仮想空間

趣味の変体仮名

傾城阿波の鳴門 第四


読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
     ニ10-01136


32(左頁)

 第四
浪花津に いづれはあれど取わけて 分限長者の寄所 今橋筋の軒ならび 其名も綷(くけ)
屋三郎右衛門と人にしられし家がらも 夫に離るゝ不仕合商ひ 万事不手廻りに 今は世
間をひつそくの 身は気さんじの二つわげ娘一人を蝶花と 外にながめはなかりけり 春風に 裾
吹そらす取なりは さながら武家の奥方と一目に しるき供廻り 若党中間徒士(かち)の者 其
外笠籠挟箱 三郎右衛門が表口案内 こふて立やすらふ びゞしき体に後家おまき
番頭の庄九郎 連て戸口に手をつかへ どなたかは存ませねどお歴々のお女中様 御用


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あらば先々あれへと 詞にこなたは打通り ついに逢ねば不審は尤去ながら 気遣ひめさるゝ
者ならず わし事は阿州の渦中 安松数馬が女房弓といふ者と 聞ておまきが手をつかへ
是は/\思ひも寄ぬ夫三郎右衛門存生の時は 殿様の御用を聞 数馬様にもお目かけられ
お心やすふお屋敷へも毎度お出入 御厚恩に預かつた数馬様の奥方様 当地へお越は
夢にも存ぜず ぶし付だらけも女子の身お赦し遊ばして下さりませ コレ庄九郎そなた成共
袴羽織と いふをとゞめて其儘/\ 此度殿の御用に付き 夫数馬も蔵屋敷迄罷登
る 幸いの事と思ひ 夫へ願ふて京内参り いはゞ忍びの事なれば 嬪はしたも遠慮いたし けふ

は町方見物のついでがでら 身まかられし三郎右衛門は 念頃に有た故 立寄たも夫の
差図 必々心遣ひは無用ぞと いふ内用意の挟箱明て家来がそれ/\に直す
手土産目録書 戴く手代が押開き 羽二重一疋 おまき殿 白縮緬一巻 御
息女へ郡内嶋一端 支配の手代へ其外家内へ金子千疋 是はまあ/\お冥加
もない 家内の者迄つど/\のお心付け お礼申しや庄九郎 ハイ/\有がたう存ます 私は
此家の番頭でござります 御用もござらばお心置くなふ あまりと申せは爰は端近 ヲゝ
それ/\見ぐるしく共奥の間へ暫くお越下さりませ いさ御案内とすゝめられ 然らば


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暫時お茶の御馳走にお世話は必無用と おまきが案内に伴ひて一間へ入ば庄九郎
御家来衆はこなたへと 皆打連て勝手口 のれん押上入にけり 俄のお客に家内の騒ぎ
ソレお菓子たばこ盆 豆腐とてこい八百屋へ走れ 此肴屋はなぜ遅いと わめきち
らして庄九郎 台所より出来り 扨いそがしう成てきたは ついお茶漬を上る 献立せいと
いはれたがハアゝ何てあらふぞ マア向ふが猪口(ちよく)にこんにやくの白あへかい そして汁がばくち汁
平は狗背(ぜんまい)と油上 こりや念仏講の料理じや こりやおれじやいかぬ 最一度魚屋
を呼にやれよと 勝手口から奥納戸差覗き/\ 小點頭(うなづき)してそろ/\と戸棚の前

へ立かゝり 紙入から相鑰(かぎ)と見へて錠まへ手ばしかく 引出す財布の嶋黄金 五百両と
はおか目から お弓が見る共しすまし顔懐へねぢ込押入れ 跡取繕ふ折からに 何心なく娘の
お辻 庄九郎そこにか 嬶様がお呼なさるゝと 聞て恟りうろたへ眼 イヤ庄九郎はちよつとど
こやた参られました ヲゝあの人の何いやるやら そなたに料理の事を云付ると嬶様が呼で
ごさる ムゝそんなら何にも見やなされませぬか ハアゝまあ夫で落付た 料理の事なら八百や
と魚屋にとつくりと云付たれば 気遣ひはござりませぬ いつ見ても/\美し可愛此腰付
申難面(つれない)ぞ/\ お前の事を明ても暮ても明ても昼は終日(ひねもす)夜もすがら お


