仮想空間

趣味の変体仮名

絵本太功記 六月一日

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html
      イ14-00002-093

 

6(左頁)
  六月朔日の段
扨も其後天正十年六月上旬の事かとよ 内大臣平の春長 東北に猛威をふるひ押て都に
上洛有る 御嫡男城之助春忠二条の御所に居をしめ給ひ 天奏御沓を入給へは 饗応の役
人は武智日向守光秀 森の蘭丸始めとし 譜代の良臣古老の諸士烈を正して相詰る
院の御所の内勅 浪花中納言 兼冬仰出さるゝは 往背(昔?いんじ)応仁の乱れより 諸国の逆賊
王威を軽んじ 都の内へ軍馬を引入れ 玉座近く馬蹄に穢し叡慮穏やかならざりしに 幸い
春長大志をいだき 帝都を無事に治むる条 主上叡感浅からず 其巧を賞じ給ひ


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嫡子城之助春忠を従三位に叙し左中将に任せらる院の内勅 斯の通りと有ければ
春長はつと平伏有 コハ有がたき勅命 不肖の某 なんぞ一譬(ひ)の力に及ばん 三好を初め逆徒
原 四方に退散いたせしも君の聖徳 数ならぬ?春忠身に余つたる官位昇進 天恩
謝するに詞なしと 勅答有れば兼冬卿 やゝ満足の御気色 春長重ねて 軍勢に暇
なき某 心斗の御饗応(もてなし) 鄙びたる観世能上覧も時の興 イザ奥殿へと有ければ袖かき
合せ兼冬卿 武智が案内にしつ/\と 奥の間さして入給ふ 春長見送つて 蘭丸
是へと近く召れ 汝も兼て知る通り 無二の忠士と思ひの外 心得がたき光秀が心中 彼が心を探らん為 いつ

ぞや寺において諸候の見る前恥辱をあたへ恥しむれど 面てに怒りを顕はさず 無念を忍ぶ
彼が胸中 猶以て不審の一つ 其段にさし置ば 虎の子を飼ふに同じ 逆心の企て有や虚実
を探りためし見よと 仰に蘭丸さん候 武智が行跡(ふるまひ)聊か不審に存る折から 割符を合す君
の御心 思ひ合する彼が俗性 頭上に喜怒骨有者は 主人にたゝると異人の禁(いまし)め もし
逆心に極まらば 討て捨んに手間隙入らず 奥へ踏込み引とらへ ヤレ麁忽也蘭丸 実不
も糺さずあら立ならば 返つてひが事出来(しゅつらい)せん 事によそへて ナ 合点か ハアゝ憚り奉る 必
油断いたすなと しめし合して春長公張臺深く 入給ふ 蘭丸は只一人両手をくんで


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思案顔 工夫をこらす折も折奥は 乱舞の打囃子 二番三番脇能も 終りと見へ
て配膳の 時刻も移る巳の上刻 武智が一子十次郎 古実を守る饗応司 配膳のかけ
盤海山の珍味美をつくし 目八分に捧げ来る 蘭丸見るより コレサ十次郎先ず待たれよ 饗応
の役目は お手前の親父 光秀殿と此蘭丸 両人立合申合せも有べきを 自分一人の取
計らひ 此蘭丸は呑込ぬ 膳部の次第は いかゞでござる ハア御料理は板元奉行中井半左衛門
七五三の献立 ナニ七五三 ハテナア何にもせよ相役の某に 一応のこたへもなく 気儘成いたし方 近頃
以てふ躾千万 此分では差置れず 光秀殿へ直応対 イデ役所へとかけ行向ふ 襖くはらり

