仮想空間

趣味の変体仮名

北斎仮宅之図

 

 北斎仮宅之図  露木 為一(つゆき いいつ)画  江戸後期  wikipedia

f:id:tiiibikuro:20160725130859j:plain

 一か月余り頑張ったが解読できなかった。中途半端だけど降参。

 飯島虚心著「葛飾北斎伝」が随分と参考になった。

 

 

f:id:tiiibikuro:20160725131208j:plain

卍常ニ人ニ語ること我は枇杷葉湯に
反し九月下旬より四月上旬迄
巨燵を放るゝ事無しと如何
なる人と面会なすといへとも
放るゝ事なし  画くにも又かけ
倦く時は傍の枕を取りて
眠る覚れば又筆を取
夜着の袖は無益之とて
不付す

卍常に人に語る事、我は枇杷葉湯に反し、
九月下旬より四月上旬迄巨燵を放るゝ事無しと、
如何なる人と面会なすと言えども放るゝ事なし。  
画くにも又かけ、倦く時は傍の枕を取りて眠る。
覚えれば又筆を取る。
夜着の袖は無益なりとて不付す。

(この部分だけは図書やネット上で翻刻が読める)

 

 

f:id:tiiibikuro:20160725131221j:plain

本所亀岡町はんの木馬場
假宅の躰老人長く
住居故御?にゑかく

本所亀岡町榛の木馬場
仮宅の体 老人長く住居ゆえ?に描く

 (三行目がまったく不明)

 

 

f:id:tiiibikuro:20160725131239j:plain

御物語?(ニ)
御目通てひき
かけ(もうテキトー)

昼夜如斯なる故炭にてハ
逆上なす故炭団を用ゆ
然るゆへ虱の湧ことたとゆるに
物なし

昼夜斯くの如しなるゆえ、
炭にては逆上(のぼせ)なすゆえ、炭団を用ゆ。
然るゆえ、虱の湧くこと喩ゆるにものなし。

 

 

f:id:tiiibikuro:20160725131255j:plain

画帖扇面
之儀は堅く
御断申候
三浦八右衛門

 

 

f:id:tiiibikuro:20160725131309j:plain

娘 ゑい

為一 国保

 

 

f:id:tiiibikuro:20160725131330j:plain

角一畳分 板敷分
佐倉炭俵土産物の
桜餅の籠 鮓の竹
の皮 物置ト掃溜と
兼帯之

角一畳分、板敷分、
佐倉炭俵、土産物の桜餅の籠、
鮓の竹の皮・・
物置と掃溜めと兼帯なり。

 

 

f:id:tiiibikuro:20160725131345j:plain

蜜柑箱ニ
高(く)祀像ヲ
安置す

 

 

 

葛飾北斎伝 飯島虚心

p196
河鍋暁斎曰く、北斎翁は、酒を飲まざるのみならず、茶も上等の茶は、これを嗜まず、且煙草を吸わず、殊に煙気を嫌い、夏夜蚊帳を用いず、故に翁の所に至れば、煙草を吸うわざりしと。
戸崎氏曰く、翁は酒を飲まずして、菓子を嗜めり。故に翁を訪(と)うごとにかならず、大福餅七つ八つを懐にして、おくりしが、翁大いに喜び、舌を鳴らして食いたり。その頃、大福餅の価は、一つ四文なりし。

p198
関根氏、嘗て浅草なる翁の居を訪いし時、翁は破れたる衣を着て、机に向い、その横に、食物を包みし竹の皮など、散りちらしありて、その不潔なりしが、娘阿栄(おえい)も、その塵埃の中に座して描き居たりし。そのころ翁歳八十九、頭髪白くして、面貌痩せたりと雖(いえど)、気力青年の如く、百歳の余も生きぬべしとおもひしが、俄然九十にして死せり。

p199
清水氏曰く、戸崎氏誉翁を訪いし時、翁机によりも筆をもて、室の一隅を指し、娘阿栄を呼びて曰く、昨夕まで此に蛛(くも)網のかかりてありしが、如何にして失せたりけん、爾ならずや、阿栄首を傾げ、すかしみて、大に怪しみ居たり。戸崎氏出でて人に語りて曰く、北斎および阿栄の懶惰(らんだ・なまけおこたること)にして、不潔なることは、此の一事にても知るべし。

戸崎氏曰く、北斎翁、本所石原片町に住せし時は、煮売酒店の隣家にて、三食の供膳は、皆この酒店より運びたり。故に家には、一の飯器なし。唯土瓶、茶碗二三個あるのみ。客来れば、隣の小奴を呼び、土瓶を出し、茶をといい、茶を入れさせて、客に勧めたりと。

・・・・

p201
過日露木氏、翁が本所亀沢町榿(はんのき)馬場に住せし頃の室内のありさまを画きて、余におくる。図中巨燵を背にし、布団を肩にかけ、筆を採り画き居るは、即北斎翁にして、其の傍らに座し、翁が画くを窺いみるは、即娘阿栄なり。室内のさまは、いづれもあれはてて、翁が傍らの杉戸には画帖、扇面之儀は堅く御断申候、三浦屋八右衛門とかきたる紙を貼りてあり。又阿栄の傍らの柱には、蜜柑箱を少し高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍らには、佐倉炭の俵、土産物の桜餅、鮓の竹の皮など、取りちらし、物置と掃溜めと、一様なるが如し。

p208
同氏(露木氏)曰く、翁誉自ら謂て曰く、「余は枇杷葉湯に反し、九月下旬より四月上旬までは、炬燵を離るることなしと。されば如何なる人に面会すとも、誉炬燵を離るることなし。画くにもまた此のごとし。倦む時は、傍らの枕を取りて睡る。睡りさむれば、又筆を採りて画く。夜着の袖は、無益なりとて、つけざしし。昼夜かくの如く、炬燵をはなれざれば、炭火にては逆上(のぼ)すとて、常に炭団を用いたり。故に布団には、虱の生ずること夥し。」

p213
北斎翁、本所榿馬場に住せし頃、毎朝小さき紙に獅子を画き、まろめて家の外に捨てたり。或人偶(たまたま)拾い取りて披(ひら)きみれば、獅子の画にして、行筆軽快、尋常にあらず。よりて翁に就き賛を請う。翁即ち筆を採りて、「年の暮さてもいそがし、さはがしし」。或人更に翁に問う。何の故に毎朝獅子を画きて捨て給うや。翁の曰く、「これ我が孫なる悪魔を払う禁呪なり」と。故杉田玄端氏の話なるよし。乙骨氏いへり。奇といふべし。画工翆軒竹葉、誉この獅子の画、数十葉を蔵せしが、日課に画きたるものなれば、一葉ごとに月日をしるしてあり。紙は、皆半紙なりとぞ。又按ずるに、書中一行禅師、一生キンメイ録とあれど、キンメイ録といふ書なし。蓋(けだし)看命一掌金なるべし、禅師は唐の人なり。