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辻様/\アゝお辻様と 重ね戸棚をふんばるので 中山へ日帰りにした程足に実がいり
其草臥て寝た間ばつかり 夫より外に忘れる隙はござりませぬ 名を呼でさへ日本国
が一所へ寄やうなに 顔見て是がたまる物かコレ御らふじませ 天狗の面を風呂敷に包
だやうでどふもならぬといだき付 しなだるゝ手をもぎはなし アゝこれ/\又しても/\あたいやらしい
けがらはしい わしにはれつきとした云号の殿御が有ぞや あじやらも手合(てんがう)も事による 重ねて
仕やると嬶様にいふぞやと 恥しめられても構はぬあつ皮 ムゝ云号/\といはしやりますが
其云号の男とはそりやマア誰でござりますハテしれた事 京に隠れなのない藤やの

伊左衛門様ハゝゝこりやおかしい 其伊左衛門殿はしなしやつたとの世間での噂 夫をお前も能(よう)
知て居てから よし又伊左衛門が生きて居やしやるにもせよ 可愛そふに庄九郎か 思ひ
詰て居る物を 見捨てて直ぐに嫁入は 大身代の伊左様と栄耀がしたさじや皆欲
じやと お前様を悪ふいふぞへ お主様を悪ふいはしては 第一番頭の顔がよごれる 悪い事はい
はぬ わしがする様に成なされ こんなよい首尾又とないと いやがるお辻を抱しめ/\ しなだれ
廻る真中へ いつの間にやら別家の手代助右衛門ヲゝよい所へよふおじやつたと 悦ぶお辻庄
九郎は 折角入た居風呂(すいぶろ)の底のぬけたうごろくなり 夫と悟れど助右衛門わざと何気の


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ない顔付 是はお辻様庄九郎二人ながら爰に何してござりますと いふに娘が涙声 コレ
助右衛門聞てたもあの庄九郎がいやらしいわしをなぶりくつさると いふを打けしアゝ申/\わたしや
何にもいや致しませぬ お前が芝居咄しをして聞せとおつしゃる故 三五郎と金作が色事を
ちよつと仕形(しかた)で咄した斗り イヤそりやそふと助右衛門殿 こなたは京へ登たと聞たがいつの間に
戻らしやつた ホゝ夕部夜舟に戻つたが夫に付てお家様にお目にかゝりたい どこにござるぞい
イヤお家様は奥にじや 用が有なら呼でこふと いふを此場の立汐に しほの目まぜと仕形
にて 必何もいふまいと 娘をなだめ番頭は 奥の間にとそ入にけり 跡はしらけて暫くは

挨拶もなき後ろの方 ホゝ助右衛門戻りやつたか 大義で有たと母親は 庄九郎諸共
奥より立出 さつきにから声がした故早速逢ふと思ふたれど けふはめづらしい阿波の御家
中 安松数馬様の奥方様 大坂御見物の序ながらお尋に預つて 御挨拶やらおとぎ
やら久しぶりの屋敷付合 夫は思ひも寄らぬ珎客 定めて何かお心遣ひ まあ早速申ま
せうは 京都の様子藤屋の家の騒動伊左衛門様の事は御病死共 又生きてござる共取々の
風聞にて 慥な事は知れ申さずと 聞て娘も母親も又今さらの憂思ひ 傍に差出る
庄九郎 イヤ伊左衛門殿の事なら聞合すに及ばぬ 死なれたが本共/\ 根元根本偽りなしの