と出来る武智 蘭丸傍へぐつと詰寄 様子残らず聞れしな 武士は礼儀を表とする
に 此蘭丸を踏付し仕方 いか成趣意かいへ聞ん 返答次第手は見せぬときつぱ廻
せは ハゝゝゝコハ仰々しや蘭丸 遉若気の一徹 何故貴殿を侮り申さん 最早御膳の時刻
故 役目大事と勤る光秀 だまり召れ 饗応の役 貴殿拙者に相勤めよとは主人の云付
主命をもどき 自分の気儘にせゝるゝは エゝ聞へた こりや何か 拙者を役に立ずと思し
召か 但し又智恵者と呼れし武智殿 人を見下す高慢か イヤハヤ人も知る其元の
素性 何か浪人のよづべなく 所々方々をうるたへ廻り 北国において詮方なく 粮(かて)に


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尽たる身のせつなさ 土民共の小伜を集め 手跡指南の礼物で 命をつなぐ寺子
やのお師匠様 ハアまだ有 日外(いつぞや)江洲佐々木征伐の折から 此下と先手を争ひ 蓑作和田山
時限の合戦 久吉に仕負ても 恥を恥共思はぬ其元 何と そふではござらぬかと 心に思は
ぬ傍若無人 さしもの光秀くはつとせき上 ヤア物に狂ふか蘭丸 大切の場所と事を慎み いはせ
て置ば法外千万 今一言云つて見よ 舌の根を切下ん ヲゝならば手柄に切て見よ ヲゝ切て見せふ
サア/\/\と両方が互に詰寄詰より 既に斯よと見へたる所 襖あらはに春長飛かゝつて光
秀が 衿がみつかんでどうど捻付 やをれ光秀 凡そ武家の格式は 古実を以て式法を用る

過たるは猶及ばさるにしかじとは 古人の詞 院の内使の重けれど 皆それ/\の例法あり
中納言殿饗応の膳部 金銀の瓶器を用ひて 宝を芥のごとくちりばめ 法外奔走 此後
主上仙洞の行幸(みゆき)には 何を以てか饗応に叶はにゃ 其上蘭丸か申は我詞も同然なるに
異変致す慮外者 顔(つら)ぶて蘭丸 ハア 早くぶて ハア/\/\御上意なりと蘭丸が腰の鉄扇
ふり上て 眉間真向つゞけ打 くい入要に血は瀧津瀬 是はとかけ寄十次郎膝にかためて引敷
光秀 流るゝ血汐諸共に眼血走る 無念の顔色 春長つく/\打守り いかに光秀 蘭丸
が手を以て春長が折檻 口惜ふは思はぬかと低意を探る大将の 詞に光秀居直つて


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コハ仰共覚へず数ならね共武智光秀 君に捧げし我命骨はひしがれ身はずだ/\に成迚も
大恩有御主人をお恨申さん様はなし 左は去ながら世の人口 春長こそ鬼の再来 晴をしらぬ
大将と 謗りを残し給はん事 末代迄お家の瑕瑾(かきん)旧悪を憎む御生質 諸士の恨は小車
のついに御身に報ふといふ 御心の付ざるは エゝ浅ましや悲しやなア 御心をひるがへされ遖仁
義の大将と 呼れ給はれ我君と 或いは怒り 或いは嘆き 五臓をしぼる血の涙 思ひは千々
に十次郎父の心を察しやり 歯をくいしばる忍び泣心ぞ思ひやられたり 金言耳に
逆立 大将 猶も怒りの声あららか ヤアいはれぬ諫言 推参至極 目通り叶はぬ立てう

せう ソレ蘭丸武智光秀親子の者 門外へ引出させ 早く/\と烈しき下知 はつと領
掌蘭丸が 猶予はいかにときめ付られ 無念重なる光秀が 我子を引立出て行底意は
誰が白浪の 万里に羽打つ大鵬や 面目涙十次郎身はしよげ鳥の片羽かい 父の心は
しらにぎて 神も仏もなき世かと身をかこちたる忍び音の 胸はくら闇五月やみ
せん方涙諸共に御門の外へと 出て行 名にしおふ 花の都を隣して 時に近江
の本城を跡に見なして今爰に 仮の舎(やど)りの上屋敷千本通りに一構へ 日向
守光秀が 出仕の留主は操の方 夫子の武運長久を 神に祈りをかけまくも 手


