仮想空間

趣味の変体仮名

競伊勢物語 一冊目

 

読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html

      浄瑠璃本データベース ニ10-01309

 

2
凡謡の文句は実と虚につゞり浄瑠璃歌舞妓の趣向は虚を実にのぶる
いづれ勧善懲悪の一助ともならん事を本意とす且歌舞妓狂言の作意に
趣向の古(ふるき)と新しき評はあれども立役(ぜんにん)の難義する体を見てはうれい敵役(あくにん)の
ほろぶる体を見ては快然(よいきみ)がることは古今相おなじ其見聞正直の心(しん)にすかつて
不都合のせりふに故人妙作の文をかりまた木に竹をつぎ/\五段の綺語(きぎよ)を
あらはす是なん扮人(やくしや)擬語(ものまね)の稿(したかき)とも又浄瑠璃に似(しく)ものとやいはんよつて
此道の数寄者(すきしや)たらざるを増(まし)多(おほき)をはぶき宜(よろしく)曲節(ふしをつけ)而(て)各(おの/\)其妙音にのせ
かたり給はらば戯場(しばい)に勢ひますの本望ならんかしとひたすら一座の勧(すゝめ)に
応し所詮予が管見短才(ものしらず)を梓(あづさ)にてらして御笑ひを申請(うく)るものならし
 安永四乙未年孟夏日 狂言作者 遊泥居識


3
大和小筒井里
河内小生駒山   競伊勢物語    奈河亀助作
太極両儀を生じ 両儀变化して五行と成 五行の相生(さうじやう)
相克は 並び廻(めぐ)れる車輪のごとく 母子夫婦の道に叶ふ
相生の理(り)を云は水は木を養ひ 木は又火を育(そだつ)る 相克はの勢ひ
を競(くらぶ)れば 火は金に勝つて水に負るの理り 其争ひぞ君
子国(こく) 実(げに)源は恋草の教へ始めし鳥の跡 書(ふみ)に和らぐ敷島や
文徳帝(もんとくてい)のしろし召(めす) 時代ぞ盛(さかり)さかんなる 然るに聖寿(せいじゆ)


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去年(こぞ)の春崩御(かんあがり)ましまし 雲隠れにし諒闇(りやうあん)に 空位の月日程経(ふれ)ば
御兄宮惟喬(これたか)親王 御弟宮惟人親王 何れか御即位有べしと評定の
月卿雲客(げつけいうんかく)玉蘭に袖を連ね 威義蕩々と並居たり 補佐の良臣(りやうしん)
堀川の大臣昭宣(あきのぶ)卿笏(しやく)取直し 今日諸卿の奏する旨余の義に有(あら)ず
御忌既に明いたる上は御遺勅に随ひ惟仁親王御即位の良辰(りやうしん)を撰(えら)はる
べきかと述らるれば惟喬親王の寵臣伴(てうしんばん)の大納言宗岡(むねをか)進み出
コハ心得ぬ遺勅呼はり 正しき御兄宮惟喬親王をさし置 惟仁の親王(みこ)

に御位(くらい)を譲らんとの御遺勅 イヤ其意を得ぬ ガ何はしかれ庶子(そし)を省き嫡子を立(たつ)る
は神国の掟 先例ははづされましたと云ほゞせば 昭宣重(かさね)て イヤ/\夫(それ)は一応の理 惟喬親
王御位に即(つき)給へば順道なれ共 御遺勅に背ては子として父の詞に背く不孝の
罪 却て是を逆とやいはん 人々いかゞ思召すと 堂上堂下を見渡し給へば 諸卿の奏する
詞も待ず惟喬親王 ヤアいふまい昭宣 其方が妹高子は美人の聞へ是に居る弟
惟仁恋詫ふを聞及び 子にあまひ母皇后ひんがしの五條の舘(たち)へ高子姫を呼寄置き 在
原の業平が取持にて 表向は業平が恋慕と見せ 童の踏明(ふみあけ)たる築地(ついぢ)の崩れゟ人知れず


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通ふを知まいと思ふか 妹に通ふ者有と知て其儘に指置く其方が心底 惟仁を位に
即(つけ)外戚の権をふるはん巧みと僕(まろ)が推量違ふまじ 言訳有らばいへ聞んと居たけ高に罵り給へ
ば 昭宣から/\と笑ひ コハ怪(けしか)らぬ御疑ひ妹高子は染殿皇后の御召に随ひ 東の五條
太后(おほきさい)の御所へ遣はし置ば いか成子細か承はらねど密かに忍ぶ人有と聞付け 番人を付置しは
其が計らひ 有夜築地に張紙して人知ぬ我通ひ路の関守はよひ/\事にうちもね
なゝんとの一首 何人の歌かはしらねど 此昭宣が番人を据て守らせ置証拠明白 夫は格
別 君は正しく閏月(じゆんげつ)の御誕生 日蝕月の生れに勝つて位に即れぬ御身がら 去によつて

弟宮 御即位有へき文徳帝の御遺勅を承はつたる其 忌中過なばひらくべしと勅定の書翰を
預け給はる 則大切の御遺書なれは宝蔵に納め御番には先帝の随身伊勢守藤原の
継蔭是を守る 斯明白なる義を推て今更何の御争ひか有へきと 聞ゟはつと燃る火
に水打そゝぐ御気色に?(ふすぼ:燻)りかへつて伴(ばん)の宗岡 イヤ其御遺書合点が行ぬ 文徳帝の御
宸筆(しんひつ)を似せ定めて得手勝手を書ちらした御遺言でかな有らふ 高子姫にうつぽれお通ひな
さる惟仁君 内証にて聟舅畢竟が縁者の証拠くらい/\と 傍若無人に云破れば 堀川の家
斑鳩藤太物にこらへぬ血気の武士階下ゟ延上り 最前ゟ主人昭宣事を分て申


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さるに勿体なくも御遺書を似せ筆なとゝは何を以ての嗔(?)讒(わんざん) 其上押て惟喬君を御位に
勧んとは取り所もない無理非道 但し閏月のお生れでも御即位有へき理屈ばし候か承はらんと云せも
あへず ヤア陪臣(またもの)の身を以て慮外の問い事すされやつと叱付け 神代ゟ伝はつたる三種の宝か御即位の表(おもて)
道具併(しかし)八咫(やた)の御鏡は 先年紀の名虎が生害の砌より行方知ず 又十握の御劔は御悩(のふ)平癒
の御祈願有て在原の行平に預け給ひし所何者か奪ひ取しと自身の奏聞 其罪に依て津
の国須磨へ流人と成る 今に置て宝剣の行衛知ず 相遺るは神璽の御箱帝密かに此宗岡を
召され 御位は惟喬親王に譲るへき旨相違なき証拠其に預け給ひし神璽の御箱 御遺書は

似せられふが似せられぬ神宝 我館の宝蔵に納め有れは是を以て惟喬親王御即位有に云分
有まい 諸卿此旨承知有れと理不尽たる横車 押し直つて昭宣卿 大切成御遺書は沙汰にも
及ばず 神璽を預り斗を御遺勅とはいはれまし 譬は神宝を人知れず奪ひ取帝の崩(しほう)
御を幸いに 神璽を預り居るなどゝ申上る人有はさてはそふかと事を納るは政道の暗き
所 何れも賢察の評議然るべしと 打てば響きし明智(めいち)の詞 胸にこたへて惟喬親王宗岡と
顔見合せ口ごもつて見へければ 宗岡の執権荒川宿禰(すくね)庭上ゟ声をかけ ヤア聞にくし昭宣卿 只
今の御一言では主人宗岡を盗賊といはぬ斗の当てこすり 主人は聞耳潰されうが此宿禰聞て


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はおらぬ 今一度仰有ば高位と手用捨仕らぬと眼に角立れば斑鳩藤太 ヤア過言也荒川 其方
が主人宗岡卿 身に覚有かないかはしらね共 上気の顔色ましくしとしてござる主人を差置きいはれさる
指出口 叶はぬ事の腰を押すは飛で火に入虫同前 控へて居よときめ付れば ヲゝ火に入ふが水に入らふか
善でも悪でも御主人に指上た此命 惜む愚人の眼(まなこ)に誠の武士の忠義は見へまい 無益(むやく)の舌
の根動かすなと 詞荒川逆立つ斑鳩 ヤア佞人の口にかけ愚人とは奇っ怪千万 今一度吐かば手に見せぬぞハゝゝゝ主人
の大事を抱へながら私事に斑鳩藤太 あんこう武士のなまくら刃金(はかね) 荒川が身には立ぬ 死急ぎする汝
が腮(あご) 望なら此方から切て切さけてくれふ 見事われが切さげるか 切て見せふと詰寄善悪も 忠義は

かはらぬ金鉄の鍔元寛げ立かゝれば アレ止(とゞ)めよと惟仁の御諚両卿声高く 宿禰控へい藤太鎮まれ
私の争ひ尾籠至極と制せられ ハツハツはつと両人は恐れて階下にひれ伏ば 惟喬親王茀(ほつ)/\
たる御気色(けしき)にて ヤア最前より昭宣宗岡が論義に連て家来迄が争ひ無益/\ 此上は直
談が近道 いかに惟仁 何は兎も有れ兄を指置位に 即(つく)べき所存なるか但し礼儀を重んじ退くか 返
答に寄て存ずる旨有りいかに/\と高声(こうしやう)に 我慢の勢ひきんしきを捲(めく)りかけて宣へば 惟仁穏和(おんくわ)の御声清く
兄君の御諚を背き逆らふ弟の礼ならずといへ共 又兄君の仰を守り 御父帝の御遺勅を背くべき道もなし
兎に角御遺書(ゆいしよ)をひらきし上礼もかゝず道にも背かぬ返答も有べけれ ヤア/\昭宣御遺言の書翰(しよかん)拝見せん


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早とく是へと惟仁の 御諚に昭宣謹んで 最前も申せし通り宝蔵に納置し御遺言伊勢守継蔭追
付持参仕らんと 仰も未だ終わらぬ所へ 堀川の家の子黒塚内記遽(あはたゝ)しく 夜前明方迄の事と相見へ
何者の所為(しわざ)にや丑寅角(すみ)の為門際ゟ宝蔵の内迄堀ぬき 大切成御遺書奪ひ取て行方なし 御蔵を預かる
伊勢守継蔭殿 申訳と有て直様切腹 館の騒動ひtpかたならずと大息ついで述けるにぞ はつと当惑
昭宣卿 詞も待ず斑鳩藤太 内記つゞけと欠出すを立ふさがつて荒川宿禰 コリヤ待て藤太何国(いづく)へ
かけだす しれた事御遺書の紛失盗賊にぼつ付き取かへさねば主人の瑕瑾(かきん)そこ退けと 又欠出す鐺(こじり)をしつ
かとコリヤ狼狽(うろたへ)て物に狂ふか 御遺書を奪ひ取行方しれぬ曲者がそちが詮議に来たらんかと 此辺に待

