仮想空間

趣味の変体仮名

近江源氏先陣館 第九

 

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      ニ10-01036


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   第九
比良の暮雪と賞ぜしも 誠は寒き 暮の雪冬ぞ淋しき大津の浦に 世をこぎ
渡る船先の妻もとも/\゛外?(かせぎ)内は八十五の涎くり 留主の手習机の上双紙に六道
切書て 天かまいかの玉銭を 一人打たり 飛廻り遊びにたはひなかりけり 其日も西へ入相
の鐘にちりしく花ならで 雪けを凌ぐ相合かさ よその舎(やど)に身を寄せて我家に帰る女
房およつ あほうよ戻つたぞよといふ声聞て玉銭隠し ヲゝお家様ようごんたの ヲゝあいつ
わい何ぞ余所から来た者の様に そして暗いのに灯もともさずぐず/\と何して居る サア

其様にぐず/\すると呵れるによつて ぐず/\するかせんかくらかりにしてお前の臍さぐろと思ふ
て 又あほうめが灯をともせと いふに合点角行燈硫黄の花にかゝくつさめ 又人を譏らん
すかいのと 云ひ/\戸口指覗き アレ門口に誰やら居る 誰じやどこの人じや イヤあなたは傘(からかさ)を
御無心申たお侍様 おかげで雪げを凌ぎまして忝ふ存じます マア/\おはいりなされませと いふに
侍内に入 是かこなたのお宿元か 扨々綺麗なお住居でござりますな イヤモ漸此頃此家へ
参りし故まだ取しまりもござりませぬ シテ御亭主の御商売は イヤ亭主と申は私斗 い
となみ迚も僅かなくらし ムゝすりや後家御か ハイ左様でござります 是は/\またお若いに嘸御不


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自由でござらふな イエ/\独り身に馴ましてはさしてふじゆうはござりませねど 此浦風のはげし
さに 又しても夜ざへが致し 心ぼそい折しもは 誰ぞ力に成てほしいと サア思ふ様な縁もない物
でござりますと どこやらむまい咄しに侍 衿かきせ指寄て 我等花岡園部之介と申浪
人 いまだ定まる妻もなければ清水の花盛には此園部を恋したふ短尺もあらふかと 桜
の枝を見廻津手も当世は歌詠む姫もないかして 閨淋しう暮す某 何と相談する気はない
かと しなだれかゝればこなたも打笑 聞ますればあなたのお名は園部とやら うき雪空の相
合かさ お情ふかいも御縁の端 そしてどふやらいとしらしいお姿といひお顔付女をなずます

目元の塩とこぼれかゝりしなりふりに 現ぬかして気は上り 傍にあほうが差覗き エゝ悪い
身をする侍 丁どまたぐらへ山猫はさんだ様に コリヤ又あほう口叩かずと爰に用はない奥へ
行け アノおれに奥へ行かへ いけならいこが おれが奥へいたらはさんだ山猫を出しおろぞへ また仇口をと
呵れて 盆太は奥へ立て行 およつは門の戸差寄せて押入明けてこて/\と取出すふとん打ひ
ろげ ヲゝさむ こんなさむい晩はちつとなと早ふ寝て 肌ぬくめふと身を横に成たけこらへ
る侍が 青ふなり 赤うなり つぐ息さへもたへ/\゛にもふそこへはいろかへ コレもふ寝てかいな どふも
ならぬとふとんの内 はいればおよつが起直り そんならお前いよ/\私とねる心か イヤモ心はとこやら


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飛で仕廻ふて 體中がはり切る そりや真実でござんすか ヲゝ真実共/\ もふ根問ひせず
とちやつと寝たい イヤ夫が定ならお前へ分けて無心が有何と聞て下さんすか 聞たいても上
気して耳が聞へぬ せう/\の事ならまあ寝所での事にせう イエ/\頼事も頼んでから 何をかく
さふ私は敵討でござります よし/\敵討呑込だ 夫レじやによつて若し敵に出合ば助太
刀して貰はにやならぬ それ合点でござりますか よし/\助太刀呑込だ 万一返り討に逢
時は 命を捨てて下さんせにやならぬぞへ よし/\返り討呑込だ ヲゝ何をいふても呑込だと 大腹
中なお人では有わいの よし/\大腹中呑込だ ヲゝそりやお前何いふのじや 何じやいsらぬが早ふ

