仮想空間

趣味の変体仮名

絵本太功記 六月十日 (尼崎の段)

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html
     イ14-00002-093
 

73(右頁最後) (尼ヶ崎の段)
    一間へ入にけり 残る誉の

花一つ 水上かねし風情にて思案 投首しほるゝ斗漸涙押とゞめ 母様
にもばゞ様にも 是今生の暇乞 此身の願ひ叶ふたれば 思ひ置く事更に
なし 十八年が其間御恩は海山かへがたし 討死するは武士の習ひと思し召分け
られて 先立つ不孝は赦してたべ 二つには又初菊殿 まだ祝言の盃をせぬ
が互の身の仕合せ わしが事は思ひ切 他家へ縁付して下され 討死と聞
ならばさこそ嘆かん不便やと 孝と恋との思ひの海隔つ一間に初菊が
立聞涙転び出わつと斗に 泣出せば はつと驚き口に手を当 アゝコレ/\


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声が高い初菊殿 扨は様子を アイ残らず聞ておりました 夫の討死遊ば
すを妻がしらいで何とせう 二世も三世も女夫じやと思ふている
に情ない盃せぬが仕合せとは 余んまり聞へぬ光義様 祝言さへも済
ぬ内討死とは曲がない わしや何ぼふても殺しはせぬ 思ひ留つて給はれと
縋り嘆けば アゝコレ/\こなたも武士の娘じやないか 十次郎が討死は兼ての
覚悟 ばゞ様に泣顔見せ もし悟られたら未来永々縁切ぞや エゝ サア
とかふいふ内時刻が延びる 其鎧櫃爰へ/\ 早ふ 時延びる程不覚の元

聞分けないと叱られて いとしい夫が討死の 首途(かどで)の物の具
付るのがどふ急がるゝ物ぞいのと 泣く/\取出す緋威の 鎧の
袖にふりかゝる 雨か涙の母親は 白木に土器(かはらけ)白髪のばゝ 長柄
の銚子蝶花がた首途を祝ふのし昆布結ぶは 親と小手脛当
六具かたむる三々九度 此世の縁やわり小ざね 猪首に着
なす鍬形の あたりまばゆき出立は 爽やかなりし 其骨柄 ヲゝ遖武
者ぶりいさましし 高名手柄を見る様な 祝言と出陣をいつしよ


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の盃 サア/\早ふ 目出たい/\嫁御寮と 悦ぶ程猶弥増名残 こんな
殿様を持ながら是が別れの盃かと 悲しさ隠す笑ひ顔随分
お手柄高名して せめて今宵は凱陣と 跡は得いはずくいしばる
胸は八千代の玉椿ちりて はかなき心根を察しやつたる十
次郎包む涙の忍びの緒しぼり かねたる斗也 哀を 爰に 吹
送る 風が持てくる攻り太鼓 気を取なをしつゝ立上り いづれもさらばと
云捨てて 思ひ切たる鎧の袖行方しらず成にけり ノウ悲しやと

泣入る初菊 母も操も顔見合せ ばゞ様嫁女 可愛やあつたら武士を 
むざ/\殺しにやりました ノウ初菊 十次郎が討死の出陣とは知ながら
なま中留て主殺しの憂き死恥をさらそふより 健気な討死させん為
祝言によそへて盃をさしたのは 暇乞やら二つには心残りのないやうと
思ひ餘つた三々九度 ばゞが心のせつなさを推量仕やと斗にて
始めて明かす老母の節義 聞初菊も母親も一度にどふど 伏まろび
前後不覚に泣叫ぶ 襖押明け何気なふつか/\出る以前の旅僧 コレ/\


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かみ様 風呂の湯がわきました どなたぞおは入なされませと いふに
こなたは泣顔かくし ヲゝそれは御苦労ながら 年寄に新湯(さらゆ)は毒 跡は
若い女子共 マアお先へ御出家から いかさま湯の辞儀は水とやら 左様
ならば御遠慮なし お先へ参ると立上れば 三人は涙押包奥の仏間と
湯殿口入や 月もる片庇 爰にかり取真柴垣 夕顔棚のこなたより 顕  ←
れ出たる武智光秀 必定久吉此内に忍び居るこそ究竟一 只一討
と気は強弓 心はやたけ藪垣の 見越の竹を引そき鑓 小田の蛙の

啼く音をばとゞめて敵に悟られしと 差足抜足 窺ひ寄 聞ゆる
物音心得たりと突込手練の鑓先に わつと玉ぎる女の泣声 合
点行かずと引出す手負 真柴にあらで真実の 母のさつきが七
転八倒 ヤアこは母人かしなしたり 残念至極と斗にて 遉の武智
も仰天す只茫然たる斗也 声聞付けてかけ出る操初菊諸共走り出
ノウ母様か情ない 此有様は何事と縋り嘆けば目を見開き 嘆まい
/\ 内大臣春長といふ 主君を害せし武智が一類 斯成果つるは