合さふか 笑止に思ふも縁者のよしみ 心をしづめてせんぎせよと 宥むる荒川堀川主従 途方にくれし有様に 伴
の宗岡したり顔 ハゝゝゝ愚かなり宿禰 笑止に思ふはそちが正直 主従共に狼狽ずは成まい イヤ驚き顔せずば済む
まい ハテ仕込だ計略と嘲る一言 斑鳩藤太檻(おばしま)近く詰寄て 何とおつしやる宗岡卿 仕込だ計略とは何を仕込た
何が計略承はらふ ヤアいふな藤太 惟仁親王に譲るべき御遺書有とは偽り まさかの時は盗み取れしなんどゝ宝蔵の抜
穴拵へ 惟喬始め我々を一ぱいはまらす工み事 明蔵の番をして腹切た伊勢守が大㑛(たはけ) イヤモたわいもない計略
でも見透されて昭宣卿 嘸かし無念にござらふと 意路くねわるふ云廻され 堂上堂下に主従が無念に無念重
なる思ひ 拳を握り運を喰しめ忍び涙にくれ居たる 惟喬親王寛々(くはん/\)と席を見下し 父天皇の御遺書有りとは


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偽りに决定(けつぢやう)せし上は 神璽を譲り置れし 惟喬位に即(つく)に言分有まい 僕(まろ)を偽る昭宣が大罪 赦し難きやつな
れ共帝位を受継ぐ我悦び 命は助け庶人となさん 宗岡は今日ゟ棟梁の臣たるべし 皆万歳(ばんぜい)を唱へよと御
殿もゆふぐ悦喜(えっき)の御諚 惟仁君は正直の頭(かうべ)を低(たれ)て兄君に向はせ給ひ 誠に御遺書有たるにもせよ
奪ひ取れしとは我不徳をしらさせ給ふ神の告げ 宗岡神璽を預り奉り 御遺勅の証拠有上は 御即位有て
万民を撫育の徳を顕はし給へ 我も今より臣下同然 別殿に遷(うつら)んと玉座を下りんと仕給ふ所へ 宗岡が
雑掌(ざつしやう)馬渕監物(まぶちけんもつ)あはて?(ふためき:撃:鞭掌)大汗を 階下にかけ付けおろ/\声 アゝ御大事が發(おこ)つて候 何者の所為(しはざ)にや御
宝蔵の壁を穿ち 忍び入て神璽の御箱奪ひ取て行方知れず 曲者詮議に館の騒動 とつちかこ

ちかあつちやそつちか方角白砂蹴立て踏立 追っかけては候へ共 とんと行衛は豫(あらかじ)め 斯の通りと訴ふれば恟り仰天惟
親王宗岡も俄に弱るうろ/\顔 今迄強さ綸言も流るゝ汗と諸共に出てかへらぬ宝の紛失詮議
せんとかけ出す宿禰 藤太が止(とゞ)めて荒川待て身共をとめた舌の根のかはかぬ中に立騒ぐは 狼狽て物に狂ふか
笑止に思ふは縁者のよしみ 心を鎮めて詮議せよと しつぺい返しにさしもの宿禰屹(きつと)思案も同じ夜に同じ紛
失(じつ) けふの評議思ひ当りし藤太が胸 互に夫と睨み合ふ 心は一対義者勇者 別れて左右に控ゆれば
昭宣心得惟仁君を元の玉座に勧め参らせいかに宗岡 貴殿神璽を預り奉るとは 偽りの計略よな ヤア偽りとは
何を以て ホゝウ偽りならずば神璽の御箱持参召され拝見せん サア夫は ハテ工(たく)んたりなまさかの時は紛失などゝ宝


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蔵の壁を穿ちし拵へ事 浅はかなる計略も見透かされて嘸かし無念にござらふと 当てかへされて宗岡が 報ひは
早い針の先くつしや/\と突かるゝ心地 惟喬親王我慢の大音 ヤア拵へ事とは緩怠(くわんたい)至極 此上は三種の神器
形代(かたしろ)を拵へて是でも非でも此惟喬が位に即(つく) イヤ閏月に誕生の皇子御位に勧めし其例し候はず 例しが有ふ
が有まいが順道を立てて此宗岡が御位に勧めて見せふ イヤ神国の正道を破る事罷り成らぬ テモ順道は背かれまい 正
道は破れまじと両卿の 争ひ果し並居る面々 詞闘ひ双方より別れたる公卿の評議 ひとかたならず嗷(かう)/\
たり 日花門(につかもん)に声有て公卿の面々お控へ有れ 染殿皇后の勅定を承り在原の業平参内と入来たる 在五中将
おひかけしたる冠に 雲の鬢づら花の顔ばせ安ふして色深く 風流優しき束帯姿 重藤(しげとう)の弓携へ悠々

と昇殿有 今日諸卿の会合は御即位の評議 然るに御遺書神璽共に時も違(たが)へず紛失の訴へ 斯空位の折を
窺ひ叛逆人の所為ならん 急ぎ御即位の沙汰有へきなれ共 御位に即き給ふ共御兄弟の御中矛盾にならん事御
母公(きみ)染殿皇后深く是を歎かせ給ひ 分(わき)難き評定には力者を合せ 勝負に寄て事を定る事往合(そのかみ)垂仁天皇
の御宇(ぎよう)野見の宿禰当麻の蹴速より始つて其例有 此度の御位定めはこころを義する公卿の面々 手寄に力量
有る者を集め 神慮に任す角力(すまふ)の勝負 見分(けんぶん)行司の役は斯申す 業平是を承る 何れ勝ちたらん方こそ御即位有て
御兄弟睦じく有れかしと皇后の勅定 お請有て然るべしと 淀まぬ弁舌鮮やかなる詞に花実在原氏 誰かしなづを?
の 神の化現としられたり 両親王を始めとし 昭宣宗岡公卿の面々 お受の勅答事終れば伴の宗岡近寄り 皇后


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の差図 角力の勝負で御位を定るとは面白し ヤア/\荒川宿禰春久 汝が勇猛は普く人の知る所 誰彼と云ん
ゟ 位定めの大関を申付る 往昔(そのかみ)当麻(たいま)の蹴速(けはや)を蹴殺したる野見の宿禰 其方が名も宿禰 イヤもふ違た心地が
する 誰にも有れ相人を蹴殺し惟喬君を万乗(じやう)の御位に勧むるはそちが働きぬかるなやつと云付れば 昭宣心得 ヤア/\斑
鳩藤太基国 汝が力量は世挙って知れる所 位定めの大関たるべし勝利を得て惟仁君御即位有せんは其方が働き
しかと申付るぞと 主命辞する所なく 両人一度にはつと領承(れうしやう)業平重ねて 神慮を仰ぐ角力の場所は賀茂の
社東の方は惟喬君 西の方は惟仁君 角力の相人は斑鳩荒川見事に勝てお目にかけんと 勢ひ込だる其骨柄 ヲゝ
いさましき二人が形相引返さぬ此弓を此荒川が 此斑鳩が取て見せふと詰寄る両人 夫こそ君の御運次第 日も夕(せき)

陽(やう)に傾けば けふの会合是迄也 何れも退散イザ退出と立別るゝ心/\の雲の上 空位も頓て実を結ぶ 梅と桜の
競(はなくらべ)盛り争ふ大内(おほち)山 春の日脚(ひあし)も長き代の 例しを引も〽豊なれ 水上清き加茂川や 流れも広き神がきに和光のかげも
世にすみて歩行(あゆみ)を運ぶ老若男女 中に一際堆(うづたか)き 姿は夫(それ)と汲みてしる井筒姫と聞へしは 紀の有常の秘蔵娘神に願ひを
由所(かけまく)も 二世と兼たる業平に忍び逢たき下萌の 裾もあらはの鳥居前(さき)徒路(かちぢ)ひらふも慰みと跡に乗物供廻り 嬪婢(はした)付き
随ひ けふ九重の端手競(はでくらべ)柳桜を植まぜて都ぞ春の錦なり イザヤア是へお腰と 床几にかゝる折からに在原の舎人(とねり)峯丸
といふ利発者 気も春草を文づかひ こなたもそれと嬪共 ヲゝ峯丸殿か早ふ/\ お姫様が大体のお待兼ではないわいのふ 左様
返じて心は急(せけ)ど 神職方の人目有ば 一通のお文に大ていのお隙入 先々御覧遊ばせと 渡せば取て井筒姫 くり返し見る玉章(たまづさ)も


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逢ふ心地する大鷹の 神かけてとはヲゝ嬉し 申お姫様 お嬉しがりはどの様な御文章 お見せ遊ばせ/\と 取廻したる嬪共 耳も引れぬお主の恋 恋の
やつこもきよろ/\と 心しよぎ/\嘐(さゞめ:鎗:喙)き合 アゝコレ騒しい 後程往て逢ふぞやと ツイ一通りのお文じやわいのふ ヲゝけなり夫(それ)か何所(どこ)に一
通り サア/\そんならお幕の内へ 御家来衆はとこぞそこらで休足さつしやれ はつと一度に立そに立て サア/\ちやつとあれはお越 アゝ
せはない衆では有と おち付顔の下心 早ふお出を幕の中(うち) 使い大義じやお早ふと 伝へてたもと振袖も ?(なまめ:女へんに蜀)き嘐(さゞめ)く嬪共 恋の
取持ち取々に かしこへ伴ひ入にける 神は非礼を受けず共 無理に利運を祈りの代参 伴の大納言宗岡 大宅(おほや)の鷹鳥(たかとり)幕しぼ
らせて歩み出 今日我々当社へ参詣せしは 惟喬君の御利運を祈の為 又二つには有常が娘井筒姫にお心をかけられ 連
来れとの御諚なれ共 表立ては中/\渡されぬ有常が片意路 幸い今日此所へ花見の遊山と聞たる故 有無を云せず惟喬

君の御所へ引立行んず我思案 大宅殿にも御合点と詞に鷹鳥打諾(うなづ)き 成程其義は此鷹鳥が呑込で罷仕る
コリヤ/\家来共 申付置た通りにぬかるな イヤ夫はそふと宗岡卿 兼て仰置れたる紀の名虎が骸骨をと いふ口押へて ヤレ
音高し人に知らさぬ大事 其義は鞠岡龍太といふ浪人を機関(かたらい)密かに申付置たれば 追付け持参致すべしと 悪事の
思慮も深編笠 顔を隠して桜の林うそ/\窺ふ鞠岡龍太 一つの壷を携へて夫と見るゟ傍近く宗岡卿コレに候な
仰に随ひ忍び入て名虎殿の墓所(はかしよ)を穿ち 骸骨残らず此壷に取納め 斯の通りと述ければ ヲゝ出かした大義/\ 此恩
賞は汝が立身悦べと 云つゝ件の壷の中 名虎が骸骨髑髏(しやれかうべ)取出しとつくと見て 無念の最期を遂たりし紀の名虎
が骸骨 行法の聞へ高き真雅(しんが)僧正に申付 招魂の法を行はせ名虎が亡魂再び此途(ど)へ呼戻さば 惟喬君の勝利