寝たい マアよしれぬ事をいはず共私が敵といふは兵法の達人 助太刀せうとおつしやるお前
手の内が見たうござんす ヤア鉢坊主じやなし何の手の内 サア兵法の御鍛練が アゝ兵法
つかふのか そりや心安い何時なとつかふて見せふ 左様なら御手練の程を ヤレ/\嬉しやと申し
てから 心がけねば竹刀しないの用意もなし 何を以て御手練を イヤ気遣ひめさんな 竹刀し
なへ用意致した 何竹刀を御用意とは ヲゝサ心がけの武士だ物 竹刀がなくて何とせふ しかも
長いと短いが有ると 両腰するりと抜放せば 赤いはしでもない備前竹光 何と天晴竹刀
で有ふがの アノ是がお前の魂か イヤ魂は飛で仕廻ふてこりや人をだましいじや ヲいつそ


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呆れて物がいはれぬ もふ御手練見るに及ばぬ 其お心なら寝て語ろ 何じや寝よふこりや
忝いといふ間に行燈吹けせば コリヤなぜ灯を消した エゝ明くては恥しいなと 勝手じらねば爰
かしこ尋さぐる其中に あほうをそつとふとんの内およつは勝手へさぐり行 こなたはしらず高ば
いに さぐり當る蒲団の内 何かいなしにぐす/\/\ はいればあほうが大声上 アゝイタゝゝゝヤレ盗人め出
あへ/\と呼はる声に恟り こけつまろびつ侍はいづく共なく逃帰る 跡に盆太が高笑ひ
ハゝゝゝ逃るは/\ヤイ侍め 儕がけつきに任せ家尻切ふとかゝつても めつたに切れる盆太
じやないわい お家(え)様も又い家様じや 何のあんなやつが心をためす事が有る物で 此間からくる

やつらにろくなやつはひとつもない エゝ隙づいへな 追付だな様が戻つてゞ有ふ 湯などた
いて腰湯さそと 傍りこて/\取片付け納戸へ 入やいるさの月影さへくらくしめ/\と 空
にちらつく雪よりも鎧の 雪を覆ふたる 簑笠着たる老人を 乗せて我家へ戻り舩
櫓を押切て陸(くが)に漕付け急ぎ候程に早舟が着て候 則是が我等が内 サア/\お上りな
されませと 歩渡せば老人はしつ/\上る陸の方 船頭ももやい綱 乱杭にくゝり付け いさ
御案内と先に立 女房共戻つたぞよ お客が有とこに居ると 夫の声に女房が とし
やおそしと納戸を出 ヲゝ二郎作殿戻らしやんしたか けふは定めし寒かつたでござんせう イヤモ


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寒い段じゃない 雪はちらつく 向ふ風の比叡おろしで櫓づか持手も切る様に有たれど 風に
さかへて櫓押たので おれは寒いを忘れたが あなたには嘸おひへなされふ いざ先あれへと
すゝめられ 簑笠脱捨上座に直り 一樹のかげ一河の流れ ふしぎに亭主が世話と成
寒夜の一宿過分の至りと 聞て女房が呆れ顔 テモまあ子細らしい物の云様 そして見りや
生きた兜人形見る様なお方 おりやマアどなたでござんすぞ イヤどなたやらおれもしらぬが
けふは草津の方に軍が有と聞た故 何でもそこら邊りへいたら よい儲けが有ふかと 矢橋
の濱に舩付けて見合して居る所へ あたながひよつこりお出なされ 何からしに舩へ飛乗り ヤレ出せ

ソレこげとめつたむせうにおだてられ 合点が行ねどマア沖へ漕出して 扨様子はと尋たれば
石山の陣所へ帰る者 夫レ迄急ぎ舟を着けよ 望次第舟賃やらふとおつしやる故 畏たと情
出して 押ても漕でも向ふ風 一向石山へ舟は寄らず しやう事なしに爰迄連れまして戻つた
今夜はこちにおとめ申 風がないだら石山へお供する 随分御馳走申てくれと夫が詞に夫レは
マア/\御難儀や 見ました所が鎧とやらをめしてござれば 定めて軍に行お方 ナ申 左様な事
でござりますかと 尋に老人打點き ホウ推量の通り けふの軍に思はぬ敗北 夫故かゝる
世話に預かる コレこちの人 敗北とは何の事じやへ ハテ軍に負るを敗北といふわいやい そんなら


