仮想空間

趣味の変体仮名

義経千本桜 第四 第五


読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
     イ14-00002-842


73(左頁)
    第四 道行初音旅   
恋と 忠義のいづれがおもい かけて思ひははかりなや 忠と信(まこと)のものゝふに
君が情と預られ 静に忍ぶ都をば 跡に見捨てて旅立て つくら
ぬなりも義理の御行末は難波津の 波にゆられて たゞよひて
今は芳野と人づての噂を道のしほりにて 大和路 「さしてした
ひ行 野路もなれぬしげみのまがひ道 弓手もめても若草
を 分つゝ行ば あさる雉子(たゞす)のぱつと立てはほろゝけん/\ほろゝうつ
 

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なれば子ゆへに身をこがす我は恋路に 迷ふ見のアゝうらやまし
ねたましや はつ雁金の女夫連 つま待顔の羽ばかま 人よりましの
真柴さす 宇賀の御魂(みたま)の御社は いととうとくも く/\と霞の
中にみかのはらわきて筐の鼓のかはい /\/\のむつ言を人にはつゝむ
ふくさ物 それを便につく杖も心 ほそ野を打過て 見渡せば四方
のこずへもほころびて 梅が枝うたふ歌姫の里の男が声々に 我
つまが 天井ぬけてすへる膳 昼の枕はつがもなや 天井ぬけて

すへる膳 ひるの枕はつがもなや ヲゝつがもなや おかし烏の一ふしに 人も
わらやの育ちにも春ははねつく 手まりひいふうつく/\゛と聞ば こち風
音添て去年(こぞ)の氷を とくわかに御万歳と君もさかへまします 有
けう有や頼もしや さぞな大和の人ならば御隠れ家をいざとはん 我も
初音の 此鼓の栄へを寿て 昔を今になすよしもがな 谷
の鶯ナ 初音の鼓/\ しらべあやなす音につれて つれてまね
くさ おくればせなる忠信が旅姿 背(せな)に風呂敷をしかとせた


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らおふて 野道あぜみちゆらり/\ かるい取なりいそ/\と 目立たぬ
やうに道隔て 女中の足と侮つて嘸お待兼 爰幸いの人目なし
と 姓名添て給はりし 御着せ長を取出し君と 敬ひ奉る 静は
鼓を御顔とよそへて上に沖の石 人こそしらね西国へ御下向の
海上 波風あらく御船を 住吉浦に吹上られ それより芳
野にまします由 やがてぞ参り候はんと互に筐を取納め げに
此鎧を給はりしも 兄次信が忠勤也 八嶋の戦ひ我君の 御馬の矢

表に駒をかけすへ立ふさがる ヲゝ聞及ぶ其時に 平家の方には名高
き強弓(つよゆみ)能登守教経と名乗もあへずよつぴいてはなつ 矢先
はうらめしや 兄次信が胸板にたまりもあへずまつさか様 あへなきさいごは忠
臣義死の名を残す 思ひ出るも涙似て袖はかはかぬつゝ井筒 いつか御身も
のびやかに春の柳生の糸長く 枝を連(つらぬ)る御契りなどかは朽しかるべきと互に
諌めいさめられ急ぐとすれどはかどらぬ あし原峠かうの里 土田六田(むつだ)も遠からぬ
野路の 春風吹はらひ雲と 見まがふ三芳野の麓の 里にそ「着にける


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丈六忿怒の御像(かたち)も花に和らぐ吉野山 軒は霞にうづもれて殊勝さまさる蔵王
堂 桜はまだし枝々の梢淋しき初春の空 一山の衆徒評定下の百姓抔 お髭
の塵取はき掃除霊験あらたな仏より 衆徒の罰(ばち)をや恐れけん 名斗は静といへど
急ぐ道 忠信が介抱にて義経の御跡を漸爰に慕ひ来て弥生ならばと云ながら 見渡
す景も吉野山 百姓共口々に 何と美しい京女郎 花見にはまだ早いなァ 何の花見で有
ぞい 男と女と二人連 腹が孕でしやうことなふ ついとしてごさつたかと問かけられてアゝいやそんな者
てなし 河連法眼殿へ用事有て参る者 是からどふいきますと 皆迄聞す早合点 エゝ込だ

/\ 妾(てかけ)奉公にやらしやるの ヲいかしやればよい仕合 河連法眼様といふは此一つ山の衆徒頭 芳
野中は立ふと伏ふと儘な上に 女房持て魚や鳥は喰次第 じだらく坊主の様なれど 妻帯
といへば格がおもい どふぞ首尾して仕合さしゃれ アこな様は目高じやの ガ其法眼様には大
切なお客でもござりますか イヤそんな事は知ませぬ 毎日琴三味線で賑かなとは聞まし
た コレ此道をかういてkつちやの方が子守明神 女ゴの参らにやならぬ所 それより手前の一筋道左
の方につい見へる 大きな門の有所と 教に静があい/\/\ 忝ふござんすと気のせく道をとつ
かへと打連て こそ急ぎ行く 早参会と呼鐘に 山科の法橋坊 無道不敵の一字を蒙り


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荒法橋と名を呼れ のつか/\とくる跡に 鬼と名乗は違はぬ悪者梅本の鬼佐渡坊返り
坂の薬医坊 清僧ながら大太刀帯 大口の裾踏ちらし けふの評定真先かけ ない知恵ふる
はん顔付也 今迄のふずな百姓共逆様に這かゝめば 鬼佐渡傍(あたり)を睨廻し まだ掃除仕廻
ぬな 先達て云渡すにのらかはいて隙いるれる年貢時分に待ておろと叱付られハイ/\/\ 当り眼(まなこ)に
てんでに箒どつさくさ 風上から掃回せば袈裟も衣も土ぼこり こくどうめらこりや何し
をると 叱る程猶遠慮なふ 掃除しますと無二無三ほこりかづけて逃帰る 爰に河連法眼
とて一山の検校職 華美を好ぬ萌黄の法服 歩路(かちゞ)をきたる指貫もしめくり有仁体 ホウ