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疑ひなし 此宗岡は是よりも僧正方へ立越ん 鷹鳥殿には井筒姫 奪ひ取る計略をぬかり召れな 合点/\然らば直様
おさらばと 龍太引連れ宗岡は 僧正方へ急ぎ行 跡に主従諾(うなづ)き囁き 井筒を奪ふ談合評義 木陰に忍ぶ折こそ有れ 恋風
絶へずもあたれ在原の業平風(ふう)と世挙(よこぞつて)引手数多の供人を神職方に残し置 気に入の童(わらは)峯丸一人御供にて 忍びて
爰へ絹の香も 心ときめく幕の中 夫と知らせに井筒姫 出る姿に見合す顔 ぞつとする程嬉しさを包む色目に業平も
何気ないふり今更に 恥しいのが恋なんや 嬪共は気もわく/\突やる拍子寄る拍子 お赦しなされて下さりませをしほにして
同じ床几に寄添ば コハ/\井筒姫殿最前は深切な玉章(たまづさ)忝ふ存じますると 挨拶有は井筒姫 あなたからもお嬉しい返り
事 シタガ今迄よもや神職方にお入遊ばしたでも有まい 外々の姫ごぜに嬉しがらしてござつた物と おぼこな振の袖覆ふ 顔は

上気のからくれなひ 君の心が水ならばくゞり入たき其風情 コレハ思ひも寄らぬ疑ひ 最前の文を見ると春風か恋風
か但しは結ぶの神風かとふやら寒ふ業平はじつと寄添仕こなしふり アイ其神風で此恋風吹散されてとぴんとする 色
にはぶんの智恵在原 態(わざと)投首むつと顔 ハテ何とせふ業平共云るゝ者が アゝ儘よ 死で退けふひぞりの刀 コレなふ待てと取
付く姫 供にとゞめて嬪婢遅ふお出の仕返しは私共が付け智恵姫様の業(わざ)じやない 堪へmしてと惣々が口々詫れば井筒も
供に 今の様に申たのがお腹が立なら誤りました 堪忍して給はれと おろ/\声に縋り付 詫(わぶ)る手先を引寄せて 堪忍せいでよい物
か 死ぬるといふたはこつちの嘘 恨みいふたも私が空云 其方も堪てお前も堪へて コレ斯(かう)としめかはしたる妹背中 御洗川(みたらしかは)にせし
御祓(みそぎ) 神やかけずもなりぬらん 嬪共はそゝり立ち 相惚のお二人様 しつぽりは幕の中(うち)いざ/\お越しと勧むれば イヤ/\今暫く用事


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有れど余り/\待兼と推しての此時宜(しぎ) ムゝそふおつしやるはまだお心が解けぬかいなァ ハテ扨隙(ひま)の入る事ではない 暫しの中幕の内
で待てたべ イヤモウあの様におつしやるからは御用の有に違ひは有まい ノウ卯の葉殿 イヤ/\そふいふてお帰りなされふも知れぬぞや
幸のお腰の物 預らふしやないかいなァ申お姫様 イヤ/\そふと業平の詞はどふやら合点が行ぬ お預り申てたも 畏つたと嬪共
寄てかゝつて引ほどく 太刀の紐解く暫時(つかのま)も放れぬえんぎお姫様 お嬉しからふと勇み太刀渡せば取て井筒姫 嬉しや是で落
付た 必預て業平様 いそ/\色香移り香は 君の薫りと抱しめ幕の〽内にぞ入給ふ 思ひをば結ぶ目元に引かされて 寄りくる
糸の染被(そめかづき) 田舎といへど近国の水に瀑(しやれ)たる二八頃 名も高安の生駒(いこま)姫 都始めの見物は目の放されぬ盛り迚 花を
かぞへて歩みくる 業平卿は早夫と知らせ咳漱(しはふく)煙草の煙 こなたも思ひ寄顔に見事な花の よき花のと 床几へつかふ目

つかひに業平卿はいとゞ猶 魂飛んで振袖の内ぞ床しき風情也 コリヤ峯丸 其方はアレアノ幕の内へ参り 今暫く用事
仕廻ふ迄此所へお出は無用と ナコリヤ合点か早ふ/\ はつと呑込む目のはりは かしこの首尾も取て居る 遉(さすが)それしやの召使 気持き
かして走り行 跡に二人は目づかひに 心通へど詞なく恋の仕かけは日の本に 並び業平左有らぬ体 コレハ/\若い女中の只
お一人 花を見る気か見らるゝ心か 心にくいお姿 指し合のない此床几 暫く是へお腰をと 色を含みし一言に姫は被を取あへず
最前下加茂の社にて女子の大胆なお姿にほだされ 廻らぬ筆に一首の歌 千早振る神の瑞籬(いがき)も越ぬべし大宮
人のみまくほしさに と申上ましたれば ヲゝ恋しくば来ても見よかし千早振る神のいさむる道ならなくに と我返歌 サア其お歌が嬉し
さに 附(つき)々を跡に置き 見へ隠れにあなたのお姿跡ゟ慕ふ徒(いたづら)と かさげしみも恥しやと 顔打赤め袖覆ふ 夫嬉しの御心底 袖振り


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合も他生の縁 互に名前も明かし合い お国が否(いや)なら都にとゞめ 都がいやならお国へ同道 そりや御真実でござりますかへ
そんならどこぞでかための盃 成程/\昼の岩戸の雨曇り とはれつ問(とふ)つ致さんと手を取給へば兎も角も 濡れし袂はかへたしと床
几を下り立ち給ふ向ふに 生駒様イのふ お姫様イのふと ほの声聞こゆれば生駒姫 ヤアあれは私を尋る人音 最早近づくハテどふがな 幸い爰
に乗物の内に暫しと手を取て 忍び相輿(ごし)戸を立つる初恋路こそ窮屈也 程なく嬪先に立ち 高安か下部常平 姫を失ふうろ/\
眼(まなこ) エゝこなた衆もこなた衆じや 嬪といや腰の廻りに取付て居りや 斯(こう)いふ麁相は出来ぬわいの サイノウ皆は傍に付て
居たけれど アノ松原にうつくしい鳥が居て お姫様が取てたもとおつしやる 取ふと思ふて皆があちこちする中(うち)に とんと見失ふたわい
のふ ソレ/\そふいふ馬鹿じや 心安そふにとぶ鳥がついに取る物かい あげくの果にお姫様迄取逃すとは 取所もない穿鑿じや と云

て斗り居ても済まぬ 本社の方々桜の林 手分けして尋て見よふ 早ふ/\嬪共 宮路の方へと尋行 跡につくり常平が エゝひよんな事
じや 生駒様がござらねば旅宿へ帰つて申訳が 何でも是から根(こん)限り 尋て見やふも屈託顔 折から傍(かたへ)の乗物 よもやこゝ
らへ金剛草履 ヤアこりや慥(たしか)に生駒様の履物 此乗物の傍に此お草履 若し此中(うち)にと立寄る常平 内からしつかり生駒が
声 アゝ是常平 めつたい傍へ寄てたもんな そりやこそ生駒様のお声じや/\ コレ申めつそふな こりやよその乗物でござ
りますはい 何の為に隠れてござる 最前から大抵尋た事ではない サゝゝゝお出なされと乗物の 戸に手を懸(かく)れば アゝ是い
のふ わしやさつきにから癪が襲つて エゝなんとおつしやる アノ癪気が發(おこ)りましたか サア夫で此中(うち)で寝て居るはいのふ ヤレ
夫は悪い所で發りましたなァ といふて乗物にござつては冷へまする 神主の方へお供致し座敷を借うけ暫くお休み サゝゝゝ お


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お出なされと 又立かゝれば内から押さへて アゝコレ明きやんないのふ わしややつぱり爰に居たい いらつ迄も斯して居たいわいのふ ヤレ扨
妙な事おつしやるわい 乗物で養生とはハテ物好なと云つゝこて/\紙入捜し せめて何ぞお薬を イヤ幸爰に挫(ざ)
癪(しやく)丸 功能書きに乗物が書いて有るのは乗物で 發つて癪には奇妙で有ふと 包とく間も媚(なまめ)く乗物 そろ/\めさ
/\ サア/\/\ 大抵の癪気ではないわいやい アゝコレ申し体をもむまい/\と いへど答へも波乗り船の音はゆさ/\一人前の
自身療治してござるか お腹(なか)をそろそろ擦りませふか 是はしたり マアちちょつと爰を明たがよい 薬も上げたし夫もいやかへ
ハテ片意路な エ エ 何じや生駒様痛いか/\ 泣く事はない そこが辛抱 何じや アゝ能(よい) アゝよけりやえい 泣くない/\ こたへて呉(く)
れと病むめより 見る事ならず常平が 乗物ごしにお腹も押されず 主と病ひに片意地な お子では有と謐(つぶや)く折から

あなたの幕の中ゟも 業平様は何国(いづく)へと 尋る声は井筒姫 引き連れ出る峯丸が手を取々に嬪共 業平様のお行衛を
云(いは)さにや置かぬ イヤ知らぬと せり合一群(むれ)こなたの方 尋さまよふ生駒が嬪おろ/\声で常平殿 なんぼ尋てもお姫様が
ヲツト此中にござるぞ/\ じやがえら癪で御難義じやと うろつく中に井筒が嬪 コレ/\爰に業平様のお履(くつ)が有る
乗物の傍には女中のはき物 合点が行ぬとばら/\/\ 乗物かこふて常平が アゝ申/\手前主人が急病にて 暫く乗
物御無心ながらと 頼むも聞かず無理やりに寄てかゝつてこぢ明ける 内にたまらず業平卿 逃出給へば常平が恟り透さ
ず井筒姫 あなたにはかはつた所にコレ申 様子おつしやれ/\と 恨みの詞聞兼て走り出たる生駒姫 常平が二度恟り 今
こそ癪の根が知れて挫癪丸ゟ女悦(によえつ)丸が是にはよいと軻れ居る 二人の姫は右左り よふあなた嘘つきなさつたなァ サアそれはの


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乗物の中に二人ござつたわけ聞ませふ サア訳といふては 何にも云ずとこなたへと 取付く生駒を引退けて 大事の/\業平様
どつこもやりやせぬと 縋る井筒を押し退けて イエ/\夫(それ)でも イエ/\ならぬと 互んいせり合姫と姫 共も供に争ひ
果し並木の影窺ひ寄たる大宅の鷹鳥 ソリヤといふ間も大勢が 井筒を渡せと取まく中 兎やせん角やと常
平が傍(あた)りに落ちる深編笠 顔を隠してあたるを幸いなげのけ/\ イザ此隙(ひま)に生駒様 怪我をさしては我抔
か誤り ソレ嬪衆 合点といなむ生駒を引立/\叢(くさむら)を道引かへて連れ走る 猶も取まく多勢を相手 縦横無尽に抛(なぎ)立つれば 叶はぬ赦せと我先にむら/\ぱつと逃散たり 業平卿慇懃に 何人なるか段々の世話忝しと挨拶有れば イヤお礼に
及ばぬ拙者でごさると編笠取れば ヤアこなたは アゝ是何にも云ずと此場を早ふと 勧め後ろに大宅が家来兵藤兵六