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づから備ふる神酒供物 殊勝に見へて爪はづれ 遉は武家の奥床し 折から次の襖
を開き 出来る武士は武士武智が組下九野豊後守 年も五十(いそじ)の分別盛り 操が
前に両手を突き 先ず以て今日は 林鐘(ろんしやう)の初日 大内にても氷室の節会 殊更太
守光秀公 大公義より饗応司の大役仰付られ 御家の眉目我々迄大誉 至極と述
ければ 操の方取あへず 夫光秀殿 十次郎諸共未明よりの御登城 殊に大事はけふのお役
目 常々短気な春長様 生れ付た夫の一徹 何の障りもない様と案じるは女の常 悲しい
時の神仏と手づからのお備へ物 是は/\ イヤもふ万事抜目なき光秀公 追付吉左右上

首尾と 挨拶取々なる所へ 殿様の御下城と しらせの声に妻操 我子の乙寿諸共
に豊後守も座を改め 待つ間程なく武智日向光秀 常にかはりし其面色 畳
さはりもあら/\しく 不興の体に立帰れば 跡に従ひ十次郎 しほ/\として座に直る 夫の
顔色額の疵 心ならずと操の方 光秀の傍近く申我夫 いつにないお顔持 お気もじ
悪ふはござりませぬか お怪家(けが)でもなされたか どふやら気がゝり胸騒ぎ 心がゝりと尋れど
とかふいふもせぬ夫 十次郎顔ふり上 今日二条の館にて饗応司を勤むる所 日頃不知なる
森の蘭丸 我々へ様々の悪口雑言 それのみならず春長様 以ての外の御怒りにて 蘭


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丸に仰付られ アレあの通り 父上の眉間へ疵の付程に 殿中でのうち打擲 目通りへは叶
はぬと 警固の武士に追立られ 無念ながらもおめ/\と 顔押拭ひ帰りしと 云い々こぼ
す口惜涙 聞より妻はハアはつと 胸をつらぬく釘鎹 其後も供に拳を握り 咬牙(はぎり)歯
ぎしみ無念の涙 様子立聞四方天 物をもいはず表の方 かけ出す裾をしつかと留 事
をせいたる汝が顔色 子細ぞあらんといはせも立ず ヤア愚かなり豊後守 主人へ恥辱
をあたへし 素丁稚の蘭丸め素頭引抜立帰る 妨げすなとふりほどき 行んと
するを猶も引留 イヤ其憤りは粗忽/\ 汝がふ骨は主人の誤り 返つてお家

の仇とならん 先待れよとさゝゆる九野 シヤ面倒なと勇気の田嶋 放せ放さぬ二
人が争ひ 光秀声かけヤレ待て両人 身が詞も出さぬ内 立騒いで見ぐるしい しづまれやつとせい
すれば 物にこらへぬ田嶋の頭 武智が前にふつと詰かけ 縦(たとい)誤り有にもせよ 丹洲近江両
国の太守 殿中ての打擲は 我々も供に恥辱 頬恥さらさんより 蘭丸めを討て捨 叶はぬ
時は生害と 覚悟極めし四方天 ナゝなぜお留なさるゝな ヤア愚か/\ 光秀を討たるは私なら
ぬ主命 スリヤ蘭丸に遺恨はない 元来短慮の御大将 心に叶へは飽迄寵愛 又叶は
めはうち打擲 縦命を召さるゝ共 君に捧げし我一命 ちつ共惜まずいとはぬ某 我存