いつれも早かりつと互に前後の挨拶有 各円座に列(つらな)れり や有て河連法眼 先達て
回状を以て申せし所 早々の参会近頃祝着 今日の談合余の義にあらずと 懐中より一通を取出し
鎌倉殿の家臣 我小舅茨左衛門より斯の如き書状到来 文書を読聞さば申さず共様
子は明白 先ず聞れよと押ひろげ 飛札を取て申達す 九郎判官義経の事弟の身として 舎兄
頼朝追討の院宣を蒙り 剰さへ土佐坊正尊を討取都を立退き 大和路に徘徊の由 其聞へ
有によつて 鎌倉殿御憤り大方ならず 早く討て出すべきの旨 国々へ配府を廻らし畢(おはりぬ)討取て恩
賞申受らるべく候 隠置においては一山の滅亡此時に候也 正月十三日河連法眼殿 茨


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左衛門 聞れたかいづれも 談合とは此事 元来(もとより)科なき判官殿 大和路に徘徊と有ば一山の
衆徒を頼来られんは畢竟也 其時は旁(かた/\゛)頼まれて申てかくまふ気か 又は討て出す所存か 心々で
済ぬ事 銘々に遠慮なく評議有れと 聞もあへず荒法橋実(げに)尤去ながら 我々が評定お尋
迄なく 一山の仕置頭 法眼殿から了簡を定め申さるれば 誰有て詞を背かず一党せん 先御所存
はと問かへす ホゝウ了簡は胸に有 まつかく/\と云聞さば 仮令(たとへ)心に合ず共 よもやいやとは申されまじ
左有ばかへつて不覚の基(もとひ) 我所存は跡でいはん先各々の思ふ所 真っ直に申されよと いへ共互に心置き暫し
返答怠りしが 返り坂の薬医坊遠慮なくぬつと出 先愚僧が存るは 義経をかくまふは二年三

年 乃至十年廿年 其間立養ひ独り斗は僅かでも 弁慶といふくらひ抜けの候へば いか程くらひ込ん
も知れず と有てかくまふまいといはゞ 彼弁慶めつそう者 七つ道具の鋸で家尻(やじり)切らんも知れ申さ
ず どかと盗れ申さんより 一山の出し前にて 茶粥をくはせ養ふが勘定ならんと申にぞ 法眼
おかしく思ひながら ムウそれも肝要 扨両人はと云せもあへずされば/\ 此事において勘定も何にも
いらず 人を救ふが沙門の役 科なき義経かくまふ迚鎌倉より討手来らば 忍辱の袈裟引かへ 降(がう)
魔の鎧に身をかため 逆寄(さかよせ)に押寄討取 直ぐに鎌倉へ追上り御身に覚なき条々 申開いて讒
者ばら一々に切ならべ夫レも叶はぬ物ならば理非弁へぬ頼朝を討取て 判官殿の天下とせん 我々が所存

 
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此通り 法眼殿の御了簡承らんと申ける イヤ/\まだ申されぬ 法橋殿の御懇意有る近頃の客僧
横川の禅師覚範此場へ参り合さず 此了簡も聞ねば云れず などや遅きぞ待ち久しといふ
間程なく山道を しづ/\歩みくる法師は名にしあひたる横川の覚範 衣の褄高く取二尺五寸の
太刀帯そらし 末座(ばつざ)にすはれど尺(たけ)高く僧がら ゆゝ敷見へにける ヤア待兼し覚範殿 近ふ/\
と招き寄せ 法眼ずんど立上り コレ/\覚範 アレ見られよ 霞の中に朧なる 二つの山は妹兄(いもせ)山 是
合体の歌名所 川を隔て西は妹山 東は兄山(せやま) 山は二つに別れたり 妹(いも)は妹弟(いもと)の義 兄山は元より
兄頼朝 頼朝義経兄弟の中 芳野川引わかれし 姿は山に異ならずされば歌にも流れては

妹兄の山の中に落る 吉野の川のよしや世の中と詠だれば 世を捨人の我々でも頼にひかぬ
か但は又 浪の白刃で討取気か 手短に返答聞ん 申されやつと云ければ 思案に及ずずつと立
打 點(うなづ)いて 蔵王堂にかけ奉る奉納の弓と矢取て弦引し 河連殿御覧有 手短に我返
答 山と山の目通りに立たる二木は勝負の目当 返答御覧と弦打つがひ かたむる迄なくはつし
と放す 白矢は兄山の印の木根深にゆつて立たりけり 法眼きつと見 頼朝に準(なぞらへ)たる兄の山に
弓ひかれしは 頼朝に敵対ふて義経の味方よな ムウ/\と斗以前の状ぐる/\巻て懐中し 山
科法橋梅本坊薬医坊も其通や 皆一同に義経の味方/\と呼はれば ムウそれならば


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法眼が所存も是にて明さんと 同じく弓矢手に取上引かためたはいつれを的 どちらに付くぞと見
る中に かろきと放すは義経に名ざす妹山弟山 ヤア扨は法眼頼朝方 義経に弓ひか
るゝよな いかにも 落人に組せんより 世に連れて一つ山の 破滅にせぬが仕置の役目 しかとそふや
イヤ覚範あぢな所に念が入 義経此山を頼なば引かけてかくまはれよ 金輪際此法眼 捜し出して
討て見せう 其時は敵味方 無分別成衆徒原に談合せし隙惜しや けふの参会是迄/\
さらば /\と云捨て 駕(が)を待ずして立帰る所存の程ぞ不審(いぶかし)き 跡に鬼佐渡口あんごり アリヤ
何の事どふいふ事 云合せたは皆すまた 覚範はどふ思ふてぞと 山科諸共尋れば覚範ふつと

吹出し 其浅い了簡故法眼が底意をしらぬ 今の詞でとつくりと義経をかくまひ居る底
の底迄皆知れた 法眼も我所存義経の味方と嘘と睨んで帰つた眼中 事延々に計ら
はゞ 落としやらんも計られず 今宵八つの手筈を定め 夜討に入て取 鎌倉殿の恩賞に預れ
旁 覚範が夜討のかけ引催促を 聞けや/\と大木の 朽根にどつかと腰打かけ 我釈門のより
/\に 孫呉が兵書諳んじたり 我詞をあやまたず 荒法橋は下兜十騎余り 燈籠が辻より
一文字に 彼が館にひた/\と押寄て喚鐘(くわんしゃう)三つ四つ乱調せよ 鬼佐渡は又如意輪寺の裏の
手を真直に 六地蔵の橋を引 敵逃くる時を待さん/\に射て留めよ 此覚範は新坊谷の


