仮想空間

趣味の変体仮名

北條時政記 上(読み下し)

読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10301572

 

 

2

北条時政記 森屋版

卯の春(上)新版

 

 

(左頁)

それ天道は正を善くして邪を憎む。昔より治乱興廃善悪邪正によること天の

命ずる所にして、人功私智(じんこうしち)の及ぶものにあらず。平相国(へいそうこく)清盛、国家を掌

握して二十有余年、栄華の夢も西海の波の音に破れ、源家(げんけ)清平(せいへい)

の世となり、頼朝卿、天下草創の大業、日本総追補使(にっぽんそうついほし)を賜い、鎌倉

御所に日本の武士を将(ひきい)て禁廷を守護し給う。万民徳澤に浴し

四海太平をうたい、鎌倉の繁栄、朝日の昇るがごとく。よって頼家卿、実

朝卿三代におよぶ世々北条家執権職たり。そのあらかじめを絵草紙の

小冊に縮め模写なせば、ただその筋のみにして委しきことは星月夜を

熟覧あるべし。ただ童子のもてあそびなれば、その拙きことは見許し給えと、然言う。

 文政十四辛卯初春  五柳亭徳升戯述

 

 

4

老来(ろうらい)初めて見る大鵬(たいほう)の悪 測(はか)らず子孫九世の栄(えい)

平の政子

北条遠江の守(とおとうみのかみ)時政(ときまさ)

 

相模の守義時(よしとき)

式部の丞(じょう)泰時(やすとき)

寛仁の度量長者の風(ふう) 土民(どみん)億兆の恩沢(おんたく)に浴す

 

 

5

人皇八十三代後土御門の院、正治(しょうじ)元 己未年正月十三日、鎌倉右大将頼朝卿他界在(ましま)して、尊骸を鶴ヶ岡法華寺に葬り奉り、頼家卿を左中将に任ぜられ、二代の武将と定められ、遺跡(ゆいせき)を継ぐ。この時十八才にてわたらせ給えば、大小の政治は北条武士大江広元和田義盛、三浦義澄、比企能員畠山重忠梶原景時安達盛長佐々木盛綱等相談してこれを取り捌き、新たに決断所を構え、これに集まりける。依って諸老臣誠忠を尽し賞罰を正しゅうすと雖も、頼家卿生まれつき女御(にょうご)を愛し、明け暮れ淫酒をこととし給う。ここに安達盛長が嫡子弥九郎景盛、都より一人の白拍子を根引きして別宿に置いて寵愛なす。頼家卿密かにこの事を聞き伝え近臣をして窺はしむるに、無双の美女也と聞き、見ぬ恋に憧れいかにもしてその女を手に入れんと、ある時安達景盛用向き有りて父が守護の国三州へ行きて留守の折から、これ究竟の事なりとて中野五郎に命じ、ある夜密かに奪い取り御覧あるに、聞きしに勝りし美女なれば、御寵愛甚だしく昼夜淫酒に耽(ふけ)おわします。然るに八月十八日、景盛三河の国より帰参なして愛妾の宿所に赴きしに、さんぬる二十日の夜、武士一人数多の郎党を従え忍び入りて奪い取られしと聞き、景盛大いに仰天して呆れ果ては怒り、大いに罵り、ただ狂気の如く昼夜引き籠り居る。

 

 

6

梶原景時これを聞き、密かに喜び忽ち例の奸計を巡らし、安房の判官代高重を語らい景盛方へ帰国の賀を述べに遣わしぬ。景盛は愛妾を奪われ心中安からざるを知って密かに語る様、羽林家(うりんけ)当時淫酒に耽り、去月二十日夜、中野五郎に命じて美女を伴い石壷(いしのつぼ)の御所に入れ置かるるに、茶遊宴のみにて、中野、小笠原の輩(ともがら)以上五人の他は出入りを許さずと語りければ、景盛大きに驚き且つ怒り面(おもて)に表れぬ。安房の判官代しすましたりと身を擦り寄せ、誠や色情は上下の隔て無く、かかる時に弱き者のこそ口惜しけれ。羽林家今の御身持ちにては武将の任に居給う事能(あた)わじ。急ぎ尼御台へ訴え密かに御諫言あるべしと申して帰りける。景盛初めて悟りぬ。早速尼君の御前に出でて一々訴えければ、尼君大いに驚かせ給い、汝少しも弄する事なかれ。取り返し得さすべしとありければ、有難き由御受け申して退出▲なしぬ。梶原景時この様子を聞き、我が子平次景高を招き謀(はかりごと)を教え、羽林の御前に出でて安達景盛を色々悪し様に讒言す。血気の大将景高が言葉を信じ大いに怒り、景盛、臣たるの礼を失い、我を謗り、母君に訴えぬる事奇怪也。逆臣早くも誅せずんばあるべからずと、居丈高になって憤りぬ。梶原しすましたりと※宿所へ帰る後にて小笠原弥太郎、中野五郎、比企の三郎、細野四郎を大将として数百騎にて甘縄(あまなわ)の「右下」景盛が宿所へ押し寄せんと騒動す。尼御前この事を聞こし召して大いに驚き、急ぎ景盛が宿所へ成らせられ、羽林の方へ使者を以て御意見ありければ詮方なく留まりぬ。これに依って梶原が讒言、水の泡となる。ここに又、結城七郎朝光(ともみつ)は熊谷♦直実(なおざね)法師蓮生(れんしょう)を信仰して先君(せんくん)菩提の為、一族を集め念仏を誦(じゅ)す。梶原景時この事を聞き、結城七郎陰謀の企て紛れなしと羽林の御前へ訴えぬ。早この事結城七郎朝光へ内通致す者ありければ大いに驚き

