読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242667
歌舞伎の助六のモデルとなった人の話。揚巻や意休のモデルも。
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あげ巻の介六が事
むかし江戸町弐丁目大松
屋のかゝへ人に松がえといひし
遊女ありきやくおほかりし
中にも御くらまへへんの
米あき人かへ名を介七と
よびて此松かえとふかく
なしみ来りしに其ころ、
ゆしまへんに田中
三右衛門とて、是もまつ
がえがかたへかよふといへども
介七がかわりなきにさへられ
一夜の枕さへならべざるをいき
どをり男だてをかたらひ
うちはたさん事をたいこもちに
むきうといふもの聞て介七に
かくとづげければ介七其夜は用ゐ
してゐたりしも、男たてども
介七とみるよりけん
くわをしかけたがいに
わきざしをぬきはなし
爰をさいごと打合しが
介七力りやうすぐれければ
ざんじにきりちらせし所に月影事
ばん人、手に/\ほうをもちて
とりかこみしを松かえさくと
きくよりはしりつきくん
じゆの中をおしわけてうちかけ
の中へかくし松やの二かいへ
ともない入ぬ此のち日本づゝみへ
番所をたてかくちうやおゝらいの
人をひやうしきにておくるこれおくり
ひやうしぎのはじめ也、又ひより
下駄も此介七はきはじめし也
正徳三巳のとし山村長太夫
芝居にて太平記あいこの若
といふきやうげんに市川栢莚
介六と成り、たいこもち無休を
ひげの意休とあらため
松かえをあげまきとして大あたりせし事也
むらさきのはちまき
ぎよようぼたんを
付る事ゆゑん
あり これを りやくす
揚巻の介六が事
昔、江戸町二丁目、大松屋の抱え人に松ヶ枝と言いし遊女あり。
客多かりし中にも御蔵前辺の米商人、替え名を介七と呼びて、
この松ヶ枝と深く馴染み来たりしに、その頃湯島辺に田中三右衛門とて、
これも松ヶ枝が方へ通うと言えども、介七が変わりなきに障えられ、
一夜の枕さえ並べざるを憤り、男伊達を騙らい討ち果たさん事を、
太鼓持ちに無休と言う者聞いて、介七に斯くと告げければ、介七その夜は
用意して居たる折しも、男伊達共、介七と見るより喧嘩を仕掛け、
互いに脇差を抜き放し、ここを最後と討ち合いしが、
介七、力量優れければ暫時に斬り散らせし所に、月影こと番人、
手に手に棒を持ちて取り囲みしを、松ヶ枝斯くと聞くより走り着き、
群集の中を押し分けて裲襠の中へ隠し、松屋の二階へ伴い入りぬ。
この後、日本堤へ番所を建て、郭中や往来の人を拍子木にて送る。これ
送り拍子木の始め也。又、日和下駄もこの介七履き始め也。
正徳三・巳の年、山村長太夫芝居にて「太平記愛護の若」という狂言に、
市川栢莚(はくえん・二代団十郎)介六と成り、太鼓持ち無休を髭の意休と改め、
松ヶ枝を揚巻として大当りせし事也。
紫の鉢巻、杏葉牡丹を付くる事由縁あり。これを略す。
読み方オワリ。
歌舞伎狂言に於ける助六のライバルで廓の嫌われ者・髭の意休のモデルが、実在の介七の味方で恩人の無休さんとは意外でおもしろい。意休は介七の恋敵・三右衛門と無休を合成して生まれたということになるかな。また、意休には浅草の穢多頭・団左衛門が投影されていると塩見鮮一郎氏が指摘している。著書「団左衛門の謎」参照或いは「勝扇事件」で検索。尚、実際は大坂の介六と揚巻が真のモデル、元祖助六だとわたくしは思っております。
出典不明の図会
○○まふしや
千日のはか所
千日寺の原
あけまきさいごの所
なむあみだうつ/\
介六せんぢうしてさいご
○○亡者(?)
千日の墓所
千日寺の原
揚巻最期の所
南無阿弥陀仏/\
介六心中(?)して最期