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あなたはお負なされたのか ヲゝ夫はまあ/\お笑止や そして見ました所がお年に不足もな
さそふなに 命がけの軍せうより お子様も有ふに 隠居してござれば敗北とやらも有まい
に 定めてお腹が立でござりませうな 何の/\ 勝負は時の運に寄る 一旦の勝より始終の
勝こそ善成べし 計らいざるけふの戦ひ 佐々木の四郎が謀に乗せられ 味方の大軍大半
討れ 某迚も無念の敗北 陸路が佐々木に立切られ 石山へも帰り得ずとやせん方も渚の
方 十方(とほう)にくれてたゞよふ所に 幸い成渉し船危き難を遁れしも 全くそちが情故と始終
を咄す軍の様子 聞て女房が指寄て 申其佐々木とやらいふ人は 討死と聞ましたがやっぱり

生きて居られますか されば/\ 是迄佐々木を討取しも度々なれど 皆影武者の贋佐々木
六日以前の戦ひに 佐々木が倅小四郎といふ者を 味方へ生捕其砌に討死せし佐々木が首
伜小四郎に実検さすれば 誠の親と嘆き悲しみ直様切腹 扨こそ佐々木は討取しと安堵の思ひ
にけふの出陣 又も佐々木に追立られしは 幾人有共計りなき 佐々木が謀の醜(おそろ)しやと舌を 巻
て物語 聞く女房が打しほれ 今のお咄し聞に付け侍といふ者は ちいさな子ても軍して 命を捨る
といふ事は はかないといはふか いぢらしいといはふか 其親々の身に取てはといふを打消 エゝ何のかけも構はぬ
よその事を イヤ申 かうおお宿申ますからは 迚もの事にあなたのお名を ホゝ我こそはといはんとせしが


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詞をひかへ イヤ端武者なればおこがましう ムゝ 成程 薄の穂にもおぢるとやら 承はつて昼ない事
定めてお労でごさりませふ 見ぐるしけれど奥へござつて 御休足なされませんかい いか様老体なれば余
程の労れ 詞に付て暫く休足 イヤモ何にもお気遣な事はござりませぬ 緩りつとお休みなされませ ホゝ何
かに付けて心遣過分/\と老人は しづ/\立て奥に入 跡に女房がくし/\と思ひ 詫たる憂涙 夫も
思案有顔に 手を拱て差俯き 互に詞納戸より ひよか/\出るあほうの盆太 重箱片手に コレ
お家様 お前忘れてござんすか けふはぼん様の一(ひと)七日の逮夜 夫で一文餅三つ買て来た程に祝ふて
仏様へ進ぜてといふに思はずせき上てわつと斗に 伏しつむ ヲゝしほらしいよふ気が付た 愚かなわれが

志備へいで何とせぐとしほ/\ 立て押入の 襖明くれば釣仏壇 御明かしの火は有ながら しめるかう
ろの 香もりかへ知覚院幼玄童子 仏果の為と手を合せ伏拝む目も 涙なり 申佐々木
殿 シイ イヤ二郎作殿 お前もこちら向てせめて一遍の回向なとして下さんせ 私が千べん唱へるより
お前のたつた一ぺんが あの子の功徳に成わいのと又伏しづめば ヤイ/\たわけ者 奥に客もござるに 見
くるしい其泣声 エゝ未練なやつと呵られて イエ/\何ぼ呵らしやんしても 是が泣ずに居られふか い
かに男のかうげじや迚 お前斗の子かいな 私が為にも子じやわいな まだ年はも行ぬ物 かう/\
せいとむごたらしい 父御の詞を子心に 大事/\と忘れもせず 立派に有た其時の姿が今に目先に


