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趣味の変体仮名

北條時政記 下(読み下し)

読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10301572

 

 

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徳升作 全五冊

貞房画 後編

北條時政記(ほうじょうじせいき)

文政辛卯の春 森屋  治兵衛版

新版

 

斯くて時政申されけるは、「重忠が申す如く、この上は伊豆の守護人を吟味遂げずとし、先ず先ず稲毛の退出致すべし」と聞き、稲毛は虎口を逃れて退きぬ。これよりして稲毛入道、北條が妻牧の方と密談なして、邪望を巡らし、畠山重忠を失わんと謀る。遺恨の始まりにして遂に仇となる。さても稲毛が邪望虚しくなりければ、時政心に思う様、伊豆の禅室頼家卿、そのままに差し置いては遂に当家の仇となるべしと思い、腹心の郎党に▲申し含め伊豆へ使わし、件の書披露に及び御謀反明白なりと申し立てさせければ、頼家卿大いに驚かせ給うと雖も詮方無く、「如何はせん」とあれば、煩う折から次々の物言い皆北條が心(しん)なれば、急ぎ御生害然るべしと奨めければ遂に元久元年甲子年

 

 

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七月十八日御年二十三才にて御自害有る。この事を鎌倉に注進なす。時政、実朝卿、

二君へ訴えければ、羽林この程の御書鎌倉へ訴えし上は御謀反の迷惑なるにより、先非を悔いて御自害ありしなりと披露及ばれければ、御所中の人々大いに嘆き悲しみぬ。この節畠山重忠は本国武蔵へ引き籠り、勢(ぜい)を養い居たる留守、稲毛入道イトイとの謀書を拵え、重忠謀反の由を風聞す。時政これを実朝卿二公へ訴え重忠を討たんと謀ると雖も、北条が嫡子義時これを諌め、「重忠は仁義正しき武士(もののふ)なれば、仮にも謀反致す者にあらず。よくよく御賢慮有って然るべし」と申すと雖も、時政これを用いず、畠山父子を討たんと謀る。かくとも知らず重忠は本国より鎌倉へ上らんとて、嫡子六郎重安は「右下へ」二日先に発ちて、元久二巳年六月二十一日、夜に入りて鎌倉へ参着す。兼て稲毛入道路地に物見を差し置き、畠山が着と聞き、時政と示し合わせ、先ず重安を討ち取るべしとて小沢次郎重政、佐久間太郎光豊両人に三百余騎を授け、討手として由比ヶ浜に待ち受けたり。かくとも知らず重安は僅か郎党三十騎にて通る所を、三百騎射手を揃えて散々に射る。重安大いに怒り「何者なれば

 

 

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かかる狼藉為すや」と大音声(だいおんじょう)に呼ばわり、群がる中に討って入る。この時敵兵の声々に「逆臣畠山父子を誅戮せよとの仰せに依って馳せ向かいしなり」と罵ったり。重安愈々怒り、「謀反とは何事ぞや、仁義を守る重忠なり。左(さ)言う汝等こそ謀反人なり」とて敵中に切って入りm当たるを幸いに切って回ると雖も、敵は大勢、重安は残り少なに討ちなされ、「今はこれまでなり」とて腹十文字に掻き切って失せにけり。哀れむべし。天晴忠胆義肝(ちゅうたんぎかん)若者、讒者の舌頭に無益(むやく)の死を遂げたるは、口惜しき次第なり。佐久間、小沢が軍勢は重安が首を取りて鎌倉へ引き返す。かくなる上は重忠誅戮せずんばあるべからずとて、北條時政、同じく時房、葛西、千葉、大須賀、岡部、相馬、足利、宇都宮○小山(をやま)、足立(安達)を始めとして三万余人、重忠が討手として馳せ向かう。この時畠山重忠は、家の郎党百三十余人、しかも甲冑は着せず、武蔵の国二俣川にて嫡子六郎重安、讒者の為に討たれしと聞き大いに驚くと雖も、少しも動ぜず尚も進む所に、追々注進には重忠逆臣たるにより北條を始めとして鎌倉の諸氏討手として間近く来る由聞き、「我が子落命に及ぶの上は、いかでか我身安穏なるべきや。天の命なり、悲嘆するに甲斐無し」とて

 

 

