仮想空間

趣味の変体仮名

宝永千歳記 巻之壱(コマ3~25下段のみ)

読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554612?tocOpened=1

 

 

(下段を続けて読みます)

3

宝永千歳記序

天下泰平国土安穏にして武運も

長く久かるべきためしには兼てぞ

植し常磐の松も。今一しほの色を

まし。千里(ちさと)の梅のにほひ常よりも

増(まさ)りて。香(かうばし)き神風や世々吹伝(ふきつたへ)て。

今山城の国北野の御廟に跡たれ

御坐(ましま)す。天満大自在天神は。其霊

あらたにわたらせ給ひ。一度(ひとたび)参詣

の輩(ともがら)は納受をたれたまはずと云

事なし。爰に洛陽西山の片邊(かたほとり)に

 

 

4(挿絵)

 

 

5其名を風流伝(つて)之助とて。未(いまだ)三十(みそじ)

にたらざる男ありけり。元氏族も

賎しからず佐々木何がしの嫡孫なれ

ども。都の事繁(しげき)をいとひ。丘樊(きうはん)の水

草清きを好(このみ)て住るにはあらねど。父

四十一の年此伝之助をもふけて。是

俗に謂(いわゆ)る四十二の二つ子なれば。必(かならす)父(ふ)

母に祟(たゝり)有とて。母うみおとすと其

儘此山に捨しを。其邊(へん)の里人哀み

て養育し。今人とは成(なり)ぬ。先祖(せんそう)いかなる

 

氏にて候や。又父母も未此世に候はゞ

一度逢せたび給へと心身(しんじん)をこらし

祈(いのる)事三七日。満ずる夜(よ)の夢に紅(くれない)の

袴に柳うらの衣着たる上郎。端(たん)

厳(ごん)美麗なるが。忽然と来り給ひ。汝

が前世むかし播州宝の津に久しき

花前(くわぜん)といへる傾城なり。誠に遊女の

ならひなれば身には羅綺(らき)をかざり

蘭奢四方に薫じて秋風(しうふう)の名残を

おくる。朝(あした)には鸞鏡(らんけい)に向ひて柳君

黛(まゆずみ)ほそく書て。人の目をよろこば

 

 

6

しむ。夕(ゆふべ)にはなつかしう匂を衣に写

して人の心をまどはし晴たる月に

雲をかくる。此一念にひかれて五百生

の間野狐身(やこしん)を得(うり)此(かく)あさましき境(けう)

害なれども。汝は終に爪をはなたず

髪を切ざる功徳甚(はなはだ)広大なるゆへ

今人間と生れたれ共いにしへ遊女た

りし時。人の咄の腰を折事四十二度

此罪によりて四十二の二つ子と生

彼山に捨られたり。又汝が父母

共に未存命にして都に在(あり)といへ共。

 

必対面せば父子ともに命(めい)終(おはる)べし。

然とも今宝永万歳(ばんぜい)の御代と成

て。国富民豊(くにとみたみゆたか)にして。仁(いつくしみ)の浪は秋津

洲の外に流。恵の陰(かげ)は筑波山の麓

より茂く。渕変じて瀬と為(なり)。砂(いさご)長(ちやうじ)て

巌と為。楽み悲み行易(ゆきかふ)時に。あひに

逢ぬる上は。假(たとへ)罪業深重(ざいごうぢんちう)なりとも

却て。などか善根とならざらん。然らば

汝父母に対面して前生(ぜんじやう)の封(むくひ)を服(?まぬかれ)んと

欲(ほつせ)ば。今日以後(よりのち)黒心(きたなき)心なく丹(きよき)心を以て。清(きよく)

潔く斎(いもほり:いもおり)慎(つゝしみ)て。後我が日本(ひのもと)の御宗廟

 

 

7

天照(てんしやう)太神宮へもふで。此事を祈べし。

云維(こゝにこれ)。宝永にいたつて。神明の加護

あらたなる事。汝しらずや是に依

て。都鄙ともに奇異の思(おもひ)をなし。

男女老若かぎりなく。参詣をなす

中(なか)に。殊更当年に至り。都のわらは

昨日まで。乳房を含しも今日は参

宮の志をなす。是宝永万歳の印と

知べし。其故は。本朝聖賢の御代は。

神武天皇より仁徳。履中(りちう)のころまで。

十七八代の間なり。其後は顕宗。仁賢

 

帝)(てい)など賢主也。本朝の神道。王道

の乱れし始は。蘇我大臣が。守屋を

弑(ころ)し奉り。驕(おごり)を専(もっぱら)にせしかば。天災顕(あらはれ)

