仮想空間

趣味の変体仮名

仮名手本忠臣蔵 十段目 天河屋の段

 

 

読んだ本 http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html

     イ14-00002-179  p34~

 

十段目 天河屋の段  

津の国と和泉河内を引受けて 余所の国迄船よせる三国一の
大湊堺といふて人の気も賢しき町に傷もなき 天川屋の儀平迚
金から金を儲け溜め 見かけは軽く内証は重い暮らしに重荷をば 手づから
見世てしめくヽり大船の船頭 是でてうど七竿 請け取りましたとさし
荷ない 行くも黄昏亭主はほっと 日和もよし能出船と 云いつつたばこ
きせる筒 すい付けにこそ入りにけれ 家の世継は今年四つもりは
十九の丸額 親方よりも我が遊び サア始まりじゃ/\ 面白い事/\
なき弁慶のしのだ妻とうざい/\爰に哀れを とどめしは 此のよし松に

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とどめたり 元来其身は父斗り 母は去られて いなれたで 泣き弁慶と
申すなり コリャ伊五よ もう人形廻しいや/\ 嬶さんを呼んでくれいやい 
其様に無理云わしゃると 旦那様にいふてこなはんも追い出さすぞ 後の月
からおかまがわれて 手代は手代で鼠の子か何んぞの様に 眼が開かぬといふて
追い出し 飯焚きは大きなあくびしたといふて隙やり 今ではこなはんと わしと
旦那はんと斗り どふで此内を抜けそけするのかして ちょこ/\舟へ荷物が
行く 欠落ちするなら人形箱持っていこふぞや イヤ人形廻しよりおりゃ
もふねたい アレもふおれ迄をそそのかす程にの よござるはおれがだいて
寝てやろ いやひゃ なぜにわれには乳がない物おりゃいやじゃ

アレ又無理云わしゃる こなたが女の子なら 乳よりよい物が有るめれど何を云ふ
ても相聟同士 是も涙の種ぞかし 折ふし表へ侍二人たそ頼もう儀平殿
はお宿にかと いふもひそめく内からつごと 旦那様は内に 我等人形廻しで
いそがしい 用が有らばはいった/\ イヤ案内致さぬも無礼 原郷右衛門大星
力やひそかに御意得たいと申しておくりゃれ 何じゃ腹へり右衛門
大めし喰いや こりゃたまらぬアレ旦那様大きなけないどが見えましたと
さけぶよし松引連れて奥へ入るは 亭主義平 又あほうめがしゃ
なり声と 云いつつ出でて エヽ郷右衛門様力弥様 サアまあ是へ 御免有れと
座をしめて郷右衛門 段々貴公のお世話故万事相調い 由良助も

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お礼に参る筈なれ共 鎌倉へ出立も今明日 何角と取り込みせがれ
力弥を名代として失礼のお断り 是は/\御念の入った義 急に御発
足とござりますれば 何かお取り込みでござりませふに 成程郷右衛門殿
の仰せの通り 明け早々出立の取り込み 自由ながら私に参りお礼も申しまた
お頼み申した後荷物も 弥今晩で積み仕舞か お尋ね申せと申し渡しまして
ござります 成程お誂えの彼(かの)道具一(いち)まき 段々大廻して遣わし 小手脛当
小道具の類いは 長持に仕込み以上七竿 今晩出船を幸い船頭へ渡し
残るは竊(しのび)提燈鎖鉢巻是は陸荷(おかに)で後より遣わす積(つも)でござります
郷右衛門様お聞きなされましたか いかいお世話でござりまする いか様

主人塩冶公の御恩を受けた町人も多ござれ共天川屋の義平は
武士も及ばぬ男気な者と 由良殿が見込み大事をお頼み申された
も尤も 併し槍長刀は格別 鎖帷の継梯子のと申す物は常ならぬ道具
お笑いなさるるにふしぎは立ちませなんだかな イヤ其義は 細工人へ手まへ
の所は申さず 手附を渡し金と引きがえに仕る故 いづくの誰と先様には
存じませぬ 成程尤も 次い手に力弥めもお尋ね申しましょ 内へ道具を取り込み
荷物の拵え 御家来中の見る目はどふしてお忍びなされましたな
ホウそれも御尤ものお尋ね 此義を頼まれると 女房は親里へ帰し 召使
はたりひづみを付けて 段々に隙遣わし 残るはあほうと四つに成る倅 洩れる

