蘆屋道満大内鑑 第二 小袖物狂ひ (岩倉舘~親王御所~菩薩池~信太社~保名物狂)

 

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      ニ10-00991

 


20(左頁)
     第弐
大(おほい)なる者の己を立つるは奢りの基ひ 此字をわくれば一人(にん)の者と訓ず岩
倉治部太輔(たゆふ)主君左大将の仰を蒙り 保憲が秘書を首尾よく
奪ひ 己が館に預り置邪智を廻らす折こそあれ 兼て密事の相談
には河内の国の郷侍 石川悪右衛門角(すみ)前髪の部屋住みなれ共 悪に馴れたる強気
の若者招きに応じ入来たる 跡に続いて芦屋の兵衛道満(みちたる) 舅の館案(あ)
内に及ばず 一間へ通れば治部の太輔出向ひ よくぞ/\両人 今日は左大将殿


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諸共密々の相談なれ共 主人は大内の御用によつて御不参 某が諸事の承つ
て申し談ずる子細有 サア/\是へお通りやれと挨拶すれば悪右衛門 遠慮も
なく上(じやう)座になをり コレ/\道満殿かたい/\ 聟舅の礼義は常かやうの時の相談は
額と額すり合さねば談合がおえかぬる 但しお手を取申さふか いかにも御意に任
さん御免あれと 三人鉄輪(かなわ)に膝組合せ治部の太輔小声に成り 扨兼々も云通り 保
憲が家の秘書 金鵜玉兎集 道満保名両人の弟子の中へ 神慮に任せ彼の
書を譲り 天文陰陽の両道をつがせよとの御事 万一保名に彼書が渡らば 好

古はよからふが此方(こち)の旦那は大望叶はず 聟道満の残念も推量せしにサア智恵も
有れば有る物 妹後室が相鍵の働きで首尾能うばひ 榊がいたづらの文を拾ひ
保名に悪事をぐはらりとぬりしが 不便は妹の後室人手にかゝり相果て 姪榊の前も
其夜に 自害と聞て道満もはつと驚く斗也 悪右衛門しや/\り出 エゝ知れた保名
が所為(しはざ) 治部殿詮議なされぬか ヲゝ身共もそふは思へ共 きやつも夫より行方(かた)しれず
此詮議も打捨置く 捨置れぬは奪ひ取たる玉兎集 早速主従打寄り内証て
読んで見ても いんぷんかんにて合点行ず 其方とくと此書をそらんじ天(あめ)が下の大卜(たいぼく)師


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となり 主君の望み叶へよと件の秘書を取出し 渡せば道満飛しさりうや/\敷
手にさゝげ 日来の願ひ今日成就是も偏に主君の厚恩 忝しと紐をとく/\
押ひらき 一々に拝見し横手を打ち ハゝ保憲のおしまれたるも道理/\ 荊山(けいさん)の伯道
が伝へし 天地陰陽の数暦算推歩(ほ)の術迄も掌(たなごゝろ)をさすがごとしと 押いたゞき
押いたゞけば悪右衛門肝を潰し 扨も妙かな見る人に見せれば又格別 あかりをはしる
芦屋殿としたり顔に悦ぶにぞ 治部太輔えつぼに入り早速ながら尋ねふは 主君の
御息女御息所桜木の親王の御胤を 御懐胎の様子もなし 何と其術も有なら

ば 一行(ひとくだり)聞たしときほひかゝれば ヲゝ積善(しやくぜん)の術はおこなひやすし 毛色白き女狐
の生血を取り 御息所の寝所の下(した)陽に向ふて土中に埋づみ?枳尼(だきに)の法を行へ
ば 若宮懐胎疑ひなしと 聞くに悦ぶ治部の太輔出来た/\ イヤできは出来た
がなんと悪右(あくえ) 狐のさいかくどふせふぞ 夫レは気遣ひなさるゝな主君の領分石川郡(ごほり) 
其外五畿内狩廻さば白狐の五疋や十疋は 手の中に覚へが有 それならば御懐
胎は案の中爰に一つの難儀は 六の君親王の御寵愛他(た)にこへたれば 自然
きやつが先へ孕むと 外戚の権威を好古にとられ主人は有てなかし物 所詮邪


