仮想空間

趣味の変体仮名

本朝廿四考 第三 (勘助住家の段)

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html

     イ14-00002-741

 

55(左頁5行目下)(勘助住家の段)

            こそは
帰らるゝ 木曾山木立あらくれて 無法無徹をしにせにて名も横蔵のすじかい
通 草鞋(わらんづ)の日もふり埋む餌竿かたげて門口より 母者人今帰りましたと 声に


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老母がほや/\顔 ヲゝ兄待兼ました 此間はマアどこへ行て居やつた ハテこなわつは おれ
が足でおれがあるくにどこへなと飛次第 飛ついでに戻りかけ小鳥十羽程取ふと
思ふて 顔も足もれる様な 道理/\サゝゝちやつと上りやと草履の紐 手づから母の
慈悲蔵も 足の場を取機嫌取 兄者人お足荒ひましよ イヤコリヤ/\孝行な兄が體
に不孝な弟が手をさへるは穢はしい 母が洗ふてやりましよと 一人につゝく一人にはあま
い女子の鼻の先 泥脛突付け エゝ若い女子のさはるはよい物じやが 干物の
様な母者の手で情の罪科じや いか様おれは孝行者 此小鳥も晩の夜食に

こな様に喰すのじやない 焼て貰ふておれがくふ気とかくおれが口さへ養へば こな様
の気が休まるのふ母者人 そふ共/\あのマア孝行な事わいの サア/\火燵に火も
して置た ムゝこな様が今迄あたつていて何の恩にきせる事 マアこりやぬるり水火
燵じや イヤ/\あんまりきつい火は上(のぼ)つて悪い 夫レがたわけといふ物 もふこなたも追付
火屋へ行體 稽古の為にきつい火にも当つて置かしやれ サア足もんで下あれ
と踏出す両脚 慈悲蔵見兼 トレ私がと立寄れば 又差出るかこしやく者 兄やこふ    
か/\と撫さするほんそ息子のくはびら足 アゝ迚もなら美はしいお種がもんでくれりや


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よいに ハア貴様小鳥か 峯松はどうした ハイお差図の通り 思ひ切て一昨日主がどこへ
やら ムゝ捨てて仕廻ふたかよい事/\ 一体おりや其様に惚れている時に 幸いとかゝのそげ
めはてこねて仕廻ふ 跡に残つた小伜の其次郎吉 邪魔ながきめしめ殺さふか
と思ふたれど あぢな物で子といふ物は親よりちつと可愛物じや 又大きふ成たら
おれに似て孝行にもしおろかと思ふて 貴様に育てさすからはノウ慈悲蔵 畢竟
わがみと相合の子迚もの事に女房も相合にする合点 お種顔ふらずとムンといや
いの 夫レをいやといふと慈悲蔵が大事がる此母者に当るぞよ コレしつか/\と揉ましや

れエゝまだ火がぬるいと恋の意趣を 炬燵にあたる非道者 持て余してぞ見へに
ける 折ふし表に先走り 山本勘助殿に用事有て大僧正武田信玄参上
也と案内に 思ひがけなき夫婦が不審 子細あらんと横蔵が顔も直らずそら
寝入 ハテ扨思ひ寄ぬ大身のお入 卒爾には母も逢れまい 慈悲蔵饗せ 横
蔵 是はしたり 何やらいひ/\寝入たそふな 風ひきやんなと一間の障子引立窺ふ表
より 匂ふ留木の高坂が 妻としらせてうつ高き 雪の懐稚子を抱て 幾重の
柴の庵(いほ) 家来は先へと追かへし行儀正しく打通る いぶかしながら手を付けて 信玄公


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の御入と思ひの外なる女中のお名は ヲゝ成程御不審尤 偽りならぬ信玄公のコレ此
寝顔に対面なされと いふに女房立寄て ヤア峯松か戻つたかと 飛立斗の胸
押ししづめ 是は/\御苦労さまや そんなら峯を貰ふて下さりましたはお前様か いか
いお世話に コレ/\麁相いふまい 甲斐国へ養ふからは最早一つ国の世継 即ち今日
の信玄公 孝心深き慈悲蔵殿 殊に軍術の達人と聞及び 師範共お頼み
なされん為わざ/\見やしやんせコレ愛らしい此信玄が抱へに来た お受申されて
よからふと恩をかけたる名将の 情は肝にこたゆれどとぼけた顔で 是はしたり 私は