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筋はござりませぬ 扨々驚き入りましたでござりまする 其旨を親共へも
申し聞かして安堵させませう 郷右衛門殿 お立ちなされませぬか いか様出立
に心せきまする 義平殿お暇申しませふ 然らば由良助様へも 宜しう申し聞かし
ませう おさらば さらばと引別れ二人は旅宿へ立ち帰る 表しめんとする所へ
此家(や)の舅大田了竹 ヲットしめまい宿にかと しづと通ってきよろ/\
眼 是は親仁様ようこそお出で 扨この間は女房そのを養生がてら
遣わし置き 嘸お世話お薬ても給(たべ)まするかな ヤ薬も呑まする食も
喰います それは重畳(ちょう/\゛) イヤ重畳でござらqぬ 手前も国元に居た時は
斧九太夫から扶持も貰い相応の身代 今は一僕さえ召し遣わぬ所

さしてもない病気を養生させられよと指し越されたは子細こそあらん
がそれはとも有れ 生若い女不埒が有っては貴殿も立たず 身共も皺腹でも
切らねばならぬ 所で一つの相談 先ず世間は隙やり分 暇(いとま)の状をおこして
置いて ハテ何時でも爰の勝手に呼び戻す迄の事 たった一筆つい書いて
下されと 軽ふ云ふのも物巧一物有りと知りながら いやといはば女房をすぐに
戻さん戻っては 頼まれた人々へ詞も立たずと取りつ置い川思案するほど
いやかどふじゃに得心なら此方にも 片時置かれず戻すからは此了竹
もにじり込みへだばって供にやっかい いやかかおうかの返答と 込み付けられて
遉の義平 たくみに乗るか口惜しやと 思えどこちらの一大事見出され

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てはとかけ硯取って引寄せさら/\と 書き認(したた)め 是やるからは了竹殿親で
なし子でなし 重ねて足踏みお仕やんな 底巧有る暇の状 よわ身をくうて
やるが残念 持っていきやれと投げ付くれば 手早く取って懐中に ヲヽよい
推量 聞けばこの間より浪人共が入り込みひそめくより そのめに問えども
しらぬとぬかす 何仕出そうにも知れぬ聟 娘を添わして置くが気遣い
幸い去る歴々から貰いかけられ 去り状取って直ぐに嫁入りさする相談 一ぱい
まいって重畳/\ ホウ譬え去り状なき迚も子迄なしたる夫を捨て 外かへ嫁入り
する性根なら心は残らぬ勝手/\ ヲヽ勝手にするは親のこうけ 今宵の
内に嫁らする ヤア細云(こまこと)はかずと早帰れと 肩先つかんで門口より 外へ

蹴出して後ぴっしゃり ほう/\起きてコリャ義平なんぼ掴んでほり出し
ても 嫁らす先から仕拵え金 あたたまって蹴られたりや どうやら
疝気が直ったと 口は達者に足腰を撫でさすりつ逃げほえに つぶやき/\
立ち帰る 月の曇りにかけ隠す隣家も寝入る亥の刻過ぎ 此の家をめがけ (天河屋の段
て捕人(とりて)の人数十手早縄腰提灯 灯かけを隠して窺い/\犬と覚し
き家来を招き 耳打ちすれば指し心得門の戸せわしく打ちたたく 誰じゃ/\と
及びごし イヤ宵に来た大船の船頭にござる 舟賃の算用が違う
た 一寸明けて下され ハテ仰山な僅かな事で有ろ あす来た/\ イヤ今夜かける
船 仕切って貰にや出されませぬと いふもこわ高近所の聞えと 義平は