て。飢饉疫癘(えきれい)うち続(つゞけ)ど。民を救(すくふ)の謀(はかりこと)

は。なさで。寺塔を建(たて)?(そう:僧?)を供養し。我が

神道を乱る。其孫入鹿(いるか)。逆威を振ひ。

宝祚(ほうそ)を傾んとせしを。中臣の鎌足。是を

誅し。孝徳。天智の帝を立て。蘇我

虐政を悉改て。再(ふたゝび)神道。王道の御代

となれり。然に又聖武。政おこたりて。

 

 

8

正月元日天下安全の御(まつりごと)政も

勤たまはう。光明皇后の宮に御幸

ありて。近臣を召て内遊あり。又

光明皇后の局に。僧ども多(おほく)召集

られて。明暮後生物語。好色の行(おこなひ)

のみにして。神道は申出(いだ)す人も

なし。其風(ふう)を見ならひ給へる孝謙

女皇(によくわう)。銅鏡と云僧を寵愛ありて。天

下の政も此者ひとり行し程に。僧

のみ出頭して。政道は唯坊主に任せ。

百官は位に備りたるまでなり。終(ついに)

 

道鏡を以て。我国の主となさしめ

んとて。和気の清麿(わけのきよまろ)を勅使として

宇佐へ遣し帝位を譲(ゆづる)ねきや否(いなや)と。八

幡宮へ問たまふに。太神(だいじん)則(すなはち)長(たけ)三丈斗(ばかり)

の形を現じ。託(たくし)宣(のたまはく)。我国の天津日嗣(あまつひつき)

は。神代より。代々皇胤(くわういん)の外。臣として

伺(うかゞふ)べきにあらずと云也。清麻呂諂(へつら)は

ず。有の儘に奏聞せしかば。道鏡位に

即(つく)事あたはず。其後桓武天皇

給て。聖武孝謙の虐政をあらため給

神道王法も又興る世と成しに

 

 

9

其後醍醐。村上より政おとろへて。盛(さかん)

なるものは。藤氏(ふぢうぢ)の威勢あらそひと

三井三文興福寺の闘争(いさかひ)と也。夫故に

純友。将門。武衡。貞任が謀逆(ほんぎやく)。たび/\

起て。悪事のみ続(つゞけ)り。されども王

臣共に。仏法一種に。うち傾き。今生

は兎もあれ。後生だに願(ねがはく)ば金仏

に成と心得て身を終(をさめ)政を正(たゞしく)せんと

する人なし。其中に春澄(ずみ)の善縄(よしなわ)愚(ぐ)

父(ふ)菅原の是善(これよし)。三善の清行(みよしのきよゆき)等(とう)の人

人の。我らも共に。毎朝(まいてう)諫奏(かんそう)せしかど

 

忠言(ちうげん)耳にさかひ。正をいへば却て僻(へん)

と思ひ。直(すぐ)をいへば?(まかれり?)とし。王法を尊

めば夫は人天教よ。外典(げてん)よ。現世は

假の浅き事よと利根げに口て

に云人多く。朝廷の御ため。天下の

ためと成べきおしへは。古風もの。異風

ものと。笑(わらい)罵り。終に高明を筑紫に

流(ながし)。中書王を嵯峨に押籠。予を宰府

にながして賢忠をきらふ世となれ

り。仍(よつ)て世の中飢饉して萬民うへ

こゞゆる事天下(あめがした)をなじ。是神道

 

 

10

すたれる故なり。然るに近年神道

専にして。当社へも諸人挙て歩(あゆみ)を運(はこぶ)

もの絶ず。殊に神明を尊祭するに依(よつて)

神力にかなひ。当年伊勢参宮する

もの。幾千万のかぎりなし。みよ/\

今よりのちは。仁徳帝の聖代にも

増るへし。急(いそぎ)汝も勢州にもふて直に

我が日本(ひのもと)の国/\を。あまねく廻(めぐ)り

あるひは青海原の塩の八百道(やおぢ)を渡(わたり)

きは山川萬里(さんせんばんり)を越て。神社仏閣に

まふて且其国々の城下市廛(してん)。田舎(てんぢや)

 

民屋(みんおく)。邊土(へんど)。遠郷(えんきやう)。色里。嶋々所々に。あら

ゆる人の言行善悪を見聞し。重(かさね)て

我前に来り語(かたる)べし丈是を書に筆(ひつ)