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坊に火をかけ火を上て聖天山より無二無三にかけちらして勝利を得ん 今夜の勝つ事手裏に
有りいさめ/\と云ければ 薬医坊頭を打ふり それは味方の思ふ儘敵強うして荒法橋が手勢を
投退け かけちらしまつしくらに討て出 勝手の宮を陣所として門をひつしと打たばいかに ホゝ理りにも咎め
たり 其時は八王寺金剛蔵王の袖ふる山 峯に上つてまつ下りに詰 指詰射るならばそこも
たまらず逃失ん ヲゝ其時はまだ咲ぬ桜の木隠れ枝隠れ 木の間/\の細道を 逃行先は天皇
橋 大将軍の多宝塔 時に取ての角(すみ)櫓 追くる衆徒を待かけて射かくる矢先は扨いかに 小ざかし
荒法橋 何条射共落人が 持たる矢種数知れたり 引ては寄せ寄せては引 矢種尽させ討取に

何の手間隙入べきぞ 恐れな音すな用意せよ いそふれ旁其昔 天武の軍有し時乙
女下つて舞かなづ是 反閉(へんばい)の始也 いざ勝ち軍の義を取て踏々(たう/\)登路/\踏ならす 左に七足
右七足 左右合して十四足 はた/\はつしと踏治め サア行すゝめと逸参にいさみ足して立帰る
横川の膳師覚範が勇気 希なる「鶯の声 なかりせば 露消ぬい山里いかで 春を
しらまし 春は来ながら 春ならぬ九郎判官義経を御慰めの琴三味や 河連法眼が奥座
敷 音じめも世上忍び駒 柱(ことぢ)に立る雁金も 春を見捨ぬ志げに頼もしきもてなし
也 今朝より他出の法眼心に一物有顔に 悠々と立帰れば 妻の飛鳥は出向ひヲゝ異(こと)ない 


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早いお帰り 今日の御評定一山のお仕置か 但は又奥のお客 義経様の御事かはと尋
ば ヲゝサ/\ 義経の事共/\ ムゝウ扨吉野一山残らずお味方といふ様な所にもや 成程/\ 衆
徒の中にも返り坂の薬医坊 山科の荒法橋 梅本の鬼佐渡等 別しては横川の覚
範 一はな立て義理の味方といふは 我心を捜し見ると知たる故 此法眼は鎌倉方と云放
つて帰つたり ムウ鎌倉方とおつしやるは 衆徒の心をこちからも 捜て見る御了簡 イヤ/\法眼
けふより心を改め 義経とは敵味方 エゝイあのお前義経様を ヲ鎌倉殿へ討て出す
気 合点行ずば是見よと 懐中の書翰(しよかん)投出せは手に取上 文言残らず読終り ムウ義

経公此山に御忍びまします事 鎌倉へ知れたやうな文体 ヲゝいかにも汝がいふごとく 天に
口なし人を以ていはしむる 告げ知せた者なくて小舅の茨左衛門 かくいふて越すべきや 内通せら
れて知れたる上は遁れなき判官殿 人に手柄させんより 我手にかけて討つ所存 アノそれは
真実か 応 イヤほん/\゛にこな様は 義経公を切心かくどい/\ ハアはつと むねも突詰し
夫が刀抜くより早く 自害と見ゆる女房が 持たる刃物ひつたくり こりや何とする何
で死と いふ顔きつと打守り エゝ聞へぬぞや法眼殿 なぜ隔てては下さるぞ 恩賞の御下し
文 千通万通来た迚も 一旦の契約変ずるこなたの気質じやない 鎌倉殿の


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忠臣茨左衛門が妹の飛鳥 義経公の御隠れ家 兄の方へしらせたかと 此状が来た故
に疑ふての心じやの 覚ない言訳をまだ/\としていられぬ 疑ふよりは一思ひに殺して
下され法眼殿と恨み涙 ぞ誠なる 法眼始終を聞すまし 以前の一通取より早くずん
/\に引さき/\ 偽りに命は捨まじ 女房を疑ふは未練には似たれ共 義経公へぬけめなき
我忠節 衆徒抔が胸中探りし次手 心引見る此贋状 引裂き捨れば安堵して 自害を止ま
れ女房と 解くる詞は春の雪恨みも消てなかりけり ヤア法眼帰られしな 面談と義
経公 奥の間より出させ給ひ 鞍馬山の好(よしみ)を忘れず 一々の御厚恩祝着詞に述がたし 兼

て申し談ぜし通り 今日の衆徒の評定 委細あれにて承知せりと 御諚にはつと頭(かうべ)をさげ
師の坊の命(めい)と云只ならぬ御方 粗略なき心底御存の上は身に余る悦び此上や候べき 武
蔵坊は奥州秀衡方へ遣はされ 御家臣迚少なければ亀井駿河なんどがごとく 思召下
されよと申詞の内使い罷り出 佐藤四郎兵衛忠信殿 君の御行衛Iを尋御出也 通し申さんやと
窺ふにぞ 扨は無事にて有つるな こなたへ返せ対面せんと 仰伝ふる次の間へ法眼夫婦は立
て行 案内に連て入来る 四郎兵衛忠信 御座の間のこなたに出 絶へて久しき主君の顔 見
るも無念のあら涙指うつむいて詞なし大将ご機嫌斜ならず 汝に別れ爰かしこ鎌


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倉殿の御詮議つよく 身の置所なかりしに 東光坊の弟子 河連法眼にかくまはれ 心なら
ざる春を向へ 暫の命をつぐ 我姓名を譲りし其方 命全く有事我運のまだ尽
ざる所 頼もししよろこびばし 其砌預たる静はいかゞ成しぞと 御尋有ければ忠信いぶかしげに承り コハ存
がけなき御仰 八嶋の平家一時に亡び 天下一統の凱歌(かちどき)を上給ふ折から 告げ来る母が病
気聞し召及ばれ 御暇給はつて本国出羽へ帰りしは去年三月 程なく別れし母が中陰 忌
中に合戦の疵口おこづき 破傷風と云病と 成既に命も危き半ば 御兄弟の御中さけ堀
川の御所没落と承る口惜さ 胸を煎る程重(おも)る病気無念さ余つて 腹切んと