覚悟せよと切込刃かいくゝつてもぎ取たんびらどつさりばつたり 何をいふ間も事急也 暫く木陰に合点と 隠るゝ間も無く
数多の人音 死骸に姫の襠(うちかけ)を てつ取早く乗物へ捻込み押込み戸をおうつしやり そこにころりと落たる首に深編笠 其
身はしつかり頬かふり 形をかゆる丸裸 高安が家来迚河内木綿の襠を 引延して立たる所 大宅の鷹鳥取て返し
邪魔働ひた浪人ぐるめ 業平も討取て井筒を奪へと下知する向ふに常平が 踏扈(ふんばたかつ)て一調子 鼻ぐた声の
大音上 ヤア遅し/\ うぢ/\召るゝ其隙にちやんと拙者が欠付て 浪人めは此鼻が討取たりといふ声も鼻ひく/\゛と呼
はつたり ナニ深編笠の浪人めをスリヤ其方が討取しとな ヲゝ編笠ぐち此通りと ふの焼もどきの首投出し 井筒姫も乗物へ打のして
有る網かけた/\と 詞にそりやと用意の網 出かした/\ シテ其方は何者なるぞ ヲゝ事も愚かや我抔こそ 此度惟喬方へ抱へ


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られた角力取 仙台鬼ヶ島とは身共が事じや 誠に仙台笈ケ島は鼻ぐた也と音に聞た 手がら/\ 褒美は重ね
て館へ参れ 畏りました 家来共乗物急げと鷹鳥が 取居られて手柄顔心も有頂殿上(うてうてんじやう)
気も夕陽(せきやう)に乗物
ぼつたて おさらばさらばと 別れてこそは〽行空の 頃は二年春三月三日 位定めと御遊(ぎよゆふ)とを 打混(うちこん)じたる角力
節会(せちえ) 正面に玉座を設け東の方は惟喬親王 西の方は惟仁親王 左右に別るゝ月卿雲客(げつけいうんかく)勝ち負けに依怙(えこ)なき事万
民に知らせん為 都の町人百姓に触れ流せば 御免を蒙る下々の見物群集押合いへし合い 朝の夜からえいとう/\ 堂上堂
下も礼儀を忘れ装束の袖腕捲り冠も横に六位の官人 衛士仕丁(えじしてう)に至る迄 己(おのれ)/\が心の贔屓 かた唾を飲で控へ
居る 書の博士が勝負附け 内蔵寮(くらりやう)の下中臣(したつかさ) 金銀の器物携へて お茶召され/\ かちんめせ はぎめせしら茶召せ 九献召

れと群集の中 蜘蛛手に歩行八つ脚(かし)や 角力の場には口合も お定り成る蛸肴 菓子は宇治山本山大内山のお物へ 下され物
も位入 倭詞で施行する 既に角力も半ばにて暫く息を入る間も 早く/\と頻りの御諚 左右の内舎人承ん 又も始
むる拍子木に 連れて奏す音楽と 供に名乗を触扇子(ふれあふぎ) 披(ひら)く運も秀丸吉丸 金紋紗の肩衣?(あんめ?)の小袴
裾くゝみ 行司の作法正しくも双方勝負を〽争ひける 東西勝負は牛角(ごかく)にて 末(すえ)一番は関と関 荒川宿禰斑鳩
藤太 烏帽子素襖もかなぐり捨 下帯引しめつ立勢ひゆるき出たる有様は愛に愛持つあうんの二王の若盛り共
云つべし 荒川/\/\ 斑鳩/\/\と 名乗上れば見分行司の役目を蒙り 在五(ざいご)中将業平 冠正しくけつぽうの袖まくり 手に
團扇(だんせん)携へ土俵の中(うち)へ入給ひ 是迄の角力は御遊(ぎよゆう) 此勝負こそ両親王の御位定め 四本柱は須弥の四州(ししう)多聞持国増(たもんぢこくぞう)


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長広目(ちやうくはうもく)の四天王にかたどれり 土俵の数は十六俵 是十六羅漢に準(なぞら)へ 両方に明いたる口はあうんの二字 行司の持つ
團扇こそ日月の形なり 去によつて此角力は神仏の冥慮に任す正直正道 勝負に依怙の心有れば 逆罪にも
勝るべし 何れ勝つ共負る共 遺恨に思ふ事なかれ サア用意能(よく)ば心静かに立合て然るべしと 仰に両人土俵に上り 御桟敷
に一礼し 今ぞ十善万乗の御位を踏み定むべき しこ踏ならし立向ふ 両親王は胸轟き 是ぞ誠に玉の汗五体濡(ぬる)る
天(あめ)が下(した) 分け目の勝負ぞ晴がまし 惟喬君の御かたやは荒川/\ 惟仁君の御かたやは斑鳩/\ 勝負は神の御計らひ エイと披(ひら)く
團(うちは)の風ゟ早く エイと刎(はぬ)ればしつとゝはづし 十二の捻り十二の投げ 立眼(たちがん)居眼強みの腰 内かけ外がけ手を砕き 心を砕きもみ
合ば 勝負いかゞと西東 左右の大臣公卿の面々眼を放さず息を詰 心に立てぬ立願もなく 手に汗握つて見給へば 両方互に

四つ手に 組はぶしにどふど転(まろ)ぶにぞ 業平声かけ角力は見えた 勝負なしとの給へば 東西一度に騒ぎ立 イヤ荒川が勝ちじや/\
イヤ斑鳩が勝ちじや/\ アゝいや/\暫く 只今の角力は此荒川が負けでござるぞ ナニ 荒川負けたと名乗る上は惟仁君の御即位/\
アゝいや/\待た 此斑鳩が負けでござるぞ ヲゝ斑鳩負けと申からは 惟喬君に御位は極つた イヤ/\/\ 此荒川が負けてござる イヤ
斑鳩が勝ちではないと 負けを争ふ二人(ににん)が心 逸物有り共気は上り 力身かへつて殿上人 理非をもいかでしらま弓 贔
屓/\そ囂(かまびす)し 堀川の大臣(おとゞ)左右を制し ヤレ鎮られよ旁(かた/\゛)見分行司を承はる業平朝臣 勝負なしと申さるゝ上は 諸
卿の裁配(さいはい)無用也と 詞に宗岡眼に角立て イゝヤ勝負なしとは呑込まぬ 荒川宿禰が仕かけの勝ち 殊に斑鳩が自
身負けと云からは 否応は云れぬ所 見分行司の依怙贔屓か くらい/\とかさにかゝつて罵れば 業平朝臣詞を正し コハ宗岡卿


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の詞共覚へず 自身負けと申を証拠とせば 荒川宿禰が詞も同じ 神慮に任せし力業 依怙贔屓せば御罰を
受んと 誓ひを立し今日の見分 其体一度に落たれば 勝負なしと申せし段 業平が誤りには候はず 心より今一度立合せ
御覧有て 御即位の沙汰有らまほしと 臆する色なく述給へば たまり兼て惟喬親王 玉座を離れ土俵間近く出御(しゆつぎよ)有 アラ
心得がたき角力の有様 荒川宿禰斑鳩藤太 互に勝ちこそ争ふねきに 負けを争ふ奇怪の曲者 詮議は追って罷り立て 退け
やつと睨み付け 今日を逃さぬ位定め 誰彼と云んも面倒 此上は弟惟仁と 此惟喬が角力の勝負に位を定めん
弟惟仁是へ出よと 土俵の中(うち)へかけ上り 傍若無人の御有様邊(あた)りを睨んで立給へば 昭宣業平詞を揃へ コハ怪(けしか)らぬ御
諚 御兄弟力を争ひ給はん事 此世からなる修羅道 万一天孫たる御身に血をあやし給ふ虚事(きよじ)有らば 神国の瑕瑾(かきん)異国

の聞こへも憚給へ 勿体なし恐ろしと制し止(とゞ)むる折こそ有 俄に一天かき曇り 梢を鳴らす風ならで 悪念の霊火ひらめく共 人は知らしや
惟喬親王うんと一声土俵の中 悶絶有こそ不思議なれ コハ何事と諸卿の面々驚き騒ぐ此場の騒動 どう/\さつと
吹しきる 風か怪しや白衣の形相かげのごとくに忽然と 顕はれ出し紀の名虎 実も真雅僧正が招魂の法行力将(まさ)に
炳然(いちぢるし) 倒れ臥たる惟喬親王むく/\と起き上がり公卿を蹴退け踏飛ばし 土俵もゆらぐ大音上 往事(わうじ)渺(べう/\)として夢に似たり
無念の魂魄幽明(ゆうめい)の暗闇ゟ娑婆にかへりし今日只今 惟喬惟仁位争ふ角力の勝負 見捨つるは臣が本意に有ず
相手嫌はぬ我勇力 惟仁に心を寄する青公家原 ひとつに成て来れや来れ一々に 蹴殺し捨ん罷出よとうなり声
堂上堂下身の毛立 不審はれねば昭宣卿 俄に是は死霊の見入れ 此体にて御即位の沙汰思ひも寄らず 加持


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祈祷にて物の怪を退けし上の行儀然るべしと 詞に覚へ宗岡は行法の験(しるし)は顕はれしと 心に悦ぶ一入笑(えみ) イヤ譬へ何が
どふ成ても今日と極めし位定め べん/\とした評議は無用 イヤ/\ソレは理不尽の一言 物怪付いたる惟喬君 相手を出せ
と御諚有共尊王の御相手に成べき者有らんや 是非今日の御位定め事を延ばすにしくはなしと 業平仰共道理を糺し
の給ふ詞の終りも待たず ヤア形を見て魂を問ざる狼狽者 我は惟喬親王ならず 三年以前融(とをる)の大臣(おとゞ)在原の行平なんど
が讒言にて 無実の罪に自滅せし 正三位紀の名虎 相手に取て不足は成まじ 我と思はん者有らば罷出角力の勝負
に位を定めよ 我が魂は返す/\も惟喬ならず 形をかりの名虎なるぞ とく/\勝負を決せよと 踏扈(ふんはたかつ)たる力足
どう/\どふどいゝならくにもこたへつべうぞ見へにける 扨は名虎が亡魂の付随ひし惟喬君 惟仁の御運も是迄

成けるかと 諸卿一度に顔見合せ恐れ入たる斗なり ハゝゝゝ我性名に聞き怕して 相手は扨置一言もなき?(こしぬけ:辟?:鷿)公家 此上は勝負に及
ばす惟喬天皇の位に定る ハゝア仰迄も候はず 惟喬君の御即位万々歳 祝し申せと宗岡が 詞に勇む惟喬方 惟
仁方はしよけ鳥の片羽もかれし其風情 東の片屋は嘐(さゞめ)いて御代万歳と呼はる所に 西の片屋に血気の大音 待った暫く名虎
公のお相手に 惟仁君の仕丁孔雀三郎 夫へ参つて角力の勝負仕らふ 暫くお待下されいと 声をかけてのつさ/\ ゆるぎ出たる孔
雀三郎 烏帽子白(はくてう)引かなぐり 輪皷(りうご)としめたる下帯も 爰を晴(はれ)とや己(おの)が名の 孔雀の丸々肥太(こへふと)つたる大力士 勇
猛強気(がうき)を顕はして ふんぢかつて立たる有様 男は裸百官百司 目を驚かす勢ひなり 宗岡同意の鷹鳥次成詞を揃へ
御形は惟喬君 魂は紀の名虎 奇妙希代の神通力に敵たはんとは不敵の下郎め すされやつときめ付れば ちつ共臆せず打