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立ち出で何心なく門の戸を 明くると其儘捕った/\ うごくな上意とおっ
取りまく コハ何奴と四方八方 眼を配れば捕手の両人 ヤア何故とは
横道(おうどう)者 おのれ塩冶判官が家来大星由良助に頼まれ 武具馬具を
買い調え大廻しにて鎌倉へ遣わす条 急ぎ召し捕り拷問せよとの御上意
遁れぬところじゃ腕廻せ 是は思いも寄らぬお咎め 左様の覚え聊(いささか)なし
定めてそれは人違へと云い立てず ヤアぬかすまい 争われぬ証拠有り ソレ
家来共 はっと心得持ち来るは 宵に積んだる茣蓙荷(ござに)の長持 見るより
義平は心も空 ワレ動かすなと四方の十手 その間に荷物を切り解き
長持明けんとする所を かかって下部を蹴退け 蓋の上にどっかとすわり

ヤア粗忽千万この長持の内に入れ置いたは去る大名の奥方よりお?の
お手道具お具足櫃の笑い本 笑い道具の注文迄其名を記し
置いたれば 明けさせは歴々とのお家のお名の出る事 御覧有ってはいずれもの
お身の上にもっかりませうぞ ヤア弥胡乱(うろん)者 中々大ていては白状致す
まい ソレ申し合せた通り合点でござると一間へかけ入り 一子よし松を引っ立て出で
サア義平 長持の内はともあれ 塩冶浪人一統に堅まり 師直を討つ
密事の段々 おのれ能しつつらん 有り様にいえばよし 云わぬと忽ち倅が身の上
コリャ是を見よと抜き刀 稚なき喉に差し付けられ はっと思へど色も変ぜず
ハヽヽヽ女童(わらべ)を責めつる様に 人質取っての御詮議 天河屋の義平は男でござるで

40 挿絵

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子に」ほだされ存ぜぬ事を 存じたとは得申さぬ 嘗て何にも存ぜぬ知らぬ
しらぬといふから金輪ならく 憎しと思わば其の倅 我が見る前で殺した/\
テモ胴性骨の太いやつ 管槍鉄砲鎖帷四十六本の印迄調えやっ
たるおのれが 知らぬといふて云わして置こうか 白状せぬと一寸だめし 一分刻みに刻む
が何と ヲヽ面白い刻まれふ 武具は勿論 公家武家の冠烏帽子下女
小者が藁沓迄 買い調えて売るが商人(あきんど) それふしぎ迚御詮議有らば 日本に
人たねはあるまい 一寸試しも三寸縄も 商売故に取らるる命 惜しいと思わ
ぬサア殺せ 躮も目の前 突け/\/\ 一寸試しは腕から胸から裂くか
肩骨背骨も望み次第 ?付け?付け我子をもぎ取り 子に絆されぬ

性根を見よと しめ殺すべきその吃相 ヤレ聊爾せまい義平殿 暫し/\と
長持より 大星由良助義金 立ち出ずる体見てびっくり 捕手の人々一時に
十手捕り縄打ち捨てはるかさがって座をしむる 威儀を正して由良助
義平に向い手をつかえ 扨々驚き入りたる御心底 泥中の蓮(はちす)砂(いさご)の中の
黄金(こがね)とは貴公の御事 さもあらんさもそふづと 見込んで頼んだ一大事 この
由良助はみぢん聊か お疑い申さね共 馴深(なじみ)近付きでなきこの人々四十人
余りの中にも 天河屋の義平は生れながらの町人 今にも捕えられ詮議
にあわば いかがあらん 何とかいわん 殊に寵愛の一子もあれば 子に迷うは親
心と評議区々(まちまち) 案じに胸も休まらず 所詮一心の定めし所を見せ 古侍

