読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/856493
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杉酒屋の段
妹背山 四の口
112(左頁)
妹背山婦女庭訓 四の口
日と供にいとなむさまも
入相の 四方のいちぐら戸
ざし時 子太郎跡を打
見やり 灯を上げ表の戸
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夜の構へのそこ爰と こなた
の道より 歩み寄振の袖の
香やごとなき 面を隠す
衣被(きぬかつき) 誰しら絹のやさ姿
窺ふ内に隣の軒 しら
せのしはぶき主の求 今
宵はどふして早かりし サア/\
こちへと其跡は 云ず語ず
手を取て 戸口立よせ
入る跡に 子太郎は不審顔
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隣の門口耳を当聞すまし
て立戻り 何でものとなりの
えぼしめはおれとは違ふて
よつ程えらい色事仕じや
わい あいつが見ごとなえぼしで
アノ代物しめおると聞へた
こちのお娘に聞せたら
大抵の事じや有まい エゝ
はし早いやつでは有ると つぶ
やく所へ娘のお三輪 寺子や
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戻り 足早に 門口はいれば
ヤお三輪様戻らんしたか サア/\
事じや/\/\大事じや/\
ヲゝあの人わいの何じやいの
わしに恟りさしやつたはいの
さしやつたはいの さしやつた
わいの所かいの コレおまへに
忠義をいふて聞す忠義
とは何の事じやいのエゝ忠
義とは忠臣の事じやはいの
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サア其忠臣はしつているがの
それがどふぞしたかや サ
其忠臣はいの アノ隣のえぼし
めが 隣のえぼしとは ムゝ求様
の事かいの ヲゝ求々 其求
の姿からおこつた事 こちの
かみ様は家主へ用が有て
いかしやつた 其跡へ何じやか
しらぬが 真白な絹をかづ
き 幽霊かと思ふたら 美しい
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けんさいが 隣の門口こと/\
と叩いた そしたら求さんが
つつと出て よふ早ふ来た
なアと 手に手を取て内へ
這入た それからおれがじつ
として聞て居たら ソレこちへ
やとふ男共か朝の間に酒
桶洗ふ様に シイ/\といふ音が
した どふでもありや求様
が さゝらでこすると見へる
118
わいな 何とかお三輪様コリヤ
だまつて居られまいがナ
ムゝそんなら何といやる 求様の
所へ美しい女中様が見へて
其女中殿を連立て這
入らしやんしたといゆるのか アイ
そりやマア合点のいかぬ事
幸かゝ様も留主なれば そなた
往て求様を爰へ連て戻
てたも エオツト合点呑込だと
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走り出て隣の門 われる
斗に打叩き コレ求様 隣の
酒屋から使にきた 今のが
済だら印判持てござんせ
と 口から出次第求は恟り
何やらんと 立出れば物をも
云ず マア/\こちへと無理やり
に手を引連て我家の内
それと見るより娘のお三輪
口に云ねど赤らむ顔 求様
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お帰りなされたか ホ是は/\
お三輪様 寺屋へお出なさつ
たげなと 互ひにあぢな
墨付を 子太郎がひつ
取て サアおれが役はもふこれ
迄 そこへ何かの立引さん
せ 爰らで我等粋(すい)を通し
夜食の扶持に有つかふ
両人共後に逢ふと納戸へ
走り入にける 跡に二人は
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つぎほなくおぼこ育ちの娘
気に思ひ詰たる一すじを
いはふとすれば 胸せまり 今
子太郎に聞たれば 美しい
女中様が 宵からお前へきて
じやげな 定てそれは隠し
妻 是迄お前とわたしが
中 逢事さへもたま/\に
千年も万年もかはらぬ
契りとおつしやつた 其約束は
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偽りか浮世の訳も弁へぬ
在所育ちのわたしでも いひ
かはした事忘れはせぬ 餘(あんま)り
むごいと取付て涙先立
恨云 是は思ひよらぬ疑ひ
成程女中はきて居るが あれは
ソレ春日の神子(みこ)殿其連合
