仮想空間

趣味の変体仮名

傾城阿波の鳴門 第九


読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
     ニ10-01136


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 第九
国民も豊か鳴戸の阿波の国 徳嶋郷の町はづれ弓矢神迚もてはやす 武士は取わけ町人も 参
詣群衆をなしにける往来も多き其中に 先を払はすに野田軍兵衛 国一ぱいに広がりし 権威
を功に鼻高々 跡に引添海蔵院 真言秘密の行法も人に勝れし悪僧と 云ねどしれた
人相見家来 諸共立休らひ イヤ郡兵衛様 何やら私にお頼の事有故此所へ参れと急
のお使い シテ御用の筋はいか様の義でござります アゝいや/\さのみ気遣ひな事ではおりない
イヤ何家来共儕等は暫しの内社内にて待合せ 十郎兵衛を見付なば早速に相しら


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せ 油断致すな早行けと 下部を遠ざけ小声に成り 今日こなたを召よせし子細といつぱ ちと密々に
頼み度き胸有て苦労もいとはず此所へ 其段は御免/\ 何と頼まれて呉られうや イヤモ様
子は何か存ぜねど 当所の御家老郡兵衛様のおつしやる事 何しに違背仕らん シテお頼
の密事はな アゝいや/\様子を語り違変が有らば郡兵衛が一大事こなたの命にもかゝる事 何に寄らず
他言せぬといふ慥な心底見た上で ムゝ御尤其心底お目にかけんと 嗜み持ちしやたてより 筆
追取てさら/\と 紙に誓ひも即座の血判 小指喰切誓紙の表斯の通りと指出
せば 其儘とつてとつくと見 ムゝ他言なきせいしの文書 読むに及ばぬ貴僧の胸中 見届ける上

は何をか包まん 密事といふは外でもなく 何卒こなたの行力にて 玉木衛門之助を調伏して
貰ひたい エゝあの御主人衛門之助殿を 調伏なさるゝお心は シイ声が高い成程高きは理(ことわり)某存る
胸有共衛門之助殿が有ては後日の難儀事やかましい そこを存じて此密談成就せば立身出
世 貴殿迚も悪からぬ 身の納りは此胸に子細は斯の通りぞと 語ればほく/\打點頭 お気遣
なされますな某が行力にて七日の内に落命さす 行法奇特は我珠数先お心安く思召
と 聞てぞく/\小踊りし ホゝ頼母敷し/\当座の施物と一包渡せば取て押戴きお志の此施
物 受納致すと取納め 心もせけばすぐ様お暇 ヲゝ一時も早立帰り万事の用意を


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早く/\ 必人に語られぬ様 イヤ/\そつ共気遣遊ばすなと 人の難儀も身の欲に呑込む己が身
の上と しらぬが喩(たとへ)陰陽師 別てこそは 立帰る 折から家来があはたゝしく お尋の十郎兵衛向ふの茶
見せで見受ましたが 此所へ参るは治定いかゞ計ひ申さんと 聞も有せず ヲゝよくもしらせた暫く
の間影隠しだまし寄て召捕ん こなたへ来たれと郡兵衛は家来引連伺ひ居る 斯とはいざや
重郎兵衛母のしらせに随ひて 此程よりも立帰る心当どは郡兵衛に たよる術(てだて)のとつ置い
つ思案 工夫の後ろより 十郎兵衛やらぬと双方から取付く家来を引捕へ 何の苦もなく右左
踏付け/\仁王立 小野田郡兵衛声をかけ ヤア十郎兵衛 江戸表よりちくでんして行衛知ざる様子

を聞ば今の名は五右衛門の銀十郎といふ盗賊なるよし 当地迄も聞及ぶ お構ひの此国へ立帰つたは運
のつき ソレ遁すなと下知に連取まく大勢屈せぬ十郎兵衛 よい所へ小野田郡兵衛望む相人じや
サアこいと 立かゝらんず其気色 どつこいやらぬと隔たる下部 シヤ面どいと取ては投付掴ではぐつと一しめひよろ/\/\
しどろになつて見へければ いらつて打込む郡兵衛が目先ずつとさし付る家来がからだで受刃の備へ切も得
やらぬ刀の手前 詮方もなく見へたる所へ斯と聞より桜井主膳遅ればせに欠け付れば 十郎兵衛見るより
ハゝゝはつと よらんとすれど此場のしぎ 思ひ計て桜井主膳 ヤア儕憎いやつ さし留おいた此国へ立帰つたる
其上に 郡兵衛殿に刃向ふは身の程知らぬうざいがき 今某が欠付けしを跡先知らぬうぬが心に 主従の縁


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に寄り又もや助け貰はんと思ひ詰た其眼色 イヤモ見通す事は扨置て三寸縄にくゝし 上屋敷
へ引て拷問する覚悟せよとずつと寄り腕首取てぐつと捻上げ イヤ何郡兵衛殿斯計ひし上からは 最
早こいつに気遣なし 先ず/\刀をお納めなされ 十郎兵衛とは以前の事今の呼名は銀十郎桜井主膳が召
取たと 口と心は裏表 かゝる縄目も御主人のお情もやと十郎兵衛 いはぬ思ひぞせつなけれ 郡兵衛
は当り眼 ヤア此方から頼みもせぬに我は顔に縄打れしは某を踏付るのか何と /\とかさかけて 底の無念を
押隠し負けぬ顔して詰かくれば 是は/\御尤手前左様の所へ気も付かず 只御家来の手に余り
御難儀と承り聞捨ならぬも主人へ忠義 思ひ過した某が縄かけたは重々誤り いましめほどき

お渡し申さん ヤイ十郎兵衛儕も命が助りたくば随分手柄に切抜い 勘当したれば遠慮はない
イザ郡兵衛殿受取召れ アゝ是さ/\其縄といてたまる物か やはり其儘受取ませふ イヤそふは致
さぬ貴殿の難儀を存ぜし故 以前のよしみも厭いなく召捕た某 何とやら其元を踏付るとの御
一言 尤至極に存るから 是非縄といてお渡し申が貴殿を立る拙者が言訳 御覧なされと立寄て
縄ときかくれば アゝ是さ/\ それはひつきやう時のはづみ 申過しは手前の麁相其儘/\ イヤモ麁相と有れ
ば言分おりない 殊に当月は貴殿の役目お渡し申す此縄つき ヤイ十郎兵衛今聞通り郡兵衛殿のお
役目なれば 隠す程為にならぬ 何もかもとつくりと ナソレ打明て申上たら叶はぬ迄も一命を 助る筋


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が有まい物でもないと思へど 是迚もこちに少しも構はぬ事 何と郡兵衛殿左様ではござらぬか
何の/\ 譬どの様にぬかしても 助と云字は毛頭ござらぬ 狼藉ひろいだ其替り 拷問の仕様はさま/\゛
覚悟ひろげとおろしても びく共思はぬ大丈夫 イヤ申主膳様 お久ぶりでお顔を拝し 其かひもなふ浅ましき此ざま
にてお別れ申し 命の内に今一度 お目にかゝるは十郎兵衛が 胸にとつくと云わけの 工夫を致し此いましめの
とき様を 喩へて申さば大切な刀をさやに納めた思案 先ず夫迄はおさらばと わつて云ねど刀の詮議 主
膳は態と聞かぬ顔 聞た顔する小野田郡兵衛 ヤアごくにも立ぬよまい言ソレ引立と呼はれば はつと答て大
勢に 引立らるゝ十郎兵衛 心尖き国次の 詮議とさらに郡兵衛が 嵐に散らぬ桜井が胸の刃金は直焼き刃引別 れてぞ