存ぜしかど せめては主君に御顔ばせ 今一度拝し奉らんと 念願かなひて本復とげ 初立(ういたち)の
長旅忍びの道中恙なく 此館に御入と承はり 只今参つた忠信に姓名を給はりし 静
御前を預しなんど御諚の趣 かつ以て身に覚へ候へずと 云せもあへず気早の大将 ヤアと
ぼけな忠信 堀川の館を立退し時 折よく汝国より帰り 静が難儀を救ひし故 我着せ長
を汝にあたへ 九郎義経といふ姓名を譲り 静を預け別れし其方 世になき我を見限
つて 静を鎌倉へ渡せしな 義経が有家捜しに来たか 只今国より帰りしとは まだ/\敷
偽り表裏 漂泊してもうつけぬ義経 謀らんとは推参也 不忠二心の人外 アレ引


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くゝつて面縛させよ 亀井駿河と腹立の 声にかけくる二人の勇士 裾はせ折て忠信
が 弓手馬手に反り打かけ 委細あれにて皆聞た サア腕回せ四郎兵衛 静御前の御行
衛 サア明白に白状せよ 踏付けて縄かけふ 拷問して云ふせうかサアどふじや サアどふ
じやとせりかけられてせん刀 指添共に投出し両人待た麁忽すな 待てとは但云
訳有か サア聞ふサアなんと/\/\に難儀の最中 静御前の御供申し 四郎兵衛忠信殿
御出也と 奏者が声に人々仰天 忠信が又来たとは 合点行ずと聞もあへず 以前
の忠信立上り 我君をかたるは何でも曲者 引くゝつて大将への面晴せんとかけ行を

ヤアならぬ/\ 詮議の済む迄動かさぬと亀井が向ふをさゝへたり ヤアさなせそ六郎 忠信是
に有上は 又忠信が静を同道 何にもせよ子細そあらん 片時も早く是へ通せ あつと亀
井は次の間へ 我身あやぶむ忠信は黙して 様子を窺へば 別れ程へし君が顔見たさ逢
たさとつかはと 河連が奥の亭歩みくる間もとけしなくノウ我君かなつかしやと 人目いと
はずすがり付き恋し床しの溜々を涙の色にしらせけり ヲゝ女心に歎くは尤 別れし時云聞せし
ごとく 人の情に預る義理 輪廻きたなき振舞ならねば つれなくはもてなしたり 忠信を同
道とや いづくに有と尋給へば たつた今次の間迄連立て参りしが 爰へはまだかと見廻し


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/\それ/\/\ ても早ふ爰へ来てじや 一所にお目にかゝる物を ちつとの間に先へ抜かけ ま
だ軍場かと思ふてか まんがちな人では有と恨口成詞に不審 一倍晴ぬ四郎忠信 我
君も其ごとく覚なき御尋 拙者は今の先 出羽の国から戻りがけ 去年お暇申てからお
目にかゝるは只今始て エゝあの人のじやら/\とてんがうな事斗 てんがうでなし大真実 アレまだ
真顔でだますのかと 何気も媚(なまめ)く詞の中 立戻る亀井の太郎 静御同道の忠信引
立来らんと存ぜし所 次の間にも有合さず 玄関長屋所々方々尋ても知れず候と
申に心迷はせ給ひ コレ静爰に居るは其方を預たる忠信ならず 只今国より帰りしと

物語する中 忠信静を同道との案内 二人有中にても見へざるは不審者 面体似たる
贋者ならずや 静心が付かざるかと 仰の中に忠信を つれ/\と打ながめ ハアどふやらそふおつしやれば
小袖も形(なり)も違ふて有 アゝお待遊ばせや ハツアそれか エゝそふじや 思ひ当る事が有 君が筐
と別れし時給はりし初音の鼓 御覧遊ばせ此様に 肌身も離さず手にふれて 忠信の介
抱受け 八幡山崎小倉の里所々に身を忍び居たりしに 折々の留主の内 君恋しさの此
鼓 打て慰む度々 忠信帰らぬ事もなく其音を感に絶ゆる事 ほんに酒の過た人
同前 打やめばきよろりと何気ない顔付は よく/\鼓が好きそふなと初手は思ひ二度


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三度 四度(たび)めにはてもかはつた事 又五度めは不思議立 六度めにはこはげ立 それよりは
打たざりしが 君は爰にと聞付けて 心せく道忠信にはぐれた時 鼓の事思ひ出し 打てばふしぎや
目の前にくる共なく見へたるは 女心の迷ひ目かと思ふて連立来りしに 又此時宜はどふ
ぞいのと申上れば義経公 ムウ鼓を打てば帰り来るとは それぞよき詮議の近道 静
そちに云付る 其鼓を以て同道した忠信を詮議せよ 奇しい事あらば此刀でと投げ
出し 我手で打れぬ鼓の妙音 それを肴に一献酌(くま)ん 早々鼓打てと云捨奥
に入給へば 亀井駿河も忠信にひつ添ひてこそ入にけれ 静は君の仰を受け 手に取

上て引結ぶしんき深紅をないまぜの 調結んで胴かけて手の中しめて肩にに上 手
品もゆらに打ならす 声清々と澄渡り 心耳(しんに)をすます妙音は 世に類なき初
音の鼓 彼洛陽に聞へたる 会稽城門の越(えつ)の鼓 かくやと思ふ春風に 誘はれ
来る佐藤忠信 静が前に両手をつき 音に聞とれし其風情 すはやと見れど打止まず
猶も様子を詞の音色 聞入聞いる余念の体 奇しき者とは見て取静 折よしと鼓を止(やめ)
遅かつた忠信殿 我君様のお待兼 サア/\奥へと何気なき詞にはつとは云ながら 座
を立おくれて指しうつむく 油断を見すまし切付るを ひらりと飛退き飛しさり コハ何と


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なさるぞと 咎られて気転の笑ひ ホゝゝヲゝあの人の気疎い顔 久しぶりの静が舞
見よふと御意遊ばす故 八嶋の軍物語を 舞の稽古と鼓を早め かくて源平入乱
れ 船は陸路(くがぢ)へ陸は礒へ 漕寄せ打出打ならす 鼓に又も聞入て余念たはひもなき
所を 忠信やらぬと又切かくる 太刀筋かはしてかいくゞるを付入柄元しつかと取 何科有て
だまし打に 切るゝ覚かつつてなし 刀たぐつて投捨れば 贋忠信のサア白状 仰を請た
静が詮議 云ずばかうして云すると鼓追取はた/\/\ 女のかよはき腕先に打立ら
れてハアあつと 誤り入たる忠信に鼓打付けサア白状 サア/\/\さあと詰寄せられ 一句