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見へ 何と是が忘られふ わしやわすられぬ 得忘れぬとどふど伏歎けば遉恩愛の涙は胸につゝ
かけながら ヤイ声が高いしづかに泣け 我迚も因縁に倅不便になふて何とせづ 傍で有り/\見た
そ?より 見ずに案じる我心 との様に有ふと思ふ 骨は砕かれ身は刻まれ 肝のたばねへや
きがねを さゝれる様に有たわいと涙隠せばあほうは目をすり アゝ利根なぼん様で せんどもナ
おれが穴一して居たれば コリヤあほうよ 穴一すると手が下がるとはしやつたによつて コレ/\そんなませた
事いふと つい死るぞやといふたれば おりや侍の子じやによつて 死る事は何共ないが ひよつと死だら さぞ
嬶様が泣じやろなアといはしやつた つい泣かしやる様に成てのけたと大声上ておい/\泣 コリヤもふいふて

くれな 聞程くるしい此胸が さける様なと伏沈む 涙は琵琶の湖にさゞ波寄するごとくなり かゝ
る 歎きの時しも有れ長押にかけたる鳴子の音 風かあらぬかくはら/\/\二郎作聞よりすつ立上り コリヤ/\
女房 城内よりしらせの早打 ソレ奥の間に気を付けよ あほうは裏をと追立うあり 戸口をてうと
指かため 居間の畳をはね上れば 下よりぬつと鎧武者 今日味方の勝軍言上せんと手
をつけば ヤア音高し/\ 谷村小藤次 シテ場内に変はなきや けふの一戦味方の勝利 次第聞んも
ひそ/\声 さん候味方の軍勢粟津の汀に屯を構へ 戦ひを催す所に 敵の大軍とつと押
寄せ 無二無三にかけ立る 味方は態と負け色見せ 十町斗引退く 勝に乗て追来る大軍潮の


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わくにことならず 味方も爰に踏止り火花をちらして攻め戦ふ 置かれし時分は爰ぞと四つ目
結ひの籏さつと靡せ 敵の後ろに大音上 佐々木の四郎高綱是に有と名乗欠け/\驀直(まつしぐら)
かけ立ればそりやこそ佐々木が又出たぞ 謀に乗らぬ内引けや/\と我一に狼狽へさはげば後
陣より 大将時政采配ふり立 佐々木迚鬼神にてはよもあらじ 騒ぐな者共備へを立てて戦へと高
らかに呼はれ共 佐々木といふ名に聞おぢし 崩れ立たる敵なれば 耳にもさらに聞入ず 風に散り行く木の
葉武士 逃行者に目はかけず めざすは時政只一人 余すな洩らすな者共と稲麻竹葦(とうまちくい)と取尽し
が 天をかけつて遁れしか又地を潜て走りしか 無念ながら時政は討洩し候と息つぎあへず訴ふれば ホゝ天晴

高名手柄/\ 併時政を討漏せしは残念至極 シテ時政が出立は 鎧は緋威錦の直垂 何緋
威も直垂とや シテ/\歩(かち)立ちか但は騎馬か イヤ馬は其場に射すくめられ 乗りがへもなく身は歩立
ムゝさこそ/\ 汝は直に城内に立帰り勝軍の油断を窺ひ夜討をかけまい物でもなし 万事油
断なき様に 変があらば早速しらせよ 早行け/\と云渡し 差寄て耳に口 アゝ畏り候と引返してぬけ道へ
飛込跡の古畳 元のごとくに押直せば 女房篝火勇み立 今の注進を聞に付 割符を合す奥
の老人時政に極まつた 此家へ来るは天のあたへ百万騎よりたつた一人を討取れば四海波風
しづまる手柄 用意さしやんせ四郎殿とせき立女房 さはかぬ高綱ホゝはからず我手に落入る


