仮想空間

趣味の変体仮名

洞房語園 52~96頁(完) 

 

読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533774
参考にした本 https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/index.html
        ヲ06 00356

 
52
一明暦二年申十月九日御奉行所へ吉原町年
 寄共を御召有て只今迄の場所御用地に
 付屋敷替仰付させられ候急度御請申上
 本所の内か浅草領日本堤か此両所の内にて
 替地に下候間何れの地にても勝手次第御願
 申上やう被仰渡候年寄共申上候四十余年
 罷在候處を遠方へ罷越候段何共迷惑に
 奉得候と申上候得共不相叶急度御請か申上候
 被仰渡候間年寄共罷帰本所て然候歟日本堤
 へて参やと相談しけるか然に相極り

 其通り御願申上る 石谷将賢様仰渡され候は
 此度吉原町遠方へ遣され御代りには所徳あまた
 下し給り候に付有かたく可奉存か事なり
 一只今まては二町四方の場所なれ共新地に
  ては二町に三町の所五割増て被下候
 一唯今迄は昼斗り商売致候所自今昼夜の
  商売御免なり
 一遠方へ遣され候に付山王神田の御祭礼の町
  役并出火の節跡火消抔の事御免なり
 一町に弐百軒余有し候風呂屋こと/\く御潰


53
  し遊され候是風呂屋共隠し遊女を差
  置し故なり
 一引料御金壱万五百両下し置れ候小間
  壱間に拾四両平均也

一同11月廿七日吉原町五町年寄共并月行事
 浅草御蔵より下金頂戴仕り同時に年寄
 ともへ被仰渡候?月廻の事なれは来
 春より地形普請に取懸り可申よし
一明暦三年酉正月十六日未の刻本郷本妙
 寺より出火此節吉原こと/\類焼同二月

 始より仮屋を建て商売したり諸国より大工
 諸職人御当地へ入込候江戸の賑ひ大方ならす
 日本堤の場所地形普請も三月中旬より取掛
 たり

 一五月廿八日の夜小笠原家の侍衆拾人斗り
  大門口迄参られ当所へ欠落者を附込たり
  捕へ候内暫く大門を閉人出入を留め呉様
  頼に付大門の万人五町中へ告知らせ大門を
  〆て穿鑿する彼欠落者は江戸町
  弐丁目の河岸にて捕へられたり類焼


54
  わ後町々の木戸はなし五町中大きに騒
  動しけり弐丁目の河岸に大工にて五郎兵衛
  といひし者彼欠落者に出合殊の外働き
  少し斗り手疵(ておひ)を負たり小雨降り曽我
  の夜討の夜に手柄せしとてかの大工は
  御所の五郎兵衛と異名を取たり

一六月又々吉原町年寄共召出され当十五日迄
 に悉く引移り可申由被仰渡候其節今戸新
 鳥越山谷村の百姓共へ被仰渡候はゝ吉原町の
 者とも屋敷出るに付家作出来の間は右三ヶ所の

 住居を代間可申宿賃??相対に可致よし
 仰付られ候
一六月十四日十五日には吉原の傾城共濱町の河岸より
 屋根舟に乗て駒形堂へ着もあり山のしく
 金龍山の下へ着るも有知音の方より酒肴を
 調へ送り見廻の船もあり或るひは浅草観音
 参りなから玉ふちの編笠なとにて爰を
 晴(?)と粧ひて歩行にてゆく遊女も有浅草寺
 中の賑ひ殊に?本堂西南の欄干には
 是を見物せんと群集の諸人は開帳祭礼


55
 なとの日のことし

一同7月中には普請大方出来して八月
 10日前五町共に悉く引移る家作の間は今戸
 新鳥越山谷此三ヶ處の表通りの家々を借り
 三十余日昼夜の商売したり当四月両
 御奉行様新吉原の場所御見分として
 日本堤迄御越被遊候最初大門口より土手迄
 真直に道を造りしか神尾備前守様御差
 図にて三曲に造りたり今五拾間道といふ
 又坂を衣紋坂といふ吉原へ通ふ人此坂迄は

 いそかしく来り大門か見ゆると少し心付て十人
 か十人なから此坂にて極て衣紋かひ繕ふ故
 衣紋坂と名付しなり

一簑輪村に柴崎与兵衛とて数代の百姓あり
 彼に日本堤の年数の事を尋しに与兵衛か
 いふやら祖父か自分へ申伝へたるは唯今より百
 年斗り巳前大申の年に出来候由承り候と
 申田舎の言葉には庚申(かのへさる)の年を大申の年
 と申よし然れば年号は元和七年にあたる

一万治の頃京町新屋か家に千歳といひし


56
 太夫あり全盛は彼吉田におとらぬ美女なり
 此千歳に馴染し人ありて或夜揚屋平左衛門
 か方にて淋しき折から側に有し硯を引
 よせ
  一雙玉腕千人枕
    半點朱唇萬客嘗
 と鼻紙に書れしを千歳みて是は何と
 いふ事にやと問ふ時唐人詩と斗り答へら
 れたり千歳は幼少より手習を好手跡も
 尋常にて歌書なとおも好みし故に押

 返して侍の心は何と申事にて候そと問けれは
 流石にてき明嘘をつかれは是は古き詩にて
 唐にて遊女か有けるか其遊女の事を作りし
 詩也一双とはひとつならへて居る美しき手も
 かわる/\の客なれは彼遊女か手は千人のまくら
 ともなり一寸指化粧ひたる口紅粉も大勢の
 客の嘗(なめ)ものと成るといふ心を作りし
 詩也と云はれし時千歳何とか思ひけん暫く
 物も云わず涙くみて居たりしゆへ客人不
 審に思われ何しに泣そと問へは千歳かいふ


57
 やう其詩の心のことくに涙を立る身はあさ
 ましき物かな今宵殿に逢初て他事
 なく申かわし翌日又如何なる田舎人か逢初て
 心にそまぬ事なれは憂ふしの勤に行末の
 事まておもわれてといへは客人も此??
 に困り末の事まて案ずれば誰身のうへ
 迚も知れぬ也酒を呑て唄ても謡へとて
 誰彼を呼集め夜の明るまて酒盛して
 遊はれしか千歳か心栄のやさしきを感じ
 夫より廿日斗り過て千歳は目出度方へ