一答詞なく只ひれ伏て居たりしが 漸に顔をあげ 初音の鼓手に取上 さもうや/\敷
押戴/\ 静の前に直し置しつ/\立て 広庭へおりる姿もしほ/\と みすぼらしげに
手をつかへ けふが日迄隠しおゝせ人に知らせぬ身の上なれ共 今日国より帰つたる誠の忠信に
御不審かゝり 難儀と成故拠(よんどころ)なく 身の上を申上る始まりは 夫レ成初音の鼓 桓武天皇
の御宇 内裏に雨乞有し時 此大和国に千年功経(ふる)牡狐 二疋の狐を狩出し
其狐の生き皮を以て拵へたる其鼓 雨の神をいさめの神楽 日に向ふて是を打ば 鼓
は元来(もとより)波の音 狐は陰の獣故 水を発(おこ)して降る雨に 民百姓は悦びの声を初めて


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上しより 初音の鼓と号(なづけ)給ふ 其鼓は私が親 私めは其鼓の子でござりますと 語る
にぞつとこはげ立 騒ぐ心を押しづめ ムゝそなたの親は此鼓 鼓の子じやといやるからは 扨は
そなたは狐じやの ハツア成程 雨の祈りに二親の狐を取れ 殺された其時は 親子の差(しや)
別も悲しい事も 弁へなきまだ子狐 藻を被(かづく)程年もたけ 鳥井の数も重れど
一日親をも養はず 産みの恩を送らねば 豚狼にも劣し故 六万四千の狐の下座に
着き 只野狐とさげしまれ 官上りの願も叶はず 親に不孝な子が有ば 畜生よ野
等狐と 人間ではオツしやれ共 鳩の子は親鳥より枝を下がつて礼儀を述べ 烏は親の

養いを 育(はごくみ)返すも皆孝行 鳥でさへ其通 まして人の詞に通じ人の情も知る狐
何ぼ愚痴無智の畜生でも 孝行といふ事をしらいで何と致しませう とはいふ
物の親はなし まだも頼は其鼓 千年功ふる威徳には 皮に魂溜つて性根入た
は則親 付添て守護するは まだ此上の孝行と 思へ共浅間しや禁中に留置き
給へば 八百万神宿直の御番 恐れ有は寄付れず 頼も綱も切果しは 前世に誰
を罪せしぞ 人の為に怨(あだ)する者 狐と生れ来るといふ因果の経文うらめしく 日に
三度夜に三度 五臓をしぼる血の涙 火焔と見ゆる狐火は胸を焦する炎


90
ぞや かほど業因ふかき身も 天道様の御恵でふしぎにも初音の鼓 義経公の
御手に入 内裏を出れば恐れもなし ハツア嬉しや悦ばしやと 其日より付添は義経公のおかげ
稲荷の森にて忠信が 有合さばとの御悔 せめて御恩を送らんと其忠信に成かはり
静様の御難儀を救ひました御褒美と有て 勿体なや畜生に 清和天皇の後胤
源九郎義経といふ御姓名を給りしは 空恐ろしき身の冥加 是といふも我おやに孝行
が尽したい 親大事/\と思ひ込だ心が届き 大将の御名を下されしは人間の果を請たる同前
弥々親が猶大切 片時も離ず付添鼓 静様は又我君を恋慕ふ調の音 かはらぬ

音色と聞ゆれ共 此耳へは二親が云(ものい)ふ声と聞ゆる故 呼かへされて幾度か 戻つた事
もござりました 只今の鼓の音は私故に忠信殿君の御不審蒙つて 暫くも忠臣を
苦すは汝が科 早く帰れと父母が教の詞に力なく 元の古巣へ帰りまする 今迄は大
将の御目を掠めし段 お情には静様 お詫なされて下さりませと 縁の下より延上り我親鼓に打向ひ
かはす詞のしり声も涙ながらの暇乞 人間より睦じく 親父様 母様 お詞を背きませず 私はもふ
お暇申まする とは云ながら御名残惜かるまいか 二親に別れたおりは何にもしらず一日/\立に付
暫くもお傍に居たい 産みの恩が送りたいと 思ひ暮し泣明し こがれた月日は四百年 雨乞


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故に殺されたと 思へば照る日がうらめしく 曇らぬ雨は我涙 願ひ叶ふが嬉しさに年月馴しつま
狐 中に儲し我子狐 不便さ余つて幾度か 引る心をどうよくに 荒野に捨て出ながら飢は
せぬか 凍へはせぬか 若し猟人に取れはせぬか 我親を慕ふ程 我子もてうど此様に我を慕はふ
がと 案じ過しがせらるゝは切ても切ぬ輪廻のきづな愛着の鎖に繋留られて 肉も骨
身も砕くる程 悲しい妻子をふり捨て 去年の春から付添て丸一年立つや立ず いねと有
迚何とマア あつと申ていなれましよかいの お詞背かば不孝と成 尽した心も水の泡せつなさが余
つて帰る此身は何たる業 まだせめてもの思ひ出に 大将の給はつたる源九郎を我名にして 末世

末代呼る共此悲しさは何とせん 心を推量し給へと泣つくどいつ身もだへし とうどふして泣叫ぶは
大和国の源九郎狐と云伝へしも哀也 静が遉女気の 彼が誠に目もうるみ一間の方に打
向ひ 我君夫レにましますかと 申内より障子を開き ヲゝ委しく聞届し 扨人にてなかりしな 今
までは義経も 狐とは知ざりし 不便の心と有ければ 頭をうなたれ礼をなし 御大将を伏拝/\座を
立は立ながら 鼓の方をなつかしげに見返り/\ 行となく消ゆる共なき春霞人目朧に見へざれば 大将
哀と思召アレ呼かへせ鼓打て 音に連又も帰りこん 鼓々と有けるにぞ静は又も取上て打は
ふしぎや音出ず 是は/\と取直し 打て共/\こはいかに上(ちつ)共平(ぼう)共音せぬは ハア扨は魂残す此鼓 親


