仮想空間

趣味の変体仮名

仮名手本忠臣蔵 大序

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     イ14-00002-179

 

仮名手本忠臣蔵 

大序(鶴岡兜改めの段

嘉肴(かこう)有りといへども食せざれば其味わいを知らずぞと 国治って
よき武士の忠も武勇もかくるヽに。たとへば星の昼見へ
ず夜は乱れて現はるゝ。例(ためし)を爰に仮名書の 太平の
代(よ)の政 頃は暦応元年二月下旬。足利将軍尊氏公新田
義貞を討ち亡ぼし。京都に御所を構へ徳風四方(よも)に普く。万民(ばんみん)草の
ごとくにてなびき。従ふ御威勢。国に羽をのす靍が岡八幡宮
御造営成就し。御代参として御舎弟足利左兵衛督(のかみ)直義(ただよし)公

鎌倉に下着なりければ。在鎌倉の執事高(こうの)武蔵守
師直御膝元に人を見下す権柄(けんぺい)眼(まなこ)御馳走の役人は桃井
播磨守が弟若狭助安近。伯州の城主塩冶判官高定。
馬場先に幕打ち廻し威儀を正して相詰むる。直義仰せ出ださるゝは
いかに師直。此唐櫃(からひつ)に入れ置きしは。兄尊氏に亡ぼされし新田義貞
後醍醐の天皇が給わって着せし兜。敵ながらも義貞は清和
源氏の嫡流。着捨ての兜といひながら。其儘にも打置かれず。
当社の御蔵に納むる条其の心得有るべしとの厳命なりと宣(のたま)へば
武蔵の守承り是は思いも寄らざる御事。新田が清和の末(すえ)まり迚

着せし兜を尊敬(そんきょう)せば。御籏下の大小名清和源氏はいくらも有る。奉納
の義然るべからず候と遠慮もなく言上す。イヤ左様にては候まじ。此の
若狭助が存ずるは。是は全く尊氏公の御計略。新田に徒党の討ち漏ら
され御仁徳を感心し。改めずして降参さする御方便(てだて)と存じ奉れば。
無用との御評議卒爾之(なり)と。いはせても果てず。イヤア師直向って卒爾
とは出過ぎたり。義貞討死したる時は大わらわ。死骸の傍に落ち散ったる
兜の数は四十七。ぢれがぢれ共見しらぬ兜。そうで有ろうと思ふのを。奉納した
其の後でそふでなければ大きな恥なま若輩な形(なり)をしてお尋ねもなき
評議。すっこんでお居やれと御前よきまゝ出る儘に杭共思はぬ詞の

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大槌。打ち込まれてせき立つ色目塩冶引取って。コハ御尤も成る御評議ながら。
桃井殿の申さるゝも納まる代の軍法。是以て捨てられず。双方全き直義
公の御賢慮仰ぎ奉ると。申し上げければ御機嫌有り。ホヽ左いわんと思ひし故。
所存有って塩冶が婦妻(ふさい)を召連れよと云付けし。是へ招けと有りければ。
はっと答への程もなく。馬場の白砂素足にて裾で庭掃く裲(うちかけ)は。神の
御前の玉はゞき玉も欺く薄化粧。塩冶が妻のかほよ御前遥かさがって
畏まる。女好きの師直其儘声かけ。塩冶殿の御内宝かほよ殿。最前より
嘸待ち遠大義/\。御前のお召近ふ/\と取り持ち顔。直義御らんじ。召出
事外ならず。往(いんじ)元弘の乱れに。後醍醐帝都にて召れし兜を。義貞

に給はったれば。最後の時に着つらん事疑ひなけれ共。其兜を
誰有って見しる人外になし。其頃ハ塩冶が妻。十二の内侍の其内にて。
兵庫司(つかさ)の女房なりと聞及ぶ。嘸見知りあらんず。覚え有らば兜の本阿
弥。目利き/\と女(あま)には。厳命さへも和(やわ)らかに。お受け申すも又なよやか。冥加
に余る君の仰(おうしょう)夫(それ)こそは私が。明け暮れ手馴れし御着の兜義貞殿拝領
にて。蘭奢待といふ名香を添へて給はる。御取次は則かほよ。其時の勅答
には。人とは一代名は末代。すは討死せん時。此蘭奢待を思ふ儘。内かぶとに
炊しめ着るならば。鬢の髪に香を留て。名香かほる首取りしと云ふもの
あらば。義貞が最後と思し召されよとの。詞はよもや違ふまじと申上げたる

