仮想空間

趣味の変体仮名

絵本太功記 六月二日

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html
      イ14-00002-093

 


15(右頁5行目)
  同二日の段            出陣の用意せよ ハア 所存の程こそ 
何と三助暑くてこたへられぬじやないかい ヲゝサ此下郎には何か成る 朝とくから手桶の切り水
くれ方も又此様に汗水に成てのはき掃除 おらも後の世には大将に生れてくべいと

思ふが どふであらふなア されば 此本能寺を仮殿にしてござる春長様は 前世は鬼たといへば
奴が大将にならぬ事も有まいはさと いへは傍から珍内が ハテ扨二人ながら何をいふぞい 死で
の先は片便り 奴から大将に生ながらなられた真柴殿 それを知つゝほんにやれ/\ 来(らい)
芝の事は由男にして 山村程今をため 里虹(りこう)者じやといはるゝ市紅(しかう)が肝心たと どつ
と笑ひの折こそあれ アゝコリヤ/\あれに見ゆる御先供 なむ三春忠様のお御入だ
と 猫に鼠の奴共 おのが部屋へと 逃て入 程なく近付く鋲乗物 数多
の武士が前後をかこい 築地御門に舁(かき)すゆれば かくっとしらせに森の蘭


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丸 礼儀正しく出向ひ 阿野の御局御苦労に存じ奉ると 詞の内に乗物の 戸を
開かせて阿野の局 三法師君を抱まいらせ しづ/\と立出 春忠様の名代
此君の御入故 祖父(ぢい)君春長公より御迎ひとして 自らがもつまして参りしに 殊のふ
御きげんもよろしく お嬉しう存じまするとのたまひければ ホゝそれは一段さぞ祖父
君にもお待かね いざゝせ給へと蘭丸が 案内につれて付ゞ/\゛も門内さして 入にけり
鹿の音むしの音もかれ/\゛の契り あらよしなや 形見の扇より/\ 猶うら表有
物は 人心なりけるぞや あふぎとは空言やあはでぞこひはそふ物を/\ 局が一曲出来

た/\ 伜春忠が名代孫殿へ御馳走に 何と面白いか サゝつげ/\と大盃 はつと心得しのぶが
お酌 蘭丸へさす所なれ共 阿野の局が舞の一手 労を謝する其為に扇盃さし申す
是は/\ふつゝかなる一奏で 御意に叶ふて此上もなき身の冥加と いひつゝ局は御盃 少し引
受取置ば 春長公笑壷に入 ナニ蘭丸局が間(あい)を仕れと 重き御諚も諂いなく コハ仰に候へ共
一滴も及ばぬ某 此義は偏に御高免を ハテ扨呑ぬ所を呑すが興 肴は汝が望次第
すりや御肴を下されふとな ホゝ六十餘州を手に握る此春長 サゝ何なり共望め/\ ハア然らば
何とぞ此蘭丸に 軍勢を四五千斗下し給じゃらば有かたからんと相述れば ムゝ心得ぬ汝が望


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もし軍勢をあたへなば さん候丹洲亀山へ押上り 只一戦に光秀が首討取て 君の災ひを
さけ申さん 成程尤なる願ひなれ共 いらさる心配無用/\ 左様な事に骨折ずと 早く一盃(こん)
を傾けて 厚さを凌ぐが身の養生 飛立斗有明の よる昼となき楽しみの 栄花
にも栄耀にも此春長には及ばぬ/\ 我君の御諚には候へ共 安土の無念を散ぜんと
一度は謀叛の籏を上 窮鼠返つて御身の大事 ア遉は若気 北国には柴田勝家
西国には真柴久吉 龍に翼ぼ尾田春長 君の御諚は去事ながら 蘭丸の詞
の如く油断大敵 ハテサテ局迄か同じ様に いらざる此場の長詮議 御客人が嘸ふら/\

眠り 身もほつと退屈 イデ一睡の夢の間の契りはいさと戯れて 座を立給へは阿のゝ
局 若君誘ひしづ/\と帳臺深く入給ふ 跡にうつとり蘭丸が 心一つにとつ置つ
思ひは同じ女気の一目しのぶが寄添て 申蘭丸様 もふ何時でござりませふなア これは
しのぶ殿 そもじはまだ奥へは行か アイ ハテ扨それは不埒千万 御用もあらん早奥へと
いふ顔じつと打詠 ほんにまあ女の心と男とは それ程迄違ふものか 兄斉藤内蔵之
助殿にお頼み申して 春長様の奥勤も あなたのお傍に居たいばつかり 今更いふも恥
かしながら こぞの初春洛東の地主の お庭の花盛り 嬪共に誘はれ 願ひかけ


