仮想空間

趣味の変体仮名

近江源氏先陣館 第六

 

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      ニ10-01036


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   第六
所の名さへ醒井(さめがい)といへど朝夕酔ふして 酒手に諸式諸道具迄酒屋へ かき出す駕
舁有り 名は四斗兵衛が内一ぱい ふんぞり返る高枕 傍に女房が賃仕事 小遣だけ
をつむぎ出す ぶんぶ車も世渡りも 廻り兼てぞ見へにける 四斗兵衛は大欠身 中さ
すつて起上り エゝ耳のはたでぶう/\/\と あつたら夢を醒しくさつた 目覚しに一ぱいせふ 一走り
いて買てこいと なら漬くさいおくびしながら まだ呑たがるいげちな上戸 女房仕事の手を
とゞめ ヲゝたつた今其徳利を呑ほして又かいな 買にいこにももふ値がござんせぬ 銭が

なかおのれがわんぼうぶち殺して 買ふてこいと無理邪も男の権柄 サアわしが一重は惜しま
ねど 其様に呑しやんしては 身の為に成まい ちつと嗜んだがよいわいな 又男の咽じめ
しおるがな おのれ食は喰はいでも 酒が呑まずに居られる物か 小言いはずと買ふてう
せふ 行ぬかい コリヤ頼む どふぞ一ぱい呑しておくれと 猫撫声も呑たさの 余りの事に女
房は 呆れて詞なかりけり 折から表をひよか/\と通り過るやつこらさ 四斗兵衛見るより
とんで出 申/\可内殿 詮平殿申/\と呼かけられて立戻り 今呼かけたはお身か ハイ私でござります
私だといふてそさまは誰だ 誰じやとはよそ/\しい 扨々先日はいかい御馳走に預つて 忝ふご


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ざります マア/\おはいりなされませと いはれて合点の行ぬ奴 無理に伴ひ内に入 夫からちよつと
お礼に参らふと存じたれど びんぼ隙なしでお礼さへ延引 女房共あなたへようお礼申してくれ
此中あなたで結構な料理をふる廻れ 其上結構な御酒をしいられ 夫は/\近年の
御馳走 お礼申せ/\とめつたむせうに悦べど 根から覚のない奴 イヤこれさそりや何の事だ おらは
お手前に何にも振廻た覚へないぞ ハテ扨物覚の悪い あれ程ふる廻ふておいて エゝこりや其
振廻返しでもせふかとお辞儀じやな イヤモ御らふじます体なれば 振廻がへし迚は得致さぬが
御酒は一つ上ませふかい又こちの嬶が悪いくせで 人様に振廻れて居る事がきつい嫌ひ かゝが心休

じや一つ上つて下さりませ かゝ一走り酒買ておじやらぬかといはれていや共客の手前 ふせう/\゛に女
房は徳利さげて出て行 奴は猶もふしぎな頬付 おらに酒呑すとはどふやら嬉しい事だんべい
が 振廻つたなどゝはびやくらい覚のない事共 コリヤ酒の筒もたせだないかよ エゝうまいわろ
じやわいの 何のあり様に酒一ぱい振廻れた事はなけれど あんまりかゝめが呑さぬ故 かう
いふ方便(てだて)をめぐらしたはあいつに酒買にやらふばつかり ハア夫レでよめた こりやおらを餅の形で
はない酒の形にしたのだな 夫レ程に呑たがるお手前も呑助だな 呑助の段か名さへ四斗
兵衛 何だ四斗兵衛えらい名だな 是も初めは一斗兵衛で有たれど 段々呑上るに付き


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二斗兵衛と立身し 三斗兵衛と出世し 追付薦かぶり迄呑上るといふ心で 今の
名は四斗兵衛 何とえらい呑助で有ふがの こりやきつい 一斗兵衛から四斗兵衛迄
の立身 其位では今の間に 五斗兵衛と名を万天に上げるで有べい エあやかり者めと
咄の内 徳利ぶら/\女房のおまき イヤ待兼山のほとゝぎす 鳴く音はほぞんかけ徳利 客
人からと差出せば酒は有ても肴が有まい 奴様への御馳走に 湯奴成りとして上ふとお
まきは勝手へ入にけり 湯奴とは忝い 出来る迄一ばいせふかい エゝ此わろも近がつえ そんなら
夫レからお初めなされエ忝いと茶碗引受けどぶ/\/\ 一口二口目口をしはめ エゝ酒じやないこ