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大誠 病死といふは皆嘘で ほんの事は阿波の殿の名を衒り 何が江戸の葭原で太夫
を揚げ詰 段々奢りのほたへが過て十二月(つき)の饗応(ふるまひ) 夏雪ふりの体をしたとやらが
江戸中の大評判 其ぼくか阿波の殿へかゝつて 夫で伊左衛門殿は阿波の屋敷で成敗に
あはれたを 一家衆が隠して病死にして仕廻ふたとは 大坂中に誰しらぬ者がない まあよい
事はあのお辻様をやらなんだが大きな仕合 此上は結納(たのみ)を戻してさつぱりと 他人に成て仕廻な
されませ つながつて居たらどんな難儀がかゝらふもしれぬ お辻様は一人子の事なれば 内へ
聟取たがよござります アゝどこぞ爰らによい聟が有そふな物じやがと 己が勝手へ

引かけて云廻すとはしらぬ母 いか様是は庄九郎のいやる通り 世間の取ざたも悪い伊左衛門
殿 殊に生きた共死だ共しれぬ人にべん/\と つながつて居よふより結納を戻してさつぱり
と 聟舅の縁切が上分別と 母の詞に悲しむ娘 そりや嬶様何のいはしやんす 常々お前
の御異見に 女ごは其身一生に殿御は一人持つ物ぞ つまと定る其人に女郎妾(てかけ)の色
狂ひ 腹の立事あらふ共悋気しつとの気を持つな随分夫を大切に もしも不縁でさられ
ても 又の嫁入せぬ物といはしやんしたをわしや忘れぬ 譬へ枕はかいさず共云号(いひなづけ)すりや定
まる殿御 其夫故どの様な難儀災難有とても 娘故じやと諦めて 必/\夫婦の縁


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切てばし くださんすな若ししなしやんしたが誠なら わたしや此儘尼に成 外の殿御はいや/\
と誠を守る娘気に母も とかうを涙ぐむ 助右衛門も目をしばたゝき ヲゝお辻様ようおつ
しやりました 人の誠はこんな時が肝心 伊左衛門様の生死は噂斗で知れぬ事 一旦の云号を変
改するは水くさいといふ物 あつちは至極深切に こちの身代の不勝手なを察し 五百両と
いふ結納の印 今云号を変改すりや まあ其金から戻さにやならぬ 差当つて是
が迷惑 イヤこれ助右衛門 金事にかゝはつて家の為にならぬ事しては此番頭の顔が立ぬ
戻す金がおしくば其金はおれが工面して出す 金ふくで娘御に難儀はかけぬ サア此金

を戻してさつぱりと縁切て仕廻しやりまえと 取出す以前の五百両 我金出して主の力に
成何と こんな手代は有まいが家の為なら命も惜まぬお為/\と誠を見せ娘を女房に跡
式迄してやるお為ぞ醜(おそろ)しき ホゝ二人ながら家を思ふての心つかひ 嬉しいといふか過分といふか
取分けて庄九郎 五百両といふ金才覚してたもつた段 一入嬉しい忝い 近年屋敷方の金は
戻らず逼塞の身分なれ共娘が一世一度の嫁入 其結納に貰ふた金 どの様な術
ない事が有は迚めつたに遣ふてよい物か 其時の封の儘取て置たを見せませふと 戸棚の
傍へ立寄て鑰取出し錠押明け ヤア結納に貰た五百両の金 爰にはないと恟りを聞ておど


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ろく助右衛門 庄九郎も空とぼけ 供に立寄り上を下尋捜せどあらかねの ムゝ錠前も損
ず盗人の業共見へず 若し置ちがへはなされぬか気をしづめてとつくりと 思ひ出して御らうじ
ませと 娘も供に気を付れば サアいつれ金銀は大切の物なれど わけて大事の此金とわし
が部屋の此戸棚へ 置忘れう様はなけれど 三度尋て人疑へ 念の為じや藏の戸棚を
尋て見よふと立上りイヤ藏迄もなし其金は やはりそこにと声かけて立出る数馬が
女房 庄九郎がとがり声 ムゝ藏へ行にお及ばぬ 其金がそこに有とはして五百両の金はどこ
にござりますな ムゝ外迄もなし そちが出した五百両が則ち戸棚に有た金 何じや是が戸棚