 身請して行けり千歳か身請の事新屋か
 方へ内証いひ込し砌千歳は風気のよしにて
 かの玄庵を呼肺をみせいふべは寝汗か出ま
 したといへは夫はこわひ夢ても見てかと
 いふ玄庵かふといひたるにや但し前の吉田
 か事を思ひあはすれはおかし

一寛文の頃吉原ことの外往還の者にて謡ひ
 はやりし小唄ひ 「ほんさまの長羽織コイエイ
 つへしにはり時じや

一喧飩(けんどん)寛文二年宮社中より吉原に


58
 始て出来たる名なり往来の人を呼声
 喧して局女郎より遥かおとりて鈍く
 見ゆる迚喧鈍とかゝせたり
  其頃江戸町弐丁目に仁左衛門といふ者うんとん
  蕎麦切を商売しか壱人前の弁当
  を拵へそは切を仕廻て銀目五分宛に
  売端傾城の下直なるなぞらへけんどん
  そばと名付しを世間にひろまるなり

一遊女町を往来し出格子籬(まがき)を覗き傾城
 ともを見物するものを京にてはそめきの

 衆といふ吉原にてはとりんほうと云此義理も
 其文字も存ぜず明暦の頃男伊達に鶺鴒
 組といひける一組の男伊達有しか卜養(ぼくよう)の狂歌
 に此鶺鴒組の事を意にふくみて
  当世の吉原はゝきちよろたゝき
   このとりんほも岩たゝきかな

一風俗異形見立てみゆるを伊達といふ事は
 寛永三丙寅秋中  御上洛の節諸大名方
 御供奉の中に奥州の伊達家の御同勢諸
 士の出立粧ひ一際(いつかい)花やかに見へ御?式拝見の


59
 諸人目を驚かす是によつて京景の言葉
 に風俗を花々敷出立たる人をみて伊達衆
 かといひ觸せしより今に至る迄花美風
 流人を伊達好といひ或は男伊達といふも
 此節よりの事やとふるき者の物語也

一一とせ浅草御門外より御茶の水通りまて
 御堀御普請有し砌吉原も人多く入込賑
 やかなる事いふにいとまあらす折節夏の
 事にて冷水売わらんべの有しにある客
 人中の町にて水を望みて飲み袂より

 銀銭十文斗取出し彼水売に遣しける
 水売の壱人は光る銭を貰ひきもをつぶし
 己れか宿へ欠て帰り親共にみせけれは親共も
 けふがる事におもひ近所あたりへ持出行方
 見せけれは是は歴々の御方とみへて歩行にて
 通わるゝ時も有又は揚屋か方にて山本か家の
 かほるといひし女郎を呼酒盛してかへ
 らるゝ是に付年寄たるものかたひ噺に
  昔漠の定帝の時京兆の尹とて長安


60
 の都の奉行人に張政といふ人有此張政才
 智あつき人にて正はつ相なりしかは諸人
 恐れて非をあらため長安はおのつから穏や
 かに盗人もやみて能治りしとや然るに
 張政は朝廷出仕の帰りことに馬に乗扇に
 て顔を隠し長安の中の遊女町なとへ
 ゆき見物して歩行自らの家にても
 婦人に作眉をさせて寵愛しなとめさ
 れたり帝も張政か感往をおしませ給ひ
 更に御咎の事もなくて後には冀州(きしゅう)の

 刺史とて大名にならせとや昔の張政は
 扇にて顔を隠されしか彼銀銭の御客
 人はさのみ遠慮の体も見へず大方は
 すか月なりしとむかしの咄しとなりけり
 道せまからぬ御代の是もめて度ためし
 なるへし

一吉原の遊女とも八朔には白小袖を着る事
 古来は五月五日には染地の袷八朔は白き袷を
 着たり寛文の始に新町宝玉といひし
 者の家に夕霧といひける太夫たしなみよき


61
 女にて五月八朔共に小袖と袷と二通り宛
 仕立置けり一とせ八朔にけしからず寒き事
 有しに他の女郎は袷を着したるに夕霧
 は寒き折から相応に白小袖を着たり
 夫ゆへ外の女郎より見へよく相みへたり他の
 遊女とも是をみて夕霧に負し迚翌年
 の八朔は残暑といへ共何れも綿を入小袖に
 仕立着したり其上薄き綿の入たるは
 袷より取なりも能みゆるゆへ今に止まずし
 て汗を流しなからも小袖を着る事彼夕霧

 に習ひてなり

一京町三浦屋道安か家の高尾といひし太夫
 二三度逢たる人有しか牽頭持の医者東庵
 といふものを近つけて高尾か小袖を一つ貰ひ
 て着たひか貰ひやうに能き趣はないかと問れ
 し時東庵あつと答へてしばらくして
 眼をふさぎ謀事を帷幕の内にめくらし
 勝るを千里の外にもとむるなとゝ云つ
 へし分別くさひ顔をして是に究竟
 の方便こそ候へ来る十五日は御約束の日なれば


62
 揚屋か方にて酒盛の時定て太夫さまから
 お前様へ望か参りませふ其時てふ付なされ
 ませ所を私お前様のお側へ参り太夫様の
 お望て御さります是は一つ上りませといふて
 お前様のお手を押へ酒をしいまする時昨日
 の酒にあたりてとふも飲まれぬと仰られ
 ませ所を私か無理に酒を飲ますか拍子に
 あやまつてお膝へ酒をかけましてこのお小
 袖は召れまひ太夫さまのお小袖を一つ進られ
 ませと申なは其儘小袖を脱てあけませふ

 といふて東庵が一世一代の智恵を震ひ出し
 けれは是は面白ひ趣向じやしからは十五日には
 随分あぢをやれとて?としめし合せさて
 十五日には約束にて揚屋長兵衛か方にて太夫
 高尾も座敷へ出立亭主盃を出せば常
 のことく太夫ひとつ請て客人へさす兼て
 五度も六度も盃の数重りて興に乗し
 彼趣の筈なれば東庵一と手際して御目に
 掛んとおもふ心にて胸せかれ客人の呑や
 ら飲ぬやら知れぬすきに太夫さまのお盃