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悠々として駒の頭(かしら)を控えしけり。本多の次郎近常(ちかつね)進み出で、「讒者の為に一命を失う事、口惜しき次第也。一先ず本国へ引っ返し討手を引き受け、十分に働き討ち死にを遂げん」と勧めければ、重忠分こつて「その義、甚だ然るべからず。吾生害の非義非道を事とせず、正直を旨として然る間も邪無く誠忠を守ると雖も、無実の罪を得て死せんとす。これ天の命なるに科恨むべき。本国へ引き返しなば、兼て陰謀有るに似たり。忽ち不忠の○臣と呼ばれ、死後に悔い悔ゆるとも益無し。只この儘にて敵を引き受け潔く最期を遂げんと待ち受けたり。或る酒屋に入りて、主従酒酌み交わし、(四)郎党百四十人必至を極め、真丸に備えて待ち受けやり。この時鎌倉の討手三万余人揉みに揉んで来りけるが、重忠が勢甲冑を帯せし者一人も無し。鎌倉勢追取こめて討たんと百四十人の郎党を引つつんで攻め戦う。重忠が郎党百四十人(六)必死となって切り立つる故、さしもの大軍色めきわたって見えければ、今は総掛かりとなって攻め立つる。日本無双の重忠もその身金鉄にあらざれば、射る矢は蓑毛の如く、郎党も僅か五六人に討ちなされければ詮方無く、今はこれまで也とて、腹十文字に掻き切って

 

 

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死んだりける。時は元久二年六月二十二日、生年(しょうねん)四十二才なり。嗚呼今日如何なる日ぞや。本朝例(ためし)無き賢良の忠臣、奸徒の為に身を滅ぼず事、天なんぞこれを惜しまざらんや。斯くて重忠が首を取り、時政より義時に渡す。義時落涙為して、戦は勝つとも勇みなく愁傷を催し鎌倉へ引き返す。さて、重忠が首を北條義時御所に持参し合戦の次第を申し上げ、重忠を直(じき)に美粧す。義盛御前に進み出でて、「重忠事逆臣んとは▲申し難し。その子細と申すは郎党一手を集めても二千三千はあるべし。然るに僅か百五十人に足らざる兵を引具して鎌倉へ上る。剰さえ甲冑を着せず合戦の用意せざるを以て、逆臣なき事明白也」とて涙を流し、或は怒り、或は悲しみ、義時も共に涙に暮れにける。時政は赤面為して控えたり。この時北條時政進み出て重忠を訴人有りしは稲毛入道重成なり。彼を誅戮あって重忠が亡魂を慰め給わんと、せめて神明の怒りを慰め給わん事、神明を

 

 

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宥めらるる道理に候わん」と述べければ、義盛始め道理至極なる事ゆえ、実朝卿、御若年にはましませども、あたら忠臣を失いしとて落涙す。ここに及ばれける時政は身に覚えあることゆえ、針の筵に座す心地なり。この時実朝卿直々に佞人稲毛入道誅戮すべしと命ぜられける。義盛畏まりて大河戸三郎、宇佐美与市に命じ、稲毛三郎父子悉く誅せらるべしと下知を為しける。この時諸臣、稲毛が悪逆を憎み、我も我もと馳せ着き、二千余人の大軍となり、即時に稲毛が宿所に押し寄せる。この時稲毛入道は奸計成就して首尾よく畠山を滅亡させ、北条家より恩賞に預かるべしと喜びありける所、思いがけなき討手無二無三に乱れ入る。入道始め

 

 

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大きに驚き、こは如何なる狼藉ぞやと、狼狽え騒ぎ、逃げ出だす時、討手の声々讒者の張本(ちょうぼん)稲毛入道を討ち取れと呼ばわって、四方を固め追取逃げる間もなく大河戸三郎に捕らえられ、大勢に嬲り殺しにあう時、稲毛が嫡子次郎重政、宇佐美与市に討たれけり。奸悪の報い忽ち巡り来て、僅か半時ばかりに父子眷属滅亡せしは、心地よくこそ覚えける。すぐにその首を御所へ献じぬ。義盛これを披露し、翌日重忠父子の首を頼朝卿▲御魂館法華堂の脇に厚く葬り、稲毛入道父子の首を以て※霊魂を祀りぬ。鎌倉の諸臣我も我もと群山して誠に重忠が◆一世の忠臣虚しからず、名を後世に留めけり。さても北條が妻牧の方は、この度畠山父子滅亡は○喜ぶ所、一時に稲毛入道が誅戮せられしを聞き大いに驚くと雖も、尚奸悪止まずして増長なし、実朝卿を毒殺せんと謀る事大胆不敵なり。これに依って夫時政を勧めて同年閏七月十九日、北条が名越(なごえ)の邸にて流風の宴を催し歌合わせの御遊あるべしとて、実朝卿を招じ奉る。君(きみ)歌道御執心の事なれば大いに喜び給うて、未の刻の供揃いにて北条が

 

 