に有たのじや コレ 是はの わしが在所へいふてやつて取寄た五百両 夫が戸棚に有たとは
あんたらくさいばか尽すな ムゝ在所といふそちが所は ヲゝ但馬の豊岡 シテ豊岡への
道矩(みちのり)は 大坂から四十里余り 日数にして幾日程にいて戻らるゝぞ サレバ急いでも
行戻りでは八日程かゝらふか ムゝ最前から様子を聞に 結納を戻さふ戻すまいと評議
の有たはけふの事 夫に八日もかゝるそちが在所へどふして金を取にやつた エイ 伊左衛門とやらの
死なるゝ事を そちやまへどからようしつて 夫で其金取寄せたか アノ横道者めが サア盗
だ様子有やうに白状せいときめ付られ ぎつちりつまれどひるまぬ悪者 ハテかはつた所へ


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出しやばつて かはつた世話をやく女中 一体伊左衛門といふやつはどら打のお大将 大坂へ来て
は新町の夕霧といふ太夫になづみ 幾日も/\居続けの馬鹿者 そんなたわけに大事
の娘御を添しては 末が詰らぬと思ふて 夫でとふから取寄て置た金じやが 夫か何と
した 人聞の悪い 盗人じやの白状せいのとは 又わしが盗だといふには 何ぞ慥な証拠で
も有か ヲ証拠はそちが胸の内に慥に覚への有盗人 ハゝゝ こりやおかしいわい わしが胸
の中に有証拠 夫が爰へ出して貰ひたいな かう成てはわしも身晴じや 侍の女房じや
迚遠慮はない サどふすりや胸の証拠が出る仕様が悪いと赦さぬと 掴みかゝる庄九

郎が 小がいなくつと片手にねぢ上 懐さがして紙入取出し ソレ助右衛門とやら 其内詮
議と投やる紙入押開き見れば内には鍵一つ 合点が行ぬと戸棚の錠に合して
見ればしつくり相鍵 コレほんの鍵は此母が腰に放さぬそりや相鑰 ても横道
なと軻る主従 お弓は猶も手をねぢ上 主の難儀を救はん為 主の鐘を盗ん
だれば忠義共いふべけれ共 こいつが心はそふでない 大たいの金を盗み取儕が才覚し
た顔で 夫から付入其お辻を女房にして身代を 丸取せうといふ悪工する番頭
殿 此内には置かれまいと 庭へどつさり投付れば 娘が悦び母親も飼犬に手を喰(くはれ)る


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恩しらずの横道者 隙くれる出てうせふと いはれて何と庄九郎 エゝあたの悪いしく
じつてのけた 儕けんさいめ覚てけつかれよ アイタゝゝ アゝいたいおさんは都の町で まちておれよと
口へらず頬(つら)をしかめて出て行 跡見送て母は手をつき あなた様のおかげにて不時の
難儀を遁るゝ仕合 娘もちやつとお礼申しや ほんにわたしとした事が最前から御
挨拶も おかげでうるさい病の根ぬけ お労(つかれ)休めにナア嬶様 ヲゝそれ/\奥の間へお供して
無重宝なそなたの琴でもお慰みに 夫は段々心遣ひ もふお暇と存ずれど 左様ならば
今暫し御馳走に預りませふと座を立上り 娘の手を取 驚き入たは此息女 貞女両夫

にま見へずの教へを守る心ざし 器量といひ貞心といひ 武士の妻女も有まいそ
だちと 子を誉られて母親の心いそ/\コレ助右衛門婿殿戻す金元の所へ入ておきや
そんならどふでも此金を ハテ変改するも娘が可愛さ 先様へ戻さにやならぬ大事の金 戸
棚へ入て奥の間へ いさ御越と母娘伴ひ奥へ入にけり 跡に残つて助右衛門金取納たはこぼん
きせる相手に独り言 日頃から義理を立人を憐れむ母御の気質 夫に似合ぬ結納(たのみ)の印 戻し
て変改せふと有は義理も構はぬ御了簡 又娘御の心はきつい物じや どんな難儀かかゝつ
ても 一旦定めた男なれば外の男は持ぬとは てうど忠臣藏の小娘が様な心じやの アゝどふで此