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笑ひ ハゝゝゝ 知れて有る下郎呼はり 慮外合点 慮外と知ても出にやなりませぬ 相手なければ角力の勝負にあ及ばず 御位
は惟喬親王と有じやによつて出にや成ませぬ 此儘で済ませば惟喬君に位は定る 又此下郎がお相手に成て
負けてからが同じこと スリヤ一番お相手に成て取て見るが念晴し 万一怪家(けが)の拍子にても 勝たら勝徳其時こそ 惟
仁君の御代万歳 負けたら直ぐに土俵の真ん中 此下郎が絶体絶命 此世で勝ずは冥途迄もほつ討ほつ詰むしやふり
付きに投げ取ても投げにや置かぬ生れた時も丸裸殺さるゝも丸裸 百貫の鷹も放して見ねば知らぬとやら亡魂様で
ござらふが 怨霊殿で有ふが 名虎は愚か鬼でも蛇でも相構はぬめつた取 人くひ馬に(次?)にもあい口と そんな物でも
ござりませぬと いふ詞さへどつしりと 節くれ立た腕骨を撫で擦つてぞ力身居る 宗岡腹に据かねて ヤア出る儘の

雑言身の程しらぬ慮外者 誰が有アレ引立い 畏つたと仕丁のめん/\引立かゝるをはり飛し イゝヤめつたにや立ぬ 七つ
の年から流浪して 十三から武者修行 日本国をへめぐつても 片手にたるやつもない 力業にこり塊(かたま)つた此どんたい イザ
動かふと腹な虫が得心をする迄は 宗岡卿の御意は愚か綸言でも勅定でも動かぬ/\ 今一度指でもさへるや
否や 五体を微塵に揉砕くぞと くはつと睨し眼の光 恐れて逃ちる仕丁共 持あましてぞ見へにける 土俵の中ゟ
見下す勢ひ もへ立ことき高笑ひ ハゝゝゝ力寄す頼みにしほらしき下郎が広言 望に任せ相手に成り 掴み殺して
くれん是へこよと 招く姿は惟喬親王 詞じゃ荒き勇猛力 目にこそ見へね名虎が所為 すさまじかりける次第也
惟仁親王御声高く ヤア/\昭宣今日角力の勝負にて 万乗の位を定めよとは 御母染殿皇居の御差


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図 黙止(もだし)がたき此場の時宜 下郎が詞も一理有 此上は立合せ 勝負を一時に決すべしと 御諚を返して昭宣卿
御尤の御諚には候へ共 立合にも程々有 御姿は惟喬君 魂は紀の名虎 高位の相手に無位の下郎 位にも
負け候はんと申上れば ヲゝ夫こそは其下郎に正三位(さんみ)大納言の官位を授けん 勝負は時の運次第 神慮に任
す位定め 早とく/\と御諚有れば業平心得衣冠携へ立向ひ ヤア/\孔雀三郎 正三位の冠装束 惟仁
親王より下し給はる 有難く頂戴し御位定めの大事の角力 潔く立合召されと 詞も忽ち官位の装束
三郎にたびければ ハゝハゝはつと平伏し スリヤ下郎に官位を下され 角力の役を勤めよとな ヘエゝ有難い勅
定 お辞儀致すは却て慮外 どなたも/\御免といふ間もあらくれ體 作法も白無垢引っ重ね 片まへ下りを

業平が 供に手伝ふ刺貫(さしぬき)も さしも立派に引結ぶ 心は堅き石の帯 天窓(あたま)に似合ぬ束帯姿 力業を正三
位 大胆不敵の大納言と 小踊りしてそ立たりける イヤきやうとい/\ シタガ此形(なり)で三郎とは相応せぬ ヲゝ夫よ大納言
業平様の男にあやかり ひらたくたい此形を名に呼で孔雀大納言形(なり)平/\ イザ参らふと西の方 土俵に上がれ
ば立向ふ 名虎が死霊神国の 正直心に照らされしや かき消すごとく忽ちに 空晴れ渡れば日光も 早南面の位
定め 睨み合てぞ控へたり 中に立たる業平の 行司も今ぞ昿(はれ)勝負 是ぞ惟喬惟仁の 位争ふ西
東 正三位紀の名虎 孔雀三郎成(なり)平と 末世に伝ふも今爰に既に手合ぞ〽勇/\しけれ
東の五條に太后(おほきさい)宮おはしましける 諒闇(りやうあん)の月も日も 立つや弥生の春霞 靉靆(たなびく)雲の上人も 苦は色


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かゆる松の風も位定めの注進かと 詫びて出給ふは 堀川の大臣昭宣卿の妹高子君 西のたい
より此御所へ きつゝなれにし下心 色に染殿皇后に つかふまつるもあてやかなる 惟仁君と人知ず 恋の
関守今は早 皇后のお情にて おひ/\毎にうちも寝て 比翼連理と睦まじき 堀川の家臣斑鳩藤太
が女房関の戸 宗岡が執権荒川宿禰が妻の通ひ路 主人の心は分ら共 分らぬ妹背小姑
打連れ御所に上りける 高子の君見やr給ひ ヲゝ関の戸通ひ路二人共によふこそ/\ 近ふ/\と有ければ
御前間近く手をつかへ 今日の御位定め天気も宜しく 皇后様にも嘸御満足にお入遊ばされませふ
御主人達の名代に 夫/\が御前へ上る筈の所 荒川宿禰斑鳩藤太 両人共にお角力の役目 夫故又/\

私共が夫/\の苗代(めうだい) 憚りながらお姫様 皇后様へ此よしを仰上られ下さりませふならば有難ふ存じますると 両
人か同じ口上一対の 会釈こほして述ければ ヲゝ夫は大義/\それはそふと二人の衆御位定めのお噂は聞ずかや
何れへ御即位有ふそと案じに胸も落付ず 心をいためて妹背中 惟仁様と云さしていはでの森やはづ
かしの 森に隠るゝ月の顔 袖覆づて宣ふにぞ 姫の心を諌めんと思ふ心の一すじに 関の戸すり
寄て是はしたり お姫様の何をお案じ 惟仁君の御かたや大関は夫(おっと)斑鳩藤太殿 凡日本国中につゞく
力は有まいと噂に乗た勇士 御位は惟仁様と 追付御注進がござりませふ イヤ又夫の大力をしつて居
ながら辞退もせず相手になる兄様も兄様 物好なお人やと 夫を自慢の爪(つま)はぢき 当つてむつと宿禰


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が女房 関戸様ソリヤお詞が過まする お前の殿様私が兄様 藤太殿の相手は誰 忝くも私が夫
荒川宿禰 勇猛強力(がうりき)六十余州に 肩を並ぶる者もないと噂に乗たる大力 よもや知らずでも有まいに
辞退もせず相手になるとは ほんに笑止に存じますと 当てかへしたるめつた的 いはれて居ぬ気も関の戸
が 聞にくひ通ひ路様 男自慢は格別 惟仁君勝給へと祈つてござるお姫様のお心もしらず 出る
儘の自慢口 お上へ対して慮外で有ふとやり込れば イゝエそりやいはしやんすがくだ お姫様の
お案じも殿様思ひ お前の自慢も私が自慢も 殿様思ひに一つはない お姫様のお気に立ふが
立まいが けふの勝負は夫の勝に極つてこざんすわいなァ ホゝゝゝ極つたとはこりやおかしい 最愛(いとし)可愛(かわひ)かこふじ/\た殿

御思ひが負る瑞相 兄様をせひらかし 閨(ねy)の相撲を取過て まさか誠の角力には 頤(おとがい)て蝿(はい)追ふ
やうな事ではいかぬぞへ ムゝウいくかいかぬかお前がどふしてしらしやんした 夫の強いは私が証拠 大事の角力
を取はづすやうな弱い男じやないわいなと 顔は上気に息あらく 男自慢に指し合やら 分も艶く
争ひは 花物いふがごとく也 折から左右の一間より 局を先に女中達 姿も花の一様に 梅と桜の造り
枝 手毎(ごと)に携へ仰の通り 用意芳野と難波津の 色香を爰に並居たる 高子の君打笑給ひ
自か思ひ寄しけふの趣向を造り花梅は兄宮惟喬様 桜の花は惟仁様 御兄弟を梅桜に準(よそ)へたる花
相撲 勝負の知らせ有迄に 吉左右を見る花の勝負 用意能ば早ふ/\ はつと一度に女中達 銘々翳し


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の造り花 双方へ立別れ勝負に花をぞ〽ちらしける落花狼藉入乱れ 梅方負けて折損じ むら/\
はつと引ければ 勝色見せて桜花 惟仁君の御即位/\ アゝ/\/\嬉しやと御機嫌も日の目も斜め夏ならで
桜が勝ちと夕顔や 五條の館で賑はしき かゝる所へしらせの役人早風左門 息を切て走り付 勝負の次第
言上と 聞に飛立姫君ゟ 関の戸通ひ路追取廻し 勝負の次第言上とは 東の大関宿禰殿が勝成るか
西の大関藤太殿が勝なるか サア/\/\何と/\ ハツ今日の位定め一時に勝負を決せんと 東の大関荒川殿
西の大関斑鳩殿 勢ひ龍虎と立向ひ エイと刎ればしつかと留り 止まれば捻る身のかはし 両方聞しは強力(がうりき)勇
力 暫く有てむづと組 コリヤ/\/\と押て行 どつこいどこいと力足 踏込土俵の砂煙 立眼居眼手を尽して

もみ合しが 両方一度に捻りをくれ 体(たい)も一度にとうど落つ シテ/\勝負は西の勝か 東の勝か 何れへ御
位は定たぞ ハツ行司は中将業平朝臣 其体一度に落たれば 勝負なしとの仰に依て 御位も
定らず 只今評議真っ最中 様子は追々御注進と申捨てぞ引かへす 聞くに関の戸通ひ路も 夫(おっと)/\の
勝負の分れ 少し心は落付ど 跡の評議はいかゞぞと 高子の君も猶更に 案じに案じ重なる思ひ
又の注進磯上藤内 言上と手をつけば さきの注進聞届けた シテ跡の御評議とふじや/\ 扨も不思
議や惟喬君の玉体へ 名虎が亡魂乗移り 我は先年亡びたる紀正三位名虎なるぞ 我と思はん相手
有らば罷出よとうなり声 勇猛力の聞へといひ殊に死霊の業(わざ)なれば 名虎といふ名に聞き怕(おぢ)して 惟仁


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君の御かたやは 色めき立て見へたる所に 惟仁君お仕丁の中大胆不敵の孔雀三郎 角力の相手を乞い望み
正三位の官位を受け 手合せしてむづと組 あなたは死霊の神通力こなたは血気の勇猛力 暫しもみ合
有様は 魔けい修羅と波羅門の 争ひ斯やと見る内に 神力勇気に勝つ事与はず死霊の念や弱り
けん ひるむ所を付け込んで三郎が左りざし 馬手(めて)に釣上エイウンと投付くれば 堂上堂下一同に 遖(あっぱれ)手柄出か
されたり 日本一の大力士と暫しはなりも止(やま)ざりし 斯勝負明白なれば御位は惟仁君 染殿の皇后様へ 右の
次第言上と有て 惟仁君初め昭宣卿 此御所へ追付け御入候と 申上ればヲゝ吉左右のしらせ大義/\と関
の戸が 傍へ聞けがし勇み立 惟仁君様追付お入 サア/\申お姫様 モウ/\よふ思し召の十分此由を 皇后様へほんにのふ