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魔は彼めろさい奪ひ取らふと思へ共 大内のまもり厳しく盗みだすに時
節なし 彼俗説に 蛙(かいる)の背に思ふ人の名を書て 敷居の内へほりこめば必
出るといふ事 古き書物で見たる故 其法を行へ共聾程も聞ず 頃日(このごろ)はやる
呼出し病ひも六の君には取つかず たそやたその哥の徳にて 疫病の神も
たゝらぬは是がほんの臆病神 なんと彼書に呼出す法はない事かいかに/\と問
かくる ヲゝ有る共/\ 六の君をおびき出し其上の御思案聞たし されば奪ひおほ
せなば 長ふ邪魔をひろがぬやうに ぶち殺して仕まふ合点 其術頼む聟殿と人の譏り

も白髪の親仁 供に腰押す悪右衛門扨(さつ)ても妙計殺すとは手短な上分別と
そゝりかゝれど 返答もせず膝立て直し 是は又舅殿の詞共覚へず 主君は子故
の闇に悪行を募らるゝ共 そこを鎮めるが執権の役 御息所御懐胎の
祈祷ならば 非常の大赦か生けるを放つ善根こそ 御願成就なるべきに是は
正(まさ)しく六の君に 非業の死をきせ 罪につみを重ぬる上は 七鬼神の責めを請け御
懐胎存じも寄らず 天に口有り地に耳有り好古など人聞へなば 安穏で置べきか時には
却て不忠の至り 此謀計は無用/\といひほぐせば ヲゝ一言能推せり イヤ拙者


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はお為を存じての諫言 イヤサ諫言だておけ/\ 察する所好古が家来左近太郎
に おことが妹花町を嫁にやつたる故 一家の主を敬ひ六の君をかがふのか ハテ
それは舅殿の廻り気 イヤサ疑ひ請くるも胸一つ骨折て奪ひたる 玉兎
集も娘築羽根(つくばね)も取かへし聟舅の縁を切りお家の大事を妹に見かゆるふ
所存左大将殿へ申し上げ 今目に物見せると立を引とめアゝ是々 妹などが縁に引か
れふ忠を存ずる道満ならず サアそれならば只今術をおこなふか なんと/\と
きめ付くれば 人の命を断つ事は陰陽道の禁(いめし)めなれ共 舅の疑念を晴らす為

と硯引よせ 呪詛の文をしたゝめ 此神符(じんふ)を六の君の住み給ふ北の門の礎より 三尺六寸四歩
去て張付くる 則三百六十四爻(かう)の占(うらかた)此寸尺にとゞまる 北は坤(こん)の卦向ふてはるは乾の卦
是陰陽交体天地未分の一つ 迷ひ出るに疑ひなし刻限は酉 うばひ取に利有り去ながら
悪事千里 慎みが肝要/\何国(いづく)で殺す御思案ぞ ヲゝそれはぬからぬ都放れし御菩薩(みぞろ)池は
究竟のはめ所底もしれぬ池水へ 石をくゝつてずぶ/\は何と/\ したり/\其役は此悪右衛門
奪ひ取てしづめにかけん 首尾よふ仕果(おふ)せなば治部殿兼々頼み置く 伯父信太の庄司が所領某
拝領仕り 彼が娘葛の葉を拙者が女房にくれる様に 元方卿の権威にて仰付けられ下


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さるゝお執成し頼むぞや 成程治部が呑込だ必ぬかるな仕そんずなと 神符を渡せば受
取きうな所へ取交ぜて 仲人やら所領やら 掴み頬(つら)はる鷲鵰(くまたか)烏丸通り桜木の御所をさしてぞ「
けふこずば あすはちり行よその風 仇なる花の名にそあふ 桜木の親王の御所の築地を洩れ
出る 琴の音色も媚(なま)めかし 彼桜木の仇花をちらして退んと入相の鐘を相図に石川悪右衛門
刀ぼつ込み裾をきりゝと短か夜に せけばせく程たへ間もなき人通り 見とがめられじと或ひはあら
はれ或はかくるゝ星明り ちらり/\とちらめくにぞ恋とや人も咎むらん 上の町より小提燈
ぶら/\来たる二人づれ こりや叶はぬとかたへに忍べば立どまり 何と出ぬぞや 出ぬ共/\ こつちの