りや水だ 何しや水じやと茶碗に移し ほんに水しや コリヤ男をやり仕事にかけおつたな
何と一つ上つたか 此手でさい/\こちの人に 衒られた振廻がへしの御馳走 奴様よぶ上つて下
さんしたと 云れて月夜にかま髭奴 テモむごいめに合したな コリヤ湯奴じやない水奴
だ エゝあたぶの悪いとtweet/\立帰る 引違ふてくる男 平樽片手に肴籠 申ちよつと
物が尋たふござります 何所ぞ爰らに堺屋の三右衛門様といふのはござりませぬかと 聞
て女房が イエ/\爰らにそんなお人はござんせぬ ハアゝ何所やら此邊りじやと聞たが そん
なら外を尋て見ませふと 行く酒樽に目の付く四斗兵衛 コレ/\待たしやれ こなた其樽肴


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とこへ持て行のじや サア今尋る堺屋の三右衛門様へ アノ其酒をやるのか よし/\ コレ其堺屋の
三右衛門といふは爰じやわいの エゝそんなら内かたでござりますか 爰共/\則三右衛門といふはおれ
しや 是はしたり 左様ならあなたが聟様でござりますか 媒酌(なかうど)らうそくや善兵衛申します 追付嫁御様
お越でござります 是は少分ながら聟様へ嫁御のお土産でごさりますと 樽と肴を指出せば女房
恟り コレ/\麁相なそんな事はこつちに覚は シイ/\ エゝすりや是か嫁御の持参か コレハ/\御叮嚀な 女夫
之中に気をはらひてもよい事を 祝言の盃は後程 先手付に一ぱい致さふと 取出す茶碗
コレめつどふな 其酒呑で嫁御とやらが爰へ見へたら どふせふと思ふて ハテどふせうのかふせふのと

高が女房に持ちやえいじやないか アノわしといふ女房の有る上に ヲゝ酒さへ持て来¥りや幾人(たり)て
女房にする 酒(さか)戻しはせぬ物じやと 茶碗についでぐつと一呑 アレ/\嫁御かもふ爰へと
いふ間表に風かほる 二八の花の振の袖 町屋に有ぬふつさき羽織 大小の拵へも理かたを
好む立派の侍 誰そ案内頼みたしと 音なふ声におまきかむつと 門違への嫁御様 あたよふお出
なされたと つぶやく女房四斗兵衛は 酒が仲人の俄聟是へ/\に打通る なみ/\ならぬ其勿体
ヤアお前は兄様 コレ/\私の縁は縁 今日是へ参つたは 四斗兵衛殿へ折入て頼み度子細有て 嫁
と名付し此御方は 鎌倉の大将北条家の御息女 頼家公へ縁邊を取結びし所 御若気迚


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三浦之介にわりなき恋路 京鎌倉和睦の種と思ひし事 却て破れの端と成り 時姫
の首討て渡せと京都よりの難題 時政公も不義の娘 親子の縁切たりと鎌倉へも
入れられず 御身一つの御難儀は 此片岡が一心にせまり 様々思慮を廻らせど 何を云ても過急
の沙汰 先御姿を隠し置き其上事を計らん為 魂を見届けてお預け申す四斗兵衛殿 くれ/\頼み存る
と余義なき体におまきが悦び 親兄の赦しもないに我儘な男撰み 憎いやつ不義者と
お手付にあふ迚も無理とは思はぬ身の徒 悔みは千万返らぬ昔 其お叱りもなふしんみのお
頼み お気遣ひ遊ばすなと 申したけれど気の毒は酒故心てん/\する夫の気質 コリヤやい

/\ 二言めには酒々と 男を打込むさいまぐれめ 魂を見込でと有からは いかにも四斗兵衛
命にかけておかくまひ申しませふ イヤ合点が行ぬ 其気ならよけれ共 酒呑しやんすと忽返る
お前の心 ハテおかくまひ申す内は何年でも禁酒/\ ハテかくまひ果(おほ)せたら 其時褒美に四斗樽
四五てう マア夫迄は嗅ぎもかゞぬ気 ヲゝ出かさしやんした/\ お前さへ其心ならアイ兄様 いつ迄成とお
かくまひ申ませふ 其かはりに夫の身の上 宜しう頼上ますと 夫婦が詞に片岡悦び 妹が
縁につれ姫をかくまひくれられふとは 町人ながら頼もしき心底 首尾よく致さば妹諸共 鎌
倉へ同道致し抜群の知行取侍に取持致さん そんならアノこちの人を 侍にして下さんすか コレ