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子の別れを悲しんで音を留たよな 人ならぬ身も夫程に子故に物を思ふかと 打しほるれば
義経公 ヲゝ我迚も生類の恩愛の節義身にせまる 一日の孝もなき父義朝を長田に
討たれ 日かげくらまに成長(ひとゝなり)せめては兄の頼朝にと 身を西海の浮き沈み忠勤仇なる御憎しみ 親共思ふ
兄親に見捨られし義経が 名を譲つたる源九郎は世の業我も業 そのいつの世の宿酬
にて かゝる業因也けるぞと身につまさるゝ御涙に 静はわつと泣出せば 目にこそ見へね庭の
面(おも)我身の上と大将と 御身の上を一口には勿体涙に源九郎 たもち兼たる大声にわつと叫べば我
と我姿を包む表霞はれて形を顕せり 義経御座を立給ひ 手づから鼓を取上てヤイ源九郎

静を預り長々の介抱詞には述がたし 禁裏より給はり大切の物ばれ共 是を汝に得さすると指出し
給へば 何其鼓を下されんとや ハア/\/\有がたうあ忝や こがれ慕ふた親鼓 辞退申さず頭戴(てうだい)
せん 重々深き御恩のお礼今より君のかげ身に添ひ 御身の危き其ときは一方を防ぎ奉らん 返す
/\も嬉しやな ヲゝ夫レよそれ 身の上に取紛れ申す事怠つたり 一山の悪僧ばら 今夜此館を
夜討にせんと企てたり 押寄せさする迄もなし 我転変の通力にて 衆徒を残らずたばかつて 此館へ
引入/\真っ向立割車切 又一時にかゝつし時 蜘手かくなは十文字 或は右げさ左げさ 上を払へば沈
て受け 裾を払はゞひらりと飛 けいしやい飛術は得たりや得たり 御手に入て亡すべし 必ぬからせ


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給ふなと 鼓を取て礼をなし 飛がごとくに行末の跡をくらまし失せにける 始終の様子詳に聞て
驚く四郎兵衛 亀井駿河諸共に御前に進み出 生類の誠有る弁舌にて 大将の御疑ひも其が
心も晴て 此世の大慶上なしと申詞も終らぬ所へ河連法眼罷出 怪力乱神を語らずといへ共
彼源九郎が申せしは一山の衆徒 今宵夜討に来る条 先達て忍びを入候所 恰も府節を合
するごとし敵を引受戦はんか討て出申べきや 賢慮いかゞと伺へば 四郎兵衛忠信よき計略ごさんなれ 狐に
譲り給ひしも 元は拙者に給はる姓名 君にかはつて討死せば 一旦事はしづまらん ひらさら御免を
蒙り度存奉り候と 余儀なき願ひに御大将 我思ふ子細有れば暫く此場は立退れず 我

名を名乗り衆徒等を欺(はか)れ 汝死すれば我も死ぬ必ず討死すべからずと 御帯刀(はかせ)を給(たび)てげる 仁
徳厚き御詞に出行跡を見送つて 静来れと打連奥にぞ入給ふ 時も移さず入来るは山
科の荒法橋 我慢の大太刀指こはらし 案内に及ばずずつと通り コレ/\法眼殿 只今直の
御出近頃祝着 義経搦めおかれしとやお手柄といひお使がら 早速ながら参つたと 詞に人
々目を合せ 扨は鼓の返礼にきやつをたばかり寄せたるよと 心に點きいかにも/\ 奥の
殿に搦置くサアいざ/\と先に立 亀井に目はじき間もあらせず 得たりと利き腕取る手も
早く床も砕けとずでんどう 起こしも立ず踏付け/\早縄たぐつてくゝり上 宙に引立大将の


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見参に入れんといさみ行 義経ならぬ源九郎が計略とこそしられたり 次へ来るは梅本の鬼
佐渡 何でもつかみ喰はん頬付 眼に見へぬ源九郎に つまゝれくるとは白衣(しろころも)の袖押ま
くつて屋敷の隈々(くま/\)睨廻し イヤ法眼殿ただいまは早々の仕合 まだ帰られずと思ふたに 何
もかも手ばしかい シテ囚人(めしうど)はとでかし顔なる鼻の下 長廊下をやり過し蹴かへす板間踏す
べり する/\駿河に踏のめされ 無念/\の手間隙いらず同じく奥へ引立行 扨三番めは
返り坂の薬医坊 くる/\道も仏頂面 ヤレせはし はてせはし いくはいやい まあ待てやい こりや其様
に引するな 衣や着物か破れるはい 扨々無礼な使じやと 源九郎に化かされて何をいふやら

訳もなき 中にしはさはこもりける ヲゝ待兼し薬医坊 サア/\こちへと寄る顔で小腕ぐつと
捻上ればアイタゝゝこりや何とする ヲゝかうするとそれながら大の法師を引かづき 貴殿斗は
法眼が手料理の馳走ぶり 義経公の献立を待て切かた致さんと 笑ふて奥に入に
ける勇気の程ぞたぐひなき 斯と白刃の大長刀鐓(いしづき)土につきならし 衣の下は海老胴
鎖り 頭は袈裟にひんまとひ ゆらり/\と入たるは 只物ならぬ横川の覚範 大庭に二
五立 河連殿はいづくに有客僧是へ参入せり 奥へ推参申さんか とく/\対面と
呼はりながら歩み行 後ろの障子の内よりも 平家の大将能登守 教経待てと声か


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けられ 思はずきつと見返りしが ムウ声有て形なきは 我を呼ぶにはあらざりし 覚へなき名に驚き
て思はぬ気おくれ ハゝゝ人なくて恥かゝざりしと独り言して行所を ヤア卑怯な教経能登
守 九郎判官義経がとくより是に待かけたりと 障子をさつと押ひらく見るより覚範
望む所 長刀柄ながくかいこんで飛かゝらんず顔色に ちつ共臆せず莞尓(につこ)と笑ひ げに紅
の籏印は衆徒にやつせど隠れなし 水連に名高き教経 八嶋の沖に入水と見せ 底を
潜つてうかみ出 世に有とはとくより知てまがひなき面体 あらがはれなと優美の詞
ホゝさかしくも云たりな 教経にもせよ誰にもせよ 汝に敵対覚範に物の具もせず