63
 爰はひとつ盃ひとつ御請なされましと禿の持居る燗(ち)
 鍋(ろり)をひつたくりめつそうに次かけ酒をしたゝ
 かこぼし客人の膝へかけ先一つ狂言をは
 はじめけり高尾は生れつき神妙に物こし
 さへ静なる女郎なれは東庵か余りに立さ
 わききやうときを見て少し不興にみへ
 しかは東庵も仕組か違ひたるやうに思へ共
 止らぬ事なれは是はいかひ麁相をいたし
 ました此お小袖は召れまひ太夫さまの其小袖
 を進せられませといへは高尾はさわかし

 かりて遣り手のまんを呼よせ云付て遣はし
 ければ鑓手早々宿へ行小袖を貮つ風呂敷
 に包み持来るをみれば下着は浅黄無垢今
 壱つは黒羽二重こく餅紋の小袖にて貮つ共
 男むきに仕立し小袖なり客人は高尾か
 着馴れし小袖をこそ望まれしに高
 尾か心かけの薄からぬ故東庵か謀事なか
 ばに用に立けれ共させる手柄にはならず
 始から其小袖をたもれとて手短かに
 望帰ればは是程手間はかゝるまひものを


64
 東庵か智恵立こそおかしけれ去なから
 歴々の買手といへ共女郎に心をかれ聊爾
 に物のいひ悪ひ所かあれはこそかゝる事
 もありけり是も高尾か手柄と云つべし

一土手節とて寛文の頃はやりし小唄に
 かゝる山谷の草深けれと君か手柄とおもへ
 はよしや玉の臺もおろかてござるよそ
 の見るめもいとわぬ我しやにお笑ひ
 やるな名のたつに

一同じ頃吉原にて牽頭持なとのうたひし

 つくしうたに
  余り淋しさに五町をみれは折しも籬(まがき)/\
  にわけや口舌の高笑ひあなたの方て
  は三絃をひつひいていかんなくさんごは
  いよこの誠にもつて何寄面白しやうか
  のしましよかの是々これしませかの
  繻子や緞子の幅広前帯あれや
  物見たかるかわつらよめたなを
  きこあれやたれそ西尾に薄雲小
  紫対馬八つ橋から崎にて高尾吉野


65
  見て来てこちの女房みればあれや
  鈴木町のはけ物やきせてくわせて
  あそばかひてから吉野まちりのよろ
  たんへもの扨も/\めいよふしきのおて
  きに出あふはきやえりくり出いた名
  とり達のわけよしあふらむしのからさ
  はきなまよひの真似をして万事
  に邪魔をいれてはてんてれつくてん
  たいこ/\かつてんか親をはこくみまん
  する夜ばんてこさりまするふびんと

一角町万字屋庄左衛門か家に万寿といひし格子
 女郎有しか壱人の客に馴染て外の勤ぞ
 りやくにて庄左衛門か教訓をももちいず
 打捨て置ては外の女郎の為あしけれは勤を
 止させ引込て嬪奉公のことく召仕たり万寿は
 生れ付発明にてひと器量ある女なれは是
 は当分のこらしめにこそとおもひ下女共の古き
 布子なとを借着して少も恥る気色なく
 下女共の上働く程の事をは何事も厭わず
 働きあれ買物なれは彼布子の儘にて中の


66
 町へも出諸事につけて随分甲斐/\しき
 はたらきけり其頃長谷川宗月とてきたひの
 相人有て折々吉原へ来りしかあるひ庄左衛門か方へ
 来りて咄しける故庄左衛門は宗月を饗宴(もてな)し
 其席に遊女共を呼出し且宗月への馳走の
 心にて遊女共の人相を見せけれは宗月も
 其座の会釈は相応なる挨拶しけり彼の
 万寿は是を聞庄左衛門か勝手へ立し透(ついで)に
 己れも其相人とやらにみて貰わんとて座敷へ
 行わたくしも占ふて下さりませと立なから

 かぶりし手拭ひを取てものいふ所へ庄左衛門又座敷
 へ出けれは何か主人かこわきものかいひ捨て又勝手へ
 行けるか宗月はちよと万寿か相を見て庄
 左衛門にいふ様先程から大勢の相をみし内に
 今の下女程の相はなし福相あり異相有
 遖れ遊女ならは此廓に一二をあらそふ名
 とりなるへし三年を過すしてかならす
 千人の上に立へき相ありといへは庄左衛門聞て
 それは彼か仕合にこそといひて扨宗月
 に酒をすゝめて帰へしけりさて万寿は半年


67
 はかり過れ共主人何の沙汰もなく下女にて
 仕ひけれは扨は当分のおとしにかはなかり
 し物をと思ひ万寿も心をあらため人を頼
 みて誤りし段を主人へ詫言する故庄左衛門
 も合点して又勤に出しけれはかくの
 ことく時すぎて宗月いひしに違はず
 其年より三年めに年季も一年斗りも
 有しか有徳なる仁の方へ貰われて行
 多くの人の上に立しといふ伊達なる女に
 て奴の万寿と云れし

一散茶 寛文年中に端々の隠し遊女御穿鑿
 ありし時茶屋遊女持し者共吉原へ降参し詫言
 申に付其段御訴訟申上けれは御慈悲を御
 御免遊され所々の茶屋遊所持共吉原へ入込
 たり此遊女持共の中に多くは先年御停止(てうじ)
 の仰付候風呂屋の者ともありし間彼風呂屋
 の家作りを用ひ局廓を広くかまへ大格子を
 付庭も広く取致有臺とて暖簾の傍に
 三尺四方斗りの腰掛を付致有といふ者を
 附置て客を引惣して吉原へ入込たる


68
 遊女持共七十余人遊女の数語五百拾弐人なり同時
 に江戸町弐丁目の名主源右衛門御願申上境町
 伏見町の南町を作る境町は角町と弐丁目の
 境なれはさかい町といふ伏見町と名付しは
 同町弐丁目の年寄は山田屋山三郎山口屋七郎
 左衛門東屋治兵衛岡田屋吉左衛門此者共也
 先祖は吉原開基の郎伏見の蛭子町同所豊後
 ばしなどより引越たる者ともなれは先祖
 の古郷を慕ひて伏見町と名付たる也初め土手
 の方を表に取片側町なりしか冬は北風