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悦ばしやんせ 知行取にするといな おつとよし/\ 知行取に成たら嬶よ 酒買に行も乗物に乗せ
てやるぞ アレまだそんな事斗 夫の出世もお姫様 よふお出遊ばして下さりましたと追従も
夫思ひとしられたり 時姫も顔を上 ふしぎの縁で夫婦の衆世話に成る身は蜉蝣の 有るかなき
かのうき命 よきにと斗得云さし 顔さし入れる懐の内や涙の渕ならん 片岡座を立ち夫婦に向ひ 両人
に預ける事此上の安堵なし 必人にけどられぬ様随分心を付られよ イヤモ此四斗
兵衛が預るからはゆつくりと 通し駕に乗た様に思ふてござりませ 是は/\忝い事に寄らば引ッかへして
お迎ひに ハテ御念に及ばぬ御勝手次第 然らばお暇おさらばと 姫にも礼儀片岡は元来し「道へ立帰る

跡に夫婦が気もいそ/\ コリヤ嬶よ きつう競(きをひ)口がよふ成てきたはい コリヤまあちつと
お神酒でも上ぬかい アノたつた今禁酒じやといふて最かいの ほんにな其禁酒を
とんと忘れた程にのハゝゝゝゝ したが呑祐付けた酒呑ずにいたら 気がつきてたまるまい イヤ
おれが気のつきより お姫様がア嘸御退屈にござりましよ ソレお慰みに酒の粕なと
買て来てしんぜぬかいの ヲゝ嗜ましやんせ 何のあなたへそんな物 御不自由も暫し
の中 やんがてあなたの思し召 恋人様に逢坂山の玄及(さねかづら)人に尋てついお出てゞござ
りましよといさめ申せば 時姫も よしなき恋にからまれて 我身斗か片岡に 苦


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労かけるも自故 夫婦の手前恥しと顔は照葉に置く露の袖にひたせる有様に お
まきも詞涙ぐみ 暫し諾(いらへ)もなかりけり 折から来たる塩売が上下ため付け酒樽を 肩に
ぶら/\足音の 中に若しやとおまきが気転誰(たが)見咎めても大事のお身 見苦しけれど
奥の間へと 女房に誘はれ しづ/\立て入給ふ 表に塩屋がとんきよ声 駕籠舁
の四斗兵衛殿とは爰でごんすかと ずつと這入て顔と顔 ヲゝこなさんが四斗兵衛殿かい 終
に逢うた事も 又近付きでも 内義様は留主でごんすか アゝ嬶は内に居ますが 貴
様マアとつからござつた イヤおりや塩売の長蔵といふ者でごんすが アゝ塩商売も身の

廻りにはり込で 合こつちやこんせぬはいの 夫レで望姓(もとで)の入らぬ竹輿舁がしたさに
弟子に成に来やんしたマア近付きの為少分ながら此一樽 寝酒に呑で下され
と 酒樽直せばにつこり笑ひ顔 ハゝゝゝゝこりや忝い 酒さへ貰へば何所からでもよふござつた
したが竹輿舁の弟子入に上下とは アゝ裸で茶の湯に行く裳じやの そしてこ
りやきつい気のはり様じや が是も又水じやないかや ハテそんなじやない 小半(こなから)酒や
八文酒呑付けた口には ちつと重ふて呑にくからふ  次酒(なみさ)でもないこりや鎌倉山 ヤ
何と サア鎌倉山といふ大切な名酒じや程に ヘゝ味あふて呑で貰ひましよ


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かい ムゝムン呑んましよ いかにしてもいひやうが面白い 又此四斗兵衛が呑からは 鎌倉山
でござらふが 富士の山でござらふが 譬日本国でもコレ此茶碗に引受て いでと
思はゞぐつと一呑 マア試みに 一ばい致そと樽の 口からどふ/\/\ お辞宜なしに下される
と引受/\つゞけ呑み こりや見事 さらばお魚仕らふと 藁苞といて金作(こがねづくり) 太刀
魚の作物粗末ながらと指出せば ムゝこりやお肴が肉過て 我等ちつと給(たねべ)にくい
此肴はマアお預け申そふかい イヤお辞宜には及ばぬ 太刀魚よりはコレ此鑓の鋩(きっさき)噛み吩(こなし)
た歯ぶしの丈夫 遖四海の軍師 サ酔狂人と見極めてのお肴 受てすつはり切て