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まく初恋の 色も香も有殿御ぶり 観音様のお仲立 互の胸の下帯も とけて嬉しい
新枕 かはるまいぞのお詞が直ぐに心の誓紙ぞと 片時和SYれぬ女房が 傍に居るがおいや
ならいつそ手にかけ給はれと ひんとすね木の糸桜花も乱るゝ風情也 さしもに猛き
蘭丸も 心の外の曲者に 取ひしがれて背撫さすり イヤもふ何事なふせしがお気にさはら
は真平/\ 百万の強敵にもひくともせぬ某が 斯の通りと手をつけば エゝ又人をじゆつな
からすのかいなア 春長様も大方に 斑女が閨のお睦言 お局様の取楫で出船の相
伴 サアござんせと手を取れば ハテ扨たしなみや 人目を忍ぶ二人が中 殊に今宵は君の直宿(とのい)又

の首尾をとふり切を無理に引立奥の間へ 入やいるさの月かげに しのぶの乱れ
みだれあふ わりなき夢や結ぶらん 早更け渡る夏の夜の そよ吹く風も物すどく
寝られぬ儘に御大将 手づから障子押ひらき 何心なふ茂みの方 見やれ給へば さは
/\と 驚きさはぐ塒の鳥 ハテいぶかしや まだ明やらぬ夏の夜に 庭木をはなれ
騒ぐむら鳥 合点行じときつと目を付 あやしみ給ふ時しもあれ 遠音にひゞく鐘
太鼓 春長つゝ立耳そば立 アレ/\次第に近付人馬の音 直宿の者はあらざるか 急ぎ
物見を仕れと 仰の下より阿野の局 長刀かい込走り出 君の大事に候ぞや 蘭丸殿は


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何所(いづく)有早く物見を致されよ わらはも供にと表の方 呼はり/\かけり行 聞に
蘭丸一間より 飛出れば春長声かけ ヤア/\蘭丸 反逆有と覚へたり 急ぎ物見
を仕れろ 上意にはつと蘭丸は振返り見る廊下の高欄 是幸いの物見ぞといふ
より早くかけ上り 四方を屹度打見やり 物のあいろはわからねど 此本能寺夷を心ざし
押寄するは察する所武智光秀 スリヤ光秀が反逆とな 今こそ後悔汝が諌め 聞
入ざるも傾むく運命 只此上は防ぎの用意 ハア委細承知仕る が縦一致に防が
共院内わづか三百余人 思へば/\主君と供に 蘭丸我君様 チエゝ口惜やと主従

か 怒りの歯がみ 逆立髪 無念涙の折からに表の方より森の力丸 広庭に大息つぎ
御油断有な兄者人武智光秀我君に多年の恨みを散ぜんと 手勢すぐつて四
千餘騎 左馬五郎を始とし 或は斉藤蔵之助築地間近く押寄せて候と いふ間もあら
ず蘭丸は 其儘ひらりと飛おりて 我君には恐れながら防ぎ矢の御用意有
て然るべし イデ某がかしこに向ひ 一当あてゝ眠りを覚さん 力丸来れと兄弟は飛が
ごとくにかけり行 打見やり春長公 此上は防ぎの一矢 先ず差当つて一大事は三法
師 ヤア/\宗祇(そうぎ) 君をいざなひ早く/\ 御諚の下にかひ/\゛しく しのぶ諸共茶道の


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宗祇 若君いだき参らせて足もわな/\胴ぶるひ しのぶの供にうろ付所へ 多勢
を切抜阿野の局 其身は数ヶ所の痛手ながら 血に染長刀かい込で心も強(かう)
に立戻り 申/\我君様 最早敵は込入て候へば 君に替つて一軍 御身を遁れ下さる
べしと 口にはいへど御名残 涙弥増斗也 ヤア愚々 なまなか身を遁れんと返つて名も
なきやつ原に 首を渡さば死後の恥辱 汝は我に成かはり宗祇引連三法師を
何とぞ守護し落延て 此籏諸共久吉が手に渡し 我存念を晴らさせよ 猶予は
返つて不忠の至りと 仰にわつと泣くづおえW たとへ不忠に成とても 君の御最期よそ

になし 何と此儘落られふ 此義はお赦し下さりませ 是を思へは自らが 宵の酒宴の其時に
斑女が閨のかこち云 其一さしのあふきとは 別れを告ししらせかと 思ひ廻せばいとゝ猶 悲しいわい
のととふと伏嘆沈めばお道理と 心をくんで諸袖を しぼるしのぶが供涙 泣音をそゆる
斗也 数多の切首片手に引さげ庭先へ 立帰つたる森の蘭丸 それと見るより春長公 ホゝ今
に始ぬ汝が働き シテ/\様子はいかに/\ されば候 二条の御所へは武智光安立向ひ 当手(とうて)の寄せ手は左
馬五郎光俊 采配取てきびしき下知 なれ共味方は必死勇者 御覧のごとく首討取 一泡
吹せ候へ共 始終の勝利は 成程/\ 只此上は潔く 死出の三途も主従供に サア今聞通り