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輩(ほうばい)の者共へ安堵させん為せまじき事とは存じながら右の仕合せ 粗忽
の段はまっぴら/\ 花は櫛本 人は武士と申せ共 いっかな/\武士も及ば
ぬ御所存 百万騎の強敵は防ぐ共 左程に性根はすわらぬ物 貴公の一心
をかり受け 我々が手本とし 敵師直を討つならば譬え岩石のうちに籠り
鉄塔の内に隠るる共やはか仕損じ申すべき人ある中にも人なしと申せども
町家の中にもあらばある物 一味徒党の者共の為には 生土(うぶすな)共 氏神
尊(たっと)み奉らずんば 御恩の冥加につき果てませふ 静謐の代には賢者も現れ
ず ヘエ惜しいかな悔しいかな 亡君御存生の折ならば 一方の旗大将 一国
の政道 お頼み申した迚惜しからぬ御器量 是に並ぶ大鷲文吾矢間重太郎を

始め小寺高松堀尾板倉片山等潰れし眼を開けする妙薬名医の
心魂有りがたし/\とすさって三拝人々も ぶこつの段真っ平と畳に頭を
摺り付くる ヤレそれは御迷惑 お手上げられて下さりませ 惣体人と馬には
乗って見よ添うて見よと申せば お馴染ない御方々は気遣いに思し召すも尤も
私元は軽い者 お国の御用承ってより 経(へ)上った此身代 判官様のようす
承って供に無念 何卒此恥辱雪(すす)ぎやうはないかと りきんで見ても石
亀のじだんだ 及ばぬ事と存じた所へ 由良助様のお頼みとぞ 心得たと向う
見ず 供にお力付くる斗り 情けないは町人の身の上 手一合でも御扶持を戴き
ましたらば 此度の思し立て 袖つまに取り付いて成り共お供申す いづれも様へ息

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つきの茶水でも汲みませうに それも叶わぬは よく/\町人はあさましい物
是を思わばお主の御恩刀の威光は有りがたい物 それ故にこそお命捨てらるる
御羨ましう存じまする 猶も冥途で御奉公 お序(ついで)に義平めが 志しも
お執成しとあつき詞に人々も 思わず涙催して奥歯か割るばかりなり
由良助取りあへず 今番鎌倉へ出立 本望遂ぐるも百日とは過ごすまじ
承れば御内証迄省き給う由重々のお志し追っ付けそれも呼び返させ
申さん 御不自由も今スバ楽 早お暇と立ち上がる ヤレ申さばめで度(たい)旅立ち
何れも様へも御酒一つ いやそれは ハテ扨祝うて手打ちの蕎麦切 ヤ手打ちは
吉左右(さう) 然らば大わし矢間御両人は後に残り 先(さき)手組の人々は 郷右衛門力弥を

誘い佐田の森迄お先へいさこなたへと亭主が案内お辞儀は
無礼と由良助二人を 呼び入る月と 又出る月と 二つ輪の親と夫(つま)との中に立つ
おそのは一人小提燈くらき思いも子故の闇 あやなき門を打ちたたき 伊五よ/\
と呼ぶ声が 寝耳にふっとあほうはかけ出で おれ呼んだは誰じゃ 化生の者か迷いの
者か イヤそのじゃ爰明けてくれ そふいふても気味が悪い 必ずばあと云ふまいぞと
云いつつ門の戸押しひらき エヽおゑさんかよふどんしたの 一人あるきをすると ナ病犬(やまいぬ)が
噛むぞへ ヲヽ犬に成りともかまれて死んだら 今の思いは有るまいに おりや去られたわいやい
どんな事にならんしたなァ 旦那殿はねてか イヽエ留守か イヽエ 何の事じゃぞ
やい 何の事やらわしもしらぬが 宵のくちに猫が鼠を取ったかして とった/\か