して廣く世に鳴らしめばかならず

汝が父母聞およびて尋来り。対面す

る事を得(う)べしとの給ふ御(み)こえに。伝(つて)之

助。夢をさまし。こは有難き御告

かなと。感心肝に銘じつゝ。宝永弐

年初春の頃花の都を旅立て。日本

国中無残(のこりなく)めくり/\て立帰る。老の

波風ゆたかに住る。万民の風俗を。

 

 

11

千歳の後に伝へ。嘉言(かげん)を聴ては是に

習ひ。悪行を見ては是を誡(いまし)めば。身

を修(おさめ)。家を斎(とゝのふる)の方(みち)におひて。未図しも

少(すこしき)補ひ無ばあらずといふ

于時宝永乙酉年6月吉祥日

  洛陽隠士多村氏緑竹軒叙

   栄秀

 

宝永千歳記巻之第一

  天運自然の色里

宝永万歳(ばんぜい)の春をかさね。相生の松。

葉色ゆたかに御代長久の時にむま

れて。恐(おそる)る事なく。悲む事なく。帯

解(とけ)ひろげて。楽しむぞ。実(げに)有難き

ためしならずや。萬の事過にしを

のみ慕(したふ)なるは。人の常なり。ながらへば

又此ごろやしのばれんと読しは。さる

事ながら。本朝も中頃よりの戦国を

聞に国々の騒動。一歳にして。ゆたか

なることなく。西治れば東乱れ。北静(しづ)

 

 

12

まれば南さわがしゝ。家居はやかれて野

原となり。妻子は奪はれて行方(ゆきがた)知ず。

すが/\しき足を。そらにのみして。歩(あるき)

けんこそ。苦しき事に侍(はんべ)らずや。

かゝる世に出あひなば。山野に寒暑

を凌ぎ。路頭に飢渇を忍びけんに。

今聖賢の御代にかなひく。君臣は

礼を重んじ。父子は孝を尽くせば

外戸(ぐわいこ)不閉(とぢす)塗(みちに)不拾(ひろはず)遺(いを)。孔孟(こうもう)。程朱(ていしゆ)の

教(をしへ)にかなひ。直(すぐ)なる中に。めづらしく

も。宝永二年の春。伊勢の国。くし田

川にて。紫ぼうしの色よりおこる。水

 

を濁らし。如来の御影(みかげ)。手ぎはよく

紙(こ)よりで造諸国をめぐる霊性(れいしやう)

といふ者。僧にもあらず。俗にもあ

らず。仏の道口に説(とき)て。心に。おこる

煩悩より。其身を責(せむ)る事此男

に限らず近年町人の身持。古風を

かわり相応よりおこりつよく実(じつ)

なふして偽りおほし。其本は色

よりして。一生。一大事の身をほだ

せり。されば霊性その以前は近江国

甲賀郡(ごほり)にむまれ十三のとし京都(きやうなん)

へ上り。三条室町加賀屋とて大商

 

 

13(挿絵)

 

 

14

人の家に住。年月かさね旧功(きうこう)の徳

によつて。歴々の手代となり。名も

藤兵衛とあらため。器量にこりる発

明より主人もこれに気をゆるし。

金銀の出入または江戸だな勘定

きゝとて毎年此おとこを下しける

に。大分の金銀。そのりん毛(もう)を違(たが)

へず。ゆめにも悪性に身をよせず。

都には住ながら。東西の遊里を知ず

只忠節をつくしぬ。或時この家へ関東

のもさ七八人。たちより。本国へのみ

やけとて。日野加賀もみの地をあら

 

そひ。夫(それ)よ。是よち。値段をきわめ。

壱歩八百。二歩五百。あるひは四十目

一枚に。さあ。おまけなされべいと。関

東なまりも。こわ高に。わめきけ

れど。一時の旦那。これ今すこし付給

へと。言葉にしな付(つけ)。茶のはなが。うせ

ぬ。さきにと手をつつてまけ。つい。四

五百目があきなひ。現銀のきさんじ

又来年も参るべいと。関東ものは帰

ぬ。あとにては手代より合(あい)。扨も隣には

ねぎる奴らと。見せちらかしたる絹(きぬ)

かたづける時。籐兵衛申けるは。これ見

 

 