出で合ふは 此場を助けて貰ひたさの追従 命惜さに骨折るは苦労 九郎とあざ笑へば ヤア
我は顔成云事かな 弓勢には及ばず共 太刀打手練は負くべきや 天命に尽たる平家の
刃 義経が身に立ば サア立て見られよ能登守と いはせもあへず上段に薙でかゝるを小
太刀にて かゝりてう/\はつしと受もどく長刀鐓にて 胴腹ぬかんとつつかくるを はつたと蹴
させて付け入にぞ あしらひ兼て義経は詞にも似ず逃て入 遁さじやらじと奥の間の隔て
の障子蹴はなし/\ かけ行向ふにこはいかに 玉座を設け安徳帝﨟たけなる御姿 コハ/\勿
体なや浅間しや 何とて爰にましまっすと 胸打さはぎ奏問す 君はけたかき御声にて 尼


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上を始一門残らず海に沈むと聞つるに 教経はさはなかりしな はつと勅答黒髪を隠せし
頭巾かなぐり捨 鎧の袖かき合せ 臣が乳母子(めのとご)讃岐太郎といふ者 能登守教経と名
乗 安芸太郎兄弟を左右に挟み 海へ飛入空しく成る 又此教経は人しらぬ磯辺に上り 祈
祷坊主の山科法橋 頼んでやつす姿は覚範 義経に怨を報はんとかけ入此間に 玉体
のまします事 擒(とらは)れさせ給ひしか 恐れながら勅諚に明させ給へと 奏すればまだ幼(いとけなき)天皇
も 御涙にくれさせ給ひ 教経も知ごとく八嶋の内裏を遁れ出 頼なき世を待つるに 義経
にめぐり逢 源氏の武士の情有心に恥て知盛は 我事をくれ/\゛と頼て海へ入たるぞ 夫より

丸も爰に来て今教経に逢事も 皆義経か計ひ 日の本の主とは生るれ共天
照神に背きしか 我治しる我国の我国人に悩され 我国狭き身の上にも只母君が恋し
いぞ 都に有し其時は冨士の白雲吉野の春 見まくほしさと慕へ共小原の里におはし
ます 母上恋しと慕ふ身は 花も吉野も何かせん あぢきなの身の上を思ひやれと斗
にて伏まろびてぞ泣給ふ 御いたはしさ勿体なさ エゝしなしたり/\知盛も教経も遖
たくみし計略智謀 義経に見さがされしは よつく武運に尽たるな ヘツエ是非もなや口惜やと
無念のおく歯に血をそゝぎ握り詰たる掌裏(たまうら)に爪も通らん其気色(けしき)数百斤のまぶ


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たのおもり怺(こたへ)兼て居たりしが しほれし眼くはつと見ひらき ハア我ながら誤つたり 八嶋の戦ひ
義経を組とめんとせし所 船八艘を飛越 味方の船へ引たるは計略の底をさぐらん為 卑
怯ではなかりしか 今又奥へ逃込しも 我計略を知たる故 龍顔に逢せ奉るは 武士の情で
有たよなァ ムウ今は助る 勝負は重ねていで帰らん それ迄は教経が隠家へ遷幸あれ 再び
広き世となして御母君にも逢せません いざや御幸の御供とかき抱奉る 馬手は長柄の大
長刀 浮世を斗の車共しろしめされと奏しつゝ 立出んとする所にえいと切声三ふりの太刀
音 すはやと長刀引そばめ見返る間もなくかけ出る 亀井駿河河連法眼 面々血刀首

引かゝへ 卑怯に候能登殿 一味の衆徒抔一々に此ごとく討取たり 天皇をおとりにして後ろぎたなき
逃足 門打たれば遁れなし サア勝負有か降参有か 二つに一つの返答と 詞を揃て云せも果
ずぐつとねめ付 頤(おとがい)のあがく儘降参とは 儕抔が性根にくらべてぬかしたりな 汝抔が首一々提
ていなん事 何の手間隙入べきや 帝を我に渡したる義経が寸志を思ひ助け置を 有がたいとはぬ
かさいで逃ぐるなどゝは案外千万 供奉の穢思はずば睨ころしてくれんず奴原 飛しさつて三拝せ
よ ヤア人もなげなる広言 組留て鼻明さんと 三人ぐのてに追取巻砂踏ちらして詰寄れば 上
には教経韋駄天立見下す眼角立て 睨合たる其中に 帝はこはさ玉の緒も消ゆる斗の御風情


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ヤア待汝抔麁忽すなと声をかけて義経公 烏帽子狩衣引繕ひ物具(ものゝぐ)ならぬ御出立行幸
道をさゝへ 忠臣の礼を乱る其憚り少からず しづまれ旁いざ義経も 天皇を御見送り奉らん 用意の装
束かくのごとし 教経一人帰せし迚 天に入る徳もなく 地に入る術もあらばこそ 何条遁れなき命 汝抔が手
にかけず 此所に有合さぬ忠信に討すれば 兄次信が敵を討 修羅の妄執さんずる道理 教経は世狭
き身 義経も世を憚る身 互に城も楯もなき戦場吉野の花矢倉に 勝負/\を決すべし
天皇入水と披露して内裏表済だれば 譬勝共負る共 君に過ち致されな ホ神妙の詞満足
せり 瑣細(さゝい)の事にかゝはらぬ教経 義経斗をねらひはせじ 天下に傍(かた)どる頼朝が素頭(すかうべ) 君が代

ひるがへさん 其時は義経には庄園を申下して得さすべし ヤア言(こと)くどし教経 義経をねらはゞ其儘兄頼
朝に敵対ふとは聞捨ならずと御大将御帯刀(はかせ)に手をかけて すはやと見ゆる腹心に 分け入宥むる源九郎狐
名をかりの恩忠信が ほいなき思ひしづむるとは目にこそ見へね君の守護 さらばよ義経去にても 帝
のお命助けたる情の礼には教経共 能登守共名乗ては敵対ぬが我返報 再会の名は横川の
覚範 吉野山にて忠信に出くはして勝負せん 互の命は其時/\ 行幸成ぞ雑人原 路次の警
護と呼はつて 又抱上る安徳帝 君々たれど君たらず 臣々たれど臣たらぬ横川の覚範供奉の役
敵々ながら義経が警蹕(けいひつ)の声高々と威儀有 意趣有情有 河連法眼先駆(せんぐ)の役 駿


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河の仕丁亀井の六位 官人ならぬ堪忍の二字を守つてひかゆれど 布衣(ほい)なさ余つて鯉口の
くつろぐ光り銀魚袋(ぎんぎょたい)供奉は門前人目有 赦させ給へと敬つて頭はさげても顔と顔 睨でわか
るゝ両大将 源九郎義経の義(よし)といふ字を読みと音(こへ) 源九郎ぎつね附添し 大和言葉
                  物語其名は 高く聞へける