 土手より吹おろし寒く烈し風には局々へ吹入
 灯籠の火を消すゆへ翌年に向を直し両側
 町につくりたり其頃若き者のされに右に
 いふかふさむ(降参)の者共の引連来る遊女共は
 吉原に有来りし傾城とは違ひいきはりも
 なくふらぬといふ心にてさんちやといひけるか
 云ひやますして終に悪名と成たり近年
 さんちや廓の猶様をかへて広き庭をも
 とらす大格子の内を局座敷に拵へたる
 をさんちやに対してむめちやと戯れに云


69
 けるか是も又此頃は本名のやうに成りたり
  茶屋遊所持共吉原へ入込しは寛文八申年
  中なり或書には十年と有一日の揚金百疋つゝなり
  此節まて局女郎といふは揚銭貮拾匁
  なりしかさんちやにおされて是も一分
  に成りなり

一妓有さんちやよりおこりし名なり承応のころ
 吹屋町に泉風呂の弥兵衛といふ者ありしか
 彼か家に久助とて年久しく召仕し男な
 りしか風呂屋遊女を引廻し客を扱ひけり

 此久助煙草を好みしか他人のませると紛れぬ
 やうにとて紫竹のふときを長さ壱尺七八寸
 にきり吸口火皿を付て此長ききせるを常
 にはなさず腰にさして居たり其上久助
 は生れ付瘻(せむし)にて丈ちいさき男か常にきせ
 るをさして居る形りを其頃の若き者共か及
 の字に見立久助か異名を及といひしか彼
 風呂屋か方へ遊びに行かんといわん迚きうか所へ
 行かふなとゝいひ觸しよりおのつから風呂
 屋男の惣名と成りたり


70
揚屋町今の尾張屋と五郎左衛門か間にあみや
 甚左衛門といふ揚屋有しか此甚左衛門は年六十余
 の老人故寒夜(かんよ)の節には二三度も弁疾極めて
 小便に起たり或夜七つ過頃いつものことく小便
 に出て帰る時うしろより甚左衛門/\と呼けるゆへ
 振返りてみれは曇りたる月の夜なりし片
 端に一トかゝへ斗りの柏の木あり此樹の二股
 におそろしけなる面体のもの白張を着たり
 と見へたり大かたの者ならきもをつぶして
 逃るか左なくは立所にたへ入へきに此甚左衛門

 は天性(あっぱれ)律儀なる男の物に打驚かぬ気性
 なれは何者成かと声かけけれは件の者打しはか
 れたる声にて我は汝か多年信ずる稲荷
 大明神なり汝常々福分を祈れ共汝に
 さずける宝なし去なから汝か一子こそ大
 果報そなはりたる者なれは早く身代を譲り
 渡しなは家の繁昌ならん必ず神慮を
 うたかふなと宣ふ時に甚左衛門は此よしを
 聞土に手を突誠に有かたき御神託にて
 候もとより一子の事なれは兼てさやうに


71
 存候處なり此事を私の女房共に告知ら
 せ御神体を拝ませ申度候しはらく其元
 にまかせ給ふへしといひなから内へ入三尺
 斗りの樫の木の木刀を提て彼柏の木のもとへ行
 迚もの御事に私か家へ御入なされ候へかし御造
 酒を上んといひけれは彼のものいふやう善哉/\
 去なから近々神に罰あたる後是所を退
 くへしといへ共甚左衛門は退かすかくする内に
 夜も明方になれは彼のものもかなわじとや
 思ひけん木の二股より飛んで下り逃んするを

 すかさず木刀にて打擲き据へ三尺手拭にて
 縛り上て夜明てみれは張子の天狗の面を
 かぶり打かけに浴衣を着たり面をとりて
 みれは我子の与平次なりさん/\に打擲(うちたゝき)し
 直に追払ひけり盗人を捕へてみれか我子
 なりといふ事あれとも是は神体を捕へ
 みれは我子の与平次なり世に珎らしきうつ
 け者とやいわん

一江戸町臺屋浄然といふ者の店(いへ)に後家にて
 きりんといふ傾城屋ありしか抱への几帳と


72
 といふ局女郎に石町邊に住居ける庄右衛門とて呉
 服物のきれ売有年月不覚几帳に相馴染し
 か用事ありて本国三州へ行けり斯て十四五日も
 過て庄右衛門か友達の方より几帳かもとへ文し
 て云遣しけるは庄右衛門事在所へ行とて途中にて
 病気つきさひつす果し由を告知らせたり
 几帳是を聞て大きになけき四五日ほとは
 食事を断て打臥けり主の後家遣り手傍
 輩誰かれさま/\とすかしなくさめ漸々と思ひ
 直し主か菩提所より僧を招き追善供養

 なとして奉公の身なれは又勤に出けり其頃
 吉原類焼の事なれは家並も四五年の内
 は建揃わず彼桐屋か家もひら家にて
 仕廻の客あれは局にて饗応(もてな)して或夜几
 帳か客帰りて跡もの淋しく独り煙草呑みて
 居けるか頃は八月の末くらき夜に雨ふりて
 何所やらものすこく丑満斗りに局の戸をほと
 /\と渡かく几帳は内よりそとへ答(いゝ)へけれは
 幽なる声して別れし庄右衛門か来りたり
 余りになつかしさにといふ几帳夢にもわき
  
  
73
 まへず深くいひかわしたる中にや有けん其儘
 立出て戸を明まつ亡者の袖に取付てしば
 し/\泣居たり亡者かいふやう浅ましき
 姿を直にまみへんと恥かし灯火を消してたべ
 内へ入今壱度二世の枕をかわしたく思ひを
 晴さんといふ此節隣の局に金太夫といふ女郎
 目をさまし此泣声を聞付怪しくおも
 ひ襖の透より覗きみて其異体心得す
 思ひけん襖を押明て走りより亡者か左の
 腕をしつかと掴み大の男を恰も小児の