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時政 迚も今宵は過さぬ命 いや/\/\落付も時に寄る 油断大敵小敵迚 あなどらすとは
常々お前が教へる軍法 いざ討給へ早ふ/\とせきにせき立折も有 又もしらせの鳴子の音 四郎
心得てつ取早く 畳をてうとはね退くれば すつと出たる四の宮六郎 御注進と呼はるにぞ ヤア
汝が五音は甚だ不吉 心元なしいかに/\されば候城内には今日の勝軍 いづれも酒宴の
興を催す中に取わけ和田兵衛殿 例の大酒数盃(はい)をかたぶけ余程の酒興の折からに 大
江の入道銚子盃携へ出 和田兵衛の軍功大将感じ思召し 御悦びの御酒を下さる 頂
戴有て然るべしと聞より何の思慮もなく 土器取て押戴き てうと受てほし給へば 忽ち顔色

土のごとく 六穴よりほと走る血汐は滝のごとくにて さしも強気(がうき)の和田兵衛殿 虚空
を掴み七転八倒其儘息たへ候と 語るにはつと佐々木が仰天 シテ/\其座に三浦之助は有合
さずや さん候取分けむざんは三浦殿 毒酒を以て和田兵衛を殺せし 暴悪不道の大江の入道 掴みひし
いでくれんずと 阿修羅王の荒たるごとく 入道目がけ懸け上る 板間に兼て落穴踏はづし
て真倒(まっさかさま)下に植たる釼にさかれ 身はすだ/\と三浦の最期 皆入道が謀計なれば 此上は頼家
公御身の上も危し/\ 片時も早く城内へ 御入有て守護有へしと云捨又も引かへせば 始終こなた
に立聞時政 佐々木はとけうあきれ果しばし詞もなかりしが ハア天成るかな命成かな 和田と云 三


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浦と云 いづれも秀づる当時の英雄 入道などが術(てだて)に乗しは よく/\味方の運の尽 此上
は片時も早く城内へ馳せ向はん 篝火用意/\と気をせく折から 俄に表さはがしく馬の嘶き
数多の人音 三つ鱗の籏さし物 弓鑓持筒引き馬の錺も きらつく鎧武者 門口に謹んで
鎌倉の大将時政公 此家に遁れまします由 竊(窃・しのび)の物見がしらせにより 御迎の為参
上す 早く御帰陣然るべしと呼はり皆々平伏す 内に女房が猶せき立 アレ時政を迎の大勢 此場を
助けかへしては 龍を渕へ放すも同前 サア今の内本望/\ サア/\/\とあせる中 時政公一間を立出 誠
に危き難を遁れ 殊に今宵の一宿迄浅からぬ亭主が情 町人なれば褒美には

此浜辺に家屋敷を建てあたゆる間 濱屋敷として永く所持せよ 猶も望の事
あらば 重ねてのさたに及ばん さらば/\と馬引寄 ゆらりと乗れば諸軍勢 四方をかこふて立
帰る 天の助けは人力の及ばぬ運そたぐひなき エゝ手に入敵をやみ/\とのがし帰すは何事ぞ 未
練共比興共いふにいはれぬ腰ぬけ武士 お前は天魔が見入しか 情なや浅ましやと 恥
しむればにつこと笑ひ 敵の謀について謀を行ふ高綱 女ごときのしる事ならず ムゝ手に
入敵をやみ/\逃すが謀か計略か ホゝ 今帰つたは時政でない ありや贋者 ナニあの時政
を贋者とは ホ 是迄度々の戦ひに 此高綱に欺かれ 其無念止むことを得ず 面体恰好


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似たるをえらみ 時政に出立たせ けふの軍に討死させ 時政こそ討取たりと味方の者に油断
させ 其虚を討んといふ術てととくより知たる故 攻め口をゆるめさせ態と助けて此家へ伴ひ
城内の変 一々聞せて帰せしは 誠の時政を城内へおびき出さん我智謀と 語るに扨は
と女房が 初めて悟る夫の心 かんじ入て横手を打 遖我夫マ希代の計略 そんなら和田殿三浦殿も
シイ 謀は密成るをよしといふ間に取出す種が嶋 狙ひは松ヶ枝ばつたり人音 申今のは 敵より入竊の曲者
早明け方も近付ば我は是より城内へと又も畳を明烏かはい/\の声に連れ思ひ出したる小四郎が名は消へもせ
で其主は 親を残して西方浄土 みだの御国の道法(のり)計りしられぬ佐々木が抜道 抜目なきちぼうの 程こそ