15

たまへ。最前の加賀一疋。丹後絹に

かへつかわせども。田舎ものゝおろか

さ。ならべてをいても。しらぬが仏と。

傍輩に。みせければいづれも出かし

た。是ははやいしかけ。此加賀と今の

きぬは一疋にて九匁の違(ちがひ)あり。これ

ひんずのもふけなりと。皆々おほ

わらいしてすましぬ。然るに其家の

旦那。折ふし近所より帰られけるに。

手代何心なく。此事をはなしければ。

主人もつての外ふきやうし。それは

あるべきことならず。身を立(たて)。家を治

 

むるは。是皆㚑道地儀のあわれみ。人を

かすめ邪欲をなせば。天又これを悪(にくみ)

たまふ。未(いまだ)間のなきことならば。あとを

したひて其絹かへてつかわすべしと。

四五人に。きぬ壱疋づゝ。もたせてわえk

して尋けれども。終にその行がら

しれざるよしにて。みな/\帰り

ぬ。其後銀子算用して。主人に渡し

けるとき。七匁五分有豆いた。わる

がねといふもおろか。壱分にも

ならぬ銀。その時旦那藤兵衛を

近づけ。此悪銀にてよこしまを悟る

 

 

16

べし。汝きぬをかへんとおもひ。この

悪銀に気がつかず。是人をかすめん

とおもふより身のわざはひ是なり。

梁(りやう)の商人(あきんど)雷(らい)にうたれ。

二冂口月八三(じけいこうぐわつはっさん)の

六字。背(せな)にすわりしを。竪に一点引(ひき)

て見れば。市中用小斗(いちなかにもちゆこますを:市中に小枡を用いる)。其天罰遁れ

がたし。なんじしらずや此外あき人

の品皆ひとしからず。長き物は準縄(ものさし)

あり。大なるは権衡(ちぎ:けんこう)なり。こまかなる

物は。斗舛(ます)有。いたりがたきは算数あ

り。其中に利をむさぼり。物さし

権衡(はかり)。舛のうへに偽(いつわり)をかまへ。あるひは

 

よきものに。あしきをまじへ。又はよきを

見せて。悪(あし)きを替(かへ)わたす。是真(まこと)の

商人にあらず。必わたくしにくらま

すものは冥慮につき。行末久し

からず。此悪銀はなんじに得さする

間。一生身を放さず。是を見るごとに

諸事よこしまをなすべからずと。

藤兵衛にあたへける。かく正道(しやうだう)なる

心より。今三代のすえまで此家の

繁盛。其後藤兵衛此銀を主人仰

の通。不断身をはなさず。守袋に

入置しが。ある時任兵衛用事ありて。

 

17

伏見へ行。かへるさ。いなり茶屋の夕

暮。松井屋といふ家より。無理に

引とめ。こしかけ給へと。ちやたばこの

あいそらしく。しかもきりやうよき

女。坐敷へとの馳走ぶりに。此おとこ

悪心きざし。日外(いつぞや)のわるがね。もし

はまらすればつかひとくと。守袋の

口をとき。しからばちよとあがるべし。

しかし値段しれざるあきないも。

気づかわし。此銀にて茶代を引。つり

は銭にてたまはるへしと。うわとぼけ

に出(いだ)しければ。花車はよろこび。すぐ

 

(挿絵)

 

 

18

さま銭屋へ行けるに。折ふし亭主は留

主にて。内儀そこ/\に銀(かね)をあらため。

七匁五分有と。六百廿四文わたせば。

花車請取かへり。籐兵衛に渡しぬ。

此男おほひによろこび。内二匁を内

儀にわたし。二階座敷へあがりけれど。

酒ごともそこ/\に。若(もし)銭屋より人

も求るかと。大かたに呑(のみ)なし。屏

風立(たつ)るもやめさせければ。此女気の

どくがり。扨は我身をきらはせ給か。

左(さ)やうのお気なら。最前より何とて

あがらせたまふぞや。是非に暫し

 

休ませ給へ。此まゝにてはあいそなしと。

なさけらしきおもざし。藤兵衛心

もいわさならねど。たゞ悪銀が気

にかゝれば。さま/\にゆいなだめ。又か

さねて首尾も有べし。まづおかげ

でかたしけなしと何ともしれぬ心

礼をのべ。門口を出しより。飛がごとく

京都へ帰りぬ。是よりして遊女の

心底。しほらしき物におもひ。ある

ときは友にさそはれ。西嶋(さいとう)に通ひ

けるが。おのづと此道わすれがたし。

次第に里の風儀ならひ。当世の仕

 

 