 ことくに扱ひ宙に引下げ局へ入手もなく取て
 押伏片手にて行燈の火をかき立よく/\
 みれは亡者庄右衛門にはあらす軒並びの扇や
 文左衛門といふ者の召仕八蔵といふ男なり額に
 三角に折たる紙を付古き晒の帷子を着て
 細き竹枝を持けり金太夫にむかひまつひら
 御免あれ私常々几帳殿におもひをかけ申
 出す共承引は有ましと思ひさあらはこの
 謀計をしてみんと存かやうの姿に拵へ候
 とて始めは几帳か泣声今は八蔵か泣声に


74
 なりて詫言しけり此ほと主の後家は持病
 おこりて煩ひ居る時節なれは夜中にかゝる
 事を聞せんもよしなし迚側にて几帳か詫
 言するゆへ金太夫は八蔵か天窓(あたま)を三つ四つはり
 廻し又宙に引さけて大道へ投出し戸を
 押立て沙汰なしにおさめたり金太夫
 容顔も十人並にてものこしもやさしき
 ゆへ力ありとはしるものなりしか此時のふるまひ
 いにえいへの巴女にも勝るまし八蔵は大底力
 りやくの男なりけれ共金太夫に掴まれ

 しか腕しひれて四五日かほと用たゝず揚屋
 町の与平次は親甚左衛門をあさむく迚からめ
 られ此扇やの八蔵は几帳をたます迚大き
 なめにあひたり与平次か分別と八蔵か智恵
 とは何れぞや

一寛文の末より正保の間江戸町助右衛門か家に
 対馬といひし太夫有承応の頃の勝やま
 明暦の頃の吉田におとらぬ全盛同じ家の
 いづみ稲葉弐人共に格子女郎にて近江ふ
 しの浄留理名を取て語文か及はぬ所有


75
 しといひけり元禄年中江戸町山口屋か家
 の初菊といひし太夫は艶色容顔はその
 頃廓第一といわれたりまた新造の内に出し
 より身請の其日に至る迄一日も約束の日に
 あらさる日はなし佐倉館のあたりよりゆゝ敷
 恋風かたちて嫁入して行けり

一吉原にて客人の手ひろくさしのかる事
 なきおたいしんといふ大尽と書たる草紙
 もあれとよひ程に了簡をつけて大尽
 と書たり古来の本字は大人なり都て歴々の

 事をさしていふ是について村井一露といふ
 者造りの堅やかいわれしは大人と書か本字な
 らはたいじんと澄ていふべしだいじんと濁り
 てはいかなりしかし久敷云触れたれは
 今更改めかたしそのうへやり手やきう
 なとか物いひなれは清音呉音か差別
 もいらす何様成る吟味もする程からはら
 いたく愚かにこそ聞ゆれは彼大人の能買人
 おいふは傾城に馴染てもけやくばさら
 成る事もなく傾城を侮りかろしめす或は


76
 花なとをとらするも不時にくれてさのみ騒
 かしからぬは遣り人斯有のほしかり共か這ひ
 廻りて饗応しする事ことはりなり又粋と
 野暮との品は中々筆誌に述かたし惣し
 て此里へ歴々に通ふ人は勿論義理諸礼
 の人にもあらず武士方は常の勤に懈怠
 なく其気をしてわたくしなく立身
 にすゝまんと励まるゝと辛抱ならすといふ
 事なし町人は渡世の簒業に油断なく
 明六つから暮六つまて気をつめて其利潤の

 よけいより気の養ひ歴々にも此廓へ通ふなれば
 傾城なとか前にて系図を自慢するにも
 あらす分限をひけらかすにも不及一盃呑ん
 迚歴々の天窓を禿かはり廻し花を貰ふて
 遣り手かけふとき笑ひ声妓有(ぎあり)か片言ましり
 の慇懃角とり〆もなく気のつかへぬこそ
 一興なれたとへ遠慮なき身なり共吉原へ
 行かへり揚屋か方へ出入ことにも人目忍ぶ社
 傾城も奥床しく思ひ余所目にも尤ら
 しく見ゆれ去なから揚屋か奥の座敷


77
 床の脇にて深編笠もいかゝ

一野夫(やぼ)明暦の頃大人の仰られしは家暮と
 書くへしと是よりして家暮の御字をも
 ちゆるなり

一大方の人の吉原へ行かんと思ふ日は朝寝する人
 も朝起してめつたに閙か敷なり常より
 道も達者にて去年六七町か間を行通ふ
 も手の舞足の踏所を覚へずむかふから
 知る人か言葉をかけ辞宜しても不思議そ
 ふな顔っしてものも云わす行違ふ盛ん

 なる年の人は此ように騒しく時分か諸事に
 つけて面白ひ最中成るへし併旦那やおや
 ぢ殿の前を思ひ忘れず用心有たき物の
 扨傾城を買ふては騒かぬはならぬ事に
 覚へてさんちやの二階を踏ぬく斗りに踊り
 大汗に成て騒ぎ或は間もなく手をたゝき
 禿や妓有を呼けり日暮迄買える方角なけれ
 は妓有か罷り居て今宵も御座りますか
 と問へば勤の一角かなひともいわれす馴染
 ならねは掛にもならずいや/\帰らねば


78
 ならぬ首尾しやといふて漸/\に仕度し
 て帰る時は四月の中の十日といへ共遊び足らぬ
 けしきにみゆるもことはり哉是抔は皆若ひ衆
 の事なれはあひたには五十六十斗の親父
 達にも此類あれは是も江戸の広き印と
 こそ思わる武家方の中間以下売人は
 ほてふりの類ひ適々隙を見合て吉原へ
 行んと隠さず共よひ顔を隠し大門口より
 えしらぬ小唄なとうたひかけ帯に挟
 しおあし二筋斗を頼みなして五町の