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云号を 変改さゝぬ仕様が有そふな物じたがと 心一つ置つ 案じるこなたあなたには 客饗(もて)
宴(なし)の琴の音 重ね扇の風かほる 匂ひをつとふつたかづら 忘れぬ人は今さらにさらぬ別れのしやら
とけも やかて結ばぬいかた帯 アレつい引かしやる琴の歌でもとかく夫をしたふ唱歌 若し伊左衛門
様の病死が本の事なら いとしやあの子は気違にかなならしやるであろ アゝどふしてなりと夫婦にしてしん
ぜたいと 思案に首も傾きし 日のめまばゆき深編笠浪人と思しくて おはを枯らせし身の廻り案
内もなく打通り 綷(くけ)屋三郎右衛門とは爰元な 在宿ならは御意得たいと 聞て居直る助右衛門 どなたかは
存ぜねど 成程三郎右衛門が宿は是でござれど 旦那義は死去仕り則我抔支配の手代 御用ご

ざらば私にといんぎんにあしらへば ムゝ支配人と有ば亭主同前 赦し召されと上座にすはり 御意得
たい事別義でない 見らるゝ通り我抔義は尾葉を枯らせし浪人 知縁の者の取持にて 播州
のお大名へ召かゝへられ近々出勤致す筈なれ共何をいふても此風体 身の廻り何かの拵へ
少々金子入用に付此家へ無心に参つたのさ 暫くの内取てくれられふなら 過分にあらんと押(おう)
柄(へい)に いへどこなたは律儀者 夫は近頃お気のどくな事ながら 只今も申通り 旦那相果支
配人の私 金銀の事は心に任せぬ事ながら 御浪人様の御出世の筋と有ば 無下にならぬ共申
されまい マア其金は何程の事でござります イヤ僅か五百両 夫程有は当分夫で事相済む


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と いふにこなたはギヨツトして申五百両とおつしやるは 小判の事でござりますか 成程小
判五百両 いはゞ少々の事 家がらを見かけて参つた用立ておくりやれと いふを打けしアゝ申
もう御意なされますな 大がい物には程の有物 御浪人の御無心よく/\で有ふと察し 二
歩(ぶ)か三歩のか高々一両迄なら私の了簡でと 思ひの外口にさへほうばる金高 今ひつ
そくの此綷(くけ)屋 家内の諸色売代なしても何として出来ぬ金 埒の明ぬ事に隙
どらずと又外々へ御出なされと すつかりいへど動かぬ浪人 イヤサ外々へ参る所存なれば押付け
て是へは参らぬ 家がらと云金の有事も存じて参つた 畢竟見ずしらずの我等

なれば衒共思ふか 高の知れた金の事 衒れやと思ふて当分用達てくりやれ
さ イヤなりませぬ 衒れっるも用立も金が有ての上の事 盗人衒の用心には
ない程慥な事はない すりやどふ有ても ハテ七くどいといふのに ハア是非に及ばぬ
此上はちとお座敷を穢し申すと 居直つて肌くつろげ差添するりと抜放し 腹切る用
意はゆすりの骨頂 夫とはしらぬ正直者 アレ申 こりや何事をなされます イヤサ放しや
れ 所詮無心を聞とゞけねば奉公の望も叶はぬ 此儘一生浪人せうより 切腹して
相果る 夫は御短気まあ/\ととゞむるこなたは 障子をひらき お弓は何か絵図取出し


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引合す姿絵に 割符を合す浪人者 扨こそ是と心に笑み さはらぬ体にて助右衛門
/\と呼れてはつと云ながら 爰も気遣ひ立兼て イヤ申御浪人様 必早まつて下さり
ますな 又了簡もごさりませふと 漸なだめて隔ての襖開けばお弓が小声に成 最前
より一部始終残らず是にて聞たるが あの浪人は阿波の十郎兵衛といふ海賊 昔の石川五
右衛門にもおとらぬ盗賊 夫故五右衛門の銀十郎と異名する由 子細有て此ごとく絵図
を以て尋捜す 此度夫の上坂(じやうはん)も殿よりの上意にて 彼を捕へん為の事 けふ計らずも此弓
が廻り逢たも数馬殿に 手柄させいと店の賜ハアゝ忝なや嬉しや/\ 家来にいひ付け