 

 

7

すぐに三浦義村が宿所に行きて事の由を語る。義村使いを以て諸老臣を招き内談なし、明日(みょうにち)鶴ヶ岡の回廊にて参会せんとて別れける。斯くて十月二十八日、和田左衛門尉義盛(わださえもんのじょうよしもり)回文(かいぶん)を持って集まる。面々は、千葉、足立、三浦、畠山、小山(おやま)、結城、葛西、波多野、大井、山内(やまのうち)、宇都宮、渋谷、佐々木、土肥、土屋、岡崎、稲毛、曽我、工藤、仁田(にた)の四郎忠常等(ら)を始めとして、以上六十六人鶴ヶ岡の回廊に集まり居並ぶ時に、和田義盛進み出でて言う様、天下の為に禍(わざわい)を励むは大丈夫の願う所なり。梶原平三景時、先君御在世の折から佞弁(ねいべん)舌力(zつりょく)を以て数人を残害せしこと今更言うに及ばず。今羽林の御代に至っても尚止まざれば、国賊を退け君を保たんと欲する也。これに依って彼が邪悪を記し訴状を認(したた)め、君が御主意を伺わんと思う也。各々会得し給はば連判を加え給えと言い渡す。この時六十六人のうち景時が為に親兄弟を失いし者数多ありければ、一人も違背無く一同に承知して連判を据える。斯くて和田義盛三浦義村両人、件の訴状を携え、「右へ」大江の広元に付いて訴えける。広元早速羽林へ披露す。景時は先君の寵臣なれば乱りに罪を加え難し、衆人の訴え頗る理不尽也と宣う。広元が曰く、この訴え取り上げ無きに於いては騒動を引き出だすべし。△影時一人と六十六人の大名とは代え難しと申すにより、ひとまず影時が領地一宮へ蟄居致すべしと仰せ出だされける。景時大いに驚くと雖も今更詮方無く十一月十三日に鎌倉を退去しける。これに依って諸氏集まると雖も、梶原が鬱憤散ぜざれば番場の忠太を密かに上察せしめ、羽林頼家

 

 

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身持ち宜しからず、鎌倉の大名、銘々我儘の振る舞い、必ず大乱を引き出だすべしと奏聞(そうもん)し、綸旨を請い受け味方を集め謀反せんと謀る。この時鎌倉に於いては北條時政、訴えけるは景時が佞奸(ねいかん)明(さゆ)か、論ずるに及ばず。諸氏の訴え悉く理に当たれば、梶原が一族の領地召し離され追放あって然るべしと、和田義盛三浦義村、上使として使わされ、再度鎌倉へ召されて梶原一家(け)十二月二十八日白昼に追放せらるる有様、見苦しかりける次第也。貴賤群衆なしてこれを見物す。景時心中に一物(いちもつ)あれば事故(ことゆえ)無く駿河の国へと志しぬ。時にかの都へ上(のぼ)せし番場忠太、事成就為して急ぎ東海道を下りし所、江州の領主佐々木盛綱が一子、太郎信実(のぶざね)早その意を悟り、鏡が宿に新関を立てて忠太を絡め捕らんとす。忠太密書を喰い切り、腹十文字に掻き切り失せにけり。これに依って梶原が陰謀、愈々露顕に及びぬ。かくとも知らず梶原親子、郎党を▲引き連れ、主従五十人二十日亥の刻に駿州清見が関に至る。東国の住人、飯田五郎、芦原八郎、工藤八郎、三沢八内等これを知って梶原を支える。鎌倉より討手として三浦義村、工藤、糟谷(かすや)夜に日を継で討ち取らんと馳せ上る。早合戦始まり、おっとりこめて討ち取らんとす。梶原源太、二男平次、三男三郎、勇を奮って戦うと雖も敵わずして、景盛、景宗、景国、景連、追々討ち死にす。「二巻へ」父景時、今はこれ迄也とて矢立の墨に筆を染め「武士(もののふ)の覚悟もかかる時にこそ心知られぬ名のみ惜しきぞ」と書きて鎧の袖に結いつけ、草の上に座し自害す。続いて景季、景高も、腹掻き切って果てにける。かくて梶原が残党悉く滅びせいしつ(正実?)に及びぬ。