目の出ぬにあつちのよいめの多いので 不断一六すえられいつのおりはか勝利を得ん 今夜
はいんですご/\と双六より寝たが勝と つぶやき通ればエゝさいさきわるきやつばらと 行過ぎる迄見送り
/\ 用意の神符取出し立寄る後ろに又人声 はつと驚き立退けば声高々 名誉ふしぎな吸い
出し 痃癖(けんべき)や腫ものに此膏薬を能付くれば奇妙/\と売て行 辻占よしと竪横見廻し人(じん)
跡たゆれば 六の君の住み給ふ北の小門に佇み 道満が教へに任せ懐中の曲尺(かねざし)取出し 一尺
二尺三尺六寸 爰らが四歩と 目分量に神符を張り付け 築地のかげに身をひそめ今や
出ると待ち居たる かこつ恨みは皆まこと たへしあふせのうき中を いつそいはぬも身一つの物にさそ


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はれ出るとは 思ひがけなく六の君 裏の小門をそつと明気も空蝉のもぬけのから
お傍の女中はそれぞ共しらずしらべる琴の糸 ふみをしのぶのヤわしや大江山 いまだ
ならはぬかちはだし 立やすらひておはします 時分はよしと悪右衛門 築地の陰よりぬつと
出れば六の君 なふかなしやと声立給ふを引とらへ おど骨立てなと握り拳をさるぐつは して
やつたりと引かたげ御菩薩が池へと「急ぎ行 石川や蝉のおがはを横ぎれに 息つぎ
あへず悪右衛門六の君を肩にかけ 目ざすもしれぬ鞍馬口恋ならぬ欲のふかみ草
廿日亥中の月しろも 東の山にあかねさす それを力の 目覚によく/\すかしてみそ

ろ池こゝなんめりと どつかとおろせば気もきへ/\゛ こはそも誰なれば情なや 身に
覚へもなき事にかゝる憂き目を見するぞや 殺してたべと泣給ふ ハテめろ/\とやかましい どち
めらふにかゝつて此侍の形を見よ 都から此池へもゆつくりと一里半 かち荷物(にもち)同前で肩も足
も草臥果た 暫く息をする間合掌して待ておれ 是究竟の床几ござめりと 道しるべの
立石に腰をかくれば なふ武士(ものゝふ)ならば物の哀はしる筈 たとへいかやうに成迚もいとはぬ 斯々(かう/\)したいり 
わけとたんなふさして殺してたべ ヲゝわれが此世に長居をすれば 御息所の邪魔に成る故 此池へ沈めにかけ
て殺すのじや ヤア扨は御息所の云付でか 妬しつとは女のならひ とは云ながら殺さふと迄は思はぬに


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エどうよくなむごい難面(つれない)人心とかつぱと臥て 泣給ふを取て引ぷせ 詞あまければつき上り
めんだうな悔み言と あたりの石をひろひ上袖に捻込み押込むにぞ なふ悲しやと取付給ふ
糸より細きよは腕(かいな)へしわげ やつと任せと掴んでさし上 池のふかみを窺ふ折から 汀に茂る芦原より
によつと非人の大男とんで出悪右衛門が腰(よはごし)さしつたりとけかやせば うんとのつけに反りかへるを 又引かつぎ
どふどのめらせ つゞけふみにぽん/\と 踏付られても強気(がうき)者 よろぼひながら立上り 推参成り
乞食めとしがみ付を身をかはし ずつとしづみさまたにかけ かる/\と引かづきそこよ 爰よと持廻り
青みきつたる池水へざんぶとこそは打込だり 水をくらふてあぶ/\と浮しづみぬ漂ふ間に 六の君