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口元に。下心ある師直は小鼻いからし聞き居たる。直義くはしく聞えし召。
ヲヽ詳らか成るかほよが返答。さあらんと思ひし故。落散ったる兜四十七。此唐
櫃に入置きたり。見分させよと御上意の下侍。かゞむる腰の海老錠(えびじょう)を
明くる間遅しと取り出だすを。おめず臆せず立寄って。見れば所も。名におふ
鎌倉山の星兜。とっぱい顔しし顔。扨指物(さしもの)は家との。流儀/\に寄ぞ
かし。或いは直平(ちょっぺい)筋兜。錣(しころ)のなきは。弓の為。其主々の好み迚数々多き
其の中にも。五枚兜の龍頭(たつかしら)ぞといはぬ其内に。ぱっとかほりし名香は。
かほより馴し義貞の兜にて御座候と指し出だせば。左様さらめと一決し塩冶
桃井(もものい)両人は。宝蔵に納むべし。こなたへ来たれと御座を立ち。かほよにお暇給はりて

だんかつらを過ぎ給えば。塩冶桃井両人も打ち連れ「てこそ入りにける。(恋歌の段)後にかほよは
つきほなく。師直様は今暫し。御苦労ながらお役目を。お仕舞有っておしづかに
お暇(いとま)の出た此かほよ。長居は恐れおさらばと。立上がる袖摺寄ってじっとひかへ
コレまあお待ち給へ。けふの御用仕舞次第。其元へ推参してお目にかける
物が有る。幸いのよい所召出された直義公は我が為の結ぶの神。御存(ごぞんじ)のごとく。我ら
哥道に心を寄せ。吉田の兼好を師範と頼み日々の状通(じょうつう)其元へ届けられよと
問合せの書状。いかにもとのお返事は。口上でも苦しうないと。袂から袂へ入る結び文。
顔に似合わぬ様(さま)参る武蔵鑑と書いたるを。見るよりはっと思へ共。はしたなう
恥しめては却って夫の名の出る事。持帰って夫に見せふか。いや/\夫(それ)までは

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挿絵

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塩冶憎しと思ふ心から怪我過ちにもならふと。物をも云はず投返す。
人に見せじと手に取上げ。戻すさへ手にふれたかと思ふぞ。我が文ながら
捨ても置れず。くどふは云わぬ。よい返事聞迄は。くどいて/\くどき抜く。天下
を立ふとふせふとも儘な師直塩冶を生けふと殺そふ共。かほよの心たった
一つ何とそふでは有るまいかと。聞くにかほよが返答も。涙ぎみたる斗りなり。後から
来合す若狭助。例の非道と見て取る気転。かほよ殿まだ退出なされぬか。
お暇出て隙(ひま)どるは。却って上への恐れ早やお帰りと追っ立てれば。きゃつ扨はけどりし
と。弱味をくはぬ高師直。ヤア又してもいわれぬ出過。立ってよければ身が
立たす。此度の役目首尾よう勤めさせられよと。塩冶が内証かほよの頼み。

そうなくては叶はぬ筈。大名でさへあの通。小身者に捨て知行誰(た)がかげ
て取らす。師直が口一つで五器提(さげ)ふも知れぬあぶない身代。までも武士と
思ふじゃ迄と。邪魔の返報にくて口くはっとせき立つ若狭助。刀の鯉口
砕くる程握り詰めは詰めたれ共。神前なり御前なりと一旦の堪忍も。今一云(いちごん)が生き死
の。詞の先手還御ぞと。御先を払う声々に詮方なくも期(ご)を延す。無念
は胸に忘られず。悪事さかって運強く切れぬ高師直を。あすの
我が身の敵とも。忘らぬ塩冶が後押へ。直義公は悠々と歩御(ほぎょ)成り給ふ
御威勢。人の兜の龍頭御蔵(みくら)に入る数々も。四十七字のいろは分け
かなの兜を和らげて。兜頭巾のほころびぬ国の掟ぞ 「久かたの

 

 二段目 桃井館の段 につづく