此在所の山がつ 鋤鍬の外何んにも存ぜぬ者と 軍術の師範なぞとは 勿体ない
事おつしやります コレ/\こちの人 お前の器量を聞及んでと有からは きつい誉な
事じやぞへ 卑下するも事に寄り ハテ軍法奥義は 母様の伝授の巻を譲請
て さればいやい 夫レを貰ふて山本勘助に成たれば 抱られまい物でもなけれど 未だ
生(しやう)もかへぬ中に軍術の大将のと そりや山の芋をかば焼にする様な物 名さへ慈
悲蔵迚虫さへ踏殺さぬ者が 軍に出て人の首が 何として/\と 取ても付かぬ
顔付に 唐織はつと胸せまり 不調法な女の使いお気に入いでおつしやるのか とふ有


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ても味方に付いて貰はねばならぬといふ其訳は 桔梗が原に此捨子 山本氏
と有書付を 印に拾ひ取は取たけれど サアどふも力に及ばぬは 肝心の乳に呑付
ずなんぼ抱て突きは付テモあつち/\と指ざしてばつかり 此大将に兵糧がな
ければ命も危うし 其兵糧を続ける謀(はかりこと)は慈悲蔵殿 お前の心に有そふな事 
甲斐国へ味方に付いて 夫婦して守育てふと思ふ心はござんせぬか 此マアちつとの
間にコレどこもかも 細つた事を見やしやんせ道理でも有 真実の母御の懐を離れて
他人の手に何の育とふ 夜は得寝ず 昼はうつ/\泣寝入に 寝た顔のいぢらしさ

ほんに見るめが悲しいと 語る中より女房がヲゝかはいやそふでござんせうと わつと泣出す
母親の 声に目覚まししがみ付きすがるちぶさは一人にて この手柏の二面て 儘ならぬと
そ恨みなれ 一間に母の声高く コリヤ/\慈悲蔵 子供を餌(えば)に恩にかけて味方に
せんと 後ろぎたない信玄に奉公しては武士が立まい去ながら 軍法奥義も伝
はらず 家の苗跡を継ぐ気がなくば 勝手次第ともぎどうに云捨障子 はたと指す
ハアむつと立上り 我子を取て引はなし 須弥山滄海の大恩を受れば迚 母の恩には
いつかな/\ 信玄に仕ゆる事存じも寄らず変改申す コリヤ女房 捨た此躮に見


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苦しい何ほへる 縁に引かれて知行取ては末代迄の名折 親子の縁をさつぱりと切って
しまへば 信玄に恩もなく義理もなし 是此竹も其本は 竹に雀と離れぬ中
今餌さし竿と成時は 鳥の為には怨(あだ)敵 事によつたら親子兄弟 敵味方と成る
も武士道 お返事は此通稚子連て早帰られよと 詞尖に云はなす ハア此上は
力んし とはいへ帰つて御主人や 夫に何と詞さへ なく/\抱き立出る コレのふ峯松一世の
別れせめてマア 此乳が一口呑したいとしたふ女房を引退けて 枝折戸びつしやり 表に
も心は残る雪中へぐはんぜ 涙の子を抱おろし 裲の下ぐ々りくゝり添たる後ろ紐垣に

結ぶは義理の綱神や捨置く竹の子笠 いたいけつむりに打着せて 山本の氏を継ぐ
慈悲蔵殿を 軍術の師と頼んと是迄来給ふ信玄公 どふも此儘では帰られ
ず 是非共味方に付くといふ一言を聞く迄は 此信玄は其元の門口を立さらず雪に凍へ
て死迄も爰に座をして返事を待つ 大将の命助けふと殺さふと御思案次第 よい
返答を頼入ると しづをかけたる雪の笠思ひを 残し捨てて行 ヤアそんならほんはまだいなぬか
コリヤ/\ 門には誰もない よし居てからがあかの他人 今傍へ寄るとナ 信玄の恩を受たに
なつて 母の一言反古に成る 此簾戸の外へ一寸でも出るがいなや 夫婦の縁も是切と