の御手を引き塵打はらひいざ 召給へと背中さし向け負ひ奉り 足に任せて一さんに行き方しらず「成にけり
昔より爰に和泉の神がきや 信太の里に年ふりて塵に交はる宮柱和光の影も明きらけき ←
是も神の誓ひ迚 つき/\゛迄も当世の かゞ菅笠を一やうの鄙にめなれぬ取形の 葛の葉姫
と聞へしは 信太の庄司が深窓に ひとくなりたる秘蔵娘 心に深き立顔(りうがん)の歩路(かちゞ)ひらふて神
詣で千早振袖裲も都に希な品形 花も色にや恥ぬらん外めづらしき女子共 申/\姫君様
俄事のお供にて我々迄も気ばらし そもマアけふの産土詣では何のお為とほのめけば ヲゝ語らねば
知らぬも尤 頃日は毎夜/\血筋に離るゝといふ心がゝりな夢見る故 都にまします姉榊の前様の身


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の上に 悲しい事は有まいかとそれ故の神参り 皆も供々願込めしてたも 頼む/\と曹輩(はらから)を
思ふ心ぞやさしけれ お前の其兄弟思ひ神も納受遊ばさいでは それはてつきりさか夢
庄司様の甥の殿 石川悪右衛門様といふ独り角力見る様な にくてらしい前髪がお前にきつい
惚やう お嫌ひなさるゝ程しこりかゝつて女房呼はり 其悪右衛門様に放るゝと云夢の告げ お悦びなさ
れませ ヲゝよふこそ祝ひ直してたもつて嬉しい アノ人に思ひ切らるゝは此上もなき悦び 追付爺(とゝ)様母
様もお出の筈 それならば待合せ御いつしよに御参詣 此間に散り残る花を御覧もお慰みと
手々(てんで)に敷や毛氈の朱(あけ)は都のから錦 打こんじたる女中の遊び皆々幕にぞ「入にける

  小袖物狂ひ
恋よ恋 我中ぞらになすな恋 こひ風が きてはたもとに かいもつれ 思ふ中をば吹き
わくるあら 心なの嵐につれて うら吹きかへす筐の小袖 見るに思ひのます故
にこそくるはすれ くるふは誰(たそ)や 我はそも 安倍の保名がやすからぬ 胸にせまりし
かず/\より いづくをさしていづみぢによるべの水もうたかたの 漂ふ姿乱れ髪素襖袴
踏みしだきうかれあるくぞ たゞならね 是々物ろはふ 若し其あたりへ十八九の娘のかいとりづま
で しなら/\と行かぬか ヤア/\しらん ヲゝ其尋る人こそ芝蘭(しらん)芙蓉の花の顔ばせ


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姿は物が およびなき よしのはつせの 薄桜 さらしな越路の月雪も ながめはは
るか下照衣(したてるそ)通り 神のえにしのさかきとは 我恋人のあだし名か あだな契りに云かはしたる
言の葉を思ひ やるさへ悲しけれ ふけ行くかね別れの音も ひとりぬる夜は さはらぬ
物を 柳の糸の乱れ心いつ いつ忘れふぞいつのはるか思ひそめけり アゝ去年(こぞ)
の何月幾日やらヲゝそれよ はなのえんや はなの縁 てら/\゛の 鐘つくやつめは
にくやなと こひ/\て まれにあふ夜は 日の出る迄も 寝やうとすれど まだ夜ぶ
かきにごん/\/\ こん/\/\と つくにまた寝られず 寝ぬ夜恨みの旅の空

よさのとまりはどこがとまりぞ 草をしきねのひぢまくら/\ ひとつ明かす
ぞ悲しけれ /\葉ごしの/\幕のうち 昔こひしきおもかげや移りがや 其俤
に露ほども 似た人有らばおしえてたべ おちこち人に物とはんヲウイ /\とまねけ
ば招く与勘平ゆう/\に走り付き 是は/\正体なき旦那の有さま 人の見る
めも恥給ひ サアお帰りといさめすかしてひく手をはらひ かしこにしげる榊の
枝に かたみの小袖うちかけて あれ/\/\ えだに床しき人は見へたりうれしや迚
よぢのぼれば さかきの枝は身をとふし あいぢやくは胸をこがす こはそも