  第五
山々は 皆白妙に白雪の 梢するどき気色かな 佐藤忠信大音上 清和天皇の後胤 検非違使
五位の尉源の義経也 兄頼朝が家来の汝抔 現在我に敵するは 主に刃向ふ無道人 天狗に習ひし
妙術にて 一々に蹴殺して 谷のみくずとしてくれん 観念せよと呼はつたり 右往左往に取巻たる讒者一味の

鎌倉勢声々に ヤア主従とは事おかす 主か主であらざるか 討取て見せ付ん かゝれやかゝれと一面に討てかゝるを
事共せず 右なぎ立左へ払ひ 切立/\切立れば 一先ず引けと鎌倉勢 逃ぐるをやらじと岨道(そばみち)を足に任せて追かくる 平
家の大将能登守 忠信に出合んと約束違ぬ衆徒頭巾 形(なり)も横川の覚範を 人はそれ共白雪を 踏ならして
ぞ歩みくる 山端岩角けしとまず 追っちらして立帰る佐藤忠信 兼て期したる約束の敵は向ふに待かけたり 鎌
倉勢のかへさぬ中に名乗合して勝負せんと 立寄相手をにつtこりと笑ふて待たる勇将義士 互にまねかれ
招き合 去年三月八嶋の礒にて 大将軍の御馬の先に立塞り 忠心に矢を請とめたる佐藤三郎兵衛
次信が弟 四郎兵衛忠信 兄の敵平家の大将能登守教経 恨のやいば参らするとぞ名乗


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ける ヲゝしほらしや忠信 兄の敵と名のぬからは 討れてやるが本意なれ共 安徳帝を守り奉りふたゝび天
下を覆す教経 ふびんながら返り討 冥途で兄に言訳せよ 横川の禅師覚範が 引導して
くれんずと 長刀杖につきそらしかんら/\とぞ打笑ふ 詞だゝかひ終つて後 まつかうかざしに忠信が 討て
かゝる大太刀を かはしてはた/\はつしとあふ ひつぱづして忠信が 切身に入たる太刀先を もどいて払ふ長刀の薙ぐ
手 打手に事共せず 右にかゝれば左へ踊り 左に乗せんと取直す白刃鐓(いしづき)ていから/\ から紅の緋縅や
互に勝色分かざりしに 覚範頻に打かくれば ひらりと飛で大木の 桜の梢に身をたもつ 追取直し
て桜の木はすにすつかと切かけて 足に任せて踏はなせば 木はめり/\/\と中絶(たへ)し向ふの岸に忠信が 木

におくられて渡りこす 跡はかけはし丸木橋 是究竟と踏しめ/\渡る不敵の勇猛将 過つてふみ
とめし 足場すがつて谷底へ落れど落ず諸足に枝をまとふてまつさかさま 只一刀と討かくる 四郎
兵衛が太刀先をはらふ長刀水車 草摺の音鍔の音 ちりゝんはた/\ しつてう/\げに目さましき働也
追っちらされし鎌倉勢 忠信やらぬと取て返し 又ばら/\と討かくるを なむ三宝邪魔と渡り合 打相ふ隙
に覚範が 桜にかけし諸足を切んとかゝれば木をはなれ 落るを見捨てて鎌倉勢皆殺しにと追て行
谷には教経手練の早足(さそく)ひるまず巌に長刀を突立/\かけ上れど 雪に凍(いて)たる土くだけ 氷柱に岩
石滑らかに 上ればすべりすべつても 岨の桜が枝足代に 半ば上りし岩の上 鎌倉勢と追ちらし弓手


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方へかけ来る佐藤忠信 覚範爰へと招かれて のぼるに隙のあら遅し 忠信それへと云捨ててさしもの小
高き頂上よりふはと飛だは飛鳥より遙に軽き其勢ひ 我もと覚範つゞいて飛 あはや高紐総(あげ)
角(まき)が 枝にかゝつてぶら/\/\ 稚(おさな)遊びに鞦韆(しうせん)の 戯れなんと見るごとく身動きならぬを忠信が 切付るを
身を背けくるりと廻れば枝ずつかり 切はなされしは天命に 尽ぬ所と大手をひろげ かゝる相手も太刀投捨
互にえいやとひつ組だり こりや/\/\と忠信が 毘沙門腰にて押かくれば ひらりとはづしてどつこいと ふみ
とまつたる摩利支天 雪ふみちらしてあらそひしが 何とかしけん忠信が 組だる小手先もぎはなされ 又くみ
寄らんとする所を ぐつと掴みかつぱと投膝に引敷折こそあれ ふしぎや又もかけくる忠信 のつかゝつたる覚範が

具足の隙間をてうど切る きられてひるまずふり返り 見るより恟り コリヤ忠信こいつ何じやと引
しいたる 高紐掴で引上れば 忠信ならす義経の御着せ長の鎧斗是はと軻るゝ虚を窺ひ切付け
/\切付る 深手にさしもの能登守 サア寄て首取と 云より早く義経公かけ付給ひ いかに教経 安徳
帝は小原の里にて御出家とげ 御母君の御弟子とせん 遖名高き教経なれ共 通力自在の源九郎
狐 忠信に刀を添たる鎧 軍術にも裏かゝずと 仰もあへぬ出合頭河越太郎重頼 大将頼朝
を高手にいましめ 久しう候義経公 給る鼓に事をよせ 頼朝追討の院宣と名付しは 朝方がわざ
と事顕れ 義経に計はせよと綸命を受て参つたりと 聞より教経座を立上り ホウ平家追討


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院宣も 朝方か所為(しわざ)と聞く きやつを殺すが一門の言訳と 云より早く首打落し サア/\義経教経
が首取れと云せも果ず ヤア能登守教経は 八嶋の沖にて入水せり 横川の覚範が首は忠信
にと 仰の中にふり上て 兄の敵を討納め打納つたる君が代に 奥州へ行小原へ行 平家の一類討亡し 四海
太平民安全 五穀豊饒の時をえて 穂に穂栄ゆる秋津国繁昌 双(ならび)なかりけり

 延享四丁卯年 霜月十六日  作者 竹田出雲 三好松洛 並木千柳