ敵者 弥助け帰され
ずと又切付くれば身をかはし 無刀のあしらひ手練の切先危く見ゆる後ろの障子
兵部が髷(たぶさ)ぐつと引明れば血刀さけて信玄公悠々然と立給へば はつと奥方蓑

作も身をへり下り恐れ入 信玄一間をしづ/\立出 勝頼が最期にも出合ず 今
又兵部を手にかけし某が所存の程 嘸常盤井の不審ならん ヤア/\濡衣いひ
付け置きし物はや/\持て ハツトいらへも涙ながら 夫の血汐に際なす片袖 なく/\御前へ指し出せば
信玄御手に取上給ひ 十七年の春秋を 我子と思ひ暮されし勝頼こそ 夫なる
兵部が実の世伜 御身と我が血をわけし ?といふはあの蓑作 改めて親子の対
面致されよと 思ひも寄らぬ詞に恟り スリヤ腹切た勝頼は我子でなく 此蓑作が真
実の ヲゝ其証拠は此血汐と 御はかせの血(のり)片袖に押あて/\押しぬぐひ 是見られよ此


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血の 外へもちらず合体せしは紛れもなき親子の血筋 十七年以前勝頼延生
せし砌其板垣も一子をもふく 其子が面ざし我世伜と似れば似る物生写し見分け難し
かきやつが悪念 人しらぬ間に摺りかへ置き 己が世伜を主人とあがめ主人の胤を我子
となし 己が手にも育てずして病死と偽り 信濃の国の片邉りへ一人力だめしと思ひしが 今
戦国の時にいたつて 人の子を我子とし 我子を他家に育つるは智謀の一つと奥に
も語らず 不通にやつたる其先は我手を廻して育てし蓑作 慮りの図をはづさす 主

となしたる己が子に自然とかゝるけふの災い 因果の廻り来るとはしらず 己っが?
が身がはりに大恩請し主人の子の行方を捜して連れ帰り 又殺さんとはかる人外め
国賊とやいはん人面獣心 天の御罰思ひしれと扇を取ててう/\/\はつたちけすへし
信玄の 詞にしつたる我子の身の上 かゝる野心の者共しらず 忠義一途の侍と
思ふたが面目ない それに付ても此蓑作 信玄様の御子とは知てか但しらずにか
其義は我を育てたる乳母がとくより物語 又父上にも是迄に忍び/\の御対
面 スリヤ稚い時より百姓の家に有しも父御のお指図とは云ながら 系図正しき


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武士の弓箭(や)の業は目にも見ず身は鋤鍬の泥まぶれ憂にやつれしその
姿 今改めて親子の対面 衣類大小早々持て 先ず暫くと押とゞめ京都の武将義
晴公あへなく討れ給ひしより 父を始諸大名へ疑かゝる今此時 夫レ故にこそ勝頼に
腹切せしも父の云訳 いまだ立共立ぬ共 知たる中に某が又勝頼と立返らば弥疑ひ
一身にとゞまり難き此館 身を民間に育むを幸い 此身に儘蓑作と 白洲へおり
て蓑と笠世にふる雨はしのげ共我身にかゝる横しぶき漏て姿も濡衣が始
終を聞て覚悟の刀 隙さずとゞむる強気の手負 刃物にくつて我原へぐつとつき立

引廻し アゝ恐ろしきは天の照覧 主人の罰 信玄公の仰一々違はぬ我悪心 ?を国の
守とあがめんと 子故の闇に眼くらみ くらみ/\て?が眼病 業邪念も叶はぬ筈
勿体なくも御主人をがいせんとせし大罪人 逆さ磔にも行はれず大将の御手にかゝる
有難さ コリヤ濡衣 此館の御重宝 諏訪法性の御兜 今謙信の手に入たり
汝も信濃生れと有れば今の命をながらへて 何卒国へ立帰り方便(てだて)を以て兜を奪
取 勝頼公へ奉らば親と一つでない世伜 死後の云い訳此上なし 申奥様お赦し有て
此願ひお聞届け下さらば 生々世々の御厚恩と伏拝んだる四苦八苦 不便と奥方


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濡衣引立 大悪人の兵部なれ共 夫レには染ぬ勝頼が孝心 しらぬながらも親子となりし
縁有ば 濡衣を親里へ返すがせめて手向草 ホゝ尤成母人の御斗計らひ兜の事も捨
置かれず今腹切て死たる勝頼 親と一つでない云い訳 忠義の仕様は濡衣が心次第と死を留
る 詞に遉死れもせず御定に従ひ法性の御兜 命にかへて取かへさん ホゝ遖出かした蓑作
猶も姿を下賤に?(やつ)し 義晴公を討たる敵草をわかつて尋出し其時こそは勝頼と 立
返つて御対面と 早立出れば信玄声かけ 義晴公をがいせしは 四海を望む叛逆人 中と
?(たやす)き敵にあらず殊に手練の飛道具 いまだ日本へ渡らぬ兵器譬ていはゞ真此通りと

用意の鉄丸車輪のごとく投付け給へば透かさず笠にてひらりと受留め 火に徳の有物は水に徳なし
諸葛臥龍が工夫の地雷 火玉飛ちる術有共我方寸にも大川有 何かは以て恐るべき 未日本
へ渡らぬ鉄砲夫レこそ究竟詮議の手がゝり 尋出すは瞬く間追付け帰り蓑作が身の納まりは
其時/\ 其ときはいに濡衣が暇申すも涙にて 物のあやめもなき夫に似たるあやめや杜若 花紫の明け方
は盛と見へし槿も今は名のみぞ勝頼の 御手へ頓(やが)て鳥兜 花にもなせし悪業の有て其名は
鬼あざみ 因果廻る日車に法の此身と絶入兵部 不便と見やる信玄は仁有 智有勝頼に名残
奥方女帝花(おみなへし) 桔梗かるかや安芸の野の月に 名をふる更科や信濃路さして いてゝゆく