嬉しさに取紛れた 藤内は設けの用意早ふ/\ 皆の衆斯(かう)おじや 先(まづ)々お入遊ばせと いふもいそ/\暗がりに灯をてん
じたる安堵の胸 ひらく襖も笑(えみ)の眉悦び勇み入給ふ 跡に思案も通ひ路は 夫の心は兼てしる いかゞと案
ずる表御門惟仁君のお成ぞふと 知らせの声も高じきの一間に忍ぶ程もなく 太后の御所に入給ふ
惟仁親王 けふ万乗の御位も さだかならざる御気色 跡に続いて堀川の大臣昭宣卿 俄に羽をのす
孔雀大納言御供にて しづ/\と入御(しゆぎよ)なれば 付随ふ官人仕丁 さも花やかなる有様也 コリヤ/\五郎作 其長柄(ながへ)の
持ち様は何じゃ 歩行(あるき)/\寝て居るかいと 大納言のどつてう声 どこにおれが寝て居るぞい じたい此長
柄はわれが持つ役 夫をおれが替り役 ヤイ/\/\われが持つ役とは何じや ハテわれが イヤあなた様が ヤまだ/\こいつ


28
緩怠千万 今迄とは違ふぞ 大納言じやぞ ハア皆部屋へ往て休みおかふ ハアゝ アゝこりや/\ お道具を麁
末にすな ハアゝそれ舎人衆に斗が脾饑(ひだる)かろ気を付けしやれといふてくれと 入らぬ佐平次五郎作又治 其外(ほか)
仕丁一群(ひとむれ)に 休足所へぞ退きける ヤレ/\世話なやつらじやと 形(なり)と詞はそぐはぬ束帯めつたむしよ 座席かま
はず座に着ば 高子の君出迎ひ 今イチのお首尾目出度き様子承はり 惟仁君様の御聖運 此上な
がら千代万と お嬉しう存じますると 祝すれば昭宣卿 定めて皇后の御上聞に達し御満足なるべし
惟仁君お御聖運盛んにしてさしも勇猛たる名虎が死霊も 夫成る孔雀大納言の剛勢に勝つ
事与はぬ今日の角力 十分の勝ちたる上は 誰憚らず五十六代の帝清和天皇と崇め奉らん 年号

も今日より 貞観(でうかん)と改めん事 則先帝の御遺声(ゆいじやう)承はつたる此昭宣 早々に御即位の儀式然るべし
と奏聞す 惟仁親王耿々(かう/\)たる御気色(みけしき)にて昭宣の詞一理有り去ながら 角力の勝負に位を定めよ
とは 母君の御諚黙止(もだし)がたく 今日の時義に及ぶといへ共 同性(どうしやう)の兄弟位を争ひ 刃をふらぬ斗に
角力の勝負 兄弟修羅の巷に有て 惟仁こそ兄を敬はざる悪人と 末世の書にも印されんは
此身斗か代々(よゝ)の天子の恥辱の本の瑕瑾 此惟仁に代を治めよと有る御遺書を見る迄は即位の義
式は行ふまじと 御諚に昭宣詞を正し 叡慮御尤に候へ共 御遺書紛失の砌 宝蔵に落散たる
一通 高安の何某へ御遺書を盗くれよと頼みの文言 斯のごとき手かゝり有れば詮議致すにかたかる


29
まじ其義は臣にお任せ有て 先(まづ)々御即位有れかしと 云終らせずイゝヤとよ 高安といふ苗字 六十
余州に数多有て何れ共 早速詮議も分るまじ 但父君の御遺書に 兄宮惟喬親王へ御代を
譲り給ふべき 御心かも量りかたし 此義しかと分かる迄はあ 即位の評定決而(けつして)無用と 事を分たる直
錠にさしもの昭宣重て何と勅答も 口ごもつておはします 大納言は最前ゟ 行義に居付けぬ脚
骨の 疼くを堪へる身の構へ イヤどなたも御赦されませ 履き付けぬくつはいて滑べるまいとの気扱ひ
終に覚へぬ脚気じやそふな こりやもふふぉふも堪へられぬ 痺(しびり)も京へのぼり過て難義じゃと 力(ちから)
足ぐつとふんぞらしたる伸び欠気(あくび) 大あぐらかく大宮人を人共腰さげから 火燧(ひうち)かち/\勝ちほこつたる十ぷくつぎ 太い

烟筒(きせる)で一呑みに 飲むも煙草の高慢顔 誠に公卿の席に連りし事なければ尤々何はしかれ今
日の角力 凡人ならぬ働き 君を始め昭宣迄 満足せりと 仰に孔雀が頭(づ)に乗って イヤモ誉め
られていふじやないが 名虎の亡魂が取付た惟喬親王 凡そ相一のない所を 爰らで一番やつてくれふと
罷り出たは命づく 兎角男は肝でなけりや出世はならぬ したが斯いふ術なみではやつぱり仕丁の方がまし 小
むつかしい公家附合 大納言の初日なればせりふ衣裳取まはし 万事不都合の段は大様に御覧なされという中
も 冠脱で吸殻をあつけに入たる無骨也 折しも奥より局が声 皇后様の勅諚と后の装束
十二ひとへ 白台に恭しく捧げ出 今日の様子御上聞に達し 御悦びの余りお気に入の高子様を 惟仁君


30
様のお后にとの御事 二條堀川の御息女なれば 二條の后と崇めよと 下し給はる御装束御頂戴有れかしと
詞に昭宣謹んで コハ有がたき皇后の御諚妹高子を二條の后と名乗れよとは 家の面目一門の大慶是
に過ず ナニ高子姫 お受の勅答/\と 仰に姫はいそ/\と何から何迄皇后様のお情お慈悲有難き
嬉しさ袖に包みかね 身に余りぬる幸いぞやと龍顔を ちよつと見るめの打解けて君も見合す御目の内 嬉し
さこもる恋中は是ぞ結構禁中様 恐れながらかはゆらし 局は又も文箱より紅梅色の短冊取出し 今
日の勝ち角力 孔雀大納言形平(なりひら)卿へ 皇后様ゟ御褒美の一首 さしかねて はげまふよりはすまふ長の ひさご
花とるけいつまか見よ 有難ふ頂戴有れと 指出す短冊何角なしに押戴き コレハ/\角力に勝た御褒美と有て

何じやすつきり合点の行かぬ歌を下され 有がたふ存じますると そこへ能(えい)やうにお礼おつしやつて下さりませ
と いふに局が会釈して 扨も/\見かけから強さふな羨しい殿ぶり 奥御殿へ案内がてらお扌を取ふと 立寄れ
ば飛退いて アゝ方見(?うたて)や寄るまい/\ 取立から女子にさはつた事のないからだ 力が落ると見ぶるいh立つれば ヲゝ鮫骨(けうこつ)
けふの角力の相手は名虎殿の亡魂とやら 夫がどふして勝た事じや 委しい咄聞けと有る皇后の勅
諚でござりまする エゝ気味の悪い油臭い勅諚 角力の咄しを女子が聞て何に成ぞい 高で相手は
名虎が亡魂 幽霊なれば下(すそ)はおるす 所へ付込むこつちの懇丹(こんたん) 何の苦もなふやつて退けた 其御褒美の
一首ゟ 何で一種よい肴で底入れさして下さりませと 此通り云しやれと にべもしやくりもあら男 いふ詞


31
さへどつさりと 投げた咄しも手はしかき 昭宣卿正笏(しやく)し 今日は三月三日 下(した)/\の女の童(わらは)は内裏の形を移し
雛祭りと号して祝ひ錺る 計らず只今妹高子に后の装束給はる上は 君にも御装束を改給ひ
御母皇后に御対面然るべし 夫(それ)局奥の殿(でん)へ案内召されと 詞に任せ惟仁君 随ふ二條の后成 けふぞ
誠の初女夫(めをと) ひなびた形振大納言 どこぞに隔て一寝入と 孔雀のまい/\打連れて奥殿(でん)〽深く入日
さす 胸の関の戸ふさがりし入鹿藤太基国(もとくに) けふの角力の場席(ばせき)ゟ 勘当の身のよるべさへ 主人は
是に有りと聞入り来る一間女房は それと見るよりエゝ藤太殿か ムゝ女房関の戸 シテ御主人昭宣卿には 当館
へお入と聞たがそふか ムゝ夫(それ)をお前知らずかへ 惟仁君諸共敏処(とふから)お入 それはそふとけふの角力相人は私が兄様なり

お前の為には妹聟の宿禰殿 どちらが負けても一家の破れと 大抵案じた事ではない 通ひ路様も
私もわれに成たと聞た時の其嬉しさ コリヤ/\女房 そちが悦ぶ其われ角力ゆへにな 此藤太は御
主人に御勘気を蒙りしと 聞て恟り エゝそりやマアどふして/\と 尋る後ろに昭宣卿 不審者の斑鳩
藤太 最前勘当と申付たる我詞を用ひず 此御所へ参りしは重々の慮外そこ立されと 常にかはりし
声あらゝか 斑鳩藤太頭(かうべ)をさげ 三代相恩の御主人譜代の其不忠せし覚へなしと 云はせも立てず ヤア覚へ
ないとは云れまい 正(まさ)しく惟喬親王に心を通はし 惟仁君を日陰の君となし奉らんそちが胸中 コハ怪(けしか)らぬ御疑ひ
惟喬親王に心を寄するなんどゝは 何を以ての御意なるぞと 指寄れは声はげまし ヤアまだ/\詞をかへす慮外者


32
夫(それ)に居る関の戸荒川宿禰が妹 女房の縁に引れ 宗岡に一味して負けんと取たる今日の角力 惟
親王に心を寄る不忠者といひしが此昭宣が誤り サア其義は サア/\/\と詰かけられ 其申し
訳と云はんとせしが傍には女房 思案極めて斑鳩藤太 関の戸去った エゝ イヤサ何驚く 女房の縁に引れし
との疑ひ 縁を切て此身の潔白 申訳を立つるはない イゝヤ離縁を以て心をゆるさせん術(てだて)無用/\ ムゝ スリヤ左
程迄御疑ひ 此上は腹かつさばき冥途ゟ申し分け仕らんと柄に手を 取付く女房取て突き退け 既に斯(かう)よと
見へければ 藤太待て早まるな イヤ申訳に相果ると 又取直す刀を押へ コリヤ誠忠臣の魂有は 今死る心を以て
此心を判断せよと 傍に有り合ふ桜の造花 指出し給へばさつと目を付け ムゝ此桜は造り花 吹く風に去年(こぞ)の桜は