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舘(たち)へ御入(おんいり)有りしかば、時政大いに喜び、主従饗応し奉る。御側には結城七郎朝光付き参らせて、主従油断無く守護致すゆえ昼の内は別条無し。然るに北条義時が一子泰時は、時政が命に依って伊賀へ下向なせしが、その後にて畠山重忠は父子共に誅せられし事聞き大いに驚き、嘆息し、悔ゆると雖も今更詮方無く鎌倉に帰着す。今日(こんにち)実朝卿、名越の邸に御入なりと聞き、急ぎ参上せし所、父義時は御所の▲留守居と聞き、さてこそ子細有らんと御前に伺候す。その時牧の方配膳を進むる。泰時「こは大事なり」とて替りてこれを勤めんと言う。牧の方、泰時を叱りつけ「我に任すべし」と言う。実朝卿聞こし召して「配膳は泰時に致すべし。老女はさぞかし大義ならん」と仰せあれば、今更詮方無く差し控え、毒殺の一計虚しくなる。この時君尿に立ち給う。結城七郎朝光△付添いて用所に赴く。既に廊下を過ぎさせ給う時、曲者一人現れ出でて君を目掛けて切って掛かるを奪い取り、むんずと抱(いだ)き締め付けて、大地へどうと投げつけて

 

 

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その儘君を守護参らせ、泰時に向かい「御辺宜しく曲者を拷問あるべし」と一言を残し、御供為して義時が邸に入らせられ、無難におわしける。北条泰時奥庭に馳せ至り、曲者を引っ捕らえ、見れば父の郎党千賀九郎也。大いに驚き、そのまま引っ捕らえ、父義時を待つ所へ「様子如何」と尋ね来(きた)る。泰時、父義時が耳に囁きければ「斯様斯様あるべし」と頷き即時に時政が前に出で、事の由を申しければ、兼て毒殺の事は合点なれども、千賀九郎の事は聊かも知らざる故、共に驚き居たりしが、今更詮無しとてすぐに自害と見えければ、義時、泰時、これを留め「先ず君子愚子等に任せ給え」とて、千賀九郎を拷問為し、その後義時、泰時父子「右下へ」、君の御前に出でて申しけるは「今宵の決行(結構)父母の心底、子ながらもその実を存じ申さず。其は御所の留守居たる所、継母の心底覚束なく、君を守護し奉らん▲推参仕る所、かくの幸せ早速曲者千賀九郎を拷問致せし所、牧の方の企て武蔵守朝政を以て武相とせん存念にて君を殺害し奉らんこと◆致せし也と雖も、義時、泰時に妨げられ、事成就仕らず」と明白に申しけるによりこの旨を訴えぬ。実朝卿、義時父子を大いに御感あり□「親子兄弟たりともその心は同じかるまじ。忠により義により父子敵味方となる条古今珍しからず。然れば汝等を疑わんや

 

 

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尚忠勤怠るまじ」と仰せありければ、義時、泰時「有難き由御受け申し、ついては父母大罪を犯し候上は、尤も誅戮逃れ難し。何卒旧交を免ぜられ、誅戮の義は其に仰せ付け下さるに、己手は永く誠忠を尽し報恩に備え奉らん」と余儀なく願いければ、君、義時父子が心中を憐れみ、「時政は我に外祖父の名あれば、汝今宵の功」として義時に任せられける。かくて実朝卿は鎌倉御所へ御帰還まします。後にて時政が妻、牧の方は、己が邪悪一時に現れ、申し訳無く自害為して果てにける。北条時政は剃髪為し◆出家を遂げ豆州へ移り、恩赦の為、君の御武運、四海太平を祈りたしと願いければ、時政は祖母尼公には父の事ゆえ罪を加え難く、殊に牧の方の自滅と言い、義時、泰時が忠勤に愛でさせられ、時政法師を伊豆へ送られ、尼公の御沙汰として義時に父の職を継がしめ、北条相模守義時鎌倉二代の執権と成る。時に元久二年壬七月二十日也。めでたし、めでたし、めでたし。

 

 

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これより北条義時が威勢盛んにて、武者所別当和田左衛門尉義盛卿と両雄並び立たざる倣い、遂に和田合戦となり義盛滅亡。実朝卿、入宋(につそう)の望みみて大船を造らしむる。鶴ヶ岡社参の時、禅師公暁(ぜんじ くげう)に弑せられ、公暁調伏頼経卿、京より下向、代々北条家九代連綿たる事は各々出版仕り候。

「北条武蔵守義時(ほうじょうむさしのかみよしとき)」

 

「五柳亭徳升輯」

「五亀亭貞房画」

    「筆耕金水」

美艶仙女香

黒油美玄香

丁包四十今()

京橋の南へ一丁 木戸際

坂本氏精製