もらひたい ムゝ切れとは何を 時姫の首 ヤ たつた今かくまはれた時姫 其首
貰ひたい ガよもや貴様得切まいの ソリヤモ何より心安い事 切てやろ/\
何のおれが首じやなし 人の首の一つや二つ 望なら目の前でと又引受て こぶ/\/\
然らば肴も ハテ志じや戴こかい 時姫の首 夫レも合点切てやろと 初めの心酒故
に 打つてかはつた詞詰 一曲者としられたり 始終一間に聞居る女房走り出 コレ四斗
兵衛殿 兄様に詞つがふたこなたの出世 知行取になる事も酒でわするゝ
たはいなし いかに酒に酔た迚 お姫様の首切とはあんまりな人でなし コレそこな人 酒


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の酔を相手にせずと とつとゝ逝でもらひましよと声ふるはして腹立女房 夫は
酒に回らぬ舌つき ヤイ/\ゝそげめ 知行/\とぬかすが何の五万石や十万石 此酒
にかへらるゝ物かい 夫レで姫の首討てやるが ナゝゝ何とした ムゝすりやどふ有てもお姫様
を切る気じやの ヲゝ切る それ聞たらもふ爰には置きまされぬ わしが供して兄様へ手
渡しすると 一間へかけ入かい/\゛しく 姫の手を取り立出る 尽きせぬ縁か見合す顔 ノウ
なつかしや恋しやと立寄る姫を抜付けに首は前にぞ落にけり ハアゝはつとおまきが
気も半乱 塩売つゝ立ヲゝ 遖四斗兵衛出かされたりと云捨ててこそかけり行

跡に女房が声を上げ扨も/\いたはしや お命を助ふ為心を砕いて兄様が 爰迄預け
に見へた物 其時難面(つれなふ)預からずばかふいふ事は出来まい物 仏頼んで地獄の牛頭
馬頭 若し今ににて兄様がお迎ひに見へたらば わしや言訳がないわいの いつそ殺して/\
と 夫に取付きしがみ付き恨み嘆けば ころりとこけ 前後もしらぬ高鼾 斯く共しらず片
岡が礼義の上下折目を糺し 御迎ひの乗物つらせ悠々と戸口に佇み ヤア家
来共 云付置きし物此家へ持参し 案内せよと詞につれ 衣服大小白臺に かゝやく
兜は龍頭傍り狭しとならべ置く 片岡しづ/\内に入り 誠に雷(らい)の落くる急難 事故


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なく相済みし故 早速姫の御迎ひに参上せり 是と申も四斗兵衛殿 御かくまい
下されし故 助かるまじき姫の命助りし命の親 直ぐに鎌倉へ同道致し時政公へ
御目見へ 契約の通り只今より武士に取持つ印の音物(いんもつ)御受納有て姫諸共 御出達
下さらば此上の悦びなしと 慇懃に述ければ 女房有るにもあられぬ思ひ
兄が脇指抜取て自害と見ゆるを片岡押へて ハテ心得ぬ此有様と 刃物もぎ
取り眼を配り ヤこりや是時姫君の御死骸 何者が手にかけし アゝしなしたり/\と 歯を
噬(くひしば)る怒りの面色 妹が行跡(ふるまひ)といひ 扨は四斗兵衛めが所為(しわざ)よな 下郎め

主君の敵 一歩(ぶ)ためしと切付る 心得むつくと起上れば いらつて切込む刀は稲妻 こ
なたの早足(さそく)は飛鳥のかけり 勢ひ雲に龍頭の 兜を片手に引つかみ一間をさして
かけ込だり ヤア比怯者逃る迚逃さふかと つゞいてかけ行く向ふに妹 ヲゝお腹立は理り至極
酒故乱るゝ心を知り かくまふたは私が科 夫よりマア先へ私を殺して下さんせ そふ
ばい中は奥へはやらぬ ヤア邪魔ひろぐなと引ばりのけ かけ行く鐺に又取付 やらじ
放せとあらそふ最中 表の方に大音上 江州醒ヶ井の住人 和田兵衛秀盛殿
御用意よくば坂本の城へ御入城 三浦之介義村御迎ひに伺公せりと 呼はる声は