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大勢来たが ちゃおおとおれは布団かぶったればつい寝入った 今其わろ達
と奥で酒宴(さかもり)ざゞんざやってでござんす ハテ合点のいかぬそふしてぼんはねたか
アイ是はようねてでござんす 旦那殿とねたか イヽエ われと寝たか イヽエつい
一人ころりと なぜ伽してねさしてくれぬ それでもわしきも旦那様にも 乳が
ないといふて泣いてばかり ヘエヽ可愛やそふであろ/\そればっかりがほんの
事とわっと泣き出だす門の口 空にしられぬ雨の足かはく袂もなかりける
ヤイ/\伊五めどこにおると 呼び立て出る主の義平 アイ/\爰にとかけ入る後
尻目にかけてたわけめが 奥へいて給仕ひろげと 叱り追いやり門の戸を
さすを押さえて コレ旦那殿 いう事がある爰明けて イヤ聞く事もなしいう事も

内証一つの畜生め穢らわしいそこ退こうイヤ親と一緒でない証拠それ
見て疑いはれたばと 戸の隙よりも投げ込む一通 拾い取る間につけ込む
女房 夫は書き物一目見て コリャ最前やった暇の状 是戻してどうする
のじゃ どうするとは聞えませぬ 親了竹悪巧みは常からよふ知っての事
譬えどの様な事有る迚 なぜ暇状をくだんした 持って戻ると嫁らすと 思い
も寄らぬ拵え 嬉しい顔で油断させはな紙袋の去り状を 盗んでわしは逃げて
来ました お前はよし松可愛いないか 去ってあの子を継母に かける気かいの
胴欲なと すがり嘆けば ヤア其恨みは逆(さか)ねぢ 此の内をいなす折 云いふくめたを
何と聞いた 様子有って其方に隙やるではなし 暫しの内親里へ帰って居よ 舅

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了竹は 元九太夫が扶持人 心とめねば子細は云わぬ 病気の体にもて
なし 起きふしも自由にすな 櫛も取るなと言い付けやったをなぜ忘れた ざんばら
髪でいる者を 嫁にとろとは云わぬはやい 何のおのれがよし松が可愛かろ
昼は一日あほうめが だましすかせど夜に成ると 嬶様/\と尋ねおる かかは追っ
付け もう爰へと だましてねさせどよう寝入らず 叱ってねさそと叩き付け こわい
顔すりゃ声上げず しく/\泣いておるを見ては 身ふしが砕けてこたえらるる物じゃ
ない 是を思えば親の恩。子を持ってしるといふ 不孝の恥と我が身をば悔やんで
夜ととも泣き明かす 夕べも三度抱き上げて もう連れていこ 抱いていこと 門口迄出
たれ共 一夜で堪能するでもなし 五十日暇どろやり 百日目隔てて置こうやら 知れぬこと

に馴染しては後の難儀と五町三町ゆふりあるいて叩き付けねさせは
そっとこかし 我が肌付くれば現にも 乳をさがしてしがみ付き わづかな間の別れで
さへ 恋こがるる物 一生を 引きわけふとは思わね共 是非に及ばずいとまの状
了竹へ渡せしを 内証にて受け取っては 親の赦さぬ不義の科 心よからず持って
帰れ 是迄の縁 約束事 死んだと思えば事済むと 切りはなれよき男気は 道をしる程
猶悲しく 此の家に居るとお前が立たず 内へいぬると嫁らにやならず 悲しい者はわたし
一人 是が別れにならふも知れぬ よし松をおこしてちょっと逢わして下さんせ イヤそれ
ならぬ 今逢うて今別るる其身 後の思いが猶不憫な わけて今宵は
お客もあり くど/\云わずと早くおいきやれ それまでもちょっとよし松に ハテ扨

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未練な 後の難儀を思わずやと むりに引っ立て去り状も 供に渡して
門口へ心強くも突き出し 子が可愛くば了竹へ 詫び事立て春までも
かくまひ貰わば思案も有らん それ叶うはずは 是限りと門の戸しめて
内に入りノウそれが叶う程なれば この思いはござんせぬ つれないぞや
我が夫 科もない身を去るのみか 我が子に迄逢わさぬは あんまりむごい
胴欲な 顔見る迄はなんぼでも いなぬ/\と門打ちたたき 情けじゃ慈悲じゃ
爰明けて 寝顔成り共見せてたべ コレ手を合せ拝みます むごいわいのとどふと
ふぢ前後不覚に泣きけるが ハア恨むまい嘆くまい なま中に顔見たら かか様
かと取り付いて離しもせまいしはなれも成るまい 今宵いぬれば今宵の嫁入り