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理の当然 系図正しき我家を 逆賊非道の名を穢す 不孝者
共悪人共 譬がたなき人非人 不義の富貴は浮へる雲 主君を討て
高名顔 天子将軍に成た迚 野末の小家の非人にも おとりしとは
しらざるか 主に背かず親につかへ 仁義忠孝の道さへ立ば もつそう
飯の切米も 百万石に まさるぞや 儕が心只一つで しるしは目前是を
見よ 武士の命を断つ 母も多いに此様な 引そぎ竹の猪(しゝ)突鑓 主を殺
した天罰の報ひは親にも此通りと 鑓の穂先に手をかけてえぐりくるし

む気丈の手負 妻は涙むせ返り コレ見給へ光秀殿 軍の首途(かどて)にくれ
/\゛もお諌め申た其時に 思ひ留つて給はらば斯した嘆きは有まいに しら
ぬ事とは云ながら現在母様を手にかけて 殺すといふは何事ぞ せめて
母様の御最期に善心に立帰ると たつた一言聞かしてたべ 拝むはいのと
手を合しいさめつ泣つ一筋に夫を思ふ恨み泣 操の鏡くもりなき涙
に誠あらはせり 光秀は声あららげ ヤアちよこざいな諫言立 無益
の舌の根動かすな 遺恨を重ぬる尾田春長 勿論三代相恩の


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主君でなく 我諌めを用ひずして神社仏閣を破却し 悪逆日々に
増長すれば 武門のならひ天下の為 討取たるは我器量 武王は殷の
紂王を討 北条義時は帝を流し奉る 和漢供に無道の君をしい
するは 民を安むる英傑の志 女童のしる事ならず すさりおらふと
光秀が 一心変ぜぬ勇気の眼色 取付縞もまかりけり 折しも聞
ゆる陣太鼓 耳をつらぬく金鼓のひゞきあはやと見やる表口
数ヶ所の手疵に血は瀧津瀬 刀を杖によろぼひ/\ 立帰つたる武

智が一子 庭先に大息つぎ 親人是におはするやと いふも苦しき断
末魔 見るに驚く母親より 娘は傍に走り寄りのふいたはしや十
次郎様 ばゝ様といひお前迄此有様は情ない お心慥に持てたべ
やいの/\と取付て介抱如在泣斗 光秀わざと声あらゝげ ヤア不覚
なり十次郎 子細は何と 様子はいかに 具(つぶさ)に語れと呼はれば はつと心を取直し
親人の差図に任せ手勢すぐつて三千余騎 浜手の方に陣所を
かため 今や帰国と相待所に 敵はそれ共白浪の 櫓を押切て陸地(くがち)


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に漕ぎ付け 追々都へ馳せ登る 真柴の軍勢ござんなれと 鬨をつくつて味
方の軍兵縦横無尽になぎ立れば 不意を打れて敵は廃亡 狼狽へ
騒ぐを追立 追詰 爰をせんどゝ戦ふ内 後ろの方より大音上 真柴筑前
守久吉の家臣加藤正清是に有 逆賊武智が小わつぱ共目にに物見
せてくれんずと いふより早く太刀抜かざし 四角八面に切立られ 瞬く間
に味方の軍卒 残らず討死仕り 無念なからも只一騎立帰つて候と 息
継あげず物語れば 光秀怒りの髪逆立 ヤア云がひなき味方のやつ

原 シテ四方天田嶋の頭は さん候四方天は 目ざすは久吉一人と 昨朝(さくてう)よりの一騎
がけ 乱軍なれば生死の程も 慥にそれと承はらず 親人の御身の上
心にかゝり候故 未練にも敵を切抜 是迄落延帰りしぞや 此所に
御座有ては危ふしく 一時も早く本国へ 引取給へサア早く/\と 深手
を屈せず爺(てゝ)親を 気遣ふ孫の孝行心 聞に老母はせき兼て
アレあれを聞きや嫁女 其身の手疵は苦にもせず 極悪人の
伜めを 大事に思ふ孫か孝心 ヤイ光秀 子は不便にないか 可愛とは