の祢宜殿の 烏帽子を誂
に見へたのじや 美女は愚か
いかな天女が影向有ても
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外へちる心はない 和歌三神
を誓荷掛け偽りは申さぬと
時の間に合落付せば 遉
おぼこの解やすく神様迄
誓言に それでわたしも
落付た 必かはつて下さんす
なと 立上つて七夕に備へ
祭りし二つのおだ巻 持出
て前に置き わたしが寺やへ
いた時に お師匠様に聞て
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置た殿御の心のかはらぬ
やうに星様を祈るには白い
糸赤い糸 おだ巻に針を
付けむすび合せて祭ると
やら ヲゝそれが則願ひの糸
の乞功針(きっこうしん) ムゝお前もよふ知て
じやなア 白い糸は殿御と定
女子の方は赤い糸 それで
わたしも此願込 寺やで
見た本の中に心をかけし
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女の歌 アゝ何とやら ヲゝそれよ
恋渡る 思ひはちゞに結ぼれ
て 幾夜願ひの糸のおだ
巻 ホゝ其男の返しには 逢ひ
見ての 後もねがひの糸
筋を よそへ乱すな君が
おだ巻 アイ/\そふでござんし
た いつ迄もかはらぬしるし
赤い糸をお前に渡し 白い
糸を私が持 契りも長き
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願ひの糸 夫婦の約束
星合に 鵲ならぬおだ巻
を 千代のなかだち取かはし
肌に付合 わりなきえにし
求か内より以前の女 歩
出てこなたの門口隣の
烏帽子折様は こなたへ来
てござるかな 赦さつしやれと
内へ入姿に求は手もち
ぶ沙汰 お三輪は何の気も
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付かず アゝあなたが今のお人
かへ ヲイ/\あれ/\神子様じや
それで薄衣着てござる
ナア申 お前様はアノお連合様
の えぼしを誂にお出なされ
ましたのじやナア そふでご
ざりませふがな サゝそふで
ござりますと 紛らかす
つゝむ詞の絹をもる月
の笑顔をひんとすね コレ
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申求様 アノ女中はおはした
か 何人でござります アイヤ
是は此酒屋の娘御 ムゝ其
マア隣の娘御と最前から
久しい間 何の用がござり
ましたと 問れて求はこ
たへもなくうぢつくそぶり
見て取るお三輪 アゝ申 コレ
神子さんとやら云女中様
人をマアおはしたか何のと
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ひつこなした物の云うやう
求様にはアイ わたしが用が
たあんとござんす おまへ
のお世話にはなるまいし
かまふて下さんすな ヲゝ
これははいたない其やう
にいはしやつても そもじな
どの用を聞く求さんじや
ないわいのふ サアお帰りと
手を取ば お三輪が隔て
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イエ/\/\ わたしがまだ用が
ある 逝(いな)す事は成ませぬ
いゝヤ爰には置はせぬ 邪魔
せずそこ通しやと 手を
引立て立出れば イヤ放
さじとお三輪も又あなたへ
引ばこなたへ引く 訳も渚に
たわれる雁 つばさふり
袖ふり訳すがた 恋をあら
そふ其折から いきせき戻る
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此家の母 ヤア求殿こな
さんには用が有 どつこへ
もやる事ならぬ 動くまい
ぞと身構へに 何かはしら
ずしら絹の姫は外へと出
行を 留る求にまたす
がる 娘をおしわけ母親は
求はやらじと引とゞめ つな
ぐ手と手をしがらみの
風にもたるゝあらそひに
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子太郎立出見まはして
これ幸ひと母親の帯に
しつかりくゝつたる 縄先
桶ののみ口にゆひつけ
納戸へにげて入 こなたは
たがひに恋したひすがた
みだるゝ 姫百合の手を
ふりきれば一時に 乱れ
てはしるを母親がやらじ
と追ばつなぎ縄 りきむ
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ひやうしにのみ口ぬけ
酒は瀧津瀬びつくり
はいもう 三人門へおく
れじと同じ 思ひを跡や先
道を したふて「追て行