散ず共と申す歌の心か ホゝヲ出かした藤太 其下の句は あなたのみがた人の心は 頼みがたき其方に申付るも
一つの術(てだて)造り花も実(まこと)の花に ンコリヤ 必ず忠義の花実を咲かせいよ 委細承知仕る 追っ付け吉左右申上ん 女
房来れと関の戸を 引っ立ててこそ入にける 既に其日も暮れ方や 表の方に案内の声 参上と披露して
伴の大納言宗岡 随ふ公卿は大宅の鷹鳥善淵(よしふち)次成(つぐなり)剛欲非道の眼(まなこ)つき 黄昏分かぬ佞人仲間 跡に
続いて宗岡が執権 荒川宿禰春久 けふの角力に勘当の 不興を詫ぶる上下(かみしも)もしほ/\として入来る 出向ふ
昭宣三人の公卿慇懃に正笏し 昭宣卿候な 扨/\今日は御苦労千万 イヤモ驚き入たる惟仁君の御盛運
と むしやうに褒むる宗岡が 胸の逸物大宅の鷹鳥今日ゟ五十六代の帝は惟仁君 惟喬君に発心


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剃髪の御願ひ 染殿皇后へ申上よと 御諚承はつて善淵次成参上致す 宜しく奏聞お取成しと 平伏すれば
昭宣卿 何れも殊勝の奏聞 イザ御座の間へ案内致さん コハ難有しと追従たら/\゛跡につき 心奥殿宗岡
も 続いて入らんと立上る 宿禰かけ寄り袖を控へ アゝ暫く御待ち下されかしと とゞむる荒川宗岡は 傍(あた)り見廻し目に角立 不
忠者の荒川宿禰 最前からもいふ通り 惟仁親王に心を寄する事 見へ透て有けふの角力 何面目に付き
歩行(あるい)ての詫云相叶はぬ罷り立て ハツ其御怒り御尤去なから惟仁君に心を寄するとは何を以て ヤアぬかすまい
勝ちを争ふべき大切の角力に 負けを争ふ不忠不義 角力の相手は聟兄舅(むここじうと) 其心付かずして申付けし我が
誤り 今と成て後悔 無念さはいか斗と思ふやい 惟仁に心を寄する昭宣が家来の妹 女房に持たが

不忠の正明 コハ情なき御疑ひ 負けを争ふ拙者が胸中 様子有らんと御穿鑿はなされず 藤太が妹を
妻とせしを 不忠の正明とは何事 呼び向へしは五ヶ年以前 今日の角力有らんかとて 五年前に其心が付
ませふか とくと御賢察有て御疑ひを晴されて下されかしと混(ひたすら)に 善悪不二と主人を敬ひ詞を尽す
荒川が 心ぞ清く見へにける ヤアいかやうに云廻しても暗い/\ 是迄の忠義にめんじ命は助くる早立去れと怒りの大
音(おん)猶も臆せず進み寄り 忠臣の魂命を惜しむ拙者でない御疑ひ晴ずんば 君の大事も存じた宿禰 生け
置かるるはあぶな物 御賢慮いかにと詰寄て 命惜まぬ金言に 宗岡屹(きっと) ムウ俄に大事を知ておる
儕(おのれ)生けて置かれぬ覚悟せよと帯(たい)せし劔 様子立聞く宿禰が女房走り出 マア/\お待下されと 押とゞ


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むれば荒川宿禰 女房通ひ路是におつたな 申し宿禰殿 私には暇(いとま)下さんせ ムウ離縁をねがふはソリヤ
何故 サイナア今あれから聞きますれば 私故のお疑ひ 夫(それ)じやに寄って暇がほしい 去られてなりと夫の
武士が ヤア佞者(たはけもの) 女房去てお疑ひが晴ふならば 其方に教へられふか サアお構ひなく共お心はらし すつ
ぱりと遊ばせと びつく共せぬ丈夫の本心 イエ夫(それ)でもと取付く女房 膝にかためて動かせず サお構
なく共爰を/\と 首指のべたる勇気の有様 さしもの宗岡二三度四五度 今が最期じや/\と いふて
は窺ひ見ては軻れ ハゝア遖(あっぱれ)の魂疑ひ晴た 此上は其方に 申付くる役目有 ハテ何をがなと見廻す
傍に有合ふ桜の造り枝 さし出していかに宿禰 幸い爰に造花の梅が枝 鶯の花をぬふてふ笠も

がな サア此一首の心を判断して受取れと 詞に宿禰思案の顔色(がんしよく) ムウ其歌は梅壷より 雨に濡れて
出る人を見て詠める一首 かさもがなとは天下(あめか)をかさむる梅の花笠 ぬるめる人にきせてかへさんと いふ下の句
のお心よな ホゝウ出かした宿禰 我胸中を察せし一言必ずぬかるな仕課(しおふ)せよと 渡す心も受取も 所存は
深き奥殿(でん)へ さはらぬ風情宗岡は しづ/\入や入るさの月も弓張の 矢猛(やたけ)心も思案の的 女房料(れう)
紙(し) アイといらふてかたへなる 料紙携へ夫(おっと)の傍心を何と分けかぬる 思ひ通ひ路すり寄て イヤ申御主人様の
御機嫌も直り 嬉しい嬉しいが何やら六か敷(むつかし)そふな御用の処 梅の造り花をお渡し有たは どふいふ心でご
ざりますと とへど答へも荒川は様子も何と白紙(しらかみ)に 隠し巻き込むもしほくさ 申/\ 何をいふてもいらへも


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なされず 細(こま)/\とのお文は 気づかひな事ではないか 様子聞かして下さんせと 心ならねば女房が 察する胸を隔ての
襖明けて奥ゟ関の戸が 思ひも同じ夫の心 やるせ涙に宿禰が傍 申兄様 エゝエお前は聞へませぬ けふの角力に負て下さ
んせぬ斗(ばっかり)で わたしや去られた/\と 訳も涙に得手勝手 ム何といふ スリヤ藤太が其方を去たとな 申我夫(つま) 兄藤太殿が関
の戸様を去らしやんしたも女房の縁に引かれぬ心の潔白 お前も早ふ私を去って 武士を立てて下さんせいなァ ハアテ何を小指し出た 此宿
禰が胸中女童(わらべ)の知る事ならずと 叱り付れば一間ゟ イゝヤ女房去らずば忠義が立つまい 妹を受取ふと 立出る斑鳩藤太 関の戸
は走り寄り コレ申 女房を去らいでも義理の立つ所なりやこそ 兄宿禰様が通ひ路様を去らふ共逝(いな)さふ共 云しやんせぬよい尾了簡 お
前斗かたいぢに めつたむしやうに女房を 去る斗が武士かいなァ 胴欲ぞやと恨み泣き 取付を取て突退け ヤア小したらるい恨み言 藤太聞く耳

持たぬ コリヤ荒川 女房を去ぬからは心底明かす所存も有まい ガそつちはそつちこつちはこつち 女房さつて他人向 汝が心底聞
ぬかにやおかぬそふ思へと どつかと座せばじろりと見やり ハゝゝゝ何時(どき)去ふと儘な女房 他人にならねば得聞かぬか 併(しかし)此荒川が心
底聞抜けとは何を聞抜く夫(それ)聞かふ ヲゝ御位定めのけふの角力 スハ立合にかゝるやいなや 右さしと見て右を明け負けふと取たそちが
心底聞き抜くといふ事さ そりや其方も同じ事 突くかくるかと足をゆるめ 除けてあしらふ身の捻り 勝つまじと取た
汝が心底 マア其様子からいふてしまへと詞も荒川 ヲゝ此斑鳩が胸中そりや問ふに思ばぬ事 兼て惟喬親王
心を寄する此藤太 じやに寄て負けふと取たは惟喬君を御位に有らせん為 ハゝゝゝいふな藤太 そりやそふ世上へうたはす
所存知まいと思ふか 汝が主人昭宣卿 先帝ゟ預り給ひし御遺書の紛失 其誤りを覆はん為 けふの角力に負んと


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取しは 惟喬君に心を寄する不忠の斑鳩 サテハ御遺書盗み取しも藤太ならんと世間に思はせ 其盗賊となつて
主人の誤りを身に引受んず汝が所存 此荒川が睨みし眼(まなこ)違ひ有らしと黒星を 遉の宿禰能く察した ガそふいふそちが
心底も宗岡卿の預り給ひし神璽の紛失 其不調法を身に引受んとけふの角力勝つまじと取たは 惟仁君に心を寄る不忠者
と世上にうたはせ 盗賊と名乗て主人を助けん計略ならん 左いふ汝も 其方も 主君の為に負けふ/\と 取た角力で有たよな
と 互に見透かす一対の 忠義心こそ頼もしき 女房/\は今更に夫(おっと)/\の心根を感ずる余り関の戸様 斯(かう)お二人の心底が解け給ふ
上は去るの退くのに及ばぬ事 サイナア 常から短気な夫の心 知て居ながら案じたと 胸の晴間は八専(せん)や思ひの当てのつち日和 違ふ
と知らぬはかなさよ 宿禰藤太は顔見合せ 鉄石も遉 又不便と見やる目の中(うち)に浮かむ涙を押拭ひ ナニ藤太互いに

推量の上は心底を明かし合たも同然 シテお身が納りは そふいふお身が思案はナニと ヲゝ夫(それ)こそと両人が 梅と桜の造り
花 携へて座を改め 主人より給はつたる此一枝 我も給はる此一枝 両人共に科なき身を 科人に造り花 春に先立つといふ此梅 散ばこ
そと詠みし桜 顕はれて切抜くと我が身を訴人の此書置き 我も最前認(したゝ)め置し 書置は此通りと 明し合たる胸と胸
押肌(おしはだ)脱で最期の用意 二人は恟りコレ申 何故の御切腹と 取付き歎くを睨み付け ヤア此期に成て見苦しい 御主人の為
に盗賊と成て相果る両人 未練の詞出すがいなや 夫婦の縁も是迄と 烈しき詞も目は涙 二人何と正
体なく 死なで叶はぬ事ならば私抔も生きては居ぬ 冥途の道も兄弟夫婦 とはいふ物のどふぞマア 助かる思案は
ない事かと 訳も涙に取縋り顔見合せて一同に 扨武士の身の上は 竭(あぢき)なき世を恨み泣きむせび 絶へ入り伏ししづむ 心弱(よは)


37
て叶はじと女房/\を押退け突退け 銘々主人の給はつたる梅桜の落着 遅なはる程主人へ不忠 いふにや及ぶ遅れはせじ 荒川
斑鳩 イザとかけ声双方が 一度にがはと突立る はつとかけ寄り女房と女房 膝に引しき声立させじと捻込む袖もから紅い
朱(あけ)に成たる健気の有様 苦しき息をほつとつき 云合したるごとくにて互に屹(きっと)見合す顔色(がんしよく) ヤレ斑鳩 娑婆の暇も今暫く
主人の為とは云ながら 盗賊の悪名受て死する體 死たる跡にて神璽の御箱 長く行方知れざる時は日の本の瑕瑾(かきん)我も犬死
身動きさへならぬ荒川に何疑ひか有ん 汝が心に覚有事 云聞して安堵の死をさせてくれよといふ声も 舌もこは
ばる息切の 苦痛も同じ藤太が問い事 我迚も同じ深手 冥途黄泉(くはうせん)へ赴く只今 そちが心に覚有る事 打わつて安堵させ
よと 苦しき声音 此荒川が心に覚有る事とは ヲゝ御遺書の行方(ゆきかた)は宿禰 汝が存じて居よふがな 神璽の御箱(みはこ)は藤太そちが知て