「類ひなき 江州坂本の城と申すは後ろに峨(がゞ)みたる比叡をおひ 前には湖水満々として日
本無双の名城に 楯籠る源の頼家公 数度の軍に戦ひ勝共目に余る敵の大軍
味方は小勢矢も尽きて早落城と見へにけり 城内には大江の入道御母君を初めとし女中残らず
居並んで頼家公の御居間と 隔つる座敷は大広間 今日を最期の門出とお湯引き 髪に櫛
けづり とめ木の伽羅に諸軍勢心ときめく斗也 入道母君に打向ひ 天命とは申ながら和田佐々木
三浦之助 己/\が片意地を云募り此入道が下知を用ひず 其罰で残らず討死 所詮ひらく
べき運なられば御生害を勧め参らせ 某迚も跡より御供 時刻移らば敵軍爰に乱れ入らん


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敵に首を渡さんより片時も早く御自害と しさつて勧むる入道が底意の程ぞ醜(おそろ)しき
宇治の方打點頭 和田佐々木三浦の輩(ともがら)討死せしと有る上は 最早叶はぬ味方の運命 何惜
からぬ自が命去ながら 己々が身の始末おろそかになし置かば是又死後の物笑ひ ヤア皆の者
心残りのない様に銘々心付け合ふて 自が自害も見届け其上は心次第 必ず早まる事なでと 女ゴながら
も上に立つ心は はるか奥よりも 頼家公のお使として局の千草 しとやかに手をつかへ 母君様へ我君より
のお使 微運は申上るに及ばず 味方の面々討死の上 生害の時節今日 潔ふ死出三途の御
供せん 母上様にもお心静かに御用意遊ばせ 此期に望んで申べき事迚は弥陀の六字より

他事なく候 旨御肝要に思召し下されよとの御事にて候と涙隠して述ければ ホ此方からも
使を以て申上んと思ひし折しも 局大義じや シテ我君にはお覚悟よふお入遊ばすか ハアゝ左様
でござります 未明より御覚悟よく只母上様の御ぼだいと御経読誦遊ばしてござります ナニ
自が仏果の為 ハアゝと答ふも尋るも跡は涙の玉霰 御前へ帰つて申そふは 御念もしのお使
斯く成る上は互に申す言の某はなく候へ共 今生の名残に御顔ばせ 今一目見まほしく侍へど 入道の計ひ
故夫レも叶はず 冥途の旅へ赴き候 必ず母にお心をかけられず 大将たる御身に候へば潔ふ生害
をくれ/\゛頼み参らすといふ声涙にむせ給へば付添ふ女中の一同に お道理様やとふししづむ涙 限りは


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なかりけり ハアゝ姦しい女ばら 局も早く立帰り頼家公に切腹なされといへ とく/\行けと追っ立て
られ是非なく/\も立て行 跡に入道声あらゝげ 泣ても悔んでも最叶はぬさつぱりと諦めて
どれから也と先陣お仕やれ 此入道が始めたけれど 年役なれば跡からまかる 女ばらは誰彼なしい立並んで
一しよに死 サア宇治の方 時うつると三方取て指し付け/\サア/\/\とせり立るは 此世からなる呵責の鬼
外面は修羅の責め太鼓矢叫びの声囂(かまびす)く 母君耳をそば立て給ひ ハテ不審(いぶかし)や きのふの軍に
和田三浦を始め 佐々木の四郎も討死せし故 最早此城保ちがたし 生害せよと入道の勧め
誠と思ひ極めしに今城外に和田佐々木とほの聞へしは 誰し遠見して参られといらつての給ふ

詞を打けし ヤア和田佐々木三浦を始め其外頼む味方の大将 残らず討死したは違はぬ 死だのが悲しさに
血迷ふた空耳ならん こま言いはずと早/\生害 イヤ此実否を糺さぬ内はめつたに自害成
まいわいの ならずば某介錯とすらりと抜て切付くる どつこいそふはと三方に 欠けてもかよはき
女業 強気の入道畳かけ既に危き其所へ 後の襖蹴放して佐々木の高綱飛で出
入道を取て投退け 某始め和田三浦討死と偽り 御二方に生害すゝめ夫レを手柄に時政に
味方せんとは太い工み 是迄味方の謀内通したるも皆儕主を売の極悪人 最早遁れぬ
覚悟せよと詰かけられてちつ共動ぜず ホゝよい推量 儕等が忠義立てが胸わるさに 頼家