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いかにあさましやと 詮かた涙にふししづむ こはなさけなき御ありさま 心なき
草木(さうもく)をこがれ給ふもまよひのそら目 何そらめとは事おかしや 心あればこそ
時をたがへずそれそこに どれ どこに しんじつ君にあひたくば しの
だなるやしろにあゆみをはこびて 七日なん/\なゝよさ こもらば御利
生まさしくあらたに 恋しき人には あひも見もせめ中に殊更榊の枝に 君が小袖を
打きせきせて まがふ方なき榊の前非情といは与勘平 ナイ/\ 汝こそ草よ
木よと かたみの小袖身に添てないつわらひつさま/\゛に狂ひ 乱るゝばかりなり

始終幕の物見より 覗き見とれて葛の葉は浅からざる都人 何故かゝる乱れ心と幕
しぼらせて立出れば 姫を見るより狂人(くるひど)はなふなつかしの榊の前と いだき付かんと立寄るをつき/\゛の女
押隔て 是々麁相せまいぞ あなたに覚へもない事をめつそふな気ちがひ殿 それとめさつ
しやれ奴殿 いやとめておりまするお気づかひなされますな 語るも主人の恥なれ共 一通り
聞て下さりませ 手前の旦那が思ひ人におくれ給ひ それより正気取乱し御覧のごとく物ぐるひ
其恋人にあなたがとんといきうつし 直ぐな目にさへ見ちがへるに乱心では尤と御了簡 重々卵(あまへ)
たお願ひなれ共こがるゝ人に似た姫君 優しきお詞かけ給ひそみ安きは人心 自然狂気も鎮


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まれば此上もなき慈悲心 お傍の女中お執成しとよぎなく頼めば葛の葉は まだうら
わかき心よりいらへなければ嬪共 姫君のお詞で あの気ちがひが直るならばそれはきつい善根
見れば見る程よい男恋故と聞きや女子気は かたむき安き否舟のいなには有らず葛の葉
も それがマアあられもない どふいふてよからふやらと恥しながら立寄て 恋しう思召す方がお果な
されて 狂気とはおいとしぼやお笑止や 世には又忘れ草も有ならひ お心を取出し最早お帰り遊
ばせと いへば保名も心をしづめ よく/\見れば榊ならず似たりと思ふ執着に 連れて心も正
気と成面目なけに指しうつふき しばしこたへもなかりしが やう/\に顔を上 ヤイ与勘平 おれは正気

に成たるぞ ヤア扨々嬉しや忝や 是も偏にあなたのおかげ お礼/\と主従手を下げ悦ぶに
ぞ 葛の葉も面はゆげに田舎育ちの自が ちよつとお詞かけた迚お心の治るとは ホゝゝゝゝゝゝ
恥しと顔を赤め 早速ながらちとお尋申したいは其お小袖 自が慥に覚への有模様
今又おつしやる榊とは もし加茂の保憲様のヲゝ其娘の榊の前 ヤアゝそんなりや私か姉様
と聞に保名も聞及ぶ 信太の御息女葛の葉殿か是は/\と驚きしが 拙者は\榊の前と
深ふ契りし安倍の保名と 聞に今更よそならぬ姉の噂に驚かれ頃日あしき夢の告げは 榊様の
身の上がお果なされしいり訳を 聞かせてたねと取付けば ヲゝ聞き度きは尤ながら 爰は往還人めも有り 幸い


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の幕の内委細あれにて咄し致さん 此上は妹御を榊と思ひ神かけてと 目元でしらせ詞さへ
岩木なられば葛の葉も ほころびやすき幕のかげ 伴ひてこそ入にける 女子共口々に 猫
に鰹の幕ばいり 假令(けれう)姉婿なればこそ手放してやられもする さつきのやうに狂気ならば かんまへて油
断がならぬ 是に付けても兎角手柄は奴殿 当座の気転で恋の乱心しづめるとは 家原(えばら)
文殊も及ばぬ智恵 殊に名迄才覚らしいかはいらしい男やと せなかをとんと与勘平 旦那の狂
気行来(このかた)はかはいらしいにこり果た なふいやゝ勿体なやと幕のこかげへ逃込む折から 信太の庄司夫婦
連れ私領の内は気さんじに 供人かるく娘をしたひ是も社へ詣でくる 付(つき)ゞの女さし心得 親旦那