 川岸通りけんとんのはし廓を一々額に大汗に
 なりて覗き歩行とも揚屋町の辻てみた格子
 女郎のやうなのわなひとてむなしく帰りも
 有布木綿の価にて衣羽二重は買われぬものを
 骨折損じやとやいわん是も一興とや云ひつへし
 師走の十七日十八日には浅草の年の市にて江戸
 廻り十里四方の百姓昼夜引もきらす市立
 して此席に吉原をみんとかけ寄局/\の
 唄すがらきに心に男みて一代に壱度の慰み
 咄しの種にも女郎買ふてみんとて端見世


79
 のけんどん女郎にむかひ一日の仕廻といふはいくら
 程じやと問へは壱分て御座りますといへば
 三百文にまけろといふ遊女は挨拶もせず
 彼田舎者は全体市の気になつて三百五拾文
 に値をつけ十四五軒も行過取てかへし四百文
 やろふか買ぬかと大きな声をあくるもおかし

一此一冊は最初に燕石私集と題号しけるは
 村井一露斎の物語りに昔宗といふ国に一人の
 愚か成る者有て一つの燕石を夜明て珎褒美(ちんぽうび)
 玉(ぎよく)なりと思ひ幾重にも包みて櫃に入大切に

 して置けり是を知りたる人は大に笑ひけるよし
 今此一冊をつくり私の子孫の為後の重宝
 にも成る事もあらんかと思ひ秘蔵せよとて
 箱に入置事宗人の燕石を美玉におもひ
 しは相似たるもの歟

一吉原開基より凡百余年の事跡聞伝へ及
 ひし彼事此事思い出し/\書記したれは
 前後の次第不都合なる事あらんか彼の浅草
 の年の市には田舎人多く吉原へ入込て賑ふ
 日也是について又思ひ出したは惣して


80
 江戸の町並の繁昌なる勢ひをのへたる教句あ
 り此席に是をしるす
  鐘ひとつ売ぬ日もなく江戸の春 基角
  鬼灯の汰荷(?)を詠むる軒(朝)催ひ 一志
 又御代のおたやかなる事を祝したる教句
 前書
   異類(朝)の古しへ聖の御代には花山に馬を
   放し桃林に手をつなくといふ事有
   今や武湯の春もまた
  花の時上野にねむる乗馬なり 一気

 伝へ聞慶安年中に庄司甚右衛門傾城町
 開基せんと思ひし砌同じ友を招き此事
 いかゝあらんと語りしに冨田屋九郎右衛門といひし
 もの申けるは此事無用なり京大坂にて
 先例は隔別の御当地において
 御免許有へからず唯今遊女屋所々に有て
 遊女に何の不足なる事なし我等家業と
 はいゝなから遊女は好色の翫びものなり傾城
 町は遊興の場所也然れば此事御訴訟申せば
 とて 御公儀様御沙汰に及び


81
 御免許ある時にて傾城町へ参りて遊べと諸人
 に示し給ふに似たり然ればさゝを好む
 者も世間に多くなりて無益成事なるへけ
 れは中々御取上候まし已前に御願申上し
 かど相叶わず此事無用たるへしとや甚右衛門
 かいふやう其方の申所も一理有やうにて方(分)
 量狭き了簡也傾城の不足なるにつき
 傾城町を置るといふにもあらず又場所
 を取立遊女をふやすといふ事にもなし
 先に御訴訟申上し者共は何の了簡も

 なく只一通り其場所を拝段(はいだん:拝領)の御願申上るのみ
 なり当時御江戸御繁栄諸国第一なり然る
 に定りたる傾城町無し故其際限もなく
 て年月を重ねるに遊び所々方々に遊女屋か
 出来なば古来の者は折々衰微し新来の
 遊女屋共か手柄次第にはびこるへし是に任て
 傾城の数も際限なくふへ風流ばそらを好む
 ものも多くなるへし一向に傾城の類ひ御停
 止とあらは是非に及ばず然れ共親より
 有来りし事なれは中々始終は相や


82
 むまし却る不義なる争論訴事たへる事
 有へからず今まで有来る所々の遊女屋共
 不埒なる事多ければ兎角傾城町の場所
 壱ヶ所に御定め有て外に遊女の類ひ無
 く時は世間のためにしかるへき道理なり
 と申けれは山田宗順といひしもの此儀尤也
 と同意し弥御訴訟申上へきに相談相極り
 甚右衛門三ヶ條の義を申立御願ひ申上し
 所に御吟味の上元吉原の境地を元和三年
 に下し給る明暦三年酉秋中新吉原

一甚右衛門か遊女町の事御訴訟の相談人に差加へ
 し岡田九郎右衛門といひし者其節は元誓願寺
 前に居けるか此事を得心せぬも理り也此九郎
 右衛門身代宜敷者にてゆく/\は京へ引込申へき
 覚悟なり然れ共開基の砌一応江戸町へ引越
 寛永五年の頃抱への傾城共余人并家屋
 敷家財迄添久敷召仕たる半三郎といふ
 手代に譲り其身は京長者町へ引込世間に
 いふしもふた屋といふ者になり福優にくらし
 けるとなり九郎右衛門つい其頃三千貫目余の分限


83
 といはれし由手代半三郎曲輪はさくら屋
 とて今に江戸町にあり

   諸国遊女町
 武陽浅草吉原
 京都嶋原
 伏見えびす町(しゆもく町共云)
 同所柳町
 大坂瓢箪町
 奈良鳴川(本辻共云)

 江州 大津 馬場町
 駿河 府中 弥勒
 越前 鶴賀 六間町
 同国 三国 松下
 同国 金庄 新町
 泉州 堺  北高渕町
 同国 同所 南津守
 播州 兵庫 磯の町
 石見 塩泉の津 始町
 佐渡 鮎川 山崎町


84
 摂州 宝 小野町
 佐渡 鞆 蟻鼠町
 藝州 多古の海
 長門 下ノ関 稲荷町
 筑前 転多 柳町
 肥前 長崎 丸山町
 薩州 椛島 田町
 同国 山鹿野
  都合貮拾五ヶ所

寛永の頃傾城に紛らわしき者有世に持はや
 したる宮古お国なといふ歌舞妓の女芝居
 をかまへて狂言尽しの間に風流なる舞を
 舞謡ひ男の真似をして木刀をさし
 種々の物真似をする其相手に男も交り
 狂言物真似したり是のみならず彼歌舞
 妓女は別して金銀を取て遊女と同じ
 く客を引ばさらなる事多かりしゆへ
 内年に歌舞妓の女御停止なり然れ共
 男の狂言尽しは御構いなく芝居を立たり