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腰さげの紐鐉(かきかね)を くゝるむごさは我ながら いかなる悪魔鬼か蛇か 六韜三略
の望有慈悲蔵 慈悲も情も知ては居れど 母の詞は背かれぬ どふで乳房に
離れた物迚もない命 凍へて死なば死に次第 そちもソレ其子をそでにしては 兄貴への義
理が立ぬぞ ハア何か紛れて 大事の孝行怠たり ドレ裏へ行て雪の中の 筍掘
て進ぜふと 蓑笠取て打かづきあつき親子の縁をたつ 鍬ふりかたけ 此寒気に
荒男でさへたまらぬ物 よたけもない體に アゝ子を捨る藪は有れど 親の詞
は捨かたき 裏の藪へと踏わける 雪より先にいとし子の埋もれ死なん不便やと 見

合す顔にふる涙 みぞれ争ふ濡翅しほるゝ 夫(つま)の後ろかげ いかに望が有ば迚天
にも地にも一人子を よふむこたらしう捨られた 今の女中も気の強い 置いていぬ程
ならおいえにねさしていんだがよい かはいや/\ひもじからふのに ちつとの間なと抱たいと
任せぬつらさ次郎吉を 漸そつと下に置き さし足ながら庭におり 覗けば門にしよん
ぼりと ヤレほんよそれレがマア何と命が有物と 明んとすれど鐉に 錠のかはりの真結び
は むごやつれなとあせる程 雪にしめつて明かぬ戸に ちゝたい/\もこへ/\゛の風にうたてや 
次郎吉が わっと泣く声 ハア悲しやと 又かけ戻り抱上て 雪やころゝん霰やころゝん


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こはそも何たる因果ぞや 此子憎いじやなけれ共 我子に乳が呑したい コレちつとの間/\
寝入てたもいのと 心も空は かきくらし 又ふりしきる白雪に外に泣く声八寒地獄
釼を呑むより身にこたへ 思はずしらず転びおり 砕けよわれよの念力に はつるゝ戸より身
は先へ コリヤぼんよ/\と我子を肌に抱しめ泣涕 こがれなく声に 唐織こかげをつゝと
出 信玄公を抱上げ 乳房をふくめ参らすからは 慈悲蔵は最早此方の味方 夫に
しらせて悦ばせんといさんで館へ立帰る はつとお種も心付きうろ付く隙に何国より 懐
剱てうど峯松が肝先貫き息絶たり コハ何事と驚く中 次郎吉引立横

蔵が 一間をさしてかけ入ば ムゝ扨は我子の害に成と横蔵の所為じやの 義理も
情ももふ是迄 敵を取らいで置かふかと 死骸を小脇にかい込て 常には弱き女
気も恨みにつよき力帯奥へ窺ふ忍び足 早日も暮に近付て 鐘孝行  ←
の道ぞ迚 古き例しの跡を追 子故の闇に白妙の道も 涙に見へわかずなんぼ掘
ても筍は有ふ様はなけれど 親を思ふ一心を憐れみ 天より授かる事もやと 心に込めて
一尺二尺庭は白羽の鳩一羽 飛でおりしも飼なれし 鳥も心の有やらんと 又掘かへせば
又一羽友呼さそふ生類の 有様つく/\゛打守り 最早入相 諸鳥塒(ねぐら)に帰る頃一羽な


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らず二羽三羽 集まり来たるは ハテ心得ず 誠や 兵器有地には鳥群をなすといへり
我父は日本の軍師 此所にて世を去給ふ 一生諳んじ置かれたる 六韜三略の秘密
の巻此下に 埋み置れしやらん 扨は我孝心天に通じ 鳥類是をしらせしか ハア有がたし
忝しと 心いさんで堀穿つ 雪も散乱村雀ばつと立たる藪の中 窺ふ兄が面魂
ムゝ野に伏勢有時は帰鴈行(つら)を乱るゝ 油断の塒を窺ふ悪鳥殺さふと生か
さふと手の内の雀 慥に手ごたへ 此下を コリヤ待て慈悲蔵 埋ずんで有伝授の一巻
われにはやらぬ 兄が出世の種にするはい 兄者人そりやお前無理でござりましよ

サイヤイ 無理いふが兄の威光 あほう鴉の孝行こがし 邪魔なうぬから仕廻ふて取る どつ
こいそふは成ますまい 苗氏をつぐは慈悲蔵 見事われが いで見せう こしやくな退け
と鋤と鍬 落花にぢんの雪とんで 堀出す箱の二人が争ひ 道と非道の二筋をす
べつつこけつ 掴みあふ はつみにがはと取落し 地にざんぶと 水煙さはぐ群鳥兄弟もふしき
と 見とるゝ後ろより 障子ぐはらりと母の老女両人待て 兄弟共に武士と成り主人を取へき
時節到来 雪の中の筍を掘出したる慈悲蔵 今こそ母が心に叶ふた 天晴孝行
出かした/\ そちは最前云付けた通り 裏口四方に気を付けよナ合点か ハア委細承知仕