おふた方御参詣としらするにぞ 幕絞らせて葛の葉姫姉の小袖を打かけて 只其儘の
榊の前と 紛ふ斗の詰袖にて思ひ有りげに立出る 娘の目馴れぬ取形りに心を付くれば申母様 此小袖
見覚へてござりますか どれ/\とよく/\見て是をしらいでよい物か 此母が若盛りに 物好みに
縫せた小袖 筐に見よ迚姉の榊に送りしが そなたはどふして着ていると父諸共にふしん顔 されば此小袖
に付き悲しい咄を聞ましたとわつと叫へば父母も 心ならずとはいかに 様子はいかにととへど答へも泣て
居て済む事かと 夫婦いらてば保名見兼て幕の内よりずつと出 ヲゝ御両親の御ふしん尤 拙者は
加茂の保憲が末弟安倍の保名 御息女榊とは兼て夫婦の約束 後室の悪心にて家


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に秘書を余人に奪ひ取られ 加茂の家断絶といひ 夫婦の義理に榊の前は其夜に自害 某も
無念骨髄にてつし 夫レより物狂はしく成り思はず当所をへめぐり 各々に御目にかゝるもふしぎの縁と
語れば母は声を上げなふ葛の葉 頃日の夢咄しかほどにもあふ物か 是も夢共なれかしと身を投けふして 
泣しづむ 父は遉に得泣きもせず胸迄せぐる涙をとゞめ 扨は聞及ぶ保名殿か 姉が此世にながらふ居
ば いかめしく聟舅の名乗合も致すべきに悲しきけふの対面老て子に別るゝ程 至つて悲しき物は
なしと 老の涙にむせびいる ヲゝ御嘆きは尤なれ共 葛の葉殿がましませば姉とおぼして慰み給へ 只今申すは異
な物なれ共 榊におくれ世に便りなき某 何卒御赦しを蒙り妹御を 婦妻に申請たき願ひと聞きも

あへず 成程世間に有ならひ なれ共一つの難義は身共が甥石川悪右衛門 葛の葉を望め共娘
も嫌ひ殊に又 礼儀知らずの悪業者故返答もせず捨置けば 急にあつ共申されずと老の返事
も尖(するど)げににべもしや/\りも嵐にひゞき貝鐘の音せこ鼓間近き 森の方よりも年経(ふ)る
白狐のかけ来たり 葛の葉保名が真中へ 助けてくれといはぬ斗にかくれ入る フウよめた 今聞こへし貝鐘は
狐狩 飛鳥懐に入る時は狩人も是を取らず 殊に白狐は妖物にて唐土にては阿紫(あし)となづけ
我朝にては専女(とうめ・老女)御前 宇賀の御魂の神使にて恩を知り怨(あだ)を報ふ畜類 助けてやらんと傍(かたへ)
なる詞の扉押ひらき 抱き入るれば嬉しげに四足をひそめかゞみいる 時に向ふの堤伝ひ真黒に


34
成てかけ来たるは 紛ひもなき悪右衛門逢ては邪魔と幕へ保名へ 忍びいる 程なく石川悪右衛門
人夫引連れ件の白狐を見失ひ きよろ/\眼に成てはせ付き 是は/\伯父者人 一家さらへて
花見か遊山か羨ましい 拙者は左大将の仰を請け近国を狐狩 同じ御領を預つてもこなたは仕
合せ 妻子を引連れあぢやらるゝ去ながら 葛の葉を嫁にもらへば聟也甥也 舅のかはりに
二人前の働き気づかひ召さるな 見付けた狐も取逃しぎえんわるふに思ひしに 願ふ所の女房がり けふ一日は
休みにして 連れ帰つて腰膝擦らせ 此間の草臥休め 葛の葉おじやと立寄庄司中に立ふさがり
下々の婚礼でも吉日を撰むが身祝ひ いかに一家なれば迚娘も得心せぬ事を踏付けた仕かた