 

 

9

かくてその年も暮れ、正治三年春改元あって、建仁元酉年と号す。ここに越後の国の住人、城四郎平長茂(じょうのしろうたいらのながもち)、先祖は鎮守府将軍平維茂の末裔なり。当時、源氏の武威盛んにして、平氏の血脈(けちみゃく)たるもの鎌倉の奴婢に等しく、殊に頼家武将の気にあらず、昼夜淫酒に長じ、国家の政務を捨て給う。故に諸大名、互いに疑心を差し挟む。再び平氏を興さん事今この時なりとて、本国越後鳥坂に▲甥の小太郎資盛、もりなが(?)が妹坂額女を残し置き、その身は二郎資家、三郎資正を伴いて都に上り、院宣を乞い義兵を上げんとす。早この事都在番なる小山左衛門尉朝政知って、城長茂が旅宿に押し寄する。長茂敵わずして都を落ち延び吉野山に隠るる所を、山門の衆徒に生け捕られ、自害為す。郎党一人逃れ北国へ下り、小太郎資盛、坂額女にこれを告げる。両人大いに驚くと雖も今更詮方無く鳥坂に城下を構え、鎌倉の討手を待つ。その勢三千余人皆平氏の余類也

 

 

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鎌倉への注進、櫛の歯を挽くが如し。これに依って騒動大方ならず、討手として上野の国佐々木三郎盛綱入道▲西念(さいねん)を大将として甲斐、信濃の武士、海野、藤沢、村上、武田、浅利を始めとして一万余人馳せ向かい、鳥坂城を取り囲み攻めると雖も城兵勢い強くして、大木、大石を投げかけ討って出で、寄せ手を悩ます。これ皆坂額女が軍法也。佐々木入道は古老の武者なれば、寄せ手を固く戒め、この上は兵糧責めにせんとて陣々を守らせける。城兵案に相違なし。敵陣に夜討ちせんと逸る。坂額女これを制すと雖も聞き入れざるによって、その身と大将資盛は城に残り、一千五百余騎、今宵夜討ちと定められける。この時佐々木盛綱入道、鳥坂城の後ろの山に登り城中を●窺うに、兵糧の支度頻りなれば、さては今宵夜討ちと覚えたり。これ待ち設けたる所也とて本陣に帰り味方を△五つ手に分けて伏勢なし、陣中篝火にて炊かせ待つ所に城兵一千五百余騎まん?に備え、敵陣に討って入り、見れば寄せ手一人も無し。驚き退かんとする時、八方より伏勢起こり、漏らさじと攻め戦う。城兵討たるる者

 

 

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数知れず、難儀の折から城中より坂額これを見て、救わずんばあるべからずと、僅か三百余騎にて討つて出(いず)る。これを防がん為に城近くに三千余人の伏兵一度に起こり、坂額女を取り囲む。少しも恐れず女ながらも勇剛の働き。向かう敵を切って落とし近寄る者を薙ぎ払い、偏に鬼神(おにかみ)の如く、これが為に寄せ手倦(あぐ)みて見えければ、浅利冠者与市義遠大いに怒り、彼を討ち取らんずばあるべからずとて、駒の頭(かしら)振り向け進ませ討てかかる。坂額心得たりと渡り合い戦いたりしが、面倒なりとて獲物を捨てむんずと組む。両馬が間(あわい)にどっと落ちる。坂額すかさず与市義遠を取って抑える。与市下より跳ね返し、坂額女を組み敷く。郎党折り重なって遂に坂額女を生け捕る。この時佐々木盛綱入道頻りに下知して城を攻める。寄せ手なんなく付け入り、遂に鳥坂落城に及び、城の太郎資盛は自害為し、郎党残らず討ち死にして滅亡に及びける。寄せ手は十分の

