絵本太功記 六月十日 (夕顔棚の段)

 

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      イ14-00002-093
 

69(左頁2行目) (夕顔棚の段)
 同十日の段   
なむ妙法蓮華経/\/\/\ 御法の声も媚めきし尼ヶ崎に片辺り 誰住家といふ
声も おのが儘なる軒のつま あたり近所の百姓共茶碗片手に高咄し なふ婆
様 こな様も見た所が 上方で歴々のお衆そふなが 何の為に面白ふもない此在所
へはござつたぞいの アゝコレ/\甚作そりやいやんな 京の町は武智といふ悪人が 春長様
を殺して大騒動 大かた又下へ下つていやしやる久吉殿が戻つて来て 武智と是


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非に一合戦なけりや済まぬはいのふ そんなら年寄はうか/\京の町には居られぬと
かくあぶなけのないやうにこんな在所へ来ているか大でき/\ 時に近付かてら妙
見講を勤るとはよい手廻し 大きな馳走に逢ました 是から随分お互にお心安ふ
いたしませう サア/\逝なふと口々に 云たい事をたくしかけしやべり廻つて帰りける 老母
はつど/\門送り庭の千草に打つ水もたもつ葉毎に風かほる 軒を目当にくる人は
武智の閨に咲く花の操の前は家来を遠ざけ 嫁の初菊伴ふて窺ふ切戸の
庭さきに花に心を 養ふ老女 夫と見るより手をつかへ 後室様の見舞として 只今参

上致せしと 慇懃に相述る 詞に老女は打えみ ヲゝ珎らしい嫁女孫嫁 はる/\゛の道よふこそ/\
去ながら伜光秀 当月二日本能寺にて 主君を害せし無法者 同じ館に膝ならぶる
も 先祖の恥辱身の穢れと 館を捨てて此在所へ身退きし此婆を 見舞とはおこがまし
い 膳にもせよ悪にもせよ 夫に付くか女の道 操の前武智十兵衛光秀が妻 そな
たは又孫の十次郎光慶が嫁でないか 生死分からぬ戦場へ赴く夫を打捨てて浮世を捨
た姑に孝行尽すは道が違ふ 妻城に留つて 当主を守るが肝要そや モウやもめ
暮しの楽しみには 夕顔棚の下涼み捨べき物は弓矢そと 云放したる老女の一徹 跡は詞も 


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なかりけり 常の気質とさからはす いか様後室様のおつしやる通り 此様に只お一人こざつたら 何も
かも気散しで マア第一はお身の養生 今から私も初菊も後室様のお傍に居て 飯(まゝ)も焚い
たり茶も涌し お宮仕へをせうそいのと 有合ふ前垂裲の上に引しめ茶釜の傍 端香(はなが)の籠
る姑の しふ/\機嫌を取兼る娘心に初菊も マどふ済む事が濁り井の 深き奇縁の釣瓶
縄 水くみ上んと寄れば コレ/\嫁達 シテ孫十次郎は 城に残つて居召るかさればでござります 十次郎
が願ひには とふぞけふの軍に 高名手柄か顕はしたいと 父上迄は願ひしかと 婆様のお赦し
なきに出陣するも本意でなし 母に取次してくれと くれ/\゛の願ひ故 余り健気さ祖母様に

御機嫌の程いかゞぞと 窺ひに参りましたと語る内 老母は涙をはら/\と流し ヲゝうるさの
嫁が物語り 主を討たる逆賊の邪非道の軍の評定 聞がいやさの此住居 又孫を誉
るではなけれ共 非道な伜光秀か子に 十次郎といふ武士か 生れてくるとは是も因縁悔
んで返らず 戦場の事聞たふない アゝいや/\情なの浮世やと 無量の思ひ百八の 数珠つま
くつて居たりけり 折ふし表へ草鞋かけ 風呂敷背にいつきせき蛙飛込道野辺の清
水 結はん夏の旅 西行もどきの僧人門口に立休らひ 諸国修行の一人旅 近頃申兼
たれど御宿の報謝に預りたし 押付けながらと云入る声を老母が聞取て 見苦しうござります


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れと お心置きなふ御一宿 夫は千万忝い 左様ならば遠慮なしに御免/\と上り口腰打かくれ
ば二人の女 草鞋の紐を解きかくれば アゝ勿体ない/\ 構ふて下さりますな 旅仕付けた坊主の
気赦し 木納屋の隅でもついころり 蚊屋も蒲団も入ませぬ お心遣ひ御無用と 詞
半ばへ表口 人目を忍び只一騎 窺ひ立聞武智光秀 心得かたき旅僧と 生垣押
分けさし覗き 思はず見合す母の顔 老母は何か心に點き ヲゝわしとした事が心の付かぬ コレ御
出家様 此板囲ひが則風呂場 水は幸い汲で有 ついぼや/\ともやして 暑い時分しや
行水して 休んで下さりませ 婆も跡で相伴せう アゝイヤ夫には及びませねど 相伴

と有ば涌かしませう そんなら御免なされませと 包み引さげ気散じに 湯殿をさして入にける 味
方の軍卒両手をつき 御子息十次郎光慶様 後室様に御願ひの筋有と 只今
是へ御越といふ間程なくしつ/\と 家来に持せし鎧櫃 かき入させて打通り コリヤ/\者
共 そち達に用事はない 陣所へ早くとおつ立やり 異議を正して両手をつき 母様を以
て御願ひ申せし出陣 御聞届け下されなば 武士の本意と十次郎思ひ込でぞ願ひける
老母は見るより機嫌顔 ヲゝ珎らしい十次郎 出陣の願ひとな 伜を見限り此所へ身
退きしに叮嚀な願ひの筋 最前嫁女にくはしう聞ました 迚も出陣仕やるなら


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但し母が願ひは此初菊 今宵此家で祝言の盃仕てから門出しや 何と嫁女嬉し
いかと 老の詞に初菊は 飛立斗に気もいそ/\ 心の悦び穂に出る 顔は上気の夏楓色
も媚く斗也 只黙然と十次郎 けふ初陣に討死と 覚悟極めし此體 お暇乞に
参りしと しらせ給はぬ悲しやと涙呑込忍び泣 操の前も立上り 祖母様
の御機嫌のかはらぬ内にかための盃 ヲゝそれ 孫も大かた心せき 操は九献
の用意しや 十次郎が初陣の鎧の役はすぐに花嫁 三国一の悲しみと しら
ぬ白歯の孫嫁が 手を引連れて 三人は奥の