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念もしらずして 息筋はつて尾籠のふる舞 しづまれすされとねめ付る 道理に遉荒
者が 行も行かれず立たり居たり勇気も たゆみ躊躇ふ内 御上使の御入と下部が声 光
秀不審の眉を皺め ハテ心得ず 思ひがけなき上使とは 何にもせよ 女房?は次へ立 早く/\と
追立やり 威儀繕ふて出迎ふ 案内につれてのるさ/\ 役目を功に肩肘はり 顔も真赤
赤山与三兵衛上座にむんずと押直り 上意の趣き余の義にあらず 先達て真柴久吉
郡(こほり)三家を退治の為中国へ馳せ向ふ 急ぎ光秀加勢として 西国へ下り久吉の幕下に
属し 我功を励むべし 其功労によつて 出雲石見の両国給はるべき間 今迄下し給はる丹

洲近江二ヶ国は召上らるゝ旨 城代へ申渡し急ぎ城を明渡すべしとの厳命といふに人々
二度恟り 主従顔を見合せて暫し 詞も口籠る 物に動ぜぬ光秀は 礼儀正しく上使に
向ひ ハアゝ台命の趣委細承知仕る 直ぐ様是より西国下向 城明け渡しの用意万端 家中の諸
士へも申渡さん ホゝ早速の領掌神妙/\ 一刻の延引は一刻の不忠となる 出陣やら宿
がへやら からくさ道具片付て 早/\城を渡し召れ 役目は是迄おさらばと にくてい目礼
取ませて 真綿に針の青畳 蹴立てこどは立帰る 一徹短気の田嶋の頭 コレサ御主
人 今赤山が上意の次第 前後揃はぬ詞の端々 西国加勢と披露して 実は御身


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を改易し 自滅をさせんず春長が姦計 良禽は木を見て栖(すむ)不仁非道の尾田春長 義
理も恩義も是限り 西伯姫昌は殷を討ち ついに天下を治めし例し 破鏡再び照さぬ道理
今目前に顕はれたり 今随臣の空虚をかんがへ 一時に尾田を討亡し 天下に覇たる
功を上 名を千歳にとゞめんは サゝゝゝいかに/\とせき立田嶋 やゝ黙然たる日向守 始終こなたに
立聞操 襖あらはに走り出 夫の傍へさし寄て 忠義一途の田嶋の頭 さら/\無理とは
思はねど 勿体ない我君を殺して四海を奪ふとは 夢もうるさい穢らはしい 罪は目前
美濃尾張主を殺して一日も 安穏ならぬ天の責 お年寄られし母御様 いとし可愛

子供迄供に悪名とらするが それが本意か情ない 妻子不憫と思すなら 御身全ふ
月と日の くもらぬ鏡武士(ふ)の 操を立てて給はれと わつとくどいつ理をせめて 夫を思ふ貞心の
思ひは千筋百筋の苧紐(おがせ:紡いだ麻糸を枠にかけて巻き取ったもの。また、その枠。 乱れもつれるさまのたとえ)を乱す憂涙 とゞめかねてぞ見へにける 元来仁義の
豊後守 光秀に打向ひ 文武二道の我君にお諌め申は憚りなれ共 和漢の書
籍に記せし通り 反逆謀叛の輩(ともがら)が本意を達せし例はなし 世に秀でたる光秀公高
木風の俗語にひとしく 皆佞人のなす所 時節を待て誤りなき 申開きの手段は
さま/\゛ 上使に立し赤山と君が五音(いん)を考ふるに 水火既済の卦に当つて 西施 国


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を傾くる不吉の占 一旦勝利有といへ共 あらずして災い生じ 終に全からざる前表只
幾重にも思ひとゞまり下されよと 事を分けたる諌めの詞 いへ共とかくの返答なく 心なき
人は何ともいはばいへ 身をおしまじ名をもおしまず スリヤいよ/\御謀叛の思し立でござるよなと
いはせもあへず豊後が首討てかたむる謀反の道途(かどで) 遖々此上は軍の手配 ホゝいで
  同二日の段            出陣の用意せよ ハア 所存の程こそ