勝鬨を上げ、鎌倉へ引き返し、事の由を伝えければ、羽林を始め諸氏、盛綱入道が武勇を感じ、且つ浅利の与市※義遠が坂額女を生捕りし、武勇を美称有って坂額女を妻に賜りければ、与市大いに喜び本国甲斐へ伴うて長くも▲(右下)偕老の契りを結びぬ。さても頼家卿、昼夜淫酒遊宴(いうえん)に増長し、更に老臣等の諌めを用いず、鞠に身を窶(やつ)され、遊興のみにて国政を捨てさせ給うこそ是非も無く、その年征夷使の宣言あり。翌年建仁三年五月前君の例に任せ、伊豆の奥野の狩倉より富士の裾野の御狩り(みかり)を催さんと触れられける。

 

 

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それぞれ支度整いしかば、四月二十六日鎌倉を進発、五月朔日に奥野の狩場に着き給う。御供には在鎌倉の諸臣悉く召し連れられければ、雑仕(ぞうし)馳せ回り獲物を奉る。翌日伊東ヶ崎の山中に一つの洞穴有り。頼家卿御覧じて「誰か在る、この内を見極め来たれ」とあれば、皆々奇怪を恐れて進む者無き所に、荏柄(えがらの)平太胤長(たねなが)、元来大胆不敵の

 

 

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剛の者なれば、畏まり候とて甲冑に身を固め、やや先暗き洞穴へ松明を用意して唯一人進み入る。時は午の刻也。未の刻に及ぶと雖も未だ帰り来たらず、漸(ようよう)酉の刻に及び、平太、大わらわになり帰り来る。皆々喜び「如何に」と問う。平太答えて「取って行く事三里ばかりにして、日の光見る事無し。暗夜の如く冷える事寒中の如し。猶奥深く入るに光るものあり。松明を上げこれを見れば、洞に余る大蛇なり。其を飲まんとす。飲まれじと※身を避け、大蛇の胴中を二つに斬る。大山も崩るる如く聞こえしが、暫くして鳴りも静まり▲気を鎮めてよく見れば、大蛇を斬り殺せし也。」と語りければ、大将始め大いに感じ給う。同年六月三日、富士の

 

 

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麓に大いなる洞あり。世に「富士の人穴」という。これ有ってその奥を見極むる者無し。頼家卿これを聞こし召して、この度は仁田の四郎忠常に命ぜらるる。忠常畏まり、郎党五人を選びかの洞に入り、一昼夜に及んで忠常帰り来たらず。翌巳の刻になり、忠常一人帰り来(きた)る。大将始めその故を問い給うに、忠常「洞に入りて行く事数十里先に大きなる川あり。此所にて郎党は皆即死に及び、其は君より賜りたる劔を川へ入れて一命を助かりたり」と言う。頼家その次第を一々問い給うに依って詮方無く「その川の向こうに麗しき官女立ち給い『ここは人間の来るべき所にあらず。早々帰るべし。頼家遊興に長じ国政を捨てる。以来遊興をやめよと言うべし。汝もここにて死すべきなれども忠義に愛でて△この度は助けつかわすなり。夢々この事人に語るべからず』と申されたり」と一々申しければ頼家も気味悪(わろ)く思(おぼ)し召して、早々鎌倉へ帰り給う。(中段)さても頼家卿、鎌倉帰還の後、御病脳発し給い、だんだん重らせ給い、既に危うく見えければ、諸老臣を召して御遺言として、関西三十八ヶ国を以て御舎弟

 

 

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実朝卿へ譲り、関東二十八ヶ国を以て御嫡子一幡(はた)君(ぎみ)、時に六才にならせ給うに譲るべしとありければ、比企能員(ひきのよしかず)「一幡君に二十八ヶ国は不足なり。日本六十余州を受け継がし、我、御後ろ見せんと内心に思い、頼家卿について、先ず北条父子を失わんとて色々に讒言。二位の卿これを聞き、大いに驚き給いて時政親子にこれを告げる。▲時政これを聞いて急ぎ誅戮せんと内々その用意を為しm夏越の邸へ能員を招かれける。能員何心無く行く所を市川別当、中野五郎、仁田四郎、天野民部を伏せ置いて、なんなく捕らえ誅しける。すぐさま比企の館へ押し寄せ、一幡君始め、一族残らず討ち取りぬ。この節頼家卿、病気少々快く、この事を聞き給い大いに怒り、時政臣たる身として我にも知らさず老臣を誅戮し、剰さえ我が嫡子一幡君を失う事安からず。急ぎ北条父子を滅ぼさんとて、和田義盛、仁田の四郎忠常に密書を下さる。時政この機を察して仁田の四郎を名越の邸に招き、能員を討ち取りし功を賞し、その後沈酔なさしめ忠常を討ち取りぬ。これ、かの霊女が奇怪なるべし。頼家卿尚怒り給うに、尼公始め頼家卿に出家得度を奨め給う。無体に落髪なさしめ給う。無念に思し召せども詮方無く○御病身の事なれば詮方無く、御舎弟千幡君に武将を譲り給う▲千幡君の執権んは北条遠江守時政なり。未だ御用地に渡らせ給えば北条の館に在りて、御代替りの書を諸臣に番(つが?)わる。□偏に北条武将の如く、これより●朝日の昇るが如く、皆天下の政治、北条の計らい也。