あす迄待たれぬわしが命さらばでござるさらばやといふては戸口へ耳を
寄せ もしや我が子が声するか 顔でも見せてくれるかと 窺い聞けど
音もせず ハアヽぜひもなや是迄と思い切ってかけ出す向うへ 目斗り
出した大男道をふさいで引とらへ 是はといふ間も情けなやすらりと
抜いて嶋田わげ 根よりふっつと切り取って懐迄を引っさらへいづく共なく
逃げ行し 無法無息ぞ是非もなき ノウにくや腹立ちや 何者かむごたら
しう髪切って 書いた物迄取っていんだ 櫛笄の盗人なら いっそ殺して/\と
泣きさけぶ 声に驚き義平は思わずかけ出でしが ハア爰が男の魂の乱れ口
よと喰いしばり ためらう中に奥よりも 御亭主/\ 義平殿と立ち出る

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由良助 段々御親切の御馳走 お礼は鎌倉より申し越さん 尚あと
荷物の義 早飛脚を以てお頼み申す 夜の明けぬ中早お暇 いかさま
今暫し共申されぬ刻限道中御健勝で 御吉左右を相待ちまする
着致さば早速書簡を以ておしらせ申そう 返す/\も此度のお世話
詞でお礼は云い尽されませぬ ソレ矢間大鷲御亭主へ置き土産
はっと文吾重太郎 扇を時の白臺(しらだい)と乗せて出でたる一包み 是は貴公へ
是は又 御内宝おそのどのへ 左少ながらと指し出だす 義平はむっと顔
色うつり 詞でいわれぬ礼と有れば イヤコレ礼物受けふと存じ 命がけのお世話
は申さぬ 町人と見侮り 小判の耳で面はるのか イヤ我々は娑婆の暇

貴殿は残る此の世の宿縁御台かほよ御前の義も御頼み申さん為寸志
斗りと言い残し 表へ出れば 猶むっと 性根魂(だま)を見ちがへたか 踏み付けたしかた
あたいま/\し 穢らはしと包し進物蹴飛ばせば 包ほどけて内よりばらり女房
かけ寄り コレ是はわしが櫛笄切られた髪 ヤア/\/\此一包みは去り状 ホイ扨は
最前切ったのは ホウ此由良助が大鷲文吾を裏道より廻らせ 根より
ふっつと切らした心は いかな親でも尼法師を 嫁らそふ共いふまいし 嫁に
取るものは猶有るまい 其髪の延びる間も凡そ百日 我々本望遂げるも百日は
過さじ 討ちおほせた後めでたく祝言 其時には櫛笄 其切髪を添えに
入れ笄鬟(わげ)の三国一先ずそれ迄は尼の乳母 一季年季の奉公人 其肝煎りは

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大鷲文吾同矢間十太郎 この両人が連中へ大事は漏れぬと云ふ請判
由良助は冥途から仲人致さん義平殿 ハアヽ重々のお志しお礼申せ
女房 わたしが為には命の親 イヤお礼に及ばず 返礼と申すも九牛(きゅうぎゅう)が
一毛(もう) 義平殿にも町人ならずは供に出で立つとのお望幸いかな 急いで
夜討ちと存ずれば 敵中へ入り込む時 貴殿の家名の天河屋を直ぐに夜討
の合詞 天とかけなば河とこたえ 四十人余の者共が 天よ河よと申すなら
貴公も夜討にお出でも同前 義平の字は義臣の義の字 平は
たいらか輙(たやすく)本望 早やお暇と 立ち出る 末世に天を山といふ 由良助が孫呉
の術 忠臣蔵共云はやす 娑婆の言葉の定めなき別れ別れて 「出でて行く

 

 十一段目 花水橋引揚の段 につづく