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親子が首取て時政公へ降参せんと 心を砕いた我術 十が九つ仕負せしに 見顕されて残
念/\ もふ此上は死物狂ひと 佐々木を目がけ切付ける さしつたりとかいくゞり 刀を丁ど踏み落
せば 詞には似ぬ大江の入道 奥をさして逃行くを 遁さじやらじと追ふて行 跡に母君御声高
く ヤア/\者共 かゝる事共知り給はぬ頼家公 御身の上気遣はし 此通り注進申せ 急げ/\に
女中達皆々奥へ走り行 いかゞ忍び入たりけん 北條時政広間にかけ出入道がしらせ故時
政直きに向ふたり 覚悟せよ宇治の方と いふ間もあらせず胸板へはつしと響く筒音に
もろくも息は絶果てたり ヤアお騒ぎ有な宇治の御方 斯く有んことを察し 詰り/\に守護する

高綱 入道めが悪工みいか成事も計られず 奥へ/\とすゝめやり 高綱勇んで大音上 鎌倉
の大将 北條時政を佐々木の四郎が討取たりと高らかに呼はれば主人の敵遁さじと抜連れ
/\切てかゝる ヤア事/\しき雑兵原 一々此世の暇をくれんと 群がる中へ割て入なぎ立/\切ま
くる 其太刀風に木の葉武士むら/\ばつと逃散れば 佐々木も上帯しめ直し 太刀のほめき
をさまさんと縁側につゝ立折から 矢一つ来つて高綱が肝のたばねにかつきと立てば うんと斗に
どふど伏しはかなく息は絶果てたり 誰が所為共白書院 弓矢携へ悠々と入来る北条時政 是
迄数度の戦ひに佐々木めに謀られし其返報 稲毛の前司某によく似たるを幸い 我姿


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に出立せ佐々木にあてがいし故誠と思ひ本体を顕はせし狼狽へ者 和田三浦は先達て入道が謀に死たる
中 稲毛が咄しに聞たれば最早高綱只一人と思ひの外 我矢先に最期を遂し誠の佐々木 今は大将一本立 ヤア/\
頼家は何国に有 時政直に見参せんと 呼はり/\奥の方 のさ/\歩む耳元へ又もとつさり種が嶋 恟り仰天
根返るお花畠の鳥おどし 簑笠取て高笑ひ ハゝゝゝイヤお騒ぎ有な時政公 近江源氏嫡流佐々木四郎
左衛門高綱 夫レへ参つて御見参仕らんと呼はる声に遉の時政仰天有り 稲毛の前司に勧められ 深々と入来り 又
も佐々木が術てに乗しか 思へば無念と引帰す表の方より和田兵衛三方携へ取出ればこなたよりは三浦介
長柄の銚子携へ出 只今城外に於て頼家公実朝公御兄弟御対面の上 互に和睦相調ふといふに

和田兵衛引取て 両将御心解け合ふからは 時政公にも違義有まじ 御悦びの御盃頂戴有れと詞の下 佐々木四郎
遥かに手をつき 某方寸の謀を以て 時政公を城内へ引入れしも 御和睦を調ん為 公御一人の御心にて万民塗
炭の苦を遁る 御承引下さらば敵対申せし我々 御刑罰に逢も聊か恨みと存ぜずと 詞を尽し理を責めて
命惜しまぬ三人が 忠義を感じて時政公 ホゝ遖成忠臣義士 実朝公御許容の上は 某に何の野心 和睦は願ふ所ぞと
詞に三人飛立悦び勇み立たる折からに 軍勢引連れ大江の入道 余すまじとて追取まく ヤアもの/\しやと二人が抜放したる
太刀風に恐れて近寄る者もなく 入道独りを引挟み 是迄工みし悪の報ひ思ひ知れと首討落し 悦び勇む和田
三浦 佐々木が家の四つ目結ひ 其結び目は代々迄も とけず 治まる秋津国栄への 春ぞ目出度けれ