 

 

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時に建仁三癸亥年九月十七日、千幡君を従五位下に叙せられ、武将の宣言有りて、鎌倉の御所に移らせ給う。これに依り、先の武将頼家卿、鎌倉に置かん事いかがなればとて、伊豆の国修善寺に送り奉る。これ皆北条が計らい也。偏に配所同然の有様。それに引き換え千幡君は兵衛佐に任ぜられ、実朝卿と申し奉る。既にその年も暮れ、建仁四年正月、改元あって元久元年となる。頼家卿は豆州に在りて御家督を弟に奪われ、押し込め同様の身の上。これ偏に時政が計らい也と、無念の月日を送り給う。然るに稲毛三郎重成入道、北条時政が妻と密かに奸計を巡らし、鎌倉を発って伊豆に赴き、頼家卿を問い参らす。君も懐かしき儘御側に招かれて鎌倉の様子を問われければ、稲毛入道忽ち涙を流し、「当時鎌倉政治は悉く計らいなれば、諸人これを恨み罵り、心々にて只君の御在世の事をのみ申し暮らし候なり」と▲まことしやかに申しければ、頼家明け暮れこの事のみ思し召す故渡りに船と歓談す。ここに及びて遂に稲毛入道に謀られ、諸国の武士へ、軍勢催促の御教書(みぎょうしょ)を○下されける。稲毛しすましたりと取り納め、急ぎ鎌倉へ帰り、時政について訴えぬるは、伊豆の禅室御謀反の企て頻りにて、諸国の武士を騙らう即ち御書を賜りし也とて懐中より数通の御書を取り出だし◆差し上げければ、時政よくよく見るに、頼家卿の御書に相違なければ大いに驚き、早速尼公の御前に出でて実朝卿にも御覧に入れければ、早速諸老臣を召して、評議に及ばれける。

 

 

17

その時、列座の面々には大江広元和田義盛、小山朝政、畠山重忠等なり。時政件の御書を披露に及び、こと迷惑なる由を申す。その時誰在って答える者無き所、重忠曰く、「先ずこの書を何者より

君へ訴えしや、その者を捕らえて吟味を遂げられ然るべし」とありければ、時政詮方無く「稲毛入道なり」と言う。急ぎこの者を召すべしとて招き寄せられ、重忠問われけるは、「伊豆の禅室よりこの御書は何者が持参いたせしや、使者の性名、、面体覚えあるべし」とありければ、稲毛入道はっと驚くと雖も大胆不敵の佞奸邪智の稲毛なれば少しも恐れず答えけるは○「その義は使者を騙し透かし一夜逗留致させ、引っ捕らえて鎌倉へ引かん」と急く所n夜中(やちゅう)にその意を悟り逐電仕り候。且つ、面体更に見知らざる者にて性名を問えど、虚言申し実名は申さず候」と●述べければ、義盛曰く「御辺一人を味方に頼まんと存ずるに、数通の御書は如何なる事ぞ」▲稲毛答えて「口上を以て第一の味方たるべくとの事故に忠の武士は其通達致すべしと偽り、なんなく奪い取り候」と言う。重忠断じて「これは世の常の使いならず。密事の一大事なれば室頼家卿の腹心とし給う武士に命ぜらるべきに、只今の様子にては平生音信(いんしん)等の使いに等し。左様なる浅はかな羽林にてもましまさず、例え匹夫下郎にもせよ、かかる密事を蒙るからは、頗る才覚の輩なるべきに、巳が承りし使いを

 

 

18

御辺如何に申さるるとも渡すべき謂れ無し。それは格別既に書簡を残らず渡す程ならば、御辺をよくよく味方と思ふが故なり。然るに夜中(やちゅう)故(ゆえ)無く逐電致せしとは、前後揃わぬ仕業なり」と、憚る所無く申しけり。

 

貞房画

 

畠山重保 由比ヶ浜にて北条の奸計に陥り討ち死にする