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思はぬかやい 儕が心只一つで いとし可愛の初い孫を忠と義心に健
気成 討死でもさす事か 逆賊不道の名を穢し 殺すは何の
因果ぞとせぐりくるしき老の身の 声聞付けて十次郎 ヤアそんなら
ばゞ様には 御生害遊ばしたか 今生のお暇乞 今一度お顔が見たけ
れど もふ目が見へぬ父上 母様初菊殿 名残惜やと手を取て 妹背
の別れ愛着の道に引るゝいぢらしさ 母は涙に正体なく 討死するも武(ものゝ)
士のならひといへと情ない 十八年の春秋を刃の中に人と成り いつ楽しみの

隙もなふ弓矢の道に日をゆだね 今朝の門出の其時にも母様けふの
初陣に 遖高名手柄して 父上やばゞ様に誉めらるゝのが楽しみと につと
笑ふた其顔がわしや幻にちら付いて得忘れぬとくどき立 くどき立つれば
初菊も ほんに思へば此身程はかない者が世に有ふか とけてあふ夜のきぬ
/\も永き名残の云号 二世を結ぶの杭さへ かはす間もなふ此様な 悲し
い別れをする事はマとふした罪か情ない わたしも一所に殺してたべ死たい
わいなと身をもだへ 互に手に手を取かはし名残涙の暇乞 見るに目も


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くれ心きへ母も老母も声を上わつと斗に取乱せば 遉勇気の光秀
も親の慈悲心子故の闇 輪廻の絆にしめ付けられこたへ兼てはら /\
/\雨か涙の 汐境浪立騒ぐ如く也 又も聞ゆる人馬の物音 矢叫びの
声喧しく手に取如く聞ゆれば 光秀聞よりつゝ立上り アノ物音は敵か味方
か 勝利いかにと庭先のすね木の松が枝踏しめ/\よぢ登り 眼下
の村手を屹度見下し 和田の御崎の弓手より追々つゞく数多の兵
舩 間近く立たる魚麟の備へ 千生り瓢箪馬印は 疑ひもなき真柴久吉 風

うぃくらつて此家を逃延 手勢引具し光秀を討取術(てだて)覚へたりと いふより早く
ひらりと飛下り 草履掴みの猿面冠者 いで一ひしぎと身繕ひ 勢ひ
込でかけ出せば ヤア/\武智光秀暫く待 真柴筑前守久吉対面せんと呼はつ
て 三衣にかはる陣羽織 小手脛当も優美の骨柄ゆうぜんとして立出れば
光秀見るより仰天し かけ戻つてはつたとにらみ ヤア珎らしし真柴久吉 武
智十兵衛光秀が 此世の引導渡してくれん 観念せよと詰寄る光秀
中を隔つる老鳥の 子故に手疵屈せぬ老女 なふ久吉様 我子にかはる


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此母も 天明遁れぬ引そぎ鑓 作りし罪の万分一亡ふる事も有ふ
かと 思ひ余つた此最期 武智が母は逆磔に かゝつて無慙の死を遂し
と 末世の記録に残してたべ それもやつぱり伜めが可愛さ故の罪
亡し うるさの娑婆に残らんより 孫といつしよに死出三途 ハアわたし
もお供致しまする いづれもさらば おさらばと 未練残さぬ武士の
花も実も有此世の別れ 今ぞはかなく成にけり 操の前も初菊
もさらに詞も出ばこそ あへ亡骸を押動かし天にあこがれ地に伏て嘆く心ぞ

いぢらしき哀れを餘所に真柴久吉 光秀に打向ひ 供に天を戴かぬ亡君の
弔ひ軍 今此所で討取ては義有て勇を失ふ道理 諸国の武士に久吉が
軍功をしらさん為 時日を移さず山崎にて 勝負の雌雄を決すべしガ
いかに/\ ヲゝ遉の久吉よくいふたり 我も惟任将軍と勅許を請し身の本
懐 一先ず都に立帰り京洛中の者共へ地子(ぢし)を赦すも母への追善 互の
運は天王山 洞が峠に陣所を構へ 只一戦にかけ崩さん 首を洗つて観
念せよ ホゝゝ何さ/\ たとへ項羽が勇有共 我又孫呉が秘術をふるひ


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千変万化にかけ悩まし 勝鬨上るは瞬く内と久吉が 詞はゆるがぬ大盤
石 忽ち廻り小栗栖の 土に哀れを残すとはしらずしられぬ敵味方 にらみ
別るゝ二人の勇者 二世をかための別れの涙 かゝれとしてもうば玉の
其黒髪をアへ泣くも切払ふたる尼ヶ崎 ぼだいの種と夕顔の軒にきらめく
千生り瓢箪 駒の嘶き迎ひの軍卒見渡す 沖は中国より追々
入来る数万の兵船 威風りん/\りんぜんたる 真柴が武名仮名
書に うつす絵本の大功記と末の世 までも 残しけり