彼にもとくと合点させ 其上の事といひもあへぬにアゝおかれい 今度に限らず嫁入の催促は
度々なれ共 膿だ物が潰れた共一言の返答せず 又ぬつくりとつまふてや もふそふ/\はだまされぬ 逢た
時に笠ぬげじやそれ家来共娘を引立 かしこまつてせこの者ばら/\と立かゝる 無体はさせ
ぬとさらへる庄司夫婦をば 首筋掴んで尻居に捻すへ めつぽうやたらにあれだすにそ保名
主従たまり兼 幕の中よりとんで出葛の葉親子を後ろにかこへば ヤア儕は安倍の保名 フウ
出来た 姉がくたばつた故妹をせゝりに来たか じたい儕には詮議の有やつよい所で出ッくはした
加茂の後室殺したも慥にきやつ それを引ッ込む伯父は同罪 信太の家を断絶さして此


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悪右衛門が押領するサア 毛二さいめ姫を渡せとおつ取まく いや身に覚へもない事をさま/\゛と
ほざいたり コリヤ/\奴 爰は保名が請取た 汝は各々御供せよ 随分ぬかるな急げ/\ 畏まつて
親子を伴ひ立出る遁さじやらじと悪右衛門 家来引連れかけ出すをどこへ/\と立ふさがり
伯父に手むかふ無道人悪右衛門とはよふ付けた サアならば通つて見よ いやめんだうな蚊蜻
蛉め 先ずきやつからぶちのめせと一度にどつと寄るやつばら 取てはなげ/\向ふやつをおとがい
蹴上げ 左右方へかゝるを飛ちがへ刀の鍔にてすかうべ砕き 手をつくして働け共ついに大勢
おり重なり 手取足とり四方へ引ぱり 上げつおろしつ子供遊びの亥の子餅 二三度四五

度もんどり打たせ サア邪魔は払ふたり 葛の葉を奪ひとれと跡をしたふて追ッかくる 保
名は五体も砕くる斗手足もひしがれ目くるめき 苦しき息をほつとつき エゝ儕奥右衛門 生け
て帰さじ比興者かへせ/\と立上つてはどふと転(まろ)び よろぼひ立てはかつぱとふし 無念/\
と歯がみをなし男泣に 泣きけるが 必定葛の葉も奪はれつらん 最早いきてかひ
なしと指し添逆手に抜はなし 既に最期と見へける折から 何として遁れ来りけん葛
の葉にそれと見るよりも走り付き 是待た早まるないと声かけられてふり返り こなたは
どふして来た事ぞ 両親は怪家はないか はて親達はどふならふ共お前に心ひかされて


36
鎬(しのぎ)の中を来た者を見捨てて置いて死ふとは聞へませぬと託(かこ)つにぞ 保名も始終をつぶ
さに語り扨危き事かなと 互にいだき縋り合わりなき妹背と成にける かゝる所へ与勘平
息を切て馳帰り 各々を御供して符中の邊迄送り届け 主人の身の上心元なく 取てかへす道
にて悪右衛門に出ッくはし 暫く戦ふ其間によふも慕ふて葛の葉様 御心底届きしと
悦びいさむ向ふより 又むら/\と悪右衛門大勢引連れどつとかへし 葛の葉を見るよりも扨こそ/\ すい
りやうにたがはぬ女が不所存 保名主従討て取り 姫を奪へと下知すれば与勘平 最前手並は見せ
置たにしやうこりもなきうざいがき 此奴が引導にて爰で信太の土となんと わつとおめいて切て

かゝれば只一人に切立られ 皆こい/\と跡をも見ずして逃て行 保名夫婦は大きに悦び
遖手柄奴殿長追いは無用也 きやつらが逃ぐるも与勘平拙者が追はぬも与勘平 御夫婦
中も与勘平是も偏に信太の神の御恵と 旦那を祝し 御出世を松の葉のヲゝ 住吉
に隣たる 津の国安倍野は我本国 暫くかしこに引こもり 時節を待たんといさめ共 立足さへも
よろ/\/\と 風にもまるゝ柳の枝を 杖よ柱と葛の葉が 夫の手を引きいたはりて畦
道 細道まがひ道 石津川を打渡り是より先は道もよし 西へ/\と入る日に連れて行くもよし 人目
忍ぶ夕暮よし彼よし是よし与勘平 夫婦を誘ひ津の国や安倍野をさして急ぎける