召捕んと 勇み立を押とゞめ 成程左様な事なら疫病の神で敵とやらで 近頃気味のよ
い事ながら 爰の内でお縛りなされましたら掛り合に成て 若し親方が難儀致す様な事はご
ざりますまいかなと 気遣ひがればいか様のふ 爰の内で召捕ば掛り合の筋は遁れぬ 夫をおばふ
て依怙贔屓のさたもならず 銀十郎を召捕たは斯様/\と明白に 殿へ言上せにやならぬ 其
時は掛り合後家御を国へ召るゝは定の物 まだ其上に科人の口書き次第でとんな難儀がかゝ
らふやら そこを思へば近頃気のどくといふて手に入たあの十郎兵衛 見遁しては夫(おっと)へ立たず 召捕ては
此家のなんぎ ハテとふしたらよからふと 思案の体に助右衛門 イヤモ左様な掛り合でお国へ抔召れては


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女のなんぎ千万 何とかう遊ばしませんか とふなと欺(だま)してあの浪人をいなします 所をご家来衆に
云付けて門でお縛りなされませぬか スリヤ私の親方にかけ構ひはないと申者 成程尤 儕大抵の奴でな
ければ 自由に此家はいぬまいぞや イヤそりや致し様がござります 何で有ふとあの者が申通り金かし
ていなします ハテ此内をさへ離れたれば御家来衆がお縛りなされますか そこでは金を此方へお戻しな
されて下さるれば なんぎも掛らず済むといぐ物 ムゝてかした遖上分別 然らば其旨申付んと 家来を
密かに手招き 汝等は裏道より表へ廻りコリヤ こふ/\と囁き點(うなづ)く相図の手配り 助右衛門は何気なく
勝手へ出て申御浪人様迷惑千万な御無心 私の心では済ぬ故女義ながら親方に相談致し

たれば お侍様の命にかへての事無下にいや共いはれまい よい様に計へと有る故 仰の通り五百両御用立
ませふ程に 御出世次第急度(きっと)御返済下さりますかと いふにこなたも刃物を納め 然らば拙者が望
の通り聞届けて下されふか 是は/\過分至極 ハテお命に及ぶ事 手前も逼迫難儀なれどお取
かへ申ますと 戸棚開て以前の金包ながらの五百両 渡せば取て押いたゞき 拙者が命助る恩義 生
々世々忘れは置かぬ 心もせけば早お暇左様ならばござりませふか お礼は重てさらば/\と金追取て懐中
へ 表をさして立出る 待設けたるお弓が家来 こりや捕たはと左右より 寄るを蹴倒しもんどり打たす 手練
の曲者持余す 家来が働見兼るお弓 小づまを帯にしつかと挟箱より用意の捕り縄 表


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へそつと窺ひ足 阿波の十郎兵衛遁さぬと夕日も西に入身の備へ イヤちよこ才なとほぐしの
やはら 互に裏取表筋 助右衛門があぶ/\と心を配る気を配る お弓をてうど真(しん)の当て逃行く曲者
遁さじと たぢろぐ足を踏しめ/\跡をしたふて行く道は 大川筋の濱伝ひかけくる浪人追くるお
弓 人なき所に立どまり こちの人 女房共 まんまと首尾ようでかした/\ 五百両といふ仕
事 思ひの外心安ふ手に入て有難いと 財布取出し戴く後へ いつの間にやら庄九郎 ヤア様子
は聞たげんさいめ よふさつきにはえらいめにあはしたな 衒共を引くゝり代官所へ引て行 覚悟しおれと
いはせも立ず引抜て大げさ切 どつさり響く暮六つの かね懐へ夫婦連れ行方しらず「成にけり