19

出し小袖に身をかざり。花崎に

そまりしより。三まいがたは飛鳥(ひちやう)の

ごとく。常ならぬ悪性強(つの)りて大分

の引負(おい)。一門眷属よびよせ。或は京都

の彼人袴の数かさねさせ。二年

越のもさく。とて銀にならぬ上は。後

の世の為。ゆるしたまへと。町衆(ちやうしゆ)のわ

びもたし難く。責て悪(にく)さも大かた

ならずと。一家一門きうちを切らせ

終に霜月十九日に一言だにも身に

あてず。加賀屋の内を追出され。涙に

雪の朝あらし。手を吹て是は/\

 

 情を笠に着る椋本(むくもと)

夫(それ)人の身は。吉凶悔吝(きつけうくわいりん)。四つにきわま

る。此中に吉は一つにして凶悔吝の三

つは。皆凶なり。凶事は常におほくして

吉事はすくなき物也。假(たとへ)ば凶事の

根元おほき中に。まづ三つ有。一つ

には瞋恚(しんい)。一つには貪欲。三つには色欲

なり。其もとは心を戒めず。欲(ほしいまゝ)に為(なす)

よりをこれり。踏馬(ふみむま)も走る内には

ふまず。足に暇(いとま)なきゆへなり。つい

立て居る時は。足にいとまあるゆへに

踏なり。人も童稚(とうぢ)の時より。みやづかへ

 

 

20

して其間には。手跡。読書。射礼。剣

術など。稽古し少もいとまなければ。

凶事のおこるべき便(たより)なし。其外の芸

能。国家の用に立とたゝぬと。人の為

に吉(よき)と悪しきの。心得あるべし。日月(じつげつ)

運行。寒暑の往来より。大匠(たいしやう)の大

家を作り。百工の器物(うつわもの)をなるも。知(しら)ぬ

人はいぶかしけれど。各(をの/\)一理ありてうた

がふべくもあらず。近年工夫して仕

出したる重宝。雨夜のたいまつ。摺(すゞり)

火うち。懐中提燈。はやおぼえ石筆(いしふで)。

杖にしかけし遠目がね。是等の工夫は

 

後まても用を達し。すたるまじき

物なり。去程に加賀屋藤兵衛。行べ

きかたもあら男の。涙ながらに都の

町。丸はだかにて悲しや。近江路へと

心ざし。三条の橋へ出ける所に。弟手

代の孫兵衛。あわたゝ敷。追付。小路へ

ともなひ。責てはと存ながら。殊急な

れば用意なし。先は是にて凌(しのぎ)たま

へと。我が下にきし布子と。あわせ帯

までに気を付。金壱歩の心ざし。籐

兵衛涙で手を合(あわせ)。さりとも深き御

情の段。いつの世にかわするべき。追付

 

 

21

国の首尾をつくろひ。御礼を申べし

と。互に涙の枝折(えだおり)。そも/\この男

藤兵衛に志をなすいわれ有。先年

かれが父丹波の戸倉にて。田地をなが

し。すでに路頭に立べき時。わが子を

頼む杖にすがりて。京都へ来り。

金三両の無心。是なくては所の住い

成がたしと。いとしや親の心根。いつわり

のなきとはしれど。今二両たらざる

ゆへ。もしやと藤兵衛にはなしければ。

幸それ程。用意ありと。金弐両取

かへけるにぞ。まづ親のねがいをかなへ

 

此時の嬉しさ今も忘ず。其金は戻(もどし)

ながら。恩をおくるは此時と。その志を

なしぬ。扨藤兵衛は近江路へと出(いで)けるが。

我古里にも頼なしと。夫より関に

行(ゆき)。過にし江戸下り定宿の下女に。

しるべあるゆへ尋ければ。今は親里椋(むく)

本(もと)と聞より。いとゞ便なく。思案の虫と

談合しても。落着べき方(かた)もなければ。

是非なく椋本に行。近所にて様子を

聞に。未(いまだ)縁にもつかぬよし。少は是に

色をなをし。衣紋つくろひ其家に

尋ければ。吉(よし)はしり出対面して。扨も

 

 

22

お久し。まづ此方(こなた)へと内に入(いれ)。母のおや

にも子細を咄。さて此度はいかなる事

に御下りと。問につらさの始終(はじめをはり)残ら

ず語りければ。此女頼母敷其段はお心

安く。御国本の首尾よきまでは。此家

に止(とゞま)り給へと。母ともに合点(かつてん)して。此家

に身を留(とめ)。おのづと夫婦の縁を結び

ぬ。是をおもふに人間一生。浮沈(うきしづみ)はしれ

がたし。我身体(しんだい)の障(さはり)にならずは。随

分なさけを尽すべし。此藤兵衛も

都より丸裸にて来りなば。よも

此女。合点(がてん)はせまじ。落(をち)めの時。恩をお

 