85
 慶長年中に京都六條河原にて傾城共能を
 勤めし事あり傾城共の能を勤めしはおしは
 れて流れを立るをおもてとして乱舞
 は傾城か余情にてありし此歌舞妓の女は
 狂言物真似所作をおもてにして遊女の勤を
 も相兼たり彼白拍子の類ひに似て風流(俗)
 ばそらに賎しき事古来の白拍子とは
 大におとりたり但しみたりに歌舞妓をあ
 たとして白拍子をよしとするにもあらす
 止事を得すして是をつとならは用

 捨有へきもの歟

   羅山先生の歌舞妓の弁あり全文を略し
   大言を語儘にのふるよし

 今の歌舞妓は古しへの歌舞妓にあらす男は
 女の服を着し女は男の服を着す髪を切男の
 髪のことくになしかたなを横たへ?衣を負
 浅しきうたを唄ひ舞をまひ声かしましく
 男女打交りて謡ひ踊る出雲の国の淫婦
 に九二といふものはじめし是をなす都鄙共
 にこれを持はやす事いふ斗りなし古への


86
 才人学士の名高き人々の娼妓の類ひを愛
 せられしだに君子は誤り給ひしなれは怪し
 むへき事なれ色を好む心をもつて徳を好
 むの心にかなへなは又よからすや戒むへし
 /\今此歌舞妓をはなたすして世には
 びこりもてはやす事は是誰か発明そや
 となり大意斯の如くにし過半能文あり

一慶長五年卯八月歌舞妓座の野郎子供
 御奉行所へ召出され御白洲において悉く
 前髪を剃落し男になる近年町々に
 踊子といふ者時過て彼寛延年中の九二か
 類ひなり歌舞妓の女に紛らして成りし
 所に是又御停止にて漸々やみけり当時
 御政道正しく治教糺明なり爰において
 非民万歳をうたふ治る御代のいさほし
 なり

  此書は新吉原中の町尾張屋太郎兵衛か
  秘し置るを写し侍るもの也

 洞房語園
 

87
即急筆(?)にして所々落字違字抔
可有候間御推覧奉?様

 江都浅草新堀端住
   小池辰五郎写謹

中の偽事しげく又家風の例もさま/\
にてしるすにいとまあらす

 吉原名産
  付りおくり拍子木助六物語
 巻煎餅は此里第一名高き名物なり江戸町
 貮丁目角万屋太郎兵衛工夫しはじむ今の
 竹村伊勢方なり近頃最中の月といふ
 菓子おも製し出すあけや町山屋市右衛門
 製する豆腐に至て極品なり是を山屋
 とうふとて賞翫す其露梅は松屋庄兵衛

 

 

f:id:tiiibikuro:20200506203808j:plain

せんべいを買て押あふ袖たもと友ずれやせん風の竹むら

 

news.livedoor.com

 



88
 手製しはじむ昆布巻は近江や権兵衛
 製し出す漬け菜はすさきや久兵衛製し
 はじむ此五品中の町の名品として今は
 一同に茶屋よりの配り物となりぬ又群玉
 庵のそば切名物なり畳いわし煎豆
 青梅此三品いにしへ女郎屋の名物として
 出す事なりしかいま其送風残りたるは
 江戸町相葉屋半左衛門方なり袖の梅は
 正徳年中天渓といへる隠者ありて
 伏見町に住けるか酒客の為に此くすりを

 製して弘めける世にある袖の梅のかんばんは
 天渓自筆のうつしなり大羽子板は中古
 えひやの対馬といへる女郎寛濶のものに
 て正月中の町にて羽子のこをつきけり
 よつて道中の度々羽子板をもたせける
 夫より後いつれも大羽子板をもたせる事
 になりぬ月見杯は宝永の頃角山口の太夫
 香久山方へ京都嶋原の女郎瓜生野(うりわうの)と
 いへるが客の縁によつて文を遣しける時
 銀にてきせるをこしらへ火皿をつめて


89
 おくりこしけれはかく山返事をつかゆす
 節大さかづきのいとそこのなくごろ/\とせし
 盃をあつらへおきまどわするといふ心にて
 しら菊と銘をつけ京都へおくりける其ころ
 此ひやうばん高かりしころは八月十五日にて
 ありしかは其以後月見に客へ盃をおくる事に
 なりぬ是より前は女郎より月見の送り物
 はなつめに引茶をいれて送りし事
 とぞ助六ひより下駄といふものむかしはなかり
 しか元禄の末御蔵前に何がしとやいへる

 米商人ありて三浦屋四郎兵衛方のあけ巻と
 深くあひてかへ名を助六とよびける其頃男
 伊達はやりて所々にけんくわ口論やむ事
 なかりしもとより助六も男伊達にて快晴
 の時も好んでひくき下駄をはきけり同つき
 湯しま邊に田中三右衛門といふものありてあげ巻
 になづみ度々かよひけれどあげ巻は助六への心中
 につれなかりし此逆恨によりて男伊達を
 かたらひ助六をやみ打にせんとはかる其頃
 髭の無休とて太鼓持あり助六かねて目を


90
 かけし者ゆへ此さたを聞て助六へかくとつげ
 しかば助六其夜は用意してかへるに件
 の悪堂者日本堤に待伏して居けれとも
 助六剛手の者なれは事ともせす大勢を
 さん/\゛打ちちらしぬ此後も数度助六
 けんくわを仕かけ日本堤さわがしかりき其
 時吉原より衣紋坂の傍らへ番所をこしらへ
 又日本堤へも三ヶ所の番所を立夜中往来の
 人を拍子木をうちて送る是送り拍子木
 の初めなり正徳三巳のとし木挽町山村

 長太夫芝居にし太平記あいごの若といふ
 狂言にはじめて此事を取組市川拍筵か
 助六となり大当りを取しとぞかのたいこ
 もちの無休は髭のいきうと名づけ大臣
 の敵役につくりたるは作者のはつめいなり
 右助六ひより下駄もそれより思ひ付て今
 吉原の名物となりぬ