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ると かけ入弟横蔵は 地中の箱を引上て母の御前に箱出せば サア/\兄 そなたには
わけてよい主を取らする 即主人より下されし装束も改めさせんと しづ/\奥の白臺に
無紋の上下白小袖 傍へに三方九寸五分 我子の前に直し置 母者人こりや何じや
いやさコレ此白装束は何の為 ヲゝ夫レこそは冥途の公服(はれぎ) 只今そちが首討て 身
がはりに立つるのじやはやい エゝイ めつそうな事斗 此首を身がはりとは そりやマア誰が
今日そちが主人と頼みし 長尾三郎景勝公の御身がはり 聞及ぶ武田信玄信越
後謙信 室町の御所において 互に我子の首討て 心底を顕はさんと契約有由

最前そちを召抱んとて来られし 景勝の面体そちが顔にさも似たり 扨はと母
が推量違はず 箱の中に残されし此一通に 子細の様子詳らかに記されたり 主従と
成からは命は君に捧げし物 武士の因果と諦めて潔ふ死でくれ コレ/\/\よふ思ふても見
やしやれ いかに主じや迚まだ知行もくれぬ中に 殺さふといふ様な胴欲な主が有物
か イヤ/\もふ此主従とんと変改 イヤそふは成まい 日外諏訪の森において殺さるゝ
そちが命 助け置かれし景勝の恩忘れはせまい 其時の情は今身がはりに立ん為 智
謀のわなにかゝりしとはしらざるか 恩をしらねば人ではないぞよ 譬へ逃げても此家の


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ぐるりは 景勝の家来取巻て一寸も遁れはない 切腹するか 但し母が手にかけふか サア/\
なんと/\と詰かけられ籠中の鳥の目はうろ/\透を見て逃出す 膝口はつしと手
裏剱に尻居にどつさり詮方なく 是非に及ばぬもふ是迄と 腹切刀取より早く右
の眼に突込だり 遉の老母も不審貌 流るゝ血を押拭ひ/\ 母者人 景
勝に似たによつて身がはりに立たかる 小面倒な此貌にかう疵付て相好かへれ
はもふ身がはりの益には立まい今日只今地父が苗氏を受継 山本勘助晴義軍
臣奥義を胸に貯へ 三略の巻より大切な此命 ヤア/\謙信の家来直江山城助

鐘綱 夫レへ出よ云聞かす子細有と 呼はる声に一間の内 見参ぞふと慈悲蔵が
優美の骨柄 長上下さはやかに 某長尾の家臣たる事深く包で古郷へ帰りし
其子細 母人には密に語り 兼て申受たる兄者人の命 現在の子を捨たも否応
いはさぬ命の無心去ながら 眼をくつて 身を全ふする大丈夫の魂 あつたら勇士
を殺すは残念 長く謙信に仕へ 忠勤を尽さるべしと いはせもあへずあざ笑ひ
おろか/\ 謙信づれが家来には汝等が分相応 身が主には釣合ぬ 誠山本勘
助があがむる主人は忝くも足利十三代の公達松寿君 是へ誘ひ申されよと


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詞の下に高坂が 妻の唐織次郎吉を傅(かしづ)き申せば 山城親子ハアはつと斗
飛しさり 恐れ入たる斗なる 真中にどつかと直り ヤイ山城 只今打たる此手裏剣
は 先年室町の館にて此公達の御母 賤の方を奪取立退く折から景勝目
充てに打かけたる我小柄只今我手へ慥に落手 山本の苗氏を引興さんと軍学
心をこらす所に 武田信玄大僧正姿をやつし只一人密かに庵へ来らせ給ひ 足利
の行末覚束なし 汝我力と成て事を謀れと 名将の一言心魂に徹し ハゝア畏まり奉
ると 即座の領掌弓矢の誓ひ ヲゝ其時に此母も只人ならずと思ふたが 扨は