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以前の塩売 始めには似ぬ勇士の出で立 せきにせいたる片岡も様子 いかゞと猶予(ためらい)いる
女房不思議立向ひ 坂本の城へ誘なはんとは いつ味方させいつの契約 殊には
隠す夫の本名 和田兵衛秀盛とは ホゝ陳平韓信が膓をさぐり 市人に姿
をやつし隠されても 美名は四海にかんばしく 宇治の方の仰を受け 何卒して
味方に招き 雄の釼を授けんと 姿をやつし徘徊すれ共 元来(もとより)面体見知らぬ某 いかゞと
心を砕く中 中山道にて不思議に出合い 我姓名を印したる手鑓をもつてためせし手練 和田
兵衛ならで外に及ばぬ稀代の手の中 何卒味方に頼んと思へど手寄る術(てだて)なく いかゞと

案じる時も時 時姫君をかくまはれし是幸いと此家に来り 首討て渡されよと渡せし
釼が則雄の釼 我心を推量有しか 事故なく受られしは 味方に加はる印のわり印
此上は片時も早く 打立給へ御供せんと高らかに呼はつたり 片岡聞より猶もせき立
ヤア京鎌倉と引別るれば 我は鎌倉時政方 京方のやつ原一人も生け置かれず
其上眼前姫の仇 いづく迄もとかけ行く一間 隔ての戸障子踏みひらけば 内に四斗兵衛
悠々と どてらにかはる肌着の小具足 唐縫したる陣羽織に十王頭の小手
脚(すね)当 太刀と兜を両の手に 床几にかゝる有様は実に 百万騎の軍帥と骨柄


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ゆゝ敷見へにけり 和田兵衛兜を座前に直し いかに片岡 時姫の身に替り殺されし
其娘は 定めて貴様の息女ならんいたはしさよと悔みの詞 ムゝすりや某が娘
と知て ホゝゝ敵の気を見て士卒をつかふ此和田兵衛 いはんや一人の女童 いか程に偽
はれば迚 親子の親しみ上下の人相 一目にも見違ゆべきか 頼家公に縁邊は
切れたれ共 不義の科有る時姫君 夫レ故娘を身がはりとし時姫の心の儘三浦の介に添
せんと心を砕く片岡殿 其忠義を感じ入り 不便ながら殺害致せば 時姫といふ名はきへ
て 今は憚る所なし 御迎ひの乗物に 忍びまします時姫君 早く是へと和田

兵衛が 詞に片岡珎じもならず表の方 乗物明れば時姫君こけつ転びつ住の江
が 死骸に取付き縋り付き 親の赦さぬ恋路故 兼てなき身と思ひしに 自が命
にかはつて死でたもつた住の江 嬉しい共忝い共いかで詞の有べきぞ 只恨めしいは造酒
の頭 かく成る事を露程もなどしらしてはくれざりし しらばやみ/\此人を殺すまい
物あぢきなやと 恨みかこちの涙川袖に 渕なすばかりなり ヤア住の江とは紛
らはし 其死骸は時姫君さいふ汝が我娘 ナ御合点が参つたか 親に勝つた娘が
忠義 犬死さして下さるなと 目をしばたゝく片岡が 心を察して妹は三浦の介に打


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向ひ 時政公の御息女といへば添れぬ敵味方 兄様の娘御に何の障りも味方
同士 申御了簡はといふを打けし ヤア味方とは穢らはし 鎌倉方へうら返つたる不忠侍
其娘に何の縁組 某に心を寄せし時姫君 首討れよと望しも 敵の縁に引れぬ
潔白 是非時姫を娘とし此三浦へ送りたくば 聟引き手には汝が首 覚悟せよやと
詰寄すれば ヤレ早まられな三浦の助 命を捨てて名を上るは誰しも武士の好む所 名を捨て
て忠義を立る造酒の頭 其証拠こそ此兜 是こそ将軍宣下の御宝 譬頼
家軍(いくさ)に打勝ち 四海残らず押領有ても 此兜なき時は将軍宣下思ひも寄らず