(挿絵)

 

 

23

くられ。又此家に来しことも。是昔の

恩ぞかし。是より当兵衛身を懲(こら)し。

菅(すげ)を作(つくり)て営(いとなみ)となし。津(つ)松坂(まつざか)へ売行(ゆけ)ば。

女は内にて布を織(をり)。あるひは菅の笠を

縫(ぬい)て。朝夕の煙立のぼる窓の内に

烈き風雨を凌ぎ。夏は猶菅菰(すがごも)の

軒ひさし家居。炎暑にたへかね。暮(くる)

れば蚊遣(かやり)火の煙(けふり)にいぶせく汗のみ。

かきて。柳陰(かげ)の清水さへ貧家(ひんか)へとぼ

しく。谷水を汲来り茶を煮て。夫

婦たのしみけるも。世に有人の琴

琵琶。和斉に心をよせ。花よ紅葉(もみぢ)よ

 

月雪(ゆき)の詠にあかぬ恋種(こいぐさ)の。外(ほか)なく一生

淫酒に暮させ給も。心は同し浮世の

月。清(さへる)と曇(くもる)二つの中に。楽(たのしみ)は貧家に

ありと。宗就(そうしう)の名言。真なるかな。世の

中のありさま。つら/\おもんみるに。富(とめ)る

人の財宝つきて後は交りも疎(うとく)なれり。

又世に有人艶女をもて親しむに。齢(よわひ)か

たぶき容(かたち)醜(みにくゝ)なれば。寵愛おとろふ習(ならい)

なり。此ゆへに嬖女不敞席(へいじよはむしろをやぶかず)。寵臣不

敞軒(てうしんはくるまをやふかず)といへり。爰を以て女病に臥時は。

男に其姿をま見えざる事。いにしへ

より伝(つたへ)り。去程に藤兵衛都を出し

 

 

24

其時より。昨日けふ暮(くれ)。はや三年の月

日。石の上にも住かひ有て。世たい道

具も鍋釜の底温りて。五年めの春

古郷(ふるさと)甲賀村。親本(おやもと)より当兵衛方へ

下人を遣し。子細は此者に聞急(いそぎ)参る

べきよし。先(まづ)使(つかひ)を内に入やうすを聞(きく)に。

去年より親父様御気色あしく。御(をん)

悩(なやみ)候所に。当春(とうしゆん)に成(なり)もつての外。元気

おとらせ給に付。跡式の儀御弟(をとゝ)十蔵(ぞう)

様へ。大形(おほかた)極(きわま)り候所に。小松村の。おぢご様

おまへの事を。さま/\と能(よき)様に取なし

あそばし。もはや塩風あたり給へは。御

 

心も直るべし。殊更惣領のことなれば。

藤兵衛ならで跡式を知(しる)者なし。又

弟(おとをと)十蔵は。其(それがし)養子に致(いたす)べしと。此事も

埒明(らちあき)。家財不残(のこらず)おまへの丸取(まるどり)。いそぎ

御越と申せは籐兵衛夢の心地して。女

房にも悦ばせ。此程御身の情ゆへ。今

跡式も知事なれば。母ご諸共あの方(ほう)

へつれ行。奥様の字を付さすことゝ。安堵

さすれば此女おとなしく。年月の御

情(なさけ)真(まこと)にて候はゝ。右之(とにも)右之(かくにも)母身の上を

頼上(たのみあげ)候。まづ父ご様御いたわり候よし

片時(へんし)も早く行たまへと。衣紋作らせ

 

 

25

心よく見立ける。夫より当兵衛生国に

帰り。親子対面の上。勘気赦され跡式

不残請取て後。父は終に過行ぬ。其のち

藤兵衛昔を忘(わすれ)身の奢(をごり)大形(おほかた)ならず。并(ならび)

の村。岡野より若(わかき)女を迎取。前の女に

暇(いとま)を遣し。情を忘し心底より。万事

悔吝多(おほく)。山公事(くじ)に非道をたくみ。隠田(をんでん)

の貪欲あらはれ。親の譲(ゆづり)を吹流(ふきながし)。又着(き)の

まゝに此村をおくられ。富士見る雪に

身をひたし。東(あづま)のかたへ行すえも。なを

おもひやられき

宝永千歳記巻之第一終