武田信玄公と 主従の契約仕やつたの ヲゝサ 大魚は小池に住まず 靍は枯木
に巣をくはず 智勇兼備の大将に頼まれ申せし身の面目 直ぐ様都に馳せ
登り 窺ふ時しも館の騒動 義晴公はあへなき御最後 ハツア詮方なし 懐胎の賤の
方人手には渡さじと 忍び入て御家の 白籏諸共守り奉り 立のく館は八方に提
燈松明 ちる花の 都を跡に遠近(おちこち)の雪の信濃路爰かしこ 月の 更科の片
山里に 人しらずかくまふとは さしもの母も御存知有まい しらなんだ/\コレ/\そふして
御母賤の方の在り所は何国 サゝゝどふじや/\ ハア申すも便なき事ながら うき事つも


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る産後の悩みはかなく此世を去り給ふ 跡に残りしあの公達勿体なくも我子と
偽り 次郎吉よ/\と呼ぶ度々の空恐ろしさ口惜しさ 弟嫁が乳を幸い 我子
を捨させ他家のあの子を養育さする我心底 我儘無法は一物有と悟りし
老母 雪の中の筍を掘て見よとは 天晴明察実に勘助が母人ぞや 穢れ
を厭ひ今日迄 埋づみ置たる雪中の筆(たけんな)是に有と 箱追取て差上る源家正
統武将の白籏 神明を頭に戴く義兵の籏上 謙信親子只今より此勘助
が幕下に付けと 立帰つていひ聞せよと 一つの眼に天(あめ)が下見下す富士の山

本寛隙三国無双の弓取也 山城大きに感じ入 信玄景勝不和成も 互に
心を疑ひあふ 忠臣割符を合すがごとし 君御在り家 しるゝ上は 景勝公の言訳
立って 身がはりにももふ及ばぬ 追っ付け両家和睦の基 成程/\最前裏で直
々に様子を聞た 信玄公と勘助様 いひ合せの有る事は 一家中へもお隠し有ば 夫高
坂も露しらず 抱へに来た慈悲蔵殿は 思ひも寄らぬ長尾の御家来 君の御
事初て聞た使いの面目 此上なしと悦びの中に嘆きは一人の孫かう心がとけるなら
仕様模様も有ふ物 此ばゞが偏屈から 信玄方の御受ては立たぬといふた一ごんで


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直江が手にかけ殺しやつたは 即ち母が殺した同然 コレ/\/\嫁女赦してアゝ勿体ない ちふさに
離れて死ぬ命 思はずしらずお主様の お益に立たも因縁と泣れぬ顔するいぢらしさ 母
は一間の一巻携へ 不孝と見へし勘助は却て父の名を上る 廿四孝にまさりし孝
器量も揃ふ二人の子供 軍法伝授の此一巻 頂戴しやと差置れば 勘助取て
押戴き 父の苗氏を給はれば 勘助が身の規模は立つ 母方の氏をつぐ弟直
江が母への孝 其徳によつて此一巻は 其方に下さるゝ御恩を忘れず猶此上 孝行
怠る事なかれ 景勝の忠臣は我胸中に徹した共 心得がたきは親謙信 君に

弓引逆心ならば 汝も従ふ心やいかに いふにや及ぶ 我子を切て二君に仕へ
ぬ此山城 兄といはさぬ敵味方 此三略の恩を仇 一合戦仕らん ヲゝさもあ
らん出かす/\ 我又主君に仕ふる甲斐の 天目山に楯籠り出合所は川中嶋
運に乗じて越後の出城諏訪の城迄押寄/\さも目ざましき勝負
をせんず ホゝ潔し去ながら 仮にも一旦景勝に 請けたる恩は何と/\ ヲゝ 日
月にたとへたる右の眼は越後へ進上 二た心なき勇士のかため 母にあたへし
かたしの下駄 景勝の志捨るは武士の道ならずと 左の足にしつかとはきおり


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立つ 庭の高ひくも 道はゆがまぬ弓取の直ぐなる竹の根もとより はつしと切たる
籏竿は 聖運目出たき大将の さそふは賢き御笑顔眠れる花の死顔
に抱いてゆぶつてすかしても 返らぬ昔唐土の廿四孝を目のあたり 孟
宗竹の筍は 雪ときへ行胸の中 氷の上の魚を取それは殊勝
是は他生の縁と縁 黄金(こがね)の金より逢がたき其子宝を切離す
弟が慈悲のどうよくと兄が不孝の孝行は 我日の本に一人の勇士
今に 名高き山本氏 武田の家の礎と事跡を 世々に残しける