居よふがな サゝゝゝゝ夫聞て安堵して死たいわいやい 頼む /\と両人が 今はに同じ望みの一条 這寄て互の疵口 見るも手負見らるゝも 互い
に深手の苦痛をこたへとつくと見て 所詮助からぬそちが命 最早叶はぬ深手 取の将に死んとする時其声悲し ヲゝ人の将に死なんと
する時其心誠也 今はの汝安堵させん ガ身共が望も ヲゝ云聞かして成仏させんと摺寄て互に同じ指を筆 書くも互に目放しせず
両方とつくと書き終り見終つて 一度に強気(がうき)の声はげまし ナニ御遺書を奪はせしは宗岡の計らひ 忍び入しは河内の住人 高安左衛門で有
たよな 神璽を奪ひ取らせしは 昭宣の計らひとな スリヤ御遺書は河内に有るか 神璽は昭宣所持召さるゝか 今こそ望み達したり
ハゝ/\/\悦ばしやと両人が 苦痛も厭はぬ大音上 一間の内より声高く 神璽の有り所 御遺書の行方 明白に聞届けしと 左右の
一間に昭宣宗岡 互に驚く手負と手負 女房早く疵口しめよ ハツト心得関の戸通ひ路 武家に馴れたる取廻し 疵口しつかと


38
几帳の衣(きぬ)引しむる間も荒川斑鳩 スリヤ命を捨てて御遺書の行方 神璽の有り所 知らんが為に そちも 汝も 此計らひなりけるかと 痛手
を忘れ詰寄れば 昭宣卿欣然(きんぜん)と いかに斑鳩 御遺書なくば位には突即(つく)まじと 惟仁君の正直心 夫故渡せし桜の枝 吹く風に 去年(こぞ)
の桜は散ず共といふ一首 去年の桜とは去年崩御なしませし文徳帝 吹く風に散ても散らぬ御遺書有れば在(います)ごとし 此詮議をと
かけたる謎 早くも悟つて健気の行跡(ふるまい)遖也と賞美の一言(ごん) 宗岡も声をかあけ ヤア/\荒川 神璽なければ位に即れぬ惟喬君 夫
故渡せし梅の枝 鶯の花をぬふてふ笠もがな 梅は諸木の兄親王にたとへ ぬるめる一に着せてかへさんと 神璽を取かへさん為にかけ
たる謎 判断して遖の働き手柄/\と両卿の 跡に両人詞を揃へ 角力の勝負は分かる共 神璽の行方 御遺書の行衛知らずんば
御位も定るまじと 思ひ寄たる詮議の的 角力に負けて恩を見せ 尋とはんも同腹中 計略も破(われ)角力 兎やせん角やと思案の

矢先 造り花を下されしは 偽りの花を咲かせ 誠に命を散せばこそ 御主人の大慶我々が本望 此上や有べきと 死を一決に忠臣の鑑にかけたる穿
鑿 折から吹きくる風に連れ遥かに聞ゆる鐘太鼓 宇都の谷(うつのや)軍太かけ来り 只今聞ゆる鯨波(ときのこえ)は御兄宮惟喬親王 位定めの負け腹立て 内裏の
四方を追取りまく 勢ひに恐れてや 公卿過半は御味方 ゆゝしき大事に候と申す間もなく久留嶋宮内(くない)御注進と大音上げ 扨も惟喬親王
は 軍勢催し大内裏に込入て 手に立つ公卿もアウむざんや 宮殿楼閣忽ちに一時の煙となすべきぞと 爰にかけ寄せかしこに抛(なぎ)立て 縦
往無尽の其有様 御大事こと急也と大息ついで呼はる内 猶もしきりに貝鐘の音に目覚す孔雀大納言 一間の内ゟ踊り出
ぐつたりと一ねいり やつて居る中(うち)太鼓鐘 ありや慥に内裏の邊り こりや斯しては居られぬと 身拵へする間も危ふし 爰構はずと
早ふ/\ ヲゝ合点といふやみに 続いて受出す宇都の谷久留嶋 真黒に成てかけり行 宗岡は笑つぼに入り 惟喬君の軍始め 血祭りは昭宣 サア尋


39
常に神璽を渡せ ヤア天命知らずの宗岡各フォせよと抜き合せ 受けつ流しつ上段下段 火花をちらして切結ぶ 手負の荒川斑鳩も 主人
の有様此場所の時宜 いづれが冥途の魁と渡り合たる義君勇者 女房/\も覚悟の一腰 所詮遁れぬ夫の身の上 私も同じ冥
途の供 夫につくが女房の操 お前と私も敵同士 ヲゝ一家同士は猶恥有 比怯な働きなされなや ヲゝ比怯未練も時のに寄る 勝っても
負けても此世の暇こなたも打合断末魔 此世は夫婦兄弟が修羅の巷を引かへて 未来は一蓮托生と 心に思へど口には云ぬ武士
の意地 切ては切られ突かれても 構はずさらず踏込み/\む深手の血煙 いさましくも又哀れ也 宿禰藤太も精力つかれ 娑婆の奉公
是迄/\ 未来は中能聟と舅 兄様 妹 兄嫁様 いざ諸共にさし違へん ヲゝ尤と引寄せ/\余人が鋒(きっさき)四人が胸 突き貫いて死たりしは遖ゆゝしき
〽有様也 不肖の時に太后の御所の騒動表門 引かへす孔雀三郎 片手に宇都の谷久留嶋を 引ずり廻る築地のこなた うぬらには詮議が

有る 内裏の騒動とぬかす故 往て見たれば何でもない 様子ぬかさにや踏み殺すと きめ付られてアゝ申します/\ 惟喬君や宗岡
卿の謀(はかりごと)でお前を外へそびき出し 惟仁親王高子姫も打ち殺す計略と 聞くにたまらずなむ三宝 白状ひろいた褒美は斯(かう)と
只一(ひと)しめに目をくる嶋 くはんと天窓(あたま)を宇都谷も 黒血を吐て死でけり 館へ入んとかけ廻(めぐ)れど 門は四方を戸ざしたり エゝ面倒なと韋駄
天脚 門の閂ふみ蹴折り 獅子奮迅の勢ひにて 館の内へかけ入たり 宗岡一味の次成(つぐなり)高鳥 手勢引連れ出来り 惟
喬君の計略にて染殿皇后は奪ひ取て人質 惟仁親王高子の君はいつの間に 何国(いづく)へ逃げし今一度 手分けして捜せ
/\と蚤取眼(まなこ) 飛がごとくにかけ廻る 孔雀三郎形(なり)平 二條の后に薄衣(うすぎぬ)かづかせ 背(せな)にしつかと 追/\尋る数多の一音門を
出るは危ふしと 闇はあやなし是幸いの築地の崩れ くゞつて出し其有様 二条の后を業平が連れ立ち退きしとしるせしは 此形平(なりひら)の


40
事ならん 窺ひ寄たる鷹鳥次成 后を渡せと取付を 直にはつしと蹴退る鉄脚(かなずね) ソリヤ一声数多の組子 はら/\/\と追取まく
形平后おろし参らせ こいつらかた付け跡から参る 一先ず爰を早ふ/\ そふはさせぬと組付く勢子すかさず孔雀の羽がいじめ エゝちよび/\と面倒
な ひとつに成て成仏せよと 当たるを幸い一礫(つぶて)ばらり/\と抛(なぎ)立る 引違ふて昭宣宗岡互に手負の透迤(よろめく)足 踏しめ/\打合い切合ふ
ははさゝら 神璽を渡せ イゝヤならぬも築地を楯 宗岡いらつて打込む刀 受はづして髃(かたさき)ずつはり 転ぶをすかさず取て引伏せ一えぐり 浮
世の年も昭宣卿はかなく息は絶にける 懐中捜して取出す神璽押戴いてかけだす向ふに 孔雀形平 引つかんでもんどり打たせ 起きる
間抜く間だん平物 どつさり胴切り大納言 小豆粥とは是なんめり 直ぐに奪(ばい)取る神璽の御箱忝いと懐へしつかと納めてお后に イデ追付かんと
欠け出す脚骨(すねぼね)千里も走る寅の刻 嘯く風も物凄くどう/\どろ/\沙石を飛ばし 行く先遮る霊火の光り すさまし

なんども愚か也 コリヤどふじやハゝア狐めが細工じやな こんな事をさらさず共何そふ化けて爰へこい 抓(つね)り殺してくれんずと 大胆不敵につゝ
かゝる 向ふにすつくと名虎が亡魂 忽然と顕はれ出 三郎待て止(とゞむ)る死霊 屹(きっと)形平詰寄て 遖形相ゆゝしき骨柄 かげのごとく顕れしは ムゝウ扨は名
虎が亡魂よな 負腹でえゝ浮きぬか とく消へいなくなれやつと睨み合たる勇力念力 破れ其昔伴(とも)の真済(さねずみ)に一子を授く 真済故有て勅
勘を蒙り 大和の国柿の本へ身退(しりぞ)き 良雄(よしを)丸と号(なづけ)育て上げたる其方こど 名虎が実の躮也と 耳を突き抜死霊の神通 ナゝゝゝ何ど ヲゝ
既にけふの位争ひ スハ惟喬の力とならんと顕れ出たる我亡魂 角力の相人は孔雀三郎 汝こそ我実(じやく)子と天眼通にて知た故 角力に負しは其方が 手柄を
普く大千世界にふれ流させん親の情と知たるやと 宙有(ちうう)に迷ふ魂魄も 子故に迷ふ親の慈悲心 肝にめいじて孔雀三郎 さは知らずして惟仁に心を寄し我
誤り 今ゟ惟喬親王の力とならんと云せも立ず イゝヤ我存念は惟喬の為にも有ず 我天子と成て子孫に家名を輝かせんず叛逆謀反 神国を覆さん為


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八咫の鏡は先達て人知れず渕に沈め 猶も神璽宝剣を奪ひ取らんと思ひし所 融(とふる)の大臣に小野の篁(たかむら) 在原の行平なんどが忠臣の目に見透かさ
れ 無念の生害遂げたる魂 冥途黄泉いゝならくに 瞋恚(しんい)のほむら止事なし 汝我魂を得て謀反を受け継ぎ 此日の本を覆し修羅の無念を
晴させよと 忿怒の形相えん/\と此世斗かあの世から 是お閻魔の朝敵謀反類稀成名虎が叛逆五臓六腑に答ゆる三郎 我名
も今ゟ幼(おさな)名の伴の良雄と改名し 大願成就近きに有りと 忽ち修羅の悪念を 受継ぐ強気(がうき)紀の名虎が角力の相手を末世
の書に伴の良雄と顕はせしも 此因縁と知れたり 見よ/\両虎争ふ時は 必一虎破るゝ道理 位争ふ惟喬惟仁 勝たる方を討取て
秋津洲を手の中に治めん事は目下(まのあたり) ハゝハゝゝゝ悦ばしやと悦喜の顔色 謀反の血脈威有て他猛き形(なり)振りは龍に翔(つばさ)を生ずる勢ひ 実(げに)も名虎が
怨霊の乗移たる良雄丸出行後ろに怪しの仕丁(じてう) 帯(たい)せし劔抜放せば暗夜を照らす光に連れ名虎か姿か春の霜白骨ばかりぞ残りけり