  夜見世すがき付り引け四つの事
 元吉原に夜見世といふ事はなく只昼の
 くちみせをひらき客をまねきける


91
 明暦年中新吉原になりて夜見世を御免
 せられし事前にみへたりその頃吉原にて
 道のちまきのふたもと柳風にふかれてと
 ちらへなびこおもふとのごのかたへなびこよ。など
 いふうたはやりたり此うたの心はよし原はもと
 大橋柳町の女郎やよりはじまりたれはふた
 もとの柳とうたふは柳町の入口の貮本の柳
 をいふその柳を女郎の身のうへにたとへおも
 を男と思はぬ男とたかひに女郎をいどみ
 あわんといふを風によそへたりなさけをうる

 身なれは何方へもなびきがほになるは勤の
 ならひなりしかれ共まことは心の思ふ方へなびき
 たしとねんじたるさまなり又。春の日にいとゆふ
 わけてやなきたたをるはたれ/\ぞ白き馬に
 めしたるとのごよ。などうたふ是は其ころ
 武家の人々馬にのりて吉原へかよふあり
 さまをえいじたりことさら此時は皆しろき色
 をもつて伊達風流とす大小も白づか羽織
 なども白繻子を着用それゆへ馬も白き
 にのりて伊達をなし此里へかよふといふ心


92
 なり此時京都に風呂屋といふもの貮百軒斗
 あり此風呂やにかみあらひ女と名づけて遊女
 のことくなるものをかゝへおき客をまねき
 けりこれも傾城町めんきよありし節こと/\
 くきんせられけるかいまた吉原引かさるまへ
 柳原邊に何がし丹後守殿といへる屋敷の
 門前に名題のふろやあり其頃か年
 の人々此風呂屋へ入りて衣裳を着かへ
 それより大門通りをすぐに吉原へかよふ
 事なりそのすがた白づかの大小に白繻子

 のまき羽織を着しけり是を古中村七三郎
 といふ役者狂言に取組丹前と名づけかの
 丹後殿前より吉原へかよふといふ事を略し
 手丹前といふむかしの狂言にはやりし事
 なり今の中村七三郎先年市村羽左衛門
 方にて古七三郎ついぜんとして丹前
 すかたの所作をせしは昔の送風なり吉
 原にて夜見世をいだしそめけるときか
 の。みちのちまきのふた本柳。といふ歌ならび
 に此。白き馬にめしたるとのこよ。などいふ


93
 うたをうたふあいの手にすがきを引し
 となり其後唄はやみてたゞすがきは
 かり引事になれり又吉原につぎぶし
 といふ名曲なりけるか今はつたわらす今も
 家によつて上るりめりやすなど見世に
 てかたりうたふもあり又夜見世はじめし
 頃の定めに昼は九つより七つまて夜は六つより
 四つ迄にてありしか夜の見世ひけはやき
 ゆへ其節あもひ付て四つの鐘の時は
 拍子木をうたす九つの鐘をあひづに四つの

 いたつらにおもひはかけし桜花  中近江や
 うつろふ色のかねてうそれは   逢坂  
 かいとりのまねして蝶もさくら哉 丁子や長山
 居つゝけの夜着遊はせて桜かな  玉や花此ふ
 木の花にとてもなるなら桜かな  中近江や東人
 うきふしもしはし忘るゝ桜かな  ひしや常友
 空?は木々にやつりてさくら哉  松葉や染之介
 ふりふけは潦にもさくらかな   圭橋
 廊下にて長柄をはたく桜かな   雪弓
 里なれし衣紋付みよ八重桜    筈見


94
 徳初し人や桜のきみかてゝ 
 咲さくら臺あけたる美人かな   翠蘿
 人同じ桜に去年の雪の友     莫民

  かよふ神の事
 かよふ神は道祖神をいふ或ひは常陸
 送祖神(いへのかみ)狭井(さい)神 狭井?(かみ)太(をゝ)神とも称す
 和歌にはたむけの神とよみて大己貴命
 荒縄をいふ又猿田彦命をまつるともいへり
 凡旅行をするもの道祖神に幣をさゝげ

 あるひは草鞋をたむけて旅行のういわざわい
 なからん事を祈願せりすべて女郎の文の
 封しめにかよふ神と書は道祖神のまもち
 ありて文のつゝがなくとゞかん事をいのるため
 なりむかし揚屋尾張や清十郎方にかよふ神
 を勧請せしも此里へ来る遊客性来の節さし
 わりなからん事を祈るゆへとぞ

  朝日如来の事
 むかし恵心僧都朝づとめしたまひしとき
 日のかげ楼間へうつりしに弥陀初来の尊顔


95
 にてありけれは手づからその御すかたをうつし
 きざみたまふよつて朝日如来と名づく此仏
 像もと堀留町何がしか家に代々伝へしを
 ゆへありて新町丸屋甚右衛門方にあり置に七月
 十三日より十五日まて開帳し又十夜中も開帳
 あり

  九郎助稲荷の事
 九郎助稲荷は元吉原町の邊にありしなり
 和銅四年白狐黒狐天より下りけるを黒
 狐はその節千葉九郎助といふ人の地面田

 の畔へ勧請して田畔稲荷とあかむ此後す年
 飢饉うちつゞきける時人々より集り此神へ
 立願せしかは納受ありて年ゆたかになりけり
 是よりいよ/\神威をまし諸願成就せすと
 いふ事なし慶長年中吉原町開基の
 節此地の鎮守とす其時千葉氏跡たへたれは
 所にて九郎助が稲荷と号したり吉原所給
 のとき此田畔いなりもともに新吉原へ引うつし
 すぐに正一位九郎助稲荷大明神とあかめける
 今よし原にてえんむすびの神として立願す


96
 毎年八月朔日より祭礼ありてねり物抔を出し
 夜は所の人々にはかなど思ひ付て見物の人山
 をなす又白狐はしら籏稲荷とて今本(ほん)
 銀(しろかね)町壱丁目に勧請すものなり

 此本世に稀にて漸文政八酉年
 四月下旬今書写者也