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我覚悟早く此場を落延ぬか 但し三世の縁切にや サア其義はなア 縁切か悲しくば一時も早く
落延よコレサお局 君の先途を見とゝくるは此蘭丸 片時急ぎ裏門より 宗祇坊は何をうつ
かり ヲツト合点 イヤもふ最前から落たふて/\気は上り コレ/\しのぶ殿もお供の用意といへと遉に
忍び夫マ 云たい事も面て伏せしほれ 泣/\立上れば 蘭丸声かけ しのふは君の御供叶はぬと
聞て恟り驚くしのぶ エゝそりや何故 ホゝ汝にお咎なけれ共 そちが兄齊藤蔵之助光
秀に一味の反逆 敵の末は根を断て柴を枯す 命を助け其儘帰すは是迄 サア是迄君への宮
仕と明ていはねど妹と背の 中を隔ての垣となる しのぶか憂身詮方も 涙ながらに用

意の懐剣 喉にがはと突立れば コハ何故と驚く人々 大将春長感じ給ひ ホゝ女なからも遖の
生害 兄とひとつでない潔白 今日只今春長か仲人し蘭丸か宿の妻 心残さす成仏せ
よと 仰に 手負蘭丸も はつと斗に有かた涙顔に紅柴のからくれない血汐に染る両の手を
合すも二世の名残ぞと物いひたけに夫の方 御大将をふし拝み 笑顔を娑婆の
置き土産 あへなく息たへにけり 嘆きをよそに御大将 勇みを付んとヤア/\蘭丸 我は是にて
討手を引受 此場を去らず討死せん 汝は是より馳せ向ひ 敵のやつ原一泡吹せ 名を万天に
輝かせよと勇め給へば ハア/\ハゝゝゝゝ仰にや及ぶへき たとへ光秀 何万騎にて寄する共 片はし


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なで切まくり立 君の御供仕らん早おさらばと立上れば 涙を拭ひ宗祇坊 局を
いさめすゝむれば 是非も涙に袖の浪 たゞよひ なから若君を 宗祇が背にしつかりと
是ぞあふぎの憂別れ見かへる 名残見送る名残 又立戻るを蘭丸か 中を隔つる
鯨波 早乱れ入る諸軍勢 切立なき立女武者 其名も 高くかな書の 筆にとゞめ
て末の世の美談と こそは にける 寺中は合戦真最中 力丸蘭丸一同に一進一退
離散して或は討たれ或は討 つゞくあら手も有らばこそ 堅甲利兵の大軍を防ぎ戦ひ
流るゝ汗とわき出る血汐 から紅いに水くゞる 龍田の川に楓柴(もみぢば)の落て流るゝ如くなり

寄せ手の従将安田作兵衛 春長を討取んと 塀際にさし寄れど 味方の勢に隔てられたや
すく内へ寄付かれず 得たりし鑓を力杖 えいと一はね高塀に 飛上りたる早業さそく
目ざましかりける 次第なり さしも名高き霊場も修羅の巷と鳴る鐘の 天地にひゞく
陣太鼓 乱調に打立/\ 先にすゝみし田嶋の頭 手勢引具し一同におめき叫んで攻めかく
れば 春長公一越調 反逆光秀はいづくに有る 主に背く天罰思ひしらせてくれんずと 弓杖(ゆんづへ)
ついて罵る大音 さしも勇有明智勢 恐れて思はず進かねたぢつく隙にさし詰引
詰 討給ふ矢先に先手の軍兵 はた/\/\と討たをされ あだ矢はさらになかりける 此


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虚に乗て坊丸力丸鑓をひねつて八方へ突立なぎ立阿修羅の如く広庭 さして 追て
行 客殿には春長主従 膝をならべてどつかと座し 力丸無念の歯がみをなし エゝ口惜しや 往昔(いんし)
天文年中より 今天正年迄 四海の内に横行して 武威を以て天下の兵乱を切しづめ 民
の塗炭の中にすくひ 四方の敵に君の英名を 鬼神の如く恐れふるひ 正二位右大臣に
昇進し 大乗院に成就せしに 逆臣惟任が為に空しくならせ給ふとは天魔の所為か口惜
やと 血汐にそゝぐ 血の涙とゞめかねたる斗也 春長一言の詞もなく 御はかせを脇腹へ がはと突立
引廻す 供に冥途の御供と 力丸坊丸殉死の切腹むざんといふも餘り有御身の 果ぞ