そこをはかつて片岡が 鎌倉方へ裏返り 不忠の名をとられし故 念なふ兜を奪ひ
取り 某に渡されしは 名を捨てて忠義を立つる古今の忠臣 此兜手に入るからは これより
坂本の城へ馳向ひ 鎌倉勢とわけめの軍 譬時政 何万騎にて向ふ共
宇治勢田に砦をかまへ 変に応じ気に乗じ あるひは顕はれ或は隠れ千変
万化に寄せ手を悩まし 大将に舌まかせんは此 和田兵衛が方寸に有り心安かれ
旁と居ながら 謀る軍師の軍配 ホゝ驚き入たる秀盛の明智 かゝる軍帥
味方に有らば 軍の勝利疑ひなし 我は有ても益なき臣 今こそ三浦の望に任


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せ聟引き手進上せんと いふより早く差添腹に突立れば ノウ悲しやと姫
妹 すがり嘆くを押退け突退け 京方には誰々と 指折りの数にも入りし某が
暫くにても鎌倉へ 裏返つたる其悪名何をもつてか雪ぐべき 味方の内に
も追従表裏の大江の入道 某再び城に帰らば 兼々より鎌倉へ 内通したる事
共の 顕はれん事身の大事と いか成非道謀計をもつて 味方の心を迷はさば 區(まち/\)成る人
心 我疑へば人疑ふ 人気和(くは)せざる其時は 軍の勝利思ひも寄らず そこを思ふて此切
腹 死後にても片岡は 返り忠せし不忠の臣と 末代に名は穢す共 一心五臓

忘れぬ忠義 何卒名有る軍帥を 御味方させん物と 心あてどは和田兵衛
殿 妹が連れそふと聞きしは幸い住所を尋ね 我志を立てん事 此人ならでと娘を誘な
い 存念を立てたる某 妹悔むな 時姫君もお嘆きなく 御身に替る娘が志を立て
てたべ 不便やお主のい為と聞き 悦び事は悦びしが 迚もの事に男の子に生れたら
戦場の一大事 御馬先の御用に立て 名を上る討死したら 父上迄お嬉しかろが 女子
の身のふがいなさ とゝ様こらへて下されと いふた時は出かしたと誉むる事さへ胸にせまり
一言も出なんだに 親にまさつて先に立 親は後れてあゆむ足 此家へ来る道々の


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堅牢地神の頭(かうべ)には 嘸片岡が踏足が 大盤石と答へやせん おもき忠義に
かへたる娘 よふ死でくれたな出かしたと 鍜(きた)ひに治(きた)ひし忠義の體も子故の鞴(ふいご)に
吹立られ むせぶ涙は熱湯の湯玉 とはしるごとく也 妹は正体泣しづみよく/\薄い
兄弟中 たつた一人の姪子にも名乗合いもする事か はかない別れ悲しやと歎は供に
時姫君 迚も添れぬ敵同士 とふからわしが死たらばかふしたうきめは見まい物 どふ
ぞ添たい/\と未練な心の迷ひから 親子の衆の此最期 コレ堪忍してたもい
のふ 思ひ切ふと思ふても儘に ならぬか恋路の因果 難面命死に後れ 面目ない恥し

い 叶はぬ恋をあきらめて此身の 果は尼法師それがせめての言訳ぞやと 身をうら
葉の両袖にたもち兼たるつゆ涙 親子のための香華ぞと 兜を時の
香炉にくゆらす煙蘭奢待 東大寺の宝物なれば 仏縁に誘はれ未来
の仏果と合す手に又も 涙の数珠の玉 こは有がたき御手向娘も我も 成
仏得脱只此上は三浦之助へ 媒介頼む和田兵衛殿 ヲゝ其義はちつ共気遣い
有なと 兜を取て三浦に向ひ 聟引手と望みし首 此兜故命を捨し片岡なれ
ば 一身五体は兜に残る 是を引出に姫の事 気つよき斗 武士とはいはぬコリヤなさけも


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武士の道具ぞと 渡せば取て三浦の助 此上何か辞退せん さはいへ勝利を得る迄は
お頼申おまき殿 家を出る時妻子を忘れ 戦場に及んで身を忘るゝは勇士
の常 若も運つき頼家公御大事とならん時これ 此龍頭の兜を着し 君に
かはつて討死せん 名香薫る首取しといふ沙汰有は此三浦が 討死せしとしり給へ
と詞は末に 逢ふ坂や関の清水と涌返る 涙ながらの暇乞離れ がたなき初恋に
ほだしは 見せぬ若武者を 伴ひ出る軍の首途 羨しげに延上り 見送る手負
を介抱し供に 見送る姫女房 恋と無常